第8話
先生の言葉が、最後の杭だった。
それが抜けた瞬間、わたしの中で何かが壊れた。
気づいたときには、アートナイフを握っていた。
──ザクッ。
鈍い音とともに、刃が先生の腹部にめり込む。
先生は、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……え……?」
声にもならない声。
本当に、何が起きたのかわからないような顔。
そして、静かにわたしの頬に手を伸ばしてきた。
──その指がふれた瞬間、全身に感覚が走る。
ああ、これだ。
これが、欲しかった。
この手があれば、生きていられる。
わたしは、ゆっくりとささやいた。
「わかった。せんせいは、いらない……せんせいの、手があれば、それでいい……」
わたしは、この手さえあれば、もう、世界なんてどうでもよかった。
誰がどう思おうと、どうなろうと、関係なかった。
視線を足元へ落とすと、そこにあったのは先生の作業台。
その横に置かれていた、木彫用の片刃ナタ。
鋭く、重く、よく使い込まれている。
何のためらいもなく、それを手に取った。
──ゴリッ。
最初の一撃で、骨が軋む音がした。
先生は痛みに呻きながらも、叫びはしなかった。
ただ、困惑と困惑だけが瞳に浮かんでいた。
「──みず、ほ、ちゃん……?」
「だいじょうぶ……すぐ、終わるから……」
ナタを振り上げ、さらに深く叩き込む。
鈍い音と、骨の軋むような反発が返ってくる。
わたしの腕も手も、ただ重りを運んでいるみたいで、何も感じなかった。
でも──先生の手だけは、まだあたたかかった。
──ついに、腕が切り離された。
わたしは、それを胸に抱いた。
震えるほどの感覚。ふれるたび、蘇る存在の実感。
「……感じる……! ねえ、先生。これがあるから、もうだいじょうぶ……!」
振り返ると、「わたし」が見えた。
あの冷たい、空っぽの抜け殻。
わたしの形をしていながら、わたしじゃないもの。
──でも、先生はこの偽物に触れてた。
わたしじゃないものに、あの手を重ねていた。
……違う。ちがう。
その手は、わたしだけのもの。
わたしが、手に入れた。
「……これは、あなたには絶対、触れさせない……」
「先生の手は、わたしだけのものだから──」
わたしは、ナタを振り上げた。
そして、「わたし」を粉砕していった。
わたしのかわりに愛されたふりをして──ふれてもらって──
そんなの、許されるわけがない。
──そう、これは処分。当然のこと。
樹脂の破片が飛び散る。音も感触もなかったけど、それでも破壊する感覚だけが、確かにあった。
そして、静かに立ち上がる。
あの人は、床に倒れていた。
意識はある。血に染まりながらも、まだこちらを見ていた。
……あの人の目に、何かが宿っていた。
苦しみ? 後悔? それとも、同情?
でも──もう、関係ない。
あの人の意思も、言葉も、表情も、
そんなもの、わたしには必要なかった。
胸にあるこの手があれば、わたしはいられる。
わたしでいられる。
……でも。
このまま先生の手を持っていったら、きっと誰かに見られる。奪われる。
それだけは、絶対にだめ。
わたしは作業台の下に転がっていた古いシーツを手に取った。
ぐしゃぐしゃのまま、肩から頭まで深くかぶる。
その上に、あの人のジャケットを重ねて──完全に、隠した。
これでいい。
これでもう、誰にも見つからない。誰にも、奪わせない。
胸にあるこの手だけが、わたしの世界だった。
ほら、もう──全部そろった。
わたしは、夜のアトリエをあとにした。
静かに、足音だけを響かせながら──誰にも気づかれない影として、夜の街へと溶けていった。
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