round4. 錫蘭事変

「ねえ……二回目のデートでスリランカ料理店に連れてこられて、ビリヤニ食べさせられた女って、聞いたことないんだけど。わたし」


 詩織はテーブル越しに眉をひそめ、複雑な香りを放つ、色鮮やかなプレートを見つめた。


 向かいの海人は悪びれもせず、ライムをぎゅっと絞ってこう言った。


「創作活動の一環として、取材を兼ねてね。

 スリランカでは素手で食べるのが正式な作法って聞くし、俺らもやってみようよ」


「……え? 素手?」


「うん。五感で味わうのが大事だからさ。触感も総動員して、スパイスの宇宙に飛び込もうってわけ」


 詩織の額に浮かんだ一筋の汗は、むせ返るような香辛料の香りのせいだけではない。


 世間的にはお嬢様的な扱いで育てられたと言える詩織にとって、素手でパラパラとした米粒を掴み、口に運ぶというのは相当にハードルの高い儀式でしかなかった。


「言いたいことはわかった。

……でもその役、私じゃなきゃダメ?」


 詩織がそう訊ねると、海人は唐突に手のひらを下に向け、空気を下に押すような仕草をした。


「最近、君の文章さ。ちょっとだけ、重たくなってる気がして」


「……はい?」


「いや、失礼なのはわかってる。でも、言葉を選びすぎてるというか──こねくりまわして、息が詰まってる感じがしたんだよ」


 詩織は気を落ち着かせるように水を口に含み、黙って続きを促した。


「だから、脳で書くのやめて、五感に任せてみたらと思ってさ。情報を処理しきれないくらいのスパイスの洪水に身を委ねて、インプットしたものを素直に言葉にする。そういうのもありかなって」


 ──たしかに、自分でもうすうす気づいていた。


 最近の作品は、読み手を意識しすぎていた。

 いいねの数、コメント。同じ文芸仲間のあの人ならどう思うかな、とか。

 その先にいる誰かの目を気にしながら、言葉を何重にも包んで、遠回しな表現で。

 意味深に見せかけただけの虚飾が、筆を遅らせていた。


 海人の言葉は、痛いところを突いてきた。提案を跳ね除けるのは簡単だ。けど──


 彼は、素直にアドバイスを受け入れた。

ここで私が拒否するのは、あまりにも子供っぽいのではなかろうか。


「要はこれを……素手で食べればいいんでしょ?」



──ビリヤニ


 インドやスリランカなど南アジア圏で広く親しまれている炊き込みご飯料理である。


 スパイスで香りづけした細長い形状のインド米に、肉や魚、野菜などの具材が重ねられゆっくりと蒸される。

 周囲に漂う、カルダモン、クローブ、シナモン等の重層的な香りのグラデーション。


 そして──


 本場では素手で食べるのが正式とされている。熱や食感を指先で感じ取ることで、料理との一体感が生まれるからだという。



 目の前では海人が早くも親指と人差し指、中指で器用に米をすくい、雑多なスパイスとともに口に運んでいる。


「……簡単にやるのね、あなたは」


 呆れ半分、感心半分。


 詩織はそっとスプーンを置き、指先を食事用のボウルの縁に触れた。

 初めて触れる、異国の温度。

 指先から伝わる、湿ったスパイスのざらつきと、米の乾いた感触。


 パラパラとしたライスを、そっと三本の指ですくい上げ、ゆっくりと口元へ。


 ──香りが、暴れ出す。


 噛むたびに、鼻腔に抜ける熱と香りの奔流。

 カレーとは違う。炒飯でも、パエリアでもない。

 米一粒ひと粒が語り出すような、未知のハーモニー。

 とても言語化できる世界では、ない。


「……なにこれ、すごい……」


 思わず漏れた声に、海人がニヤリと笑った。


「でしょ。創作だって、こういうもんだと思うんだよ」


海人は味覚をリセットするように水を飲み干し、詩織に語りかける。


「行間を読ませる、っていうけどさ。

計算された空白に神様が宿るのかってね」


詩織は、丁寧な所作で口元を拭い、静かに答える。


 「……それを、私に言うためだけに?」


 皮肉っぽく言いながらも、彼女は目の前の皿を見つめ、小さく呟いた。


「──ねえ、香辛料が魔法の触媒になる世界って、ありだと思う?」


海人は少し意外そうに顔を上げ、しばらく彼女を見つめたあと、目元にやわらかな笑みを浮かべた。


「……その世界観、けっこう好きかもしれない」


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