おとのいずみ

ふじもりあきら

おとのいずみ

プロローグ


 おだやかな春の日の午後、283便は定刻通りに、海沿いにある空港に着陸した。ターミナルビル前のタクシー乗り場には行列ができて、また一台、また一台、客を乗せて走り去っていく。やがて、大きな黒色の縦長のケースを右脇に立てて待っていた乙野いずみの順番が来た。藍色のタクシーが前に停まり、ドアが開くと、中からドライバーの声がした。

「荷物はトランクに入れますか?」

 いずみは首を横に振り、

「いいえ、これは持ったままで」

 ケースを後部座席に押し込んで、残った隙間になんとか体を入れると、ドアは閉まる。

「どちらまでいかれますか?」

「ええと・・・」

 いずみは、右手に持ったスマホの画面を見ながら、

「美称音学園(みなとがくえん)の寮、牟鹿寮(むじかりょう)までお願いします」

「承知しました」

「住所は・・・」

「大丈夫ですよ、音楽専門の美称音学園は有名ですし、その寮は建物自体も目立つので、場所はわかります」

「そうなんですね、では、おねがいします」

 タクシーはゆっくり走り始める。

「先ほどは失礼しました。大事なチェロでしょうから、トランクに入れるなんておたずねしてしまって」

「いいえ、そんな。でもよくチェロってお分かりになりましたね」

「いえいえ、この街では、保育園児でもヴァイオリンとヴィオラの区別がつくんですから」

「本当ですか、それは」

「いやほんとですよ。夏になると盛大に音楽祭が開かれて、市民参加のイベントもあったりして、この街では音楽が日常的なんです。それに行先が美称音学園の寮なら、中身はライフルとかじゃなく、チェロですよね」

「はい、わたしはスナイパーじゃないので」

「いやいや、おもしろい事を。お客さんは新入生じゃなくて、転入されたんですか?」

 ドライバーは、いずみの年齢を高校生と判断したようだった。

「そうですけど、どうして転入生って分かられたんですか」

「はい、新入生はすでに入寮を済ませているんですよ。高等部の入学式は一昨日あったので。学園内にあるホールでの華やかな式の様子は、ローカルニュースのトップでしたし、その日たまたま新入生のご両親を送迎したんですよ」

「そうでしたか」

「転入ってことは、中途の試験に合格されたんですね。普通の入試でも難易度は高いというのに、なかなか優秀なんですね」

「いえ、そんなことないです」

 タクシーは、郊外の三車線道路を進んでいき、やがて、大きな川にかかる長い橋を渡っていく。右手前方には春霞がたなびく山が自然に目に入ってくる。

「あの山は、繭山(けんざん)と言って、この街のシンボルなんです。美称音学園の高等部も大学もあの山のふもとにあるんです」

 橋を渡り終わると、景色は一転して、ビルが建ち並んだ街に入る。道の中央には線路が敷かれている。

「路面電車はこの街の人の日常の足で、寮と学校の往復に生徒のみなさんも使われてますよ。学校の門の前に駅があるんです」

 交差点で信号待ちしていると、丁度右方向から薄黄色と緑の車体が目の前を通過していった。

「わたし、路面電車がある街に住むのは初めてなんです。なんだかわくわくしますね」

「これはうれしいことを言ってくれますね。ご覧の通りの静かな街ですけど、みな音楽は大好きなので、どうかここでの暮らし、安心してすごしてください」

「ありがとうございます」

 タクシーは、その後、いくつもの橋を渡った。

「この街は橋が多いでしょう。たくさんの水路がめぐらされていて、別名『水の都』と呼ばれているんです。大小合わせて百三十の水路があるそうです。橋にいたっては、八百以上という話で」

 やがて、川沿いにある、大きな洋館の前に停まった。

「おつかれさまです。到着です」

「ここって、やっぱりここが寮なんですね」

「はい、初めての人は、分かっていてもびっくりしますよね。たしか、百年以上前に建てられたそうですよ」

 いずみは丁寧にお礼を言って降りると、タクシーを見送って、今日から住むことになる寮を振り仰ぐ。白い外壁の建物は、鳥が両翼を広げたように左右に伸び、真ん中にバルコニーが張り出した玄関があって、二階の上には三角形の屋根が天に伸びている。

 いずみはこれからの生活への期待に自然と笑みをうかべながら、門柱の呼び鈴を押した。


第一章 プレリュード


「荷物はもう部屋の方に運んでいますからね」

 いずみを出迎えてくれたのは、寮長の井江円(いえ まどか)だった。背が高く、黒の上下、長い黒髪を束ねて右肩にたらしている。

「他の寮生は、みんな出かけてしまっているので、夕食の時に紹介しますね。わたしを含めて三年生は七人で、二年生は他に四人いますよ」

 右腕をさっと広げると、束ねた黒髪が踊る。

「このエントランスホールは広いでしょ。サロンコンサートを開いたりもするのよ。グランドピアノもあるし」

 ホールの右手の二階に通じる階段を登っていく。後からチェロのケースをかかえてついていくいずみ。

「部屋があるのは二階だけなの。乙野さんの部屋は、左側、東棟右側の奥から二つめ。わたしたちは西棟だけど、誰がどこの部屋かはおいおいね」

 部屋の前で、円は鍵を開けて扉を押す。

「どうぞ、ここが乙野さんのお部屋です。そしてこれが鍵。クラシカルなデザインでしょ」

 そうして、白くて長い指からいずみの手に中に置いた。言葉通りに、いくつかの箱が部屋の中央に置かれていた。備え付けのベッドやライティングデスク、クローゼットも部屋の雰囲気に合うものだ。

「長旅でつかれたでしょうから、夕食までゆっくりしていってね」

 ひとつひとつ丁寧に、部屋の中の設備、水回りの説明をする。

「なにかわからない事ある?」

「いえ、今のところは」

「そう、この寮で一番大事な事は、楽器の演奏、音を出していいのは朝の九時から夜の八時までってことかな」

 ここで指を一本立てて、

「ただし、試験前一週間は、前後一時間伸びます」

 寮のしおりを手渡して、

「ほんとごめんなさい。わたし急用が入ってて、これからでかけなきゃならないの。妹がもう少ししたら帰ってくるので、細かいことは、後でね」

 円は、すまなさそうな顔をして、なんども両手を合わせて出ていった。


 いずみは、全部の荷物の封を解いて、必要な物を出して、クローゼットや棚に片づける。一番最後に開けた二番に大きな箱は、木製の椅子が入っていた。これでないと落ち着いて練習ができないので、とりあえず部屋の真ん中に置く。

 南に向いた窓のから下を見ると、敷地の中には庭園が広がっていて、草木が自然に生え揃っているように見えるが、実際はちゃんと手入れされていて、ちらほらと白やピンク、イエローなどの春の花が咲いている。

 備え付けのカーテンを閉めて、手をきれいに洗ったあと、ストレッチを入念にしてから、チェロと弓をケースから出す。

「おまたせしました」

 部屋の真ん中に置いたお気に入りの椅子に座って、チェロに語りかける。弓の準備とチューニングをした後、日課となっている基礎練習を繰り返す。

「今日はこんなところかな」

 練習の後はご褒美として、好きな曲を弾く事にしている。記念すべき新しい住処で最初のはと、目を閉じて考えをめぐらして、これとと決めた後、きゅっと唇をむすんで、おもむろに弾き始めた。部屋の中には濃密なメロディが充満し、いずみは一心に弾き続ける。

 やがて音が途切れると、ふうと小さくため息をついて、弓を置く。そこで初めて、扉を廊下側からかすかなひっかく音がしているのに気がついた。ノブに手をかけてゆっくり内側に開くと、毛の色がグレイの猫がちょこんと座っていて、エメラルドの瞳がじっと見あげていた。

「何か用ですか?」

 猫はくるっと背中を見せて、しっぽをぴんと立てると階段の方へ静かに歩き始めた。

「ついてこいってこと?」

 廊下に出てみると、ピアノの音色が聞こえる。猫の後を追いかけて階段を降りると、エントランスホールの真ん中に置かれたグランドピアノの前に人が座っていて、静かなメロディが流れていた。

「寮長さん?」

 白系統のチュニックで、長い黒髪を左肩にたらしている。猫はなんのためらいもなく膝の上に飛び上がる。演奏を止めて、左手で猫の背中をなでながら、いずみに顔を向けた。

「新しい寮生の乙野さんね?」

「え、はい、あの、井江さんじゃなくて、」

「ああ、そうか、わたしは井江環(いえ たまき)。寮長の円の双子の妹なの、よろしくね」

 差し出した右手の指は姉と同じように長い。

「乙野いずみです。よろしくおねがいします」

「ちょっと前に帰ってきて、部屋に挨拶に行こうと思っていたんだけど、練習中だったので遠慮したの」

「すみません、わざわざ来ていただいたのに」

「いいのよ、練習は大事だもの。なので暇つぶしにちょっと遊んでいたのよ。リーヌが呼びに行ってくれたみたいね」

「リーヌというのは?」

「この子の名前」

 灰色のリーヌは、環の膝から降りると、いずみの足音に近づいて頭をくるぶしにすりすりした。

「猫は大丈夫?」

「はい、大好きです」

 うれしくなって、だきあげようとかがむと、リーヌは伸ばした腕をするっとすり抜けて、ゆうゆうとピアノの下にもぐってしまった。

「だっこが嫌いなのよ、リーヌは」

「そうなんですか」

「わたしたち、寮生にもだっこさせないの、がっかりしないでね」

「いえ、そんな」

「でも、気が向いたら自分から膝に上に乗ってきたり、気まぐれなの。まあ、そのうちに」

「そうなんですね」

「さっき部屋で弾いていた曲は何?無伴奏曲なの?」

「はい、イザイの『無伴奏チェロ・ソナタ』です」

「へえ、イザイってヴァイオリン以外の曲もあるのね。とってもいい感じだった」

「はい、マイナーですけど。それで、井江さんが弾いていたのは何という曲ですか?」

「環って呼んで。姉の円と区別がつかないので」

「では、環さん」

「はい。質問の答は、これね」

 環は、鍵盤に指を落とすと、また弾き始めて、

「吉松隆の『プレイアデス舞曲集第3集』の中の、今のは『過去形のロマンス』なの」

「素敵な曲ですね、なにか、なつかしいような、思い出の中にある風景がうかんできます」

「そうなの、わたしのとっても好きな曲」

 しばらくその先を弾いてから、環は立ち上がり、いずみを少し見下ろすようにして、

「夕食までは時間があるから、どう、わたしの部屋でお茶でも飲まない?」

「え、いいんですか」

「お近づきのしるしにね。紅茶は大丈夫?」

「はい、大好きです」

「円は時間なかったから、あまり詳しく話せてないだろうから、この寮とか、学校の事とか教えてあげる」

「ありがとうございます」

 いずみは、環の後について、階段を上がっていった。ピアノの下では、リーヌが大あくびをしてから、香箱座りで眠り始めた。


 環の部屋は、いずみのより二倍ぐらい広く、真ん中にはピアノが二台向かい合わせに置かれていた。

「姉と同じ部屋なの。ピアノ・デュオ組んでいるのよ。寮はずっと新しいのが別の場所にあるんだけど、ピアノ二台は入らないので、こっちの寮になったの。他の寮生もいろんな理由でここに住んでるわけ」

 環は、部屋の隅にある棚から藍色のケトルを出して、シンクで中に水を入れながら、

「ダージリンでいいかな、といってもティーバッグだけど」

「いえ、紅茶の種類はよくわからなくて」

「円がいたらリーフ使うんだけど、わたしはそこまでじゃないので。ていうか、姉みたいにはおいしくいれられなの」

 ケトルをクッキングヒーターに置くと、

「お湯が沸くまでちょっと待ってね。どこでも座っていいわよ」

 窓際には、レースのクロスがかかったテーブルがあり、四脚の椅子が囲んでいる。環はいずみと向かい合わせに座ると、

「あらためて自己紹介するね。わたしは井江環。姉の円と一緒に住んでいるの。現在三年生で、専攻はピアノで、さっきも言ったように、円とデュオを組んでいます。姉は寮長で、わたしはその代理みたいなものかな」

「わたしは乙野いずみです。二年生でこの春から転入してきました。器楽科のチェロ専攻です」

「じゃあこれからはいずみちゃんって呼ばせてもらうね。円の話だと、新しい方の寮は、新入生でいっぱいなので、こっちに来たのでしょう」

「はい、そう言われてます」

「まああちらは設備も最新で、防音も考慮されていますからね。こちらは見ての通り古い建物だし」

「でも、とっても素敵です。これまでずっとマンション暮らしだったので、なんかよその国に来たみたいで」

「よろこんでもらえてうれしいな。寮生のみんなもいい人ばかりだから、安心して暮らしてね」

「はい、ありがとうございます」

「いずみちゃんは、学園の歴史は知っているかしら?」

「はい、編入試験の前に少し調べて。コベットという方が百年前に創設されたんですよね」

「そう、この寮も元は学園の創始者コベットのお屋敷だったの。それが学園に寄贈されて、リフォームして高等部の寮になったわけ」

「なんだか、幸運だった気がします。新しい寮がいっぱいで」

「うれしい、わたしもこの寮大好きなんだ。演奏会の後なんか、ドレスを着て階段で写真撮ったりするし。ほら、あの壁のが去年の卒業演奏会の時の」

 いずみがすでに何度も上り下りした階段で、様々な色のドレスなどを着た学園の生徒たちがめいめいポーズをしていた。中に井江姉妹、円と環も写っている。

「ほんとうだ、いいですね」

「普段の演奏会は制服着用なんだけど、卒業演奏会だけは、衣装は自由に選べるの」

「環さんと円さんもいますね」

「卒業生の伴奏をしたのよ、寮生の方ではなかったけど、ほら、わたしの後ろに立っている方」

「寮生じゃなくても入っていいんですね」

「撮影スポットとして人気があるの。寮生以外を呼ぶには、許可をとることになっているだけど、寮長の了解があればそこは臨機応変」

 ケトルから笛の音が鳴り始めた。

「お湯が沸いたね、ちょっと待って」

 環は、トレイにティーポットと白地に草の花と実の柄がついたティーカップ二客、そして小皿二枚を載せて運んできた。

「いずみちゃん、小豆は大丈夫?」

「はい、好きです」

「じゃあ、ダージリンには和菓子が合うらしいから、食べてね。和風アフタヌーンティーって感じかな。スタンドはないけど」

「ありがとうございます。とっても素敵です」

「よろこんでくれてうれしいよ」

 いずみは紅茶を一口飲んで、

「おいしい。香りもいいですね」

「そうでしょう。色は薄いけど、風味豊かだから和菓子にも合うのよ。まあ、円の受け売りだけど。あ、まって」

 環はカップを置いてふいに立ち上がった。扉を開けると、黒い猫がとことこと入ってきた。そして窓際で外向きに置いたソファに飛び上がって、くるんと丸まった。

「扉をひっかく音がしたでしょ、部屋の中から音がしたので、人がいると思ったみたい」

「この子は?」

「ジーシャっていうの。寮生よりも長くここに住んでるから、建物すべてが自分の居場所と思っているみたい。わたしたちは長くて三年しかいないから、寮生はずっと後輩なのよね」

「なでて大丈夫ですか?」

「ナデナデは大好きだからどうぞ」

 いずみは、ジーシャの背中に手を置いてゆっくりなでると、気持ちよさそうに喉をならした。

「この寮に住むお許しがでたみたい」

「さっきの子以外にもいるんですか」

「リーヌとジーシャだけ、今のところは。コベットの屋敷だった頃から、ずーっと猫はいるんだそうよ」

「だから面接の時に、猫アレルギーの事を訊かれたんですね。どうぞよろしくね」

 いずみはそっと黒猫に語りかけると、ジーシャは金色の瞳で見あげてから、大きなあくびをした。


 その日の夕食前、いずみはすでにあいさつを済ませていた東棟の二年生三人と連れだって、一階のダイニング・ルームへ降りて行った。

「いずみちゃんは、苦手なものとかないんですか?」

 隣の部屋の納戸瑚真知(のと こまち)は、いずみよりはるかにちっちゃいがチューバを吹いている。

「好き嫌いは特にないかな」

「こまっちゃんは野菜が天敵だもんね」

 フルート専攻の宮野五月(みやの さつき)は他意のない明るい声。

「ばらさなでくださいよ」

「今夜はいずみちゃんの歓迎会も兼ねているから、メニューは豪華、肉系なんだって」

「わたしはお肉大好きだから」

「ビタミン、ミネラル、食物繊維は、健康と美容に大事だよ」

 アドバイスするのは、見た目も物腰もクールなピアノ科の市谷千夜(いちがや ちよ)。

「わかってるって、野菜ジュースはがんばって飲んでるから」

「それだけじゃあね、またりょうさんに叱られるよ」

「りょうさん、ってどなたなんですか?」

「寮母さんなんだ、けっこう怖い」

「小学生じゃないんだから、居残りなんて嫌だなあ」

「まあまあ、今夜も野菜は食べてあげるからさ」

 わちゃわちゃしながら四人が部屋に入ると、先に来ていた寮長から、いずみは寮母の花丘怜(はなおか りょう)を紹介された。

「平日にみんなの夕食を用意してくださっているの」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、困ったことがあったら何でもいってね」

