第6話

それから数日──先生は、まるでわたしがそこにいないかのように、触れてくれなくなった。


朝から晩まで、あの「わたし」の仕上げに夢中だった。

わたしの複製──首から下だけの冷たい身体。

それを撫でて、磨いて、削って、色をつけて……どんどん、それをわたしに変えていった。


気づけば、その手はもう、わたしに向けられることはなかった。

前なら、気まぐれでも、腕や頬に手を置いてくれた。

それだけでよかった。

でも今は、声をかけても、笑いかけても、目すら合わない。


わたしは、ひとりでベッドに座っていた。

裸足のつま先をこすり合わせてみても、なにもなかった。

ふれてもらわなければ、私は存在の形を失ってしまう。


このままじゃ、また無に戻ってしまう。

──嫌だ。

わたしは、アトリエの扉を開けた。


先生はなにも言わなかった。

気づいていたはずなのに、先生は背を向けたままわたしの像を整え続けていた。

止めてくれなかった。


外に出るのは、いつぶりだっただろう。

道には人がいて、車が走っていて、風が木を揺らしていた。


──けれど、それはすべて、遠い映像のようだった。

アスファルトの上に立っているはずなのに、地面の存在を感じられなかった。

人にぶつかっても、何も感じなかった。

車のエンジン音も、人のざわめきも、風の揺れも──全部、ただの映像だった。

自分だけが、ガラス越しの中にいるようだった。

わたしをよけて歩く人の視線。誰の口からも、言葉は向けられなかった。

世界は、そこにあるのに、わたしには触れられなかった。


ここにいるはずのわたしが、

どこにもいなかった。


焦りだけが、内側で膨らんでいく。

怖い。どうしてもここに戻らなきゃ。

先生の手に──ふれなきゃ。


気づけば、アトリエの前にいた。

ノブに手をかけたとき、「ひんやりとした感触があったような気がした」。

それだけで、涙があふれそうになった。


中に入ると、先生は「わたし」の前にいた。


「……あら、帰ってきたのね」


それだけだった。

でも、先生は いた。

そこに、あの手があった。

わたしは、床にへたりこんで、そこで泣いた。

声も出さず、ただ静かに、ぐしゃぐしゃに。

頬を伝ったのが涙かすら、もう確かめる術もなかった。


──先生に、ふれられたい。


それだけが、わたしの全部だった。


わたしは、何度も泣いて、叫んで、すがりついた。

「先生、お願い……お願い、もう一度だけ……」

「わたし、まだここにいるよ……だから、ふれて……」

「先生……せんせい……」


でも──先生は、わたしじゃなく、「わたし」だけを見ていた。

像の肌に筆を走らせるその手は、わたしにではなく、「わたし」にだけ向けられていた。


わたしの声が、空気に吸い込まれていく。

わたしという存在が、また色を失っていく。


それでも、諦めきれなくて、喉が痛くなるほど泣いた。

言葉にならない声で、何度も“ふれて”と願った。


やがて──

先生はふと筆を止めて、こちらを見た。

視線が交わる。けれど、そこには何の感情もなかった。


そして、まるで会話の続きを尋ねるように、ぽつりと言った。


「……ねえ、どうして?」


「どうして、そんなに──わたしに触れてほしいの?」

わたしは、言葉を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る