御前の沈黙

 午後五時を少し回った頃、応接室の扉が静かに開いた。秘書官が軽く会釈すると、背のやや低い男が入ってきた。灰色の羽織をまとい、落ち着いた眼差し。

 その目は、何よりもよく鍛えられた沈黙を宿していた。


 「お待ちしておりました、侍従長殿。わざわざ内務省まで――」


 村岡が立ち上がり、深く頭を下げる。

 侍従長・田中光顕は軽く右手を上げてそれを制し、椅子に腰を下ろした。

 内務省に侍従長が訪れるなど、前代未聞に近い。これは、何かただ事ではないという合図である。


 「急ぎ、お耳に入れておかねばならぬことがございましてな。形式を選んでおる時ではありますまい」


 声は低く、硬い。しかし不思議と怒気がなかった。それがかえって不気味だった。

 村岡は静かに頷いた。


 「陛下には、すでに今回の件、すべて上奏いたしました。滋賀からの急報は、御前にてお受けあそばされております」


 その言葉の重みに、村岡の喉がひとつ鳴った。

 「上奏」と言った。つまり、単なる報告ではない。陛下が、ご自身でこの一件を受け止められたということだ。


 「殿下のご負傷を知り、陛下はしばし御座をお立ちになりませんでした。

  ご表情には……そうですね、深いご憂慮がございました」


 “ご憂慮”という言葉には、わずかに語尾が重かった。

 怒りとも、哀しみとも、言い切らない。しかし、村岡にははっきりとわかる。

 陛下は――お怒りなのだ。


 「こと、訪日中の御身にこのような事が起きた以上、陛下の御名にかかわる問題と、我らは心得ております。

  本件において、内務省には速やかなる処置と、万にひとつの油断もなき管理を、とのご下命がございました」


 村岡は背筋を伸ばし、座り直した。命令ではない。それは“圧”だった。

 しかし、それがいかに柔らかく語られようと、この国の主の声である。


 「御意にございます。いかなる混乱も抑え、責任の所在を明確にし、各国への不安なき対処を進めます」


 田中は一度、村岡の目を見た。何かを量るように。そして、小さく頷いた。


 「本件、外務大臣には直接、しかるべき場にてお伝えいたします。また、滋賀における加害者の扱いについては、特に陛下のご懸念深きところです。いかなる情状酌量もなく、法のもと厳正に、とのご下意。……よろしいですな?」


 「もちろんです。津田は、我々の手で裁かれます」


 田中は立ち上がると、村岡の前で一瞬だけ立ち止まった。

 「……責めるお言葉ではございませんでした。ですが――これは、“深くお考えあそばされた”とだけ申し添えておきましょう」


 そのまま背を向け、音もなく扉へ向かう侍従長の背に、村岡は深く頭を下げた。

 彼が扉の向こうに消えてもなお、しばらくは顔を上げることができなかった。


 陛下がお怒りであらせられるのか、それとも深くご失望なされたのか――それは、村岡にはうかがい知れぬことであった。


 だが、ただひとつ確かなことがある。

 この国の“顔”が、血で汚されたということ。そしてそれを拭い、正すのは――自分たちだということだった。


           *


扉が静かに閉じられたあとも、室内の空気は重く、沈黙は長く続いた。

村岡は机の上に置かれた電報の束を見つめたまま、思考の糸を手繰る。


「……陛下のお怒りが“ご憂慮”という言葉に込められているのだろうか」


言葉にはしなかったが、胸の内で何度も反芻した。

責任の重さに押し潰されそうになりながらも、村岡は自分の役割を改めて確かめる。


書記官を呼び寄せ、静かに指示を出す。


「宮内省からの連絡は、今後は君が窓口を務めるように。夜間も含めて、続報があればすぐに私に届けるのだ」


書記官は軽くうなずき、メモを取り始めた。


「滋賀県庁からの続報についても、刻次に報告を受ける体制を整えてくれ」


書記官の筆が速く動く。


村岡は立ち上がり、窓の外に目をやった。

暮れゆく空に、京の街の灯がちらほらと灯り始めている。


「まだ終わりではない……」


彼はそう呟き、再び書類の山に向き合った。


大臣への日報作成が残されている。


細かな経緯と現状、宮内省の言葉、そして報道統制の現状。

短くも正確に、そしてどこかに焦燥感を滲ませて文を綴る。


「これが今夜の私の仕事だ……」


その手が止まることはなかった。



この後、村岡は深夜まで続く報告の中継と対応に追われることになる。

表舞台の動きは彼の手の届かぬところで進むが、彼は歴史の片隅で静かに、しかし確かに動いていた。


(続く)


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