 千夜がいったような怖いイメージはなく、使い込んだエプロン姿が似合っていて、さっぱりした口調だ。

 やがて、まだ寮に戻っていない二年生一人以外のメンバーが揃うと、いずみは前に立って寮長の円から紹介される。

「器楽科二年チェロ専攻の乙野いずみです。よろしくおねがいします」

 頭を下げると歓迎の拍手がおこる。円から促されて、寮生たちは自己紹介を始める。

「じゃあわたしからね。萩都樹(はぎ みやき)三年生、見た目と似合わないコントラバスやってます」

 大柄な体をゆすって笑った。

「見た目通りでしょう」

 横からぼそっとつっこまれる。

「わたしは有相妃頼(うそう ひより)三年生で、見た目通り地味なオーボエです」

 小柄で華奢だが、都樹の隣ではいっそう小さく見える。

「今年新入生が誰も寮に入ってこないから心配してたけど、一人増えてよかったよ」

 豪快に笑う都樹に、

「寮長みたいなこと言うけど、体形だけだから」

「この二人、ケンカしてるみたいだけど、いつものことで、仲は悪くないから安心して」

 フォローを入れたのは、

「矢尾背圭以(やおせい けい)です。同じく三年生で、メインはヴァイオリンかな」

 温厚そうな顔に、オーバーサイズのメガネをかけている。

「メインって、意味不明だよ」

 肩に手を置いたのは、

「銀團子(しろがね せんこ)三年生です。メインはホルンかな」

「同じこといってるじゃない」

 圭以が團子の手を払いのけると、また肩に置く。それを繰り返していると、

「まあまあ、そんなにふざけあっちゃだめでしょう」

 おっとり仲裁に入ったのは、

「わたしは三年生の寿波詩奈(ひさなみ うてな)です。ハープを弾いています」

 いずみは上級生の仲の良さにほっこりして、安心してこの寮で暮らしていけるなと思った。そして、人の顔と名前を覚えるのは苦ではなく、特に楽器と結びつけるやり方(イメージ通りだったり、逆に正反対だったり)は得意なので、寮生たちのことはそのキャラクターも含めてもうすっかり頭に入っていた。


第二章 オーバード


 次の日の朝、たまたま寮長の円に学校へ行く用事があったので、いずみも一緒に連れて行ってもらうことになった。

 休みの日でも学校へ行く際は、私服禁止がきまりなので、いずみは届いたばかりの制服に初めて袖を通した。白い丸襟ブラウスに、青色のリボンタイ。藍色の丈の長いプリーツスカートはひだの数が多いので、チェロを弾く時も安心。藍色のブレザーの胸には、音楽の女神・ミューズがデザインされた学園のエンブレムがついている。藍色は、学園のスクールカラーなのだ。鏡の前で出来栄えをチェックしてから一階のホールで待っていると、円も制服姿で降りてきた。リボンタイの色は紫で、学年で色が異なるのだ。

「お待たせ」

「よろしくお願いします」

 一緒に寮を出て、一番近い路面電車の乗り場へ向かう。

「駅前のターミナルを経由するので、ちょっと遠回りにはなるけど、直通で行けるから」

「寮のみなさん、路面電車を使うのですか」

「そうね、自転車でも十分通える距離だけど、楽器を運ぶには不安定だし、まして、転んでケガでもしたら弾けなくなっちゃうので、みんな電車通学ね。新しい寮の方は、電車で一駅だから、徒歩の人が多いんじゃないかな」

 停留所で待っていると、角を曲がって薄黄色と緑の車体が現れた。途中、車窓の風景、街の様子を、円から説明を受けているうちに、あっという間に美称音学園前に到着した。

 美称音学園は繭山の南山麓にあり、北側にある正門から入ると、白いタイルが敷き詰められた広いアプローチの向こうに、飾り気のない素朴な外壁の校舎が二棟並んでいる。その間のガラス張りのアトリウムに入り、右側の建物の受付で手続きをして、仮のIDカードを発行してもらう。そのカードでチェックインして、指定された談話室まで、円に案内をしてもらった。


「授業の流れの、だいたいのところは説明できたと思うけど、何か分からないところある?」

 円に引き会わせてもらったクラス担任の宇多友里(うだ ゆり)と、談話室のテーブルに向かい合って、個人に貸し出されるタブレットを渡されて説明を受ける。他は生徒証を兼ねたICチップ搭載のIDカードぐらいで、教科書や書類の類はすべて電子化されているので持って帰らないといけない荷物はほとんどない。

「楽器とか機材とか、大きいのをいつも運ばなきゃならいない人も多いから、それ以外は極力負担がかからないようにしているの」

 小柄なのに宇多の声ははっきりしていてよく通るが、耳には心地よい。

「クラスは、いろんな専攻の方がいるんですね」

 いずみは、タブレットの画面のクラス名簿に目を落とす。

「そうそう、必修科目は一緒に受けて、専門はそれぞれっていうのが教育方針なのよ。自分の専門以外の人とのコミュニケーションって大事なのよ、案外。ただでさえ、音楽単科の学校だから、ピアノはピアノだけ、弦楽器は弦楽器だけで群れていると、世界が狭くなっちゃうからね。うちは、演奏者だけを育てる学校じゃないし。エンジニアリング科といって、音楽全般の技術、録音、録画、編集、コンサートの企画、マネージメント、とかを学ぶこともできるから。高校生の時から、いろんなジャンルの人と触れ合って、視野を広げておくって、重要な事だから」

「それは分かります」

「まあ、私の専門は声楽だけど、器楽にも歌心、必要だもんね」

 担任の宇多は胸に手を当てて、歌うしぐさをみせた。

「夏休みには、毎年国際音楽祭が開かれて、我が学園、高等部も大学もお手伝いしているの。先生方も出演したりしてます。サマーキャンプといって、有名な演奏家からの公開レッスンもあるから、それに参加している器楽の生徒は多いのよ。エンジニアリング科の生徒たちは実際のコンサートのスタッフの補助で、貴重な体験もできるの」

 宇多はタブレットのページをめくって、

「大学側の南棟には、音楽ホールが二つあるのよ。レイクスホールとレイスヒルホール。レイクスホールは、小規模でソロや室内楽向けね。レイスヒルホールは、中規模のホールで、オーケストラの演奏ができるの。オペラ上演の時などにオケピもあるし、小さいけど、パイプオルガンまで備わっているよ」

 画面をタップすると、動画の再生が開始され、オーケストラ演奏の音が流れ始めた。宇多はあわててあちこちを押しまくる。

「あら、まちがえちゃった。ごめんなさい。こういうのは苦手で」

 いずみが手をのばして停止ボタンをタップしたので、ようやく再生は止まった。

「ありがとう、助かるわ」

「いえ、とんでもないです」

 宇多は額に浮かんだ汗をぬぐうそぶりをして、

「どちらのホールも、乙野さんも必ず舞台に立てるから。音響は素晴らしいので楽しみにしてて」

 その経験を思い出したようで、うっとりした表情になる。

「あとはそうそう、器楽科の生徒さんたちは二年生の前期からは室内楽の授業が始まるのよね」

 室内楽は、二人から九人ぐらいの楽器奏者が集まって演奏する小規模なスタイルで、二人だと二重奏(デュオ)、三人だと三重奏(トリオ)、四人だと四重奏(カルテット)、五人だと五重奏(クインテット)、と呼ばれている。

「ソロだけじゃなくて、他の人と合わせるってとっても勉強になるものね。授業の成績だけじゃなくて、半年後には校内オーディションがあって、毎年恒例の秋の演奏会に出場できるの。メインは卒業生なんだけど、一般の方にも来てもらう大きな行事なのよ。それで、一年生の終わりには、誰と組むか、アンサンブルのメンバーは決まっているのだけど」

「メンバーってどうやって決まるのですか」

「いろいろね、仲のいい友達と組んだり、室内楽の先生が決めたりとか。乙野さんは編入なので、メンバーが足りないとこに入ってもらうことになるけど、いいかな」

「はい、もちろん」

「弦楽四重奏には、ちょうどチェロが足りないグループがあるのよ」

 弦楽四重奏は、ヴァイオリン二人、ヴィオラ一人、チェロ一人の四人による室内楽のオーソドックスな編成だ。

「三人しかそろっていなくて。ヴィオラの子は同じクラスなので、明日顔合わせするね。校内の案内もしてもらえばいいし。ちょっとおとなしめだけど、音楽愛にあふれている、とっても愛らしい人。校内には施設だけじゃなく、緑もいっぱいあるから、とっておきの場所教えてくれるかもよ」

「お願いします」

「いろいろあったとは思うけれど、二年生はいろんな行事があるし、忙しいからこそ、楽しんでね。明日から授業が始まるので、朝礼の時にみんな紹介しますね。じゃあこれから一年間よろしく」

 差し出された右手は小さくて、握ると柔らかくて暖かい。にっこりと笑った顔に、いずみもつられて微笑んだ。


第三章 エチュード


「沖木さんですよね?」

 一時間目の授業が終わり、クラスメイトに囲まれて、あれこれとおしゃべりをして一段落してから、いずみは周りに断ってから、教室の後ろの方の席に歩み寄った。下を向いていたショートカットの頭が上がって、丸顔の大きな瞳がいっそう開かれた。

「はい、そうです。沖木多英(おきぎ たえ)です。ああっ」

 あわてて立ったので、机に膝をおもいっきりぶつけて、顔をしかめながら、

「すみません、わたしから声をかけなきゃいけなかったのに。室内楽の事ですよね。たくさんの人と話していたので、タイミングがみつからなくて」

 緊張しているのか早口で言い終えた後、もう一度、

「すみません」

と頭を下げる。

「そんな、あやまってもらうことじゃないです。沖木さんと同じメンバーなんですよね?」

「はい、実は今日の放課後、顔合わせがあるんです。時間大丈夫ですか」

「もちろん」

「練習室棟の、17番の部屋を予約しているので、案内しますから」

「お願いします」

「それで、」

 多英はまだ話を続けたかったようだが、五分前の予鈴がなったので、そこまで。それから、放課後まで、いずみと言葉をかわす機会はなかった。


 放課後、クラスメイトから誘われたいずみだったが、室内楽の打ち合わせがあると断って、教室の隅でぽつんと待っていた多英の元に行く。

「約束の時間にはまだ余裕ありますよね?その間に校内を案内して欲しいんですけど、いいですか」

「あ、はい、よろこんで」

 練習室棟へ向かう間、多英はあたふたしながら、校内の設備と場所などを説明していく。練習室棟は、教室のある校舎から、中庭と呼ぶには広い空間を通り抜ける。

「学校創立以前からある大きな木もいっぱい残っていて、緑の芝生の起伏も昔の地形をそのまま利用しているので、ちょっとした森になっているんです。新入生が毎年必ず迷子になるっている、都市伝説があるそうで」

「沖木さんは、どうだったの」

「いえ、わたしは好きでよくぶらぶらしているので、どこに何があるかはよく知ってます」

「好きな場所とかはあるの?」

「はい、中庭のあちこちにはベンチが置かれているんですが、大きなクスノキの裏側の、目立たない場所に石のベンチがあって、そこが一番落ち着くというか。背もたれに彫刻がほどこされていたりして」

「素敵、その場所わたしにも教えてもらっていい?」

「いいですけど・・・」

「迷惑かな?」

「いえ、わたしそこでお昼を食べていたりするんで」

「それで今日のランチタイム、見当たらなかったのね」

「すみません、せっかく探してくれていたのに」

「じゃあたまには、わたしも一緒にそこでランチしてもいい?これからカルテットやるんだから、いろんなお話聴かせてほしいな」

「はい、その、いいですよ」

「やった、約束ね」

 二人は中庭を抜けて、練習室棟の中に入った。

「練習室は予約制で、特に室内楽用の部屋は少ないので、必ず抽選になるんです。一週間前までに予約して、ダブった時は抽選なので、なかなか当たらなくて、たまたま今日が取れたということで」

「予約はどうやってするの」

「はい、タブレットから学園内のネットワークの予約サイトに入って、日と部屋を決めて、一緒に使うメンバーも入れとかないといけないんです」

「予約は沖木さんがしているの?」

「はい、そういうのは嫌いじゃないので」

「便利なのね、タブレット」

「はい、変更があったスケジュールの確認ができるし、遅刻、欠席の連絡もできるし、新学期の履修届の提出とか、テストの結果や成績表とかも来るんです」

 二人は「17」と番号が書かれた部屋の前に着いた。

「ここです。もう他の二人は来ていると思うので」

 多英が扉を開いて、いずみを招き入れた。


「わたしは和亜杏子(かずあ きょうこ)、2年3組で、ヴァイオリン専攻、よろしく」

 腕組みをして窓際にもたれていた杏子は杏子は体を起こして、凛とした声で名乗り、右手を差し出した。いずみより背が高く、長い黒髪を無造作に背中に広げている。

「はじめまして、乙野いずみ、2年1組、チェロ専攻です」

 いずみも右手を出して握手をする。

「わたしも杏子さんと同じ3組、同じくヴァイオリン専攻、紺佐紀(こん さき)です。よろしくね」

 杏子の足元で椅子にちょこんと座っていた佐紀も立ち上がり、自己紹介する。背はずいぶん低く、差し出された手もちんまりしている。

「やっとこれで四人揃ったから、次は何をしないといけないのかな」

 円形に並べた椅子に座って、最初に口を開いたのは杏子。

「まずは、曲決めですね。メンバーで話し合ってもいいし、担当の先生と相談してもいいし、最後は先生の許可は必要ですけど」

 多英がタブレットの画面を見て答える。

「まあ、なんでもいいじゃないの。室内楽は必修だから、絶対やんなきゃいけないけど、優秀点をとらなきゃいけない訳でもないし」

「和亜さんはソロ志望なんですか?」

 いずみは杏子の顔をじっと見る。

「そりゃそうでしょ、わざわざ音楽の専門高校に来るんだから。乙野さんだってそうでしょ?」

「杏子さんもすごいんですよ。中学の時の全国コンクールで二位になったんですから」

 佐紀はメガネの奥の瞳をキラキラさせる。

「昔のことだよ。それなら乙野さんだってさ。まあそれよか、佐紀は何か案はないのかよ」

「わたしは別に、みんなに決めてもらったら。別のグループだとAIに相談したとこもあったみたいですけど」

「沖木さんは、何かアイディアがあるんじゃないの?」

 いずみは、多英の肩にそっと手を置いた。

「あ、ええまあ、ない事もないというか」

「あるんなら出してよ。早く決めた方がいい」

「それなら、あの、もし室内楽、カルテットやるんなら、やってみたいなと思っている曲があって」

「うんうん、それで、それで」

 いずみは、はげますように相槌をうった。

「エルガーの弦楽四重奏曲です」

「エルガー?」

 杏子は首をひねった。

「『愛のあいさつ』とかのエルガー?」

「そうです。イギリスを代表する作曲家です」

「弦楽四重奏曲があるんだ」

「はい、有名ってわけでもないですが、エルガー晩年の作品で、第二楽章ピアチェヴォーレがとってもきれいで、奥様のアリスがとっても気に入っていて。室内楽の傑作って言う評論家もいて、」

「沖木さん、詳しいね」

「いやその・・・」

「一度聴いてみたいな、わたしも知らないし。和亜さんも紺さんもいいかな」

「異論はない」

「なんか憧れる!エルガーって愛妻家だよね」

「はい、ピアノの教え子ですけど、年上で、身分違いで結婚を反対されたけど、それを乗り越えて・・・あ、すみません。とりあえず、流します」

 多英は、練習室に備え付けの端末を操作する。膨大な数の音源の配信サービスに学園ぐるみで加入しているので、大抵の曲はすぐに聴く事ができる。

「パーヴォ・カルテットの演奏がオーソドックスなので。楽譜のアドレスは皆さんに送ります」

 楽譜のデータは学園がデータベースで管理しているので、生徒が持っているタブレットからいつでも見ることができる。

「準備がいいな」

「いえ、あの、その」

「いや責めているんじゃない。すごいなと思って」

「あ、ありがとうございます」

 四人はタブレットで楽譜を開き、多英は再生をスタートさせた。


「悪くないと思う、モーツァルトとかの有名曲もいいけど、いや、いい曲だな」

 三十分足らずで聴き終えた後、真っ先に杏子がつぶやいた。多英は安堵した声で、

「よかったです・・・」

「沖木さんはこの曲をどうして知っているの」

「いえまあ、元々エルガーとかイギリスの曲は好きだったので」

「そうなんだ、すごいね」

「イギリスって、知られてないけど、いい作曲家も実はいっぱりいるんですけど。弦楽四重奏曲ならこれかなと」

「なるほどな、じゃあこの曲やるとして、ファーストとセカンドをどっちがするかだけど」

「もちろん、杏子さんがファーストですよね」

「第二楽章は、セカンド・ヴァイオリンが目立つな。佐紀大丈夫か」

「え、じゃあ・・・」

「いや、ファーストはわたしだ。佐紀、ちゃんと譜読みしとけよ」

「はいっ」

「あのー、じゃあこの曲で・・・」

「異論はない」

「わたしも賛成。室内楽、楽しみです」

「あとは、この曲、担当の先生に了解をもらって、まずはそれぞれで譜読みからですね」

「合わせるのが楽しみです」

 いずみはうれしくてしかたないようで、三人の顔をかわるがわる見て微笑んだ。


第四章 カプリース


 室内楽の担当の見るからに厳しそうな先生から、無事課題曲の許可が下りたので、まずは個人でしっかり譜読みをする。それから放課後に四人で練習して、週一回の授業の時に指導を受けて、また次の週の向けて練習という流れになる。一回目の練習は、途中で止まりながら、とりあえず一回通して演奏するだけで終わった。練習室は倍率が高くて、毎日借りられる訳ではないので、飛び飛びで合わせることになる。

 次の練習は翌週になる。翌日の昼休み、いずみは多英と中庭のクスノキの下のベンチで昼食をとっていた。いずみは多英に話しかける。

「同じ寮の先輩に聞いたんだけど、一年生は入学早々、必ず繭山の徒歩登山をするの?」

「はい、わたしもしましたよ。親睦も兼ねて、入学式から二、三日後に、クラス単位で学校から歩いて繭山に登るんです。タイムトライアルとかじゃないので、マイペースで、和気あいあいな感じで。片道三十分あれば登れちゃうので。で、頂上の公園でランチして帰ってくるんです」

「そうか、みんな登っているのね」

 繭山は、学園のすぐ前にある、高さが300m足らずの丸っこい山で、街のどこからも見える、シンボル的な存在だ。

「蚕(かいこ)の幼虫が紡ぐ繭玉を、縦に割って伏せたような形をしているので、その名前がついているんですよ」

「ねえ、沖木さん、今のわたしたち、カルテットに欠けているものって、なんだと思う」

「それは・・・」

「正直にいってくれていいよ」

「その、アンサンブル、でしょうか」

「そうよね」

 いずみは多英の手をにぎりしめた。

「沖木さんなら、わかってくれる思っていた。協力してほしいんだ、ぜひ」

「はい、できることでしたら」


 二回目の練習の後、帰り支度をしている他の三人に、いずみは明るく声をかけた。

「ねえ、みんなで繭山に登らない?」

 杏子と佐紀は、きょとんとした顔で振り返った。

「わたし、二年生からだから、繭山に登ったことないんですよね。一度登ってみたいって思って」

「いやまあ、そんな大したところじゃないよ」

「はい、でもこの街に住んでいる人で、登ったことない人はいないと思うので、乙野さんの気持ちは分かりますし、一人で登るというのもあれですし、美称音学園の生徒なら、徒歩で登るという経験も大事かと」

 いつになく多英が雄弁に加勢をする。

「わかった、わかった、じゃあ沖木さんが案内すればいいじゃないか」

「あー、でもね、多英さんの言うのにも一理あるかな。いずみさんの歓迎会、まだやっていないし、わたしたち」

 佐紀は首をかしげて、顎に指をそえる。

「はい、それも兼ねてはいいですね」

「そりゃ、乙野さんはこの街初めてだけどさ」

「杏子さん、よく繭山には登っているって言ってましたよね」

「まあ、体力づくりのためにね」

 三人の会話の様子を見ていたいずみは、

「あの、今すぐって訳じゃないし、放課後はレッスンとか予定が入っているでしょうから、みんなの都合が合う日があればってことで」

「はい、そしたら明後日の放課後はどうですか。元々みなさんのスケジュールは空いていたけど、練習室の予約がとれなかったので」

「わたし大丈夫でーす。明後日の放課後、トレーニングウェアに着替えて集合ね」

「じゃあわたし、せっかくだから、ちょっと食べられるものを用意しますね。嫌いなものってありますか?」

「いや、わたしは特に」

「特にないですよ」

「わたしも。あと、飲み物はそれぞれが持って行ったらいいよね。熱中症予防は大事だし。何にしようかな」

 杏子は仕方ないという風に両手を広げて、

「まあ、わかった。付き合うよ」

「晴れるといいですね」


 二日後は朝から雲一つない晴天。放課後、学校指定のトレーニングウェアに着替えて集合場所に集まる。

「みんな、UV対策不十分だよ」

 佐紀は、ネックガード付きの大きなつばの帽子に、両腕にアームカバー。

「いや、佐紀、体育の外での授業そんな恰好していないだろ」

「それはそれ、これはこれ。みんなちゃんと日焼け止めつけてますか?」

「いえ、帽子はかぶってますが」

「山の中だから、そんなに陽はあたらないだろう」

「今はいいけど、将来絶対後悔しますから、エイジングケアしないと。日々の積み重ねが大事なんですよ。こんなこともあろうかと、エッセンスもってきているんで、つけてください。手を広げて。はい、多英さんも、いずみさんも」

「用意がいいな。なんか佐紀テンション高くないか?」


 北向きの校門を出て、路面電車の線路が通る道を横断して右に曲がる。帰りの電車をホームで待っている生徒たちから注目を浴びる。

「気にしちゃだめ。気にしたら負けだよ」

 先頭に立つ佐紀、道の向い側にある喫茶店風の建物をさして、

「昔、近くの男子校の運動部に子たちがその店の前にたむろって、下校中の美称音生を冷やかして大問題になったことがあったんだって」

 すぐ左に折れて、山沿いの細い道に入る。古い民家が建ち並び、玄関先に春の花が咲いた小さなプランターがいくつも飾られている。家の間に点在する、由緒がありそうな祠、ヘアーサロン、写真スタジオ、小さなカフェ、の前を通り過ぎていく。

「ここのカフェ、普通のお家を改装したものなんだよ」

「お店に見えないね」

 その通りを抜けると、片側二車線で、中央には路面電車の線路が二本並んだ大きな道に出る。歩道を進んでいくと、大きな石灯籠がある神社の前で一旦足が止まった。

「この神社は航海の安全や豊漁の御利益があって、昔はこの灯篭のあかり、海からも見えたみたいです」

「沖木さんは歴史にも詳しいんですね」

「いえ、ちょっと好きなだけです。ああ、登山口はこの奥ですから」

 少し歩いて、勾配のきつい石段の前にたたずむ四人。見あげると緑の木々に覆われたはるか先にも続いている。

「ここから少し石段が続くんですよね」

「少しじゃないでしょ、多英さん。思い出したよ、去年登ったもん」

「じゃあゴールはわかってるでしょ」

 先頭を切ったのは杏子。その後に、多英、いずみ、最後にぶつぶついいながら佐紀。


 神社の横をすりぬけると平坦な道になる。

「すこし前なら、この辺は桜が満開だったんです。この山全体に、桜がいっぱいあって、春になると緑の中にピンク色の絵具を散らしたみたいで」

「そうなんだ、来年が楽しみだね」

「ここからは、山道になります」

「あー、嫌な記憶が蘇ってきた。去年一週間足が痛かったたんだ」

 唐突に佐紀が叫ぶ。

「忘れてたのかよ」

「わたし、嫌な事はすぐ忘れるタイプなんで」

 緑の森の中を抜ける道は、徐々に傾斜が険しくなる。若葉が生い茂っていて日の光をさえぎっている。

「もう限界、休みたい」

「情けないなあ」

「もう少し行くとベンチがありますから」

 少し開けた場所には、木製のベンチが置かれていて、木々の隙間から山の下の風景を望む事ができる。

「じゃあ、十分だけ休憩」

「和亜さんはよく登っているんですか」

「まあね、トレーニングの一環として。主に心肺機能の向上と下半身の強化のためかな。気持ちのリフレッシュにもなるし」

「他になにか体を鍛えてるんですか」

「ああ、体幹を鍛えるために、ジムには週二回は通っている」

「杏子さんって、ストイックというか、体育会系みたい」

 佐紀がため息をつく。

「何を言っているんだ、演奏者は体も楽器の一部だろ。ヴァイオリンの整備なら、専門の業者に任せることもできるが、自分の体は、自分以外の誰が手入れするんだ。みんなだってそうだろう」

「わたしも時々、寮の裏手からのルートで時々登っています」

「沖木さんも寮生なんですよね?」

「はい、乙野さんのとこと違って、学校より少し西、この山のふもとにあるんです」

「設備が整っているって聞いてるけど」

「はい、でも機能的すぎて。その点乙野さんの寮は風情があっていいですよね。ここからだと無理ですが、頂上からなら見えます」

「じゃあ、頂上めざして出発するか」

「ええ、まだ十分経ってないよ」

「つべこべ言わずに、さあ立った立った」

 さらにきつい山道を登ると、やっと広い駐車場に出た。

「ここからは階段だ」

 その急な傾斜をみて、うへーと顔をゆがめる佐紀。

「そんな顔するな、行くぞ」


 標高300m足らずの頂上にある展望台に立ち、四人は手すりを持って景色を見下ろした。登頂用のロープウェイのケーブルが山麓までつながり、ゴンドラがゆっくり上り下りしている。真下には民家の屋根が並び、大通りが駅前ターミナルに伸びていく。水路が縦横無尽につながった街並みは、左手から流れる大きな川まで連なる。川は河口を通して海とつながる。霞でぼんやりとした海岸線、その先には海の青、さらに水平線、そして空が頭上まで広がっている。

「もっと晴れていたら、向こうの島も見えるんだけど」

「素敵です。街の中からちょっと登ったらこんな風景が見られるなんて」

 そよ風に髪をゆらせながら、いずみは感激の様子だった。

「そんなものかな、わたしはしょっちゅう見ているから」

「すごいですよ。みんなに感謝です」

「そりゃ、喜んでもらえてよかったけど」

 杏子はちょっと照れて、

「まあ、わたしも、確かに小さいころ初めて登った時は、興奮したっけな」

「わたしもこの景色が好きなんですよ」

 多英はぽつりとつぶやく。

「なにかもやもやする事があっても、この景色を見ると、気持ちがすっとするんです」

 佐紀は一人何も言えず、手すりによりかかっていた。

「おい、いつまでもぜーぜーしてないで、なんかいいなよ」

「あー、ロープウェイに乗ったら楽だったのに」

「自分の足で登った方が達成感あるだろう」

「はー、そりゃそうですけどね」

「ごめんね、無理を聞いてもらって」

「そんな、わたしが体力ないだけで。それに杏子さんのペースが早すぎるんです。まあ、お二人は全然ついてけましたけど」

「でもね、こうしてみなさんとおしゃべりしながら登ってきて、こんな素敵なことが待っているなんで、一人だけの感動より、皆さんと一緒に見た方が何倍にもなりますから」

「そりゃどうも。なんか照れますな」

 佐紀はやっと体をおこして、右の指を前方へ突き出した。

「ほら、いずみさんのいる牟鹿寮の塔が見えるよ」

「ほんとうだ」

「学校は右の方にちょこっと見えるね。多英さんの寮はここからは無理か。杏子さんのお家は、山のすぐ下だよね。どれかな、あの赤い屋根?あそこから毎日徒歩で通学してるんでしょ」

「そうだが、なんか急に元気になったな」

「わたし、高いとこ好きなんだ。わくわくしてくるっていうか、なんか叫びたくなるっていうか」

「それはわかるな、わたしもここから大声出すことがある」

「え、それやばくないですか、杏子さん」

「人がいないのを確かめてだよ」

「それって気持ちいいでしょうねえ」

「わたしも、分かります」

「沖木さんも叫ぶの?」

「いえそんな、歌うぐらいで」

「何の歌なの?」

「メンデルスゾーンの『歌の翼に』。ちっちゃな声でですけど」

「あ、それぴったりじゃないですか、この風景に」

 いずみは大きくうなずいた。

「和亜さん、紺さん、知ってますよね、『歌の翼に』」

「そりゃまあ」

「うん、知ってる」

「じゃあ、歌いましょう、みんなで」

「いや、まじ?」

「周り誰もいないし、声楽も器楽も、音楽は歌うことって宇多先生もおっしゃってましたし。こんなチャンスないですよ」

 いずみの今まで見せなかったぐいぐい来る態度に、他の三人は押され気味。

「じゃあ、わたしは伴奏の左手やるので、和亜さんは右手、沖木さんは主旋律で、紺さんは対旋律でどうでしょう?」

「ま、いいけど」

 三人はいずみのテンションに断ることもできず、

「じゃあ、和亜さんからどうぞ」


 歌の翼に 憧れ乗せて 雲を渡って 海の向こうまで

 花は咲き乱れ 月は輝き まどろみ誘う 水の流れ

 夜のとばりは 夢をいだく 夜のとばりは 夢をいだく


 四人が歌い終わると、拍手が聞こえてきた。振り向くと、ジョギングウェア姿の老夫婦が、にこにこしながら手をたたいていた。

「おじょうずね、皆さん美称音学園の方ね」

「はい。そうです」

「声楽科の方?」

「いえ、器楽科、弦楽専攻です」

「ああ、一人、二人、三人、四人、みんなでカルテット、じゃあ二年生の室内楽」

「はい、弦楽四重奏です」

「ひょっとして、あなたとあなたがヴァイオリンで、あなたがヴィオラ、あなたがチェロかしらね」

 佐紀がびっくりして声を出した。

「どうしてお分かりになったんですか」

「イメージよ、イメージ。なんとなくね。亀の甲より年の劫ってやつかしら」

「そういうものですか」

「みなさん、インディゴホールへの出場、目指しているのでしょう」

「まあ、合格すればですが」

 杏子が頭をかく。白髪の老婦人は、四人の顔を見比べて、

「秋のコンサート、楽しみにしているわね」


 翌朝、いずみは教室に入るなり、まっさきに多英へかけ寄った。

「昨日はありがとう」

「いえ、やっぱり、アンサンブル、気になっていたんですよね」

「そう、特に和亜さんは上手いけど、一人で先にいっちゃうタイプだし」

「そうですね」

「まずはお互いを知ることが大事だって。多英さんのことも少しだけ分かってきたし」

「そんな・・・」

「もう多英さんって呼んでいいよね」

「はい、大丈夫です」

「これからもよろしくね。今日もランチタイムいいかな」

「わ、わたしこそお願いします」

 多英は最後消え入りそうな声で、顔を赤くした。


第五章 アンプロンプチュ


「この間のは、何ていうか、思いのほか、山登り楽しかったよ」

 次の練習の時、杏子が演奏前にとつとつと話し始めた。

「正直、最初は室内楽なんて上手くできないって思ってた。て言うか苦手なんだ。こういう性格なんで。ただ、やる以上は納得したものにしたい。だからといって、なれ合いはしたくない。真面目にこの四人で音楽を作っていきたい」

「それには異存はないです。せっかく何かの縁で集まったんですから、それを大事にしたいのは同じです」

 いずみは、至極まじめにまっすぐに応えた。

「わたしも、そのつもりです」

 多英も賛同する。

「もちろんだよ」

 佐紀も続く。

「だから、そのなんだ、いつまでも苗字とかで呼ぶのもなんだしって。佐紀に言われて」

「わたしは最初からそう呼んでましたけど。杏子さんは他人行儀だよね。壁つくりがち」

「うるさいな」

「和亜さんと紺さんはいつから下の名前呼びなんですか」

「それは、佐紀とは一年も同じクラスで、勝手にそうやってきたからなんだ」

「杏子さんは照れ屋さんだからね、こっちから言ってあげないと」

「もういいよ。まあ、お互いファーストネームで呼び合う方がいいんじゃないかって、これからは」

「大賛成です、杏子さん」

「お、おう、いずみさん」

「また照れちゃって。そういうことでいいよね、多英さん」

「は、はい」

「わたしは呼び捨てでもいいよ」

「いや、それはちょっと・・・」

「じゃあ、呼んでください、どうぞ」

「ええと、佐紀さん」

「はーい、多英さん!」

「おい、あんまり、あーと、多英さんを困らせるなよ」

「おー、杏子さんよくできましたね」

「うるさい」


 練習が終わった後、杏子からもう一つ提案があった。

「今度の終末、土日のどちらかの午後、時間ないかな、いずみさん」

「はい、土曜日なら空いてますけど」

「いずみさん、ツインツリー行ったことあるかな、楽器店」

「寮の先輩から名前は聞いたことあるけど、まだ行った事はないですね」

「繭山の東側のアーケード街の中にあるんだけど、ヌオーヴォガレリアって名前がついているんだ。そこに行ったことは?」

「そこもまだないんですよ、こっちへきて、なかなか時間がとれなくて」

「じゃあ、今度の土曜日の午後に、ツインツリーに行くのはどうかな。今後の楽器のメンテナンスとかもあるし」

「ぜひ、お願いします」

 後は佐紀が引き取って、

「じゃ集合は、お昼の二時、ヌオーヴォガレリアの北口の横の公園ね。路面電車の駅を下りたところだから」

 多英が位置情報を四人で共有した。

「分かりました。毎日通学の時に、電車で前を通っているんですね」


 土曜日の午後一時すぎ、いずみは、寮を出て、せっかくだからと、路面電車は使わずに、川沿いの遊歩道をぶらぶら歩いて行くことにした。天気はよく、遊歩道沿いには、何店舗かファストフードのスタンドが並んでいる。川面は陽の光に照らされて、波がキラキラと輝いている。時折水路をめぐるクルーズ船が、歓声とともに通り過ぎていく。船の中から手を振る子供たちに、いずみは手を振り返す。集合時間の五分前には、もう約束の公園まで到着した。他の三人はすでに待っていて、

「待たせちゃったかな?」

「大丈夫だ、わたしたちもさっき着いたところだ」

「いずみさん、どうやって来たの?」

「お天気がいいから、川沿いを歩いてきたの。気持ちよかった」

 そいういえば、といずみは思った。三人の私服姿を見るのはこれが初めてだった。それぞれが、らしいなと。杏子はパンツコーデ、多英はブルー系のデニムとシャツ、佐紀はおしゃれなワンピース。

「水路をめぐる船があるのね、知らなかった」

「三十年ぐらい前に始まったそうですよ。ぐるっと一回りするコースもあるし、自転車と一緒に、途中で乗り降りできたりもするんです」

「素敵だね、一度乗ってみたいな」

「路面電車だと、ターミナルを中心に路線は放射線状なので、横の移動が不便だからと、水上交通を活用しようという動きもあるみたいです」

「水路めぐり、いいよね。また企画しよっ!」

「とりあえず、行こうか」

 杏子から先に、ヌオーヴォガレリアの中に入ると、足元はレンガ色のタイルが敷き詰められている。見あげると、天井はステンドグラスのように色とりどりの半透明の素材で覆われたアーケードが続いている。空地になったり、閉鎖された場所が少しはあるが、個性的で小規模な店舗が並んでいで、街を歩く人たちの年齢層はさまざま。

 左のビルには、地階へ下りる入口が大きく開いている。

「これはなんのお店なんですか?」

「なんだろ、前は映画館があって、ずっと閉鎖されていたけど」

「それはですねー」

 佐紀は地下を指さして、

「『鳳凰座』っていうイベントスペースなんですよ、この春、四月にオープンしたばっかり」

「詳しいな」

「音楽のミニライブとか、マイナー映画の上映会とか、やっているみたいですよ」

「それ、おもしろそうですね」

 告知のポスターを見ながら興味津々の多英だった。

 それから少し歩いて、佐紀が足を止めたのが、エスニック雑貨店の前。

「この『ヘテロフォニー』、オーナーが定期的に海外回って仕入れてくるんだよ、おもしろいよ」

 先に店内に入ってしまったので、三人もあとに続く。

「ここ、入るのは初めてなんだよな」

 杏子はとまどった様子。独特の香りが漂う中、アクセサリーやアパレルを見て回る。佐紀は三人にいろいろ見繕ったりながら、いつの間にか何点かレジに持って行っていた。

 店を出ると、左側にガラス張りのビルが見えてきた。表には「楽器店ツインツリー」の看板が掲げられている。

「ここだよ」

 自動ドアが開いて、中へ足を踏み入れる。店内は白を基調にしたインテリアで、様々なジャンルの楽器が白色の灯りで明るく照らされている。壁にはイベントのポスターが何枚も貼られていて、関連機器やアクセサリーも豊富で、チケット販売もしていた。

「きれいですね」

 いずみはうっとりと見回す。

「みなさんも来るんですか?」

「はい、一階の楽譜コーナーには、レアなのもあったりしますし、ネットじゃ入手できないのも、取り寄せてくれたりするんです」

「楽器の工房は二階になるんだ。美称音の生徒はけっこう利用している」

 吹き抜けのらせん階段を登ると、すぐに二階に着く。壁の棚には様々な楽器やその部品が所せましと並べられて、正面のカウンターでは、ワークエプロンをつけた女性が一心に作業をしている。

「神保(しんぽ)さん」

 杏子が呼びかけると、ようやく顔をあげた。

「やあ、杏子ちゃん、どうしたの」

 やさしそうな丸顔で、眼鏡の奥の目を細めた。

「今日は、その、友達に紹介しようと思って。この方が弦楽器担当の神保大江(しんぽ おおえ)さん」

 杏子は照れくさそうに頭をかく。

「はい、はじめまして。杏子さんの友達の乙野いずみです。美称音学園でチェロを学んでいます」

 後ろで佐紀はにまにましていた。

「ああ、あなたが乙野さんね」

 作業用のグローブを脱いで右手が差し出される。

「杏子さんから、楽器で何かあったら相談したらいいって、おススメされましたので」

 出された手をにぎると、その分厚さに技術の確かさが感じられた。

「これはこれは。やあ、杏子ちゃん、ありがとう。セールスまでしてもらって」

「いえ、だって神保さんの腕は信頼できるから」

「何かあったら、相談に来ます」

「どうぞ、ごひいきにね」


「次はこっちだ」

 ツインツリーを出ると、杏子は左手を指さした。杏子の先導で、ゆっくりとした足取りで進んでいくと、ヌオーヴォガレリアは二方向に分かれる。その三叉路の中央には、白いタイル貼りの円形の台座があって、上には銀色の柱が組み合わされたオブジェが置かれている。オブジェの周りには掘り下げされていて、そこには水がたたえられている。

「噴水ですか、これは?」

「そう、噴水。これ見て欲しかったんだ」

 佐紀はかけて行って、台座につけられているプレートを両手で隠した。

「ほら、見て見て」

 いずみが近づくと、

「じゃーん!」

 覆っていた手をどかせると、下からは「Fontana di Musica(フォンタナ・ディ・ムジカ)おとのいずみ」と書かれたプレートがあらわれた。

「お・と・の・い・ず・み、です!」

「最初名前を聴いた時から、絶対来ててほしいなって」

「わたしと同じ名前の噴水があったんだ」

 いずみは、胸の前で両手をあわせた。

「すごい。サプライズだよ」

「このヌオーヴォガレリアのシンボルなんです。幸せが音楽のように広がっていくという願いを込めた名前だそうです」

「夏になると、時間毎に、水が出るんだよ」

「できた頃は水が噴き上がるだけじゃなくて、音楽が流れて、ライトも点灯したみたいですけど、わたしが覚えている限りではもうそれはなくなっていたんですけどね」

「いずみさん、真ん中にして写真撮ろう」

 いずみを中心にして、みんなでネームプレートを指さしたりして、なんども記念撮影。

 四人がはしゃいていると、何事かとわらわら集まってきた人たちに、佐紀が説明して回る。噴水とおんなじ名前です、音楽を専門にやってるんです、と。そうなると、近所の人も、通行人も、観光客も、かわるがわる、いずみを真ん中にして、臨時撮影会が始まった。そのうえ、中には握手を求める人、サインを求める人まで出てくる始末。


「みんなってコーヒーは大丈夫?」

 ようやく騒ぎが収まると、杏子が声をかけた。うなずくだけの三人。いずみは、いつのまにか両手に近所の方からのおみやげを持たされていた。

「ちょっと休憩しよう。近くに知り合いのカフェがあるんだ」

「さすが、杏子さん、地元民。もうへとへとだよ」

「佐紀が盛り上げるからだろ」

「ごめんなさい、ついうれしくなっちゃって、ごめんね、いずみさん」

「大丈夫だよ、いろんな方とお話できて。こんなにもらっちゃって、一気にお友達が増えたみたい」

「すごいです、いずみさん、前向きすぎです」

 熱気にあてられた多英がため息をつく。

「なんだかうれしいのよ。この街に越して来たなって実感できて」

「とりあえずその先だから」

 三叉路の右の道を進んでいくと、左端に理髪店の店先でよく目にするサインポールが回転していた。本来の、赤、青、白ではなくて、黒、茶、白の三色。

「ここって、カフェなの。わたしずっと理髪店って思ってた」

「はい、わたしも前を何度も通ってますが、カフェだったんですか。でもなんでこれが」

 多英はサインポールに手を置く。

「まあ、それは入ったら分かる」

 「セビリア」と小さく名前が書かれた扉の前に立つと、自動的に左に開いた。

「いらしゃい」

 低音のいい声が響いた。店内は外からは予想がつかないぐらい奥行があり、全体は木の素材感を生かしたデザインになっている。左側には四人掛けのテーブルが三脚。壁には大きな鏡がテーブル毎についていて、その間には、レトロ感のあるポスターや、はさみや櫛などのオブジェが飾られている。右側が木目のカウンターで、壁一面の棚には瓶やカップなどが数多く並んでいる。

「こんにちわ、マスター」

「おや、杏子ちゃん。お連れがいるんだね」

 浅黒い顔に口ひげをたくわえたマスターがカップをふきふき応える。杏子にすすめられて、三人はカウンターに並んで座る。

「ここは代々理髪店だったんだけど、マスターの代でつぶして、カフェになったんだ」

「人聞き悪いな」

「でも本当でしょう。理髪店を継ぐつもりで修行に行った先で、近くのカフェに入りびたりになって、この道に進んだんでしょう」

「積極的な業態転換と言ってくれよ」

「だから『セビリア』なんですね」

 多英が店内をきょろきょろする。いずみと佐紀もつられて見回す。

「サインポールが黒、茶、白の三色なのも、元理髪店のカフェだからなんですね」

「壁の櫛やはさみも?」

「そうなんだ、昔おやじが使っていたやつで。知り合いに現代アートっぽくしてもらったんだよ」

「鏡もそうなんですか?」

「うん、姿見のリサイクル。実際に使っていたものなんだ」

「ポスターは、オペラの『セビリアの理髪師』だ!」

 マスターは至極上機嫌に笑って、

「いや、うちは常連客が多いので、こんな新鮮なリアクションは久々で、うれしいな」

「このポスターは、パイジェッロの、ですね」

 多英は真ん中に貼られているのを指さした。

「誰それ?ロッシーニじゃないの」

「今はセビリアといえばそうなんですが、以前はパイジェッロの方が有名だったみたいですよ」

 マスターはポンと手を叩いた。

「いやすごい。お嬢さんお名前は?」

「沖木、沖木多英です・・・」

「多英ちゃん、この店に何人お客さんが来たかわからないけど、それに気づいたのは初めてだよ。すごいね」

「いえ、そんな・・・」

「もう、おじさんうれしいよ、サービスしちゃうよ」

 多英は恥ずかしくなってうつむいた。

「マスター、多英さんをからかわないで」

「からかってないよ、今日はいい日だな。いろんな意味で」

「じゃあ、マスターおすすめを出してください」

「フルーツタルトのセットでいいね。今日はおじさんのおごりだよ」

「大丈夫なんですか、おばさんに叱られますよ」

「そこは内密に」

「ここは、フルーツタルトが絶品なんだ。ビターチョコのケーキもいいけど、まずは一度食べてみて。マスターの奥様が別の場所でタルト専門店をしているんだ。そこからの仕入れ」

「わ、楽しみ。フルーツは何なんですか」

 佐紀が目を輝かせる。

「今はイチゴとメロン。季節ごとに変わるから、また来てね」

「飲み物とセットなんだけど」

「お嬢様方、珈琲は大丈夫かな。フルーツタルトにはモカが合うんだよ。ほどよい酸味と甘味がベストマッチングなのだよ」

「マスター、蘊蓄はいいので、早くお願いします」

「相変わらずクールだね、杏子ちゃん」

 マスターは準備のために四人の前を離れた。

「杏子さんは、この店よく来てるの」

「ああ、マスターの娘さんとは幼なじみで、昔からね。その頃はコーヒーは飲めなかったけどね」

 すると、佐紀が棚に飾られた写真をみつけて、

「それって、杏子さんですよね?」

 ピアノの前で、大きなリボンをつけて、ヴァイオリンを弾いている、小学生ぐらいの女の子が写っている。

「マスター、その写真まだ飾ってたんだ。そうだよ小学生の時のコンクール」

「わたし、そのコンクール、客席で見てるんですよ。杏子さんはその頃からスターでしたからねえ。たしか、ヴィエニャフスキの曲だったかしら?」

「昔のことだ」

 いずみには、杏子の声が少し沈んだような気がした。絶品らしいフルーツタルトより、そのことが気になってしかたなかった。

「タルトとコーヒーを待っている間をお借りしまして」

 佐紀はさっき買ったばかりのエスニック雑貨店「ヘテロフォニー」の袋から、かばんの取っ手などにつける飾り、バッグチャームを四個取り出して、カウンターの上に並べた。それぞれに別のデフォルメした動物がついている。

「それはなあに?」

「四神だよ」

「ししん、って何?」

「POPにそう書いてあったから」

「天の四方を守る、青龍、朱雀、白虎、玄武、ですね。東南西北、春夏秋冬の象徴だったりします」

「そうそう多英さん、見た目は青いドラゴン、赤いひよこ、ホワイトタイガー、黒いかめさん、だけどね。かわいいでしょ」

「で、それをどうするつもりだ」

「もちろん、みなさんへのプレゼント。ちょうど数が合うでしょ。前から何かいいものないかなと考えていたんだけど、今日あそこでみつけてこれだって」

「カルテットの仲間のあかし、ですね」

「そう、それ、いずみさん!」

 佐紀は、ひとつひとつ、手渡していった。

「タイガーは杏子さん、ドラゴンはいずみさん、ひよこは多英さん、かめさんはわたしね」

「わたしにトラって、なんか意味あるのか」

「ないない、ただの順番、気にしないで」

「ありがとう、佐紀さん。チェロのケースにつけるね」

「はい、わたしもヴィオラ・ケースに」

「やった、うれしいな。で、杏子さんは?」

「わかったよ、つけるよ」

「忘れないでくださいね。次の練習が楽しみです」

 佐紀は玄武のチャームを握りしめて、にっこり笑った。

「お待たせしました、お嬢様方」

 ようやく、木製のトレイに載せられたフルーツタルトとモカが運ばれてきた。


第六章 インテルメッツォ


 音楽専門である美称音学園では、普通の高校と共通の、国語、外国語、数学、理科、社会、体育といった一般科目は、クラス単位で受ける。外国語は必修の英語と、二年生からドイツ語、フランス語、イタリア語の中から一つを選択する。

 専門科目は、基本グループ単位やマンツーマンなので、クラスは関係なくなるが、一部の音楽理論や音楽史はクラス単位になる。ピアノ科以外は、副科としてピアノが必修で、これはマンツーマンでのレッスンだ。

 いずみは週一回の副科ピアノの授業を受けるために、東棟にあるレッスン室に向かった。部屋に入ってみると、ピアノの前に杏子が所在なげに座っていた。クラスは違うが、担当講師が同じで、順番はいずみの前が杏子なのだ。

「あれ、杏子さん、先生は?」

「それがさ、時間になっても現れないので、教官室に訊いてみたら、なんか急用ができたとかで、遅れていくから待っていてという伝言だったんだ」

「でも、来ない、と」

「そう、休講なら先にいって欲しかったのに、いずみさんの時間が来てしまった」

「どうしよう。まあ、待っているしかないんだけど」

 いずみは杏子が広げていた楽譜を見て、

「杏子さん、けっこう難しい課題曲やっているのね」

「まあ、ピアノは元々やっていたし」

「そうなんだ。じゃあ来月の試験も余裕だね」

「そもそも副科って、必要なのかなって思うよね。せめて選択にすればと」

「入試に必須だからなんでしょうけど、それぞれレベルが違うから」

「いずみさんも、ピアノはやっていたんだろう」

「チェロより先かな。途中でリタイアしちゃったけど」

「わたしは中学生までは続けたけど、メインはヴァイオリンだったからなあ。佐紀は今もレッスン行っているようだが」

「佐紀さんはがんばりやさんですね。杏子さんはつきあいは長いの?」

「いや、高校に入って一緒のクラスになってからだ。中学は違うから」

「仲いいのね」

「そうかな。まあ、おしゃべりだけど、嫌なやつじゃない。ただ、『アイドルになりたい』とか言動が軽すぎる」

「一年の時は知らないけれど、練習そのものは至って真面目と思うよ。こういう音楽にしたいって伝わってくるもの」

「まあ、そうなんだが」

「室内楽には、佐紀さんから誘われたの?」

「ああそうだ。前にも言ったけど、そもそも室内楽って気が乗らなかったんだ。積極的じゃなかった。誰かと一緒に演奏するなんて、どうせ上手くいかないと」

「どうして?今は一緒にやっているじゃない。いろいろ考えてくれてるじゃない」

「それは、いずみさんがいるからで。わたしの力じゃない。いずみさんみたいに、人当たりはよくないから、思った事を言い始めると、つい行き過ぎてしまうし、途中で止められなくなってしまう」

「我慢しなくていいのに」

 杏子は苦笑いをして、

「なんだか、つい余計なことまでしゃべってしまったな」

「全然余計じゃないよ。大事なことだよ」

「正直、ピアノの方が向いていたんじゃないかと、今さらながら思う。ピアノなら、一人で練習して、一人で弾けるって」

「でも、ピアノの人からはよく聞くよ。他の楽器の人はいいな、誰かと演奏することが多いから。一人だけはつまらないって」

「それはたしかに」

「ヴァイオリンはいいじゃない。ソロ曲もいっぱいあるし、協奏曲もいっぱい。オーケストラの中でもソロがあるし、ってチェロ弾きからするとそう思う」

「となりの芝生か・・・」

「言いたい事は言っていいと思うよ。赤の他人になら失礼かもしれないけど、少なくともわたしたちには遠慮しないで言ってもらう方がいい。受け止められるよ」

「ありがとう、ああ、考えておく」


 翌日は、室内楽の授業の前日、四人は練習の最後に、全楽章を通しで演奏しておこうとなった。三十分足らずの後、

「まあ、止まらないでできたし、今日のところはまずまずといったとこでしょうか」

 終わっての、いずみの感想。

「そうですね、明日先生から指摘を受けて、またそこを練習しましょう」

 それに重ねる多英の発言。

「ちょっといいかな」

 杏子は一人難しい顔をする。

「わたしは、前から言っている通り、やる以上はいいものにしたいと思っているが」

「それは、みんなそうだよね」

「異存はないですね」

「演奏は、わたしも出来はまあまあだったと思う。だから、このままでもいいかなという半面、それではダメだという気持ちを抑えておくことができなくなってきたんだ」

 杏子は腕組みをする。

「ひとつ、気になることがあるんだけどな、言ってもいいかな」

 楽器を片づけようとしてた佐紀の背中がびくっとなった。

「佐紀、第二楽章の出だし、十六分音符のスラーのとこから、」

「わかってる、ちゃんと弾けてないよね」

 振り向く佐紀の顔色が変わった。

「わかっているなら、なぜちゃんと弾かないんだ」

 佐紀の返答は、普段とは違う真剣味があった。

「ちゃんと弾こうとはしているよ」

「なら練習不足だろう」

「だってわたし、手がちっちゃいし、背も低いし、腕も短いし、杏子さんのようには弾けないの、どれだけ頑張っても」

「じゃあやめればいいだろ、弾けないのなら。わざわざ音楽専門の学校に来る必要ないだろ」

「杏子さん、言い方!」

 いずみがあわてて口をはさむ。

「すまない、でもこれがわたしの性分なんだ。思った事は口から出さずにはいられない。いや、言わないでおくのはダメだと思っている。わたしの言っていることは間違ってるか?」

「その通りです。この中で、いずみさんも多英さんも上手。自分が一番下手なのは分かってる。学校の中でも多分一番下手」

「それは、まあそうかも・・・」

「だから、杏子さん!」

「杏子さんの言う通りだよ。正直に言ってくれる方がいい。でも」

 佐紀は顔を上げた。

「やめないよ、わたしは。絶対にやめたくない」

「じゃあ、弱音をはくなよ。佐紀はすぐそうだ」

「すみません・・・」

「でも、佐紀さん、ずいぶん上手くなっているよ。その第二楽章の冒頭、わたしと多英さんと三人で、弾いてるとこ。始まった頃に比べたら、きっと練習しているんだろうなって、分かるよ。そうだよね、多英さん」

「それはそう、わたしもそう思います」

 多英もはげしく同意する。

「いや、佐紀が努力していないとは思ってはいないが。そもそも努力していない人間には何も言わない、無視するだけだ」

「いや、照れますな、ほめられると」

「ほめてはいないだろ、そうやってすぐ調子に乗る」

「すみません・・・」

「まあ、やる気があるんならいいんだ、下手のままじゃだめだが」

「杏子さん、下手は余計だよ」

「つまり、真面目に、音楽に真面目ならいいんだ、それで。だから、こうすれば、もっとよくなると思った事は絶対に言う。それでいいか?」

「はい、いくらでも言ってください。もっともっと練習するから。よろしくね」

 佐紀はぺこりと頭を下げた。

「よし、なら、そこの弾き方なんだが。

 こうしろというんじゃなくて、佐紀の表現したい音楽にするなら、わたしならこう弾くってことなんだが」

 杏子はヴァイオリンをかまえ直した。


第七章 スケルツォ


 空は晴れて、木々を間を渡る風もおだやかな日、四人は中庭にあるガゼボ(西洋風あずまや)の中で、ランチタイムをしていた。

「もっと練習時間があればいんだけど、部屋がなかなか取れないね」

 食事が終わったあと、いずみは話しかける。

「みんなの予定が合う日ってそんなにないんですが、そういう日に限って満室が多くて」

 多英が、タブレットで、四人のスケジュールと、練習室の利用状況を見くらべる。

「しょうがないですよ、みんな使いたいし、抽選だもん」

「マンガやアニメとかなら、じゃあ合宿しよう、場所は誰かの別荘でとかになるんですが」

「そんなに都合よくいく訳ないだろうし」

 すると、佐紀が手をあげた。

「あの、別荘じゃないけど、合宿ならできるかもよ。今度の三連休、みんなの予定が埋まってなければだけど」

 三人は顔を見合わせた。

「みんなの予定はどうなのかな?わたしは空いてます」

「最後の日は用事あるけど、土日なら大丈夫です」

「わたしも土日ならオッケーだ」

「それで、合宿できるというのはどこなんですか?」

「ここから車で三十分ぐらい山の中に入ったところに、昔小学校だったのを宿泊施設にしているとこがあるんです。お父さまの会社が指定なんたら?になっていて」

「指定管理者、ですね」

「そうそれ。そこなら泊まれるかも。何度か行ったことあって、昔の音楽室だったのを改装してスタジオみたいにしているから演奏し放題だよ」

「いいですね。一泊だけでも練習時間とれるし」

「じゃあ決まり。ちょっとじいやに連絡してみるね」

 佐紀は立ち上がり、スマホを取り出してガゼボから芝生へ出て行った。

「じいや?」

「ああ、知らなかったら驚くよな。佐紀はお嬢様なんだ」


 土曜日の朝、楽器と荷物を持って集合場所、学校の校門の前で三人は待っている。それぞれの楽器ケースには、佐紀からのバッグチャームがついている。やがて、白いワンボックスワゴンがやってきて、三人も前で停まった。助手席の窓が空いて、佐紀が顔を出した。

「おまたせー。乗って乗って」

 住まいまで直接迎えに行くと言われたがさすがにそれは断った三人だった。運転席から、黒スーツで背の高い女性が下りてきた。両手には白い手袋をしている。

「送り迎えをしてもらう、知華さんよ」

「いつもお嬢様がお世話になっております。綿白知華(わたしろ ちか)と申します。本日はよろしくお願いします」

 深々と礼をするので、あわててそれに返す三人。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 いずみは杏子の耳元でささやく。

「『じいや』、って言っていたから、男の人が来るのかと思ってました」

「『じいや』というのは、会社の今の副社長らしいよ。正確には『元じいや』だとか」

 知華は後ろのドアを開け、手際よく座席を倒す。こういう時は一番大きな楽器のいずみが三列目に座るのが暗黙のルール。

「リムジンが来るかと思ってた」

 いずみが思わずぼそっとつぶやくと、知華にはそれが耳に入ったようで、正面を向いたまま、

「山道は狭いのでご期待にはそえませず、申し訳ありませんでした。次は必ず用意いたします」

 いずみが面食らって、何も言えずにいると、

「またー、冗談だよー、いずみさん。知華さん、その言い方じゃ冗談に聞こえないって」

「申し訳ありませんでした。根が真面目なもので」

 いずみは、これも知華のジョークだろうなと思ったので、佐紀の家でいったいどういう役目なのか訊きたかったが、まともな答は返ってきそうになかったので、我慢した。


 大きな川に沿った道を上流に向かって約三十分走る。途中で右に曲がって橋を渡り、そこからは狭いうねうね道を、新緑の森の中を登っていって到着。知華の運転はいたってノーマルだった。

 元小学校らしく校庭だった場所に白線が引かれて駐車場になっていた。外観は校舎そのままで、正面玄関の上には、自然木を利用した「カーザ・リエート」と書かれた看板がかかっている。左の柱には校章と学校名の銘板が残されていたが、中は宿泊施設にリニューアルされている。

「わあ、のどかだね」

「空気がおいしいってやつ?」

「それでは、明日の午後一時にお迎えにあがります」

 知華は施設のスタッフに挨拶すると帰っていった。四人はチェックインして、部屋に荷物を置いてから、早々に元音楽室へ行く。音楽スタジオとして改装されていたが、五線譜が描かれた黒板はそのまま残っていて、その前にはアップライトのピアノ、反対側の壁には作曲家の肖像画が何枚も貼られている。

「それっぽくしてるんだねー」

 備え付けの椅子と譜面台を並べて、早速練習にとりかかる。一時間ほどして一旦休憩。

「なんか、時間気にしなくて練習って、いいね」

「終わりの時間が決まっていないから、たっぷりできるし」

 いずみは、後ろの壁に向いて、

「壁の肖像画、音楽室の定番って感じだけど、これっていつから始まったのかな」

「たしか、とある出版社が、販促で始めたって聞いたことあります」

「さすが、多英さん、なんでも詳しいね」

 佐紀は、肖像画をひとつひとつ指さして、

「エルガーは奥さんを大事にしてたので有名だけど、ここの飾られている有名作曲家ってほどんど人間としては最低な人ばかりでしょ」

「身も蓋もない表現だが、まあ、ロクなエピソードないよね」

「ワーグナー、ドビュッシー、フォーレ、とかは言わずもがな。まあ、ブラームス、ブルックナー、ヤナーチェクとかもどうかと思いますし。そもそもモーツァルト、ベートーヴェン、にしても」

「多英さんも辛口!」

「まあ、作品とその作曲家の人間性は別って言えるけど、普通の人とかけ離れている性格だからこそ、時代を超えた傑作ができたとも言えるしね」

「それって、演奏家も似たり寄ったりじゃない」

「そうだよね、いい演奏家がいい人であるはずもないし。よくない噂は聞くよね」

「他のジャンルでも一緒でしょ、人並はずれた能力がある人は、性格も人並はずれた、非常識なほうがしっくりくる」

「わたしが通っていた教室の先輩たち、まあ、彼氏にするなら、音楽家は絶対お断りって話していたよ」

 佐紀の言葉に笑い転げてしまう四人だった。お昼ご飯の後も、四人は練習を続け、いつのまにか太陽は山陰に隠れて、夕闇が迫っていた。


 食堂での夕ご飯の後、佐紀は「カーザ・リエート」のスタッフから呼び止められた。促されて三人は先に部屋に戻り、お風呂の用意をしていると、佐紀があわてて帰ってきた。

「実は今、明日のランチタイムの後にわたしたちに演奏してくれないかって依頼があって。地元のさんちちしょう的なイベントがあるんだって」

「地産地消、だろ」

「それそれ、その中で十分程度弾いてくれないかって。ろうにゃくにゃんにょ、が集まるんだって」

「老若男女、な」

「急にいわれても困りますね。準備の時間ほとんどないし」

「頼む方には、悪気はないんだけどな」

「あるあるですね、こういうのは。ちょっと『弾いてみて』とか『歌ってみて』とか」

「佐紀が弾けばどうなんだ、何度も来ているんだろ」

「『ヴァイオリンだけはいいです。お嬢様のはさんざん聴いているので。』って言われた」

「ちょっと失礼な言い方ですね」

「いいの、気安い間柄だから」

「四人で演奏ってこと?」

「そう、カルテットって珍しいみたい」

「まあ、急に部屋を用意してもらったんでしょ、お礼も兼ねて引き受けてもいいんじゃないかな」

「アウトリーチって経験ないんだよな。何を弾けばいいのかわからないな。検索してみる?」

「あの」

 おずおずと多英が右手をあげた。

「やっぱり練習時間もないし、ぶっつけ本番で四人でやるのは難しいんじゃないかと」

「たしかに、四人で弾いたのって、エルガー以外にはないしな」

「じゃあ、やっぱりソロかな。アンコール・ピース、小品ならなんとかなるでしょ」

 すると多英は困った顔をして、

「わたしは遠慮させてもらっていいでしょうか?準備なしに人前で弾くのは苦手というか、何というか」

「そんなに緊張するシーンでもないでしょ、これ」

「無理なんです。緊張しちゃうんです。できないんです」

 多英はあくまでかたくなだった。

「まあ一理あるよな、準備不足で弾くのは、演奏のクオリティがね。聴く方にも失礼だし。それに、ソロだと伴奏をどうするかという問題もあるし」

「あの、それなら断ってもいいよ」

 佐紀が部屋を出ようとすると、

「じゃあ、わたし弾くよ」

 いずみが軽く手をあげた。

「フォーレの『シシリエンヌ』、なんてどうかな。以前訪問演奏で弾いたことあるし。なじみある人も多いんじゃないかな」

「それって、フルートの曲じゃ?」

「元々はチェロの曲なの。そうだよね、多英さん」

「は、はい。最初はチェロとピアノの曲で、それが別の作曲家の手でフルートと管弦楽用に編曲されて、劇音楽の『ペレアスとメリザンド』に使われたんです」

「さすが、詳しい」

「ということは、伴奏はどうする。無伴奏っていうのも」

「なので、杏子さんピアノ伴奏お願いできないかな」

「わたしが?」

 突然の指名に驚く杏子。

「副科、ピアノの成績いいって言っていたし」

「それはそうだが」

「とりあえず、コードだけでも弾いてくれたら」

 杏子は強く首を振った。

「いや、やるんだったらちゃんとしないと。人に聴かせるのなら手抜きはダメだ。楽譜はダウンロードすればいいし。備品で電子ピアノあったよね、佐紀」

「うん、あるよ」

「今夜練習しとくから、明日の朝、合わせよう」

「わかった。ひょっとしたらアドリブで他の曲やるかもしれないけど、その時はよろしく」

「まじかよ」

 三人がやりとりする中で、多英は部屋の隅で一人うずくまっていた。


 お風呂に入った後、杏子は伴奏の練習をすると、旧音楽室へ一人で行った。残された三人はめいめい何をすることもなく、スマホを見たりして時間を過ごしていた。

「多英さん?」

 いずみは若干落ち込んでいる多英に声をかけた。

「多英さんって、例えばどうして楽器を始めたんですかって訊かれたら、何て答えるの?」

「きっかけ、ですか?」

「ほら、今回みたいに頼まれて訪問演奏をしたりすると、司会者から必ず振られる質問じゃない」

「あー、確かに」

「コンクールとかに提出するプロフィールだと、どこの学校出たとか、誰先生に師事したとか、受賞歴がどうとか、部外者には何の面白味もないのになりがちだけど。一般向けのインタビューとかになると、インパクトが必要だって、前についていた師匠と雑談でそんなこと話したことがあって」

「わたしだと小学校の時に聴いたヴィオラの有名な方のコンサートですかねえ。これだと弱いですね」

「そんなことないよ、ヴィオラってけっこう大きくなってヴァイオリンから転向する人が多いじゃない、それも、大学に入ってとか。小学生の時なんてかなり早いよ」

「そうですかね。わたしもそれまではヴァイオリンを習っていたんですけどね」

「よっぽど感動したんでしょ、そのコンサート」

「はい、ブルッフのロマンスを聴いて、なんか救われたというか、厚い雲が割れて、光がさしたというか、絶対ヴィオラやるって決めましたから」

「それって、十分インパクトあるよ」

「セルフ・プロデュースて大事だよね?」

 それまで黙って二人のやりとりを聞いていた佐紀が割り込んできた。

「面白エピソード期待されている訳でしょ。ウケる内容の方がいいって」

「そこまで要求されるかな、お笑いまで」

「印象に残れば、名前覚えてもらえるし、次の仕事、オファーにつながるかもしれないでしょ」

「佐紀さんもプロ目指してるんだね」

「手はちっちゃいし、才能ないのは自覚しているんで、歌って踊って弾ける方向ならチャンスあるかなって」

「またその話か」

 練習を切り上げて杏子が戻ってきた。佐紀は口をとがらせて、

「言葉にしておかないと、絶対に本当にはならないから。こどだまってやつ?幸運の女神にはいつどこで会えるかわからないでしょ」

「言霊だろ。歌って踊って弾ける、ならちゃんと弾けないと希少価値ないだろ」

「だから、頑張るって言ってるじゃないですか」

「手の大きさばかり気にしているんなら、小さいサイズのヴァイオリンを弾けばいいじゃないか」

「もう、杏子さん、それ子供用のでしょ。わたしはフルサイズのが弾きたいの!」

「サラサーテは手が小さかったそうですし」

「そうだよね!多英さん、ナイスフォロー!」

「はい、手が小さくても超絶技巧の有名なヴァイオリニストになったのは事実ですし」

 いずみはちょっと首をかしげて、

「わたし、ヴァイオリンはあまり詳しくないけど、佐紀さんの楽器ってどこのメーカーなんですか。あまり見たことない感じで」

「ああ、あれね。珍しいよね、たぶん」

「まさか、ヴィンテージ物なのか」

「そんな高くないよ、身の程ぐらい知ってます」

 佐紀はケースからヴァイオリンを取り出すと、いずみの方に本体の表を向けた。fの形をした穴から覗くと、中に名前が書かれたラベルが見えた。

「名前はサッキーニア、11というのが作品番号」

「きれいな楽器ですよね」

「ありがとう、大事にしているんだ、そんなに古いものじゃないけど」

「そりゃ、わたしたちは楽器と一心同体だからな」

「杏子さん、練習は?」

「まあ、最低限ってとこかな。後は明日朝に」

「よろしくお願いします。ところで、杏子さんがヴァイオリンを始めたきっかけは?って聞かれたら?」

「きっかけ?それには、隣の家のきれいなお姉さんが弾いていたヴァイオリンに憧れてって、言うことにしている」

「それ、本当なの?」

 佐紀が食いついてきた。

「いや、嘘だ」

「ええ、うそなの?」

「正直、ヴァイオリンを始めたきっかけなんて、小さすぎて覚えていない。三歳の頃だからな。母親のすすめだったらしいんだが、それもはっきりしなくて。だから、そんな曖昧なのより、分かりやすいのがいいかなって」

「言い続けていれば、それが本当になる、ですね」


 次の日、午前中の四人での練習を予定より少し早く切り上げて、杏子はピアノの前に座った。

「いつでもどうぞ」

「じゃあ、始めようか」

 いずみはチェロをかまえる。佐紀と多英は後ろに下がって、二人を見守る。

 フォーレの「シシリエンヌ」は、最初はピアノだけの短い前奏で、杏子が弾き始めたが、入るべきところでいずみは音を出さなかった。そして、杏子は演奏を止めて、戸惑っていずみを見る。

「どうしたの」

「ごめん、入るところがわからなくて」

「ええと、だって、そんな」

 難しい曲でもないのにと続けたかった杏子だが、真剣ないずみの表情に言葉を飲み込んだ。

「杏子さんがどう弾きたいのかわからなくて」

「どう弾くって、わたしは伴奏なんだから、いずみさんが好きなように弾けば、それに合わせるから」

「でもそれだとソロでしょう、チェロとピアノの二台でも室内楽なんだから」

「それはそうかもしれないけど」

「二人で楽しく弾かないと、聴いている人も楽しくないから。わたしは杏子さんが出したい音を知りたい、杏子さんにも知ってほしい」

「わかった」

 いずみと杏子はじっと見つめあっているうちに、だんだん呼吸のリズムが同じになる。どちらかが合図するわけでもなく、杏子の指が鍵盤に落ちると、いずみは音を出す前から演奏に没入していく。そして、二台の音がからみあって、豊かな響きになる。

「竜虎あいうつ、みたいですね」

 二人の演奏の熱量がどんどん高まっていく中、壁際で多英は小さくつぶやく。

「どうしたらこんな音が出せるんだろう」

 佐紀はため息をついた。


 ランチタイムの後、かつて理科室だった部屋には椅子が並べられて、ニ、三十人が集まっていた。まず二人は自己紹介して、いずみがチェロという楽器の説明を始める。

「チェロは、ヴァイオリン、ヴィオラより大きくて、片手では持てないので、こうやって座って弾きます。形が人間の体と似ているので、音も人間の声に近いなんて言われているんですよ」

 弓を上にあげて、みんなに見えるようにして、

「この弓で弦をこすって音を出すんですが、この毛と呼ばれている部分は、本当に動物の毛が使われているです。何の動物かわかりますか?」

 集まっている人に問いかけるも、首をかしげるばかりで反応はない。それで、いずみはチェロで、「ひひーん」と聴こえる音を出した。

「馬だ!」

 床に座っていた男の子が大きな声を出した。

「正解です」

 ファンファーレのメロディを弾く。男の子はうれしそうな顔してバンザイのポーズ。どっと笑いが起こり、場の雰囲気がなごんだ後、曲の簡単な解説をしてから、演奏に入った。

 杏子は伴奏の役目を見事に果たした。杏子のピアノにいずみのチェロが重なって、「シシリエンヌ」の切ないメロディが、イベント参加の老若男女を魅了した。

 自然発生のアンコールがあり、いずみはアドリブで唱歌を弾いて、最後はみんなで大合唱というハプニングがあった。杏子はあたふたしたが、佐紀が飛び入り参加で、歌って踊って、子供たちや、おじいさんおばあさんに声をかけて、座を盛り上げた。こうして、午後からのミニ演奏会は無事に終了した。


 チェックアウトの時、「カーザ・リエート」のスタッフから声をかけられた。

「無理をお願いしてすみませんでした。皆さんおおよろこびで、本当にありがとうございました」

 それから山手の方をさして、

「秋には近くの神社の参道に行灯を並べるお祭りがあるんですよ。とってもきれいですから、ぜひいらして下さいね」

 ロビーで迎えの車を待っていると、佐紀が立ち上がって、

「ねえ、帰る前に、さっき言っていた神社にお参りしていきたいんだけど。その、花手水(はなちょうず)で有名なんだ」

「花手水って?」

「神社とかで手を洗う場所、水をためているところに花を浮かべているんですよね」

「そうそう、さすが多英さん詳しい」

「今の季節、どんな花なんですかね」

「でしょ、行ってみよう」

「階段があるんだろ、大丈夫か佐紀」

「最近は体鍛えているから大丈夫でーす」


 神社から戻ってくると、すでに駐車場には白いワンボックスワゴンが停まっていて、傍らには知華が立っていた。

「知華さん、ちょっと待っててくれる?そこの神社、石の鳥居を七つくぐったら御利益があるんだって。まだ二つ残っているから、行ってくるね」

 先頭には佐紀、次に杏子、それを多英が追いかける。最後のいずみは足を止めて、思い切って声をかけた。

「あの綿白さん」

「はい、何でしょうか」

「わたし、乙野いずみといいます」

「存じ上げております。先ほどの演奏会、大層ご活躍のご様子でありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ、急に部屋を取っていただいたみたいで、ご迷惑をかけたんじゃないかと」

「とんでもございません。むしろうれしい出来事でした。お嬢様が自らお願いをされるのはめったにないことなので」

「そうだったんですか」

「はい、わたくしの記憶にある限りで、お嬢様のおねだりといえば、小学生の時に犬を飼いたいと駄々をこねられたぐらいで。意外でしたでしょうか」

「いえ、それは佐紀さん、紺さんらしいと思います」

「ありがとうございます」

「それで、ちょっと立ち入った事をお聞きしてよろしいですか」

「お答えできる事でしたら、何なりと」

「佐紀さんがヴァイオリンを始められたきっかけはご存じですか」

「なるほど」

「はい?」

「昨日、ちょっとした出来事があったとは伺っておりまして」

「え、ご存じでしたか」

「はい、お嬢様は、わたくしにはあれこれとお話してくださるので。乙野様には日頃からお世話になっていると伺っております」

「いえ、わたしはそんな、何も」

「乙野様をはじめ、みなさまには感謝しております。口には出されませんが、お稽古事への取り組み方がなげやりになりつつあるのを憂慮していたのですが、ここ最近は気力がみなぎっております」

「それは、紺さん自身ががんばっているだけですから」

「ありがとうございます。先ほどのご質問ですと、お嬢様のお祖父様がヴァイオリンが好きでいらっしゃり、その影響で始められたと伺っております」

「そうなんですか、それでお祖父様は、今は」

「二年前に病を得て、お屋敷から遠い場所で入院されております。手足が不自由になられて、老後のご趣味であった、ヴァイオリン製作もままならなくなっておられます」

「ヴァイオリン製作ですか」

「はい、工房を作られて、学校にも通われて、木材も輸入なさるとか、相当熱を入れておられましたが」

「ということは、佐紀さんが使っているヴァイオリンは」

「はい、御明察の通りです」

「ありがとうございます」

「この事はどうか御内密に」

「はい、お約束します」

「それからこれは個人的なお願いですが、お嬢様のお友達にも、わたくしの事は知華と呼んでいたでけないでしょうか」

「わかりました、知華さん」

 話が終わった時に、多英が呼びに戻ってきた。

「佐紀さんが、四人でくぐるんだから早く来てって」

「はい!」

 いずみは、知華に会釈してかけ出した。


第八章 ブルレスケ


 雨の土曜日、寮にいたいずみの元に、楽器店ツインツリーの神保から予備の弓の修理が終わったとの連絡があった。本当は天気がよい日に徒歩で行きたかったが、予定が合わないので、路面電車に乗ってアーケード街ヌオーヴォガレリアへ出かけることにした。

 赤い傘をさして、いずみは寮を出て、近くの路面電車の停留場まで歩いていった。毎日学校の往復に使っている路線なので、もう見慣れた景色のはずが、雨の土曜日の昼下がり、開いている店、傘をさして歩いている人たち、普段とは違う光景を、つり革につかまって、いずみは楽しんでいた。

 ヌオーヴォガレリア北口前の駅で降り、にぎやかな雑踏をぬって、あちらの店、こちらの店を、以前の騒動以来、顔なじみになった人たちにあいさつしながら、ツインツリーへ向かう。楽器店で神保から弓を受け取り、気分がよりよくなったので、帰りにカフェ・セビリアに行くことにした。フルーツタルトのフルーツが変わったのをネットで見たのもあって。

 扉を開けると、いつものマスターの低い声。

「いらっしゃい、今日は一人かい」

「はい、修理に出していた弓を受け取りに来た帰りです」

 店内にはいずみの他にはお客はおらず、静かな音楽が流れていた。

「フルーツタルトのセットお願いします」

 いずみはカウンター席に腰をかけて、メニューも見ずに注文。

「はい、少々お待ちください」

 マスターは、手近にある受話器を取り上げて、

「ちょっとあいさつさせてもらいたい人がいるけど、いいかな?」

「はい、いいですけど、どなたですか?」

「娘の理良(りら)なんです」

 マスターは受話器に小声で話しかけると、奥の扉の向こうから激しい勢いで階段をかけ下りてくる足音がした。扉が開いて、飛び出していた人物は、いずみと同い年くらいで、顔はよく陽に焼けている。カウンターの棚に置かれている写真、杏子の後ろでピアノを弾いている少女と同じ顔だった。

「はじめまして、理良です」

 隣の椅子に遠慮なく腰をかける。顔だけでなく腕もしっかり褐色。

「はじめまして、わたしは」

「いずみさんですね。わたしの事は父から聞いてますよね」

「はい、以前こちらの店に来た時に、うかがいました」

 いずみは、杏子に連れられてこられた時以降、何度か一人で来ていたのだ。そして、前回一人で来た時に、杏子と一緒に写真に映っている理良の事を聞かせてもらっていたのだ。

「たまたま、親類の行事で、帰ってきてたんです」

 マスターの言葉が終わらないうちに、

「なんか予感がしたのよ。いずみさんに会えるんじゃないかって。わたし、勘はいい方ってよく言われるから。船乗り猫みたいな」

 理良は杏子と同じ中学校を出て、自宅から遠い場所にある海技士養成の学校に通っているのだ、

「理良さんは、小さい頃からピアノをやっていたんでしょ」

「そうそう、わたしが通っていた近所の教室に、杏子が後から入ってきたの、小学校に入る前にね。もうヴァイオリンは始めていたけど、音楽学校の入試にはピアノが必須だからって。意識高いでしょ、小さいころから」

 理良はクスクス笑った。

「同い年で、お互いさっぱりした性格だから、仲良くなって、連弾したりして遊んでいて。それから同じ小学校に入って、それで気が付けばピアノの伴奏をするようになっていて」

「あの写真がそうですよね」

「そうそう、小学校高学年ぐらいかな。地元じゃ有名でって、悪い方じゃなくて、コンクールとかでね。まあ、杏子は何て言うか俺様気質だったから、伴奏合わせるのはけっこう大変だった。そういうのがヴァイオリニストに向いているのだろうけど」

 マスターは何も言わず、いずみの前にセットを置く。

「中学校の後、進路をどうしようか迷って。わたし元々船に乗るのが大好きで。小さい頃からパパに船に乗せられてて」

「船をお持ちなんですか」

 マスターは照れたように、

「いや、仲間と共同所有の、小さなクルーザーですよ」

 理良はカウンターに頬杖をつく。

「このままピアノを続けるか、それとももう一つの夢、海の女を目指すか。杏子はたぶん、ずっとバディだと思っていたと思う。わたしが進路の決断、『海の上のピアニスト』になるって伝えた時は、ただただ応援してくれたんだけど、今思えば内心ショックだったんだと」

「それは、まあ、そうかも知れませんね」

「そんな事は絶対言わない、弱音ははかない性格だしね。でも、風の噂で、その後相棒は持たず、けっこう人に厳しくなったって聞いて、買い被りかもしれないけど、わたしのせいかなって後悔もしたりして」

「いえ、杏子さんが人に厳しいのは、生来のものだと思いますよ。それ以上に自分に厳しいですけど」

「言うねえ、いずみさん。なるほどねー」

「何かありましたか」

「いやね、この間久しぶりに杏子からメールが来てさ。なんか謝罪メールで。ひとりよがりの演奏だったのごめんって。気持ち悪いって返信したら、激怒されたけど。でも、仲間が出来てうれしいってさ。特にいずみって人にさ」

「わたしは特に何もしてませんけど」

「知り合いが何人か美称音に行ってるんだけど、『あの杏子にピアノ伴奏させた人がいる』って緊急連絡があったの」

「それは、杏子さんピアノが上手いって聞いていたから。小さい頃からちゃんと練習していたんですね、さすがです、納得です」

「いずみさん、裏では『猛獣使い』ていう二つ名で呼ばれているって知ってる?」

「そんなあ、杏子さんは猛獣じゃないですよ。素敵なレディですよ」

「まあいいや、コーヒーがさめるといけないから、飲んでね」

「はい」

「パパは心配してたんだ。だから最近杏子に笑顔が戻ってきて喜んでるんだ。なにせ、杏子ファンクラブの会長だからね」

「え、そんなクラブ作ってるんですか」

 マスターは慌てて手をぶんぶん振る。

「理良さん、連絡先教えてもらっていいですか」

「もちろん、いずみさんとは仲良くなれそう」

 二人は連絡先を交換しあった。

「きょうたん、よろしくね。あ、これ杏子の事ね、小さい頃のあだ名。本人はそう呼ばれると怒るけど」


第九章 バガテル


 新しい週が始まる。月曜日、二年一組のいずみは、クラスメイトの名居府空(ないふ そら)と二人組で、日直になっていた。放課後、いずみと空は、教室に残って、日直の仕事である、ホワイトボードのクリーニングやクラス日誌の整理などをしなければならない。それで、多英には先に練習室へ行ってもらい、他の二人にも連絡していた。

 いずみと空は並んでホワイトボードをきれいにする。

「いずみさんはこの後、室内楽の練習かい?」

「そうだよ、練習室やっと取れたから」

「多英さんとなんか話していたもんね。仲いいよね二人」

「一緒に室内楽やっていると、自然と仲よくなるみたい」

「いいなあ、わたしらそういうのまだないから」

 空はエンジニアリング科で音響専攻なのだ。

「グループ実習が始まるのはまだ先なの?」

「うん、やっと来月からなんだ」

 ホワイトボードのクリーニングを終えた後、空はタブレットを開いて、

「日誌は入力しておくよ」

「じゃあ、わたしは教官室に持っていくから」

 日直には、その日提出期限の書類を、クラス全員から集めて教官室へ持っていく仕事があった。

「ありがと」

「行ってくるね」

 いずみは書類の束を持って、賑わしい廊下を通って階段を上がり、教官室へ入り、担任の宇多を探す。

「先生、提出書類全員分をお持ちしました」

 宇多は本人も苦手と公言するパソコンの画面を、難しい顔でにらみながらキーボードを叩いていた。

「ありがとう乙野さん」

 手を止めて、ため息をついて顔を上げる。

「ところで、もうこちらの生活には慣れたかしら」

 宇多はすわったままなので、いずみからは見下ろす形になる。

「はい、すっかり慣れました。学校も、寮にも、街にも」

「それはよかったわ。クラスにもすっかり溶け込んでるかんじね」

「そうですね、みんな、やさしい人ばかりですから」

「室内楽の方も順調みたいね、担当の先生がおっしゃってたわ」

「はい、仲良くやらせてもらってます」

「たしか先月は合宿したのよね、山の方で」

「有意義でした。練習も集中してできたし、みんなの事もよくわかったし」

「その前は繭山にも登ったって」

「ご存じでしたか、登山の事」

「そりゃ、みんなの見ている前を通って行ったんだから、いろんな人から目撃情報聞かされたわ」

「目立ってたんですね、けっこう」

「まあ、元々目立っている人もいるから。室内楽のメンバー、正直ちょっと心配だったけど、チームワークが育まれているのね」

「みんな、素敵な人ばかりですから」

 宇多は顔をほころばせて、いずみの手をとった。

「何より、乙野さんが学園生活を楽しく送っていることが素晴らしいの」

「ありがとうございます」


 いずみは日直の仕事を終えて、急いで練習室に向かっていると、棟の入口に杏子が待っていた。

「どうしたの杏子さん、こんなところで」

「いや、今日は遅くなるって連絡があったから」

 そうして、いずみの腕をつかんでぐいと引っ張った。

「ちょっとつきあってくれ」

 練習室棟の端にある階段の踊り場まで連れて行って、

「あの、なかなか言えなかったんだけど、いろいろ思うところがあって」

 少しはにかんだ様に、

「『カーザ・リエート』の練習合宿で、いずみさんのピアノ伴奏して、なんかこう、わたしの伴奏にチェロの音がちゃんと乗っかって、足し算じゃなくて、掛け算のようにふくらんでいくような感触」

 もどかしげに両手の指をからめて、

「朝の練習で、いずみさんと合わせた時、ちゃんとピアノのパートも読み込んでいて、二人で曲を作り上げる前提で話してくれた。それで、初めて分かったような気がする。いままでのわたしの演奏は、一人で先走っていってただけ。それはカルテットの中でも同じ。なんか、恥ずかしいけど、みんなにも、今までの伴奏者になんか悪い事してたなあと」

 やっと胸の内を明かせたのか、さっぱりと腕をおろして、

「だから、その、ありがとう。いろいろ」

「よかった」

 いずみはにっこりと微笑んだ。

「そうやって、感じて、言葉にしてくれるきょうた、いえ、杏子さんが素晴らしいと思う」

「ありがとう。で、今何か言った?」


 二人が、今日予約済みの部屋の前まで行くと、扉に耳をつけて佐紀がじっとしていた。不思議に思って声をかけようとすると、「静かにして」と指を唇に当てる。手招きをして、身振り手振りで同じようにしてと伝えきたので、佐紀をはさんで、いずみと杏子も耳をつける。中から多英一人の演奏が聴こえてくる。杏子は押し殺した声で、

「やっぱり上手いな」

「そうね」

 いずみもささやき返す。

「どうして人前で弾くことをあんなに嫌がったんだろう。試験とか先生の前で普通に弾いているのにな」

「ずっとヴィオラのコンクールに出場したことないみたいなんですよね、絶対に上位入賞できる力量なのに」

「もったいないなあ」

 三人は、頃合いを見て、ドアをノックした。扉を開くと、多英の演奏が止まっていて、なんだか我に返った顔をしている。

「ごめんなさい。みなさんがなかなか来なかったので、一人でちょっと弾いてました」

「いい演奏だった」

「やだ、聴いていたんですか」

「今の曲は?」

「レーガーの、組曲、無伴奏の」

「いい曲ね」

「もう一度弾いてくれないかな」

「ええまあ、いいですけど・・・」

 そうして、三人は多英の前に椅子を並べて、しばらくヴィオラが紡ぎだすメロディにうっとりして耳を傾けた。


第十章 タランテラ


 水曜日の午後、全学科の二年生の生徒は、通常授業がお休みになり、南棟にあるレイスヒルホールに集合した。すでに夏服に衣替えが終わった二年生全員が席に着くと、舞台に学年主任の先生が上がり、説明会が始まった。

「わが学園では、二年生の後期からオーケストラの授業が始まります。もちろん学内のオーケストラに参加できるのは、器楽科の生徒だけです。では、なぜ他の科も含めた全員ここにいるのかというと、無関係ではないからです」

 大きなスクリーンをレーザーポインターで示して、

「器楽科は学内オーケストラに参加して、大学の先輩たちとともに、リハーサル室、そしてこの舞台で経験を積みます。ピアノ科は、室内オーケストラとともに協奏曲を演奏します。声楽科は、同様に室内オーケストラとともにオペラのアリアを歌います。エンジニアリング科は、ホールの音響などの構造や、オーケストラの管理、コンサートの運営方法を学びます」

 学年主任は一旦言葉を切って、

「ここにいる全ての人が、オーケストラを体験するのです。その経験がこれからの音楽人生に役立つことは間違いありません」

 客席の反応に満足したのか、うんうんとうなずいて、壇上に並んだオーケストラの指導教官、レイスヒルホールの責任者、学生のコンサートマスターを紹介していった。それぞれの挨拶が終わると、

「それでは、次は科ごとに、詳細なカリキュラム説明をします」


 約一時間のオリエンテーションが終わり、生徒たちは、それぞれホールから外へ散って行った。いずみは、最近そうであるように、なんとなく、杏子、佐紀、多英と集まる。

「オーケストラかあ。あるのはわかってたけど、いざ始まるとなるとなんだか緊張する」

「まだ先だぞ。それにオーディションもあるしな、参加できるかどうか」

「むー、基本全員参加でしょ。コンマス狙っているわけじゃないし」

「そう怒るなよ。少なくともヴァイオリンはファーストとセカンドに分かれるからな」

「席順もそれで決まるし。途中で変更はあるんでしょうけど」

「ああもう、そういう話は、秋になったら考えますって」

「そうですね、今から悩んでも早すぎますし」

「そうだよね、多英さん。わかってる」

 佐紀は多英の腕にしがみつく。

「この後どうする。次の授業まで時間があるけど」

「わたし、パイプオルガンを近くで見たいなと思って」

 いずみが、客席から見て右上を指さした。何百本の銀色のパイプが立ち並んで、その前には演奏台が見える。

「そうか、美称音の生徒は入学したらすぐに学内の見学ツアーがあって、パイプオルガンも班分けされて試し弾きしたりするんだが」

「繭山登山と同じだね」

「ピアノ科でもない限り、なかなか見る機会はないなと思って、先生には許可をもらったの」

「ピアノ科は、立ち入り自由らしいですけど、器楽科には縁がないですからね」

「じゃあ行きますか」


 四人は一旦ホールから出て、通路を回ってバックヤードに入り、暗い階段を登る。パイプオルガンの演奏台へ出る扉に近づくと、話声が聞こえた。演奏台に何人か先客がいるようだった。杏子が扉を内側に開こうと、取っ手を握った手が止まった。

「最近、なんだっけ、3組の紺っていう子」

 思いがけなく、佐紀の名前が出たからだ。

「ほら、金魚のなんとかみたいに、1年の時からヴァイオリンの和亜さんの後くっついてたちっちゃいメガネの子」

「あ、わかる」

「和亜さんって、コンクールとかで有名な人ね」

「最近は、転校してきたチェロの人、乙野さん?」

「『猛獣使い』の?」

「そう、その人とかともつるんでるようだけど、調子乗っているよね」

「室内楽の授業の?」

「そうそう、自分は低レベルのくせに、親のコネで入学できたのに」

「そうなの」

「知らなかった?有名だよ、親の会社は昔から美称音にけっこう寄付してるからって」

「へえ、そうなんだ」

「室内楽のグループ決めで、誰からも声かからなくてさ、それを親のコネで、優秀なメンバーの中に押し込んだって話」

「その人ら優秀なの」

「そうだよ、ヴィオラの人も成績優秀らしいから」

「それずるいー」

「むかつくー」

 ケラケラと笑う声が、扉を通して響いてきた。口を真一文字に結んだ杏子が扉をあけようとすると、先に多英が飛び出した。

「あやまってください」

 握りしめたこぶしをを震わせて、いつもの多英が見せたことのない権幕だった。手鍵盤の前で、三人があっけに取られた顔をして立ちつくす。

「お前ら、ピアノ科の生徒だな。たしかその顔には見覚えあるぞ。同じ中学だったな」

 あとから出てきた杏子が指を突き出す。話を主導していた真ん中の茶髪ロングの派手目の生徒は顔色を変える。

「あ、和亜さん、えっ。なんで」

「あやまってください。佐紀さんに」

「なんの話なの。だれよあなた」

「紺佐紀さんは、そんな人じゃありません。音楽にまっすぐな人なんです。真剣に音楽に取り組んでるんです。そんな人を憶測で貶めることはやめてください」

「全部聞こえたんだ、そこで」

 杏子が腕組みをして仁王立ちする。

「か、和亜さん、そんなつもりじゃ」

「こんにちわ、チェロの乙野もいますよ」

 いずみはひょこっとにこやかな顔を出すが、目は笑っていなかった。三人の顔はますます青ざめていく。

「あやまってください」

 多英はさらにたたみかける。

「す、すみませーん」

 三人は小声でつぶやきながら、頭を下げて小さくなって、こそこそと間をすり抜けて逃げていった。

「まったく、こんな場所で何をやっているのやら」

 黙ったままだった佐紀は、一直線に多英に向かっていき、抱きついた。

「ありがとう、多英さん」

「いえ、あの」

 我に返った多英は顔を赤くして、

「すみません、つい我慢できなくなって。どうしても許せなくて」

 佐紀は一層強く抱きついた。

「多英さんにあんな一面があるなんて意外だったな」

「取り乱してしまって、すみません」

「いや、多英さんが怒らなかったら、あいつらをまとめてここから突き落としていたもしれない」

「杏子さん、武闘派だなあ。まあ、ああいう人たち、ちゃんと反省してくれたらいいんですけど」

「佐紀、気にすんな」

「勝手に言わせておきましょう」

 多英の腕の中で、佐紀は小さくうなずいた。


第十一章 ノットゥルノ


 放課後の練習を終えたいずみは、学校の正門前にある路面電車の駅で、一人で上り電車を待っていた。杏子と多英は方向は逆だがそれぞれ徒歩で帰り、佐紀は知華が運転する車での送り迎えだ。到着時刻直前になって、息せき切ってかけてきたのは、宮野五月(みやの さつき)だった。

「間に合ったー」

 電車に乗り込んで、ロングシートにどさっと腰を下す五月。膝の上にミント色のフルートケースを置く。その横にいずみはゆっくり座る。

「ぎりぎりだったね」

「教官室でつかまっちゃって。これ逃すと夕食に遅れるかもしれないから、必死だったよ」

 クラスは違うが、同じ牟鹿寮に住む二年生。部屋はいずみの真向いで、性格はいつも朗らかなので、すぐに仲良くなった。

「いずみちゃんは、室内楽?」

「そう、ぎりぎりまで練習してたから」

「授業は明後日か。ちゃんとさらっておかないとね。指導教官にまたちくちく言われる」

「五月ちゃんは、管楽アンサンブルだよね」

「そうだよ、木管五重奏」

 木管五重奏は、木管楽器のフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットに、金管楽器のホルンを加えて編成だ。

「曲はニールセンのだっけ」

「そうそう。オーボエが大変だけどね。わたしは『猫たちの一日』って曲推したんだけど、却下。まあ当然なんだけど。フルートはけっこう長時間吹いていられるんだけど、他の人はそうはいかから、練習のペースを合わせるのがなかなか」

 フルートケースには、白猫がフルートを吹いているバッグチャームがついている。

「それ、かわいいね」

「そうでしょ、この間、ヌオーヴォガレリアであったハンドメイドのイベントで買ったの」

「こまっちゃんと一緒にいったんだっけ」

「そうそう、で、いずみちゃんのは何?」

 指さしたのは、チェロケースの取っ手から下がっているマスコット。

「これ?青龍、青いドラゴンだよ」

「ひょっとして、いずみちゃんってそういう趣味?」

「ちがうよ、ちがうよ、カルテットの仲間のあかし」

「あかしって、ますますそれっぽい」

「このこもかわいいでしょ」

 ふたりがおしゃべりしているうちに、寮のもよりの駅に着いた。路面電車の駅から寮までは、住宅街の中の道を抜けていく。歩きながら、相変わらず話していると、五月が不意に立ち止まった。

「今、猫の鳴き声しなかった?」

 太陽は繭山の後ろに隠れたとはいえ、まだ明かりは残っている。あたりを見回すがそれらしい影もなく、声も聞こえない。

「確かに、声は聞こえたよ。子猫のような」

「いずみちゃんも聞いてたんなら、空耳じゃないよね」

 しばらく、二人はそこに立ったままでいたが、夕闇せまる空の下、静かなノイズ以外は、何も聞こえなかった。

「おかしいなあ」

 二人は家と家の間のすき間や、植え込みの中とか、あちこちを探したが、声の主はみつからなかった。

「声は一匹だけだったんだけど」

 五月は、猫の声真似をしてみたが、反応はなかった。

「とりあえず帰ろうか。もう夕食の時間だし」

「仕方ないね」


 寮の夕食は夜の七時からと決まっているが、寮生全員が揃うことはあまりない。その日は、半分ぐらいの人数が食卓についていた。席順に決まりはなく、ダイニング・ルームに入っていた順に、それぞれがキッチンカウンター越しに本日の料理をトレイに載せて、自由に座るルールになっている。

 いずみと五月は、制服姿のままダイニング・ルームにかけ込んできた。寮長の円の前に立って、

「急な話なんですが、食事の前に、外出の許可を下さい」

「あら、どうしたの。どこかへお出かけ?」

 いずみは手短にさっきの出来事を話した。

「不思議な話ね。そもそもこのあたりには、野良猫なんかいないし、子猫が生まれるはずはないし」

「猫を飼っている家で生まれたかもしれないけど、子猫が外に逃げられるとは思えないしね」

 妹の環も首をかしげる。

「捨て猫かしら。条例が厳しくなって、最近はほとんどないって聞いたけど」

 円はほほに手を当てて、

「二人が聞いたのなら、聞き間違いってこともないでしょうから。今夜雨が降るっていう予報もあるし、心配よね。許可するので行ってらっしゃい」

「ありがとうございます」

 すると同じ二年生の瑚真知と千夜も心配そうに円の前にやってきた。

「わたしたちもいっていいですか」

「探すなら人数は多い方がいいわね。後から追いかけるわ。瑚真知ちゃんと千夜ちゃんは、早くご飯を食べてしまって。わたしと一緒にいきましょう」

「わかりました」

「それでは用意してきます」

 いずみと五月は急いで部屋に戻って着替えると、子猫捜索の準備を始めた。


 二人は、寮に備え付けのハンディライトと古いタオル、洗濯ネットを持って、念のために手袋をして外へ出た。すっかり陽は落ちて、街灯と門灯が道を照らしていた。先ほどの場所に近づくと、白色の街灯の明かりの中に、白い中型犬がうずくまって、首輪についたリードを必死にひっぱっている中年女性がいた。

「あの、どうされたんですか」

「この子がいきなりここに寝そべって、てこでも動かないのよ。こんなこと今までないのに」

 女性は物々しい二人の様子を見て、

「あなたたちはどうしたの」

 いずみが理由を説明すると、

「子猫の声ねえ。聞かなかったけどねえ」

 白い犬はなおも動かないどころか、じりじりを匍匐前進をして、側溝の蓋のすき間に鼻ををつっこんで、うなり始めた。

「もしかしたら」

 いずみはその蓋に手をかけたが、重くて持ちあがらない。五月も加勢したが、びくともしない。そこへ、井江姉妹率いる後発隊が到着。中で一番体格のいい都樹が状況を察知して、

「ちょっと待ってって」

 妃頼と一緒に寮へ一旦引き返して、長くて黒いバールを持って来た。バールの先をすき間に差し入れて、みんなで体重をかけると、ようやく蓋は持ち上がった。五月が側溝の中を照らすと、白い子猫の姿があった。犬は喜んだように吠える。ただ、わずかに体を震わせるだけで、力なく横たわっていた。

「わたしがやるわ」

 円は側溝に降りて、五月からタオルを受け取ると、ゆっくりと子猫を包み込んで抱き上げた。そして、環が両手に持って待ち構えていた小型の段ボール箱にそっと入れる。側溝の縁に手を掛けて、体を持ち上げて出てくると、

「水がたまっていなくてよかった。でも、かなり弱っているわね。ケガしているかもしれない。すぐに寮に連れて帰りましょう」

 その頃には近所の人たちが大勢出てきていて、外した蓋はみんなで協力して元に戻した。

「ワンちゃん偉いね」

 いずみと五月はその犬の頭をなでると、口を開けてぶんぶんと大きなしっぼを振った。

 寮に戻った円は早速知り合いの保護猫シェルターの方に連絡を取り、翌朝獣医につれていってもらう約束をした。子猫の世話は、五月には経験があるということで、自分の部屋で一晩することになった。

 次の日、子猫はシェルターの方に引き取られ、無事に元気を回復したとの事だった。


 雨の週末、いずみと五月、そして瑚真知と千夜の四人は、円と環の部屋でのお茶会に呼ばれていた。今回は寮長の円みずからリーフティーをふるまった。

「雨の日は、アールグレイが合うと思うのよね」

 白地に赤い円模様のティーカップの横には、スコーンにクリームとジャムがそえられた小皿が置かれている。

「ネコちゃんの救出、大活躍だったよね。ありがとう」

「いえ、それより、円さんと環さんが保護猫活動にかかわっていたなんて知りませんでした」

「かかわってるって程じゃないわ。ちょっとお手伝いしているだけよ」

「まあ、わたしたちは猫に育ててもらったようなものだから、恩返しかな」

 環の言葉に驚く四人。

「大げさでもないのよね。二人が生まれた頃、両親は仕事が忙しくて。赤ちゃんだったわたしたちを見守って、あやしてくれたのが、大きなサイベリアンだったの。とっても穏やかでかしこかった」

「二人がささいなことでケンカしていると、間に入ってきて仲裁したり、泣いているといつのまにか横に座って寄り添ってってくれたり」

「わたしたちが両親に怒られると、もういいでしょとかばってくれたり、悩みがあったりして相談するとずっと静かに聞いてくれたり」

 円と環は、遠くを見るような目で、思い出を語った。

「それでこの寮に入ったら、昔から猫が必ずいるって、何かの縁を感じて」

 二人の膝には、それぞれ猫が乗っかっていて、額をなでられて、尻尾を丸めて目を閉じて気持ちよさそうにしている。円の膝には黒猫のジーシャがいて、喉をグーグーを鳴らしている。環の膝にはグレイのリーヌで、こちらはバリバリと鳴らしている。

「猫が喉を鳴らすのを『ゴゴゴロ』って表現しますけど、実際は個性バラバラですよね」

「五月ちゃんは猫を飼ってらしたのよね」

「今も実家にいますけど、なかなか会えないですね。子猫の時に拾ってきたんです」

「白猫?」

 いずみは、五月のバッグチャームを思い出して言った。

「そう、わかるよね、やっぱり。あの子猫見た時、なんか思い出しちゃって」

「あの夜、本当に心配そうだったものね」

「いずみちゃんもこまっちゃんもずっと部屋にいてくれたじゃない。一番心配していたのは千夜ちゃんかも」

「そんなことないって」

「またまた」

「元気になってよかった。結局、どこから来たのかは分からないままだけど。迷子猫の情報もなかったし」

「お医者さんによると、体に傷があったので、ひょっとしたら猛禽類につかまって、どこからか運ばれてきた可能性があるかもって。無事でよかった」

「外は危険がいっぱいですもんね、特に子猫にとっては」

「これから里親さんを探さないといけないんだけど、あの時、お手柄の白いワンちゃんを連れていた奥様から、ぜひ引き取りたいって申し出があったそうなの」

「それはいいですね」

「あのワンちゃん女の子だそうだから、子猫ちゃん大事にすると思うわ」

「じゃあ、この近所なんで会いにいけるかもですね」

「幸せになって欲しいですね」

「きっと大丈夫。あんな優しいワンちゃんなんだから、そのおうちの人も優しいと思うわ」

「そうね、きっとそう」

 二人の会話を聞いていると、二年生たちはいつも気持ちがほんわかしてくるのだった。

「いずみちゃんは、ここでの生活はもう慣れた?」

 円はおだやかに問いかける。

「はい、もうすっかり。寮も学校も、この街も」

「それはよかったわ」

「いや、いずみちゃんはそれ以上でしょ。ヌオーヴォガレリアの人らともすっかり仲良くなって。一緒に行ったときびっくりしちゃった」

 五月は心底感心したように言う。

「そうなんですよ、お店の人の名前とか、全部覚えているんですよ」

 瑚真知も同調する。

「それは頼もしいわね」

「そんな、皆さんによくしていただいているだけです」

 いずみはちょっとだけ首をかしげて、

「ひとつだけ、困っているって訳でもなんですが」

「何かしら」

「室内楽の授業、わたし室内楽は初めてで。最初は距離感というのか、そういうのが難しくて。まとまらないといい演奏にならないし、じゃあどこまで踏み込んだらいいのかなって。」

「五月ちゃんはそういう悩みはないの」

「管楽器は、ほとんどが小学生ぐらいから、金管バンドや吹奏楽で、合奏するのがあたりまえでしたから。たしかに弦の人らは、ソリスティックというか自己主張がはげしい印象はありますね。管にもそういう人はいるけど、少数派かと」

「環とのデュオは、言わなくてもわかることはあるけど、それは特殊よね」

「生まれてから、同じ時間を過ごして、同じ物を見てきたから、それはそうなるわね」

「ソリスティックなら、ピアニストの方が多いでしょうね、千夜ちゃん」

 物静かな千夜は、ゆっくりと口を開いた。

「基本、一人で完結していますから。わたしもそうだったし、小学校の時クラス合唱で伴奏させられたときは、正直苦痛でした」

「そうだったの」

「でも高校に入って、先輩お二人が弾いているの聴いたり、二年になって室内楽の授業が始まって、ピアノ三重奏なんですが、ヴァイオリンとチェロの人と一緒に演奏すると、視野が広がったというか、考え方が変わってきたかなって」

「それはよかった」

 円と環は微笑んだ。

「瑚真知ちゃんはどうかな」

「五月ちゃんとおんなじで、アンサンブルが基本みたいな。そもそもチューバはソロが少ないので。まあそれが魅力なんですけど」

「いつも何を心がけてるの?」

「基本、縁の下の力持ちですから、高音パートを目出たせるにはどうしたらいいかって考えてます。そのために、他のパートの音は絶対に聴くようにしてます」

「素晴らしい心がけね」

「低音パートには感謝してます」

 五月は瑚真知に両手を合わせる。そして、いずみに向いて、

「いずみちゃんは、チェロだもんね。カルテットの中ではみんな支える立場だし」

「そんな自覚はないけど、ただ、三か月程度しかたっていないけど、それなりにコミュニケーションはとれてきたし、演奏もよくなってきたと思うんです。それぞれ考え方が違うのは当たり前で、それをお互いに調整しあって、いい方向に向けていけてるなって。だけど、」

「だけど?」

「関係が深まればそれだけ、相手の事が分かってきますけど、それぞれが抱えている悩みもわかってくるじゃないですか。それをどうにかできるならしてあげたい。そう思いますよね」

「それはそうね」

「でも、本当の悩みが何かはなかなか分からない。無理に聞き出すことでもないですし」

「そういう人がいるってことなのね」

 円の問いに、いずみはまっすぐ答えた。

「はい」

「それは、たぶん信頼じゃないかな。信じてもらうことだと思うの。そして、いずみちゃんもその人を信じること。そうしたら、自然にわかってくると思うの」

「そうですね。わたしも信じないといけないですね」

 いずみはうなずいた。

「旅に出るのもいいのかもしれないね」

 唐突な、環の謎のような言葉に、いずみは聞き返した。

「旅に出るってどういうことですか?」

「ほら、仲間と旅をすると結束が強まるっていうでしょう。つまり、外に出ることじゃないかしら」

 環はポケットからスマホを取り出して、画面を見せた。

「これね。ダイニング・ルームにフライヤーがあるから、持って行ってみたらどうかな」

「そういう事ですか」

 膝の上の猫たちは、大きなあくびをして、トンと床に飛び降りると、尻尾を立ててのびをして、ゆっくりとテーブルの下に入って、足元にごろんとなった。

 四人は手を伸ばして、ジーシャとリーヌお腹をなでなでする。


第十二章 ディヴェルティメント


「このイベント出てみませんか」

 放課後、いつもの四人での練習が終わった後、いずみは一枚のフライヤーを三人の前に差し出した。

「カナル・フェス?」

「毎年あるそうですね。その中のアマチュアバンドのコンテスト、これに出るのはどうかなって」

「水際公園のイベントだね。中学の時の知り合いが去年出てたな」

「寮の先輩に相談したら、アンサンブルの結束を高めるためには場数を踏んだ方がいいって。かといって、弦楽カルテットで出られるとこってなかなかないし、こういうのならどうかなって」

「去年、声楽専攻の先輩たちがポップス曲のアカペラ・コーラスで出たって聞いたことあるよ」

「日頃練習している曲やるのはNGだけど、ポップス系なら学校の許可も出るんだって」

「勝手に演奏動画アップしたら処分対象なのに、こういうのはいいんだ」

「なんでも、地元貢献の一環だそうで」

「夏の音楽祭に比べたら規模は小さいけど、地元密着ってことだな」

「敷居は低いかもね、おもしろそうだけど、でも」

 佐紀は杏子をちらっと見て、

「杏子さんはこういうのは・・・」

「いいんじゃないか、度胸をつけるにはアウェイでやるのが一番いい」

 杏子の視線の先を追って、何か察したようで、

「あー、わたしも出てみたいな、ほら、」

と早速タブレットで検索結果の画像を見せて、

「去年の先輩たち、きらきらっの衣装で出てるよ。制服じゃなくていいんだ。わたしもこういうの着てみたいな」

 佐紀は黙っている多英をちらっと見る。

「演奏時間はセッティングから退場まで十分以内ですから、曲は五分程度。練習もそんなに負担にはならないでしょう。わたしたちはPAいらないですし」

 多英は、フライヤーのエントリー要項を見て、たんたんとしゃべる。

「ただ、J-POPを弦楽カルテットで演奏する、インストルメンタルでは受けは悪いでしょうねえ」

「じゃあどうしたらいいと思う、多英さん」

「そうですね、やはりヴォーカルがあった方がいいかと」

「じゃあ、ヴォーカルは佐紀だな」

「わたし?なんで?」

「最終目標は歌って踊って弾けるアイドルだろ」

 多英は熱心にタブレットを操作して、何かを見つけたようで、

「こんな曲はどうでしょう」

 スピーカーの電源を入れて、ワイヤレスで接続した。

「『魔法使いは頑張らない』っていうアニメのエンディングです」

「あ、わたしカラオケで歌ったことある」

「『天使のパレット』という曲なんですが」

「魔法使いで天使って、真逆じゃないの。どういうコンセプト?」

「たしか前にどこかで情報を見たことがあって、バックが弦楽三重奏なんです」

 弦楽三重奏は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの編成で、弦楽四重奏よりヴァイオリンが一つ少ない。流れてきた曲に、佐紀は歌詞を口ずさむ。

「実はこの曲、元はモーツァルトのディヴェルティメントなんです。だから記憶に残っていたわけで。楽譜のリンク送りますね。それを伴奏にして、その上に別のメロディをのっけているんです」

「グノーの『アヴェ・マリア』みたいなものか」

「そうです、それはバッハの前奏曲が元ですよね。こういうのは他にもあるみたいですが」

「おもしろいですね、そういうの。主旋律に歌詞をつけるんじゃなくて」

「モーツァルトだったんだ、知らなかったなあ」

「バックの弦楽三重奏はそのまんまだな。全部使っている訳じゃないが」

 杏子が楽譜を見ながら確認する。

「演奏時間的にもいいんじゃないでしょうか。佐紀さんがヴォーカルで、あとの三人が弦楽三重奏で」

「まあ、まほがん、あ、これ『魔法使いは頑張らない』の略称ね。去年けっこう人気だったし、知っている人も多いかも」

「じゃあ決まりですね。早速学校の許可申請します。許可が出たらエントリーします」

「衣装はどうする?」

「メインは佐紀さんだから、着たいのがあればそれで」

「まあ、ない事もないけど。で、みんなは?」

「目立たないのでいいんじゃないですか。何なら被り物でもいいし」

「じゃあ、わたしが考えてもいい?まほがんのキャラはちょっとアレだし」

「アレって?」

「ちょっと風紀上の問題があるというか」

「じゃあ、おまかせします」

 急な展開でわくわくしてきた佐紀だったが、あれこの話って、多英さんのあがり症克服プロジェクトだって、いずみさんこっそり言っていたのに、という疑問は消えなかった。多英がすんなり受けたことが意外でもあった。

「エントリーですけど、グループ名決めないといけなんですが、何かアイディアあります?」

「佐紀とその仲間たち、でいいんじゃない」

「杏子さん、それ適当すぎます」

「多英さん、何かアイディアある?」

「ええと、曲の内容的に、魔女、ウィッチだから、ウィッチ・カルテット、とかどうでしょう」

「それいい。神獣使いの魔法少女たちって。衣装もそのコンセプトで決めるから」

 佐紀の頭の中には、魔法使いと天使のイメージどちらが優先すべきかという別の疑問が浮かんでいたのだった。


 それからは、練習を学校でやるわけにはいかなかったので、個人で練習した後、カラオケBOXで何度か合わせる。前日のリハーサル、四人は佐紀以外それぞれ楽器を持ち寄って会場に集合。服装は、校則通りに制服。ステージ衣装に着替えられるのは、本番のみと決められているからだ。

「それじゃ、ウィッチ・カルテットのみなさんお願いします」

 スタッフに促されて四人は舞台に出る。佐紀だけがセンターマイクの前に立ち、後の三人は後方で控える。

「そろそろ始めるぞ」

 杏子が声をかける。

「はい」

 最初に佐紀のMCの段取りになっている。スタンドからマイクをはずして、

「あーと、えーと、」

「おちつけ佐紀」

「わたしたち、ウィッチ・カルテットです。日頃は世を忍ぶ仮の姿で、美称音学園の学生やってます。それでは聴いてください。『天使のパレット』です」


 リハーサルはなんとか終了した。

「毎年、美称音学園の生徒さんは参加してくれてありがたいですよ。ほとんどが中高年世代のバンドばっかりなもんで」

 イベントの舞台責任者の遠澤久(とおざわ ひさし)は、首にかけたタオルで額の汗をぬぐいながら近づいてきた。

「ごくろうさまでした。いやー、よかったですよ。演奏曲聴いて、スタッフのアニメファンの子らが『おおっ』って盛り上がってましたから」

「ありがとうございます」

「遠澤さんは、「鳳凰座」の支配人もやられてるんですよね」

 すでに面識のあるいずみは声をかける。

「そうだよ、そうか、ウィッチ・カルテットのイベントもありか、いや学校が厳しいか」

 その時、遠くから遠澤を呼ぶ声がした。

「きゅーちゃん、いまリーススタンドが届いたけど、設置場所はどこなの?」

「はいはい、今行きます。じゃあこの調子で明日もよろしく!」

「よろしくおねがいします」

 かけていった遠澤の背中に、四人は頭を下げてから控室に戻る。

「あー、緊張した」

「客席は誰もいないのにか」

「だって、マイクもってしゃべらないよ、ふだんは」

「そりゃそうですね。無言で出て無言で下がるのがわたしたちのスタイルですからね」

「いずみさん、MC代わってよ、このあいだの、『カーザ・リエート』の時の、めちゃ上手かったじゃない」

「あれは座ったままだったし」

「ヴォーカルなんだから、佐紀の役目だろ」

「それはそうなんだけど、手に楽器もってないと、無駄に緊張するから。本番はヴァイオリン持ってこようかな」

「どうやってマイク持つんだ」

「ああ、そうか」

 いずみは、黙ったままの多英が気になって、

「多英さん、大丈夫?」

「ええ、まあ、今日はほぼ無人でしたから」

「明日は大丈夫なのか」

「それは、佐紀さんに用意してもらっているので」

「え、いったい何を?」

「ふふふ、それはお楽しみ」

「そういえば、佐紀、明日の衣装どうなっているんだ。体のサイズは計られたけど、今日まで何も話ないが」

「ふふふ、それも当日のお楽しみ」

「何をたくらんでいるんだ」

「ふふふ・・・」


 カナル・フェス、アマチュアバンド・コンテストの当日になった。

「こんなの着られるかよ」

 杏子の声が控室に響いた。

「だって、衣装はわたしにまかせると言ったじゃない」

「確かに言ったが、こんな真っ白でフリフリで派手なリボンがついたの。魔女といったら黒色だろ、基本。おまけに真っ白なウィッグまで。黒のとんがった帽子じゃないのか」

「この衣装とかどうやって準備したの、佐紀さん」

「全部レンタルだから、そんなに気にしないで。まあ、わたしのが一番地味かもしれませんけどら」

 持ち上げたそれは、たしかに黒一色だが、光を反射してキラキラしている。

「それぞれ、色はちがうけど形はいろんな魔女っ子キャラのオマージュだから、分かる人には分かるし、そうでない人にも一目で魔女ってわかるし」

「だからって、こんな派手な」

「杏子さん、約束は約束だし、もう他に着るものないし」

「わかっているけど、穴があったら入りたい・・・」

「大丈夫ですよ、仮面をつけるんで、誰だかはわからないですよ」

 多英が、赤いマスクを顔に当てた。

「そうなの、多英さんからのリクエストで、顔がわからないようにして欲しいって。わたしはつけないですけどね。ただしメガネはいつものとは違う黒枠です」

「まあ、しょうがないのか・・・」

「衣装が人の気分を変えるそうですから、いつもとは違う演奏ができそうですよ」

「いずみさん、けっこう前向きね」

 すでに全身ブルーの衣装に着替えていて、右手には指先のない青いグローブをつけている。

「はい。今回、チェロを立って演奏するのも初めてなので、チャレンジなんです。古楽でも座って演奏するのが普通なのに」

「そうか、じゃあ、わたしもチャレンジしてみるか・・・」


「それでは、次はウィッチ・カルテットのみなさんです。どうぞ」

 司会者の呼び込みで、拍手の中、四人は野外ステージに進みでた。会場はほぼ満員。前のバンドの盛り上がりで、ざわめきは収まっていない。佐紀はマイクを手に取って、

「みなさん、はじめまして。わたくしたち、四人でウィッチ・カルテットです。カルテットって四人組って意味なんです。日頃は世を忍ぶ仮の姿で、某美称音学園の生徒やってまーす。今日は魔女の姿に戻って演奏させてもらいます」

 ここで会場から、声がかかった。佐紀は推し活うちわが振られている方向に手を振って、

「応援ありがとうございます。それでは聴いてください。アニメ『魔法使いは頑張らない』のエンディング曲、『天使のパレット』です」

 杏子のヴァイオリンで前奏が始まり、すぐに多英のヴィオラといずみのチェロが加わる。佐紀は、すっと一息吸い込んで、マイクを握りしめる。


 アクアマリン アザレア アンバー インディゴ

 ウィスタリア オーキッド カーマイン クラレット

 クリムソン コパー サンフラワー シアン

 ジェード ジョンブリアン スプルース スマルト

 セラドン テラコッタ トープ ナスタチウム

 バーガンディ バーミリオン バーントシェンナ ピオニー

 ビリジャン フクシア ベルフラワー マゼンタ

 マロ― モーブ ラピスラズリ ローシェンナ

 天使のパレット 全部まぜたら ブラック ノワール シュヴァルツ

 魔法使いの世界へようこそ


 あおに あさぎ いまよう うこん うつぶし おうち おとめ おもい

 かりやす かれの かんぞう きくじん きなり きゃら くちば こがれこう

 ごふん さいたづま しののめ すおう すすたけ そお ちょうじ つぎはなだ

 とくさ とりのこ ひそく ふたりしずか まそお みつだそう もえぎ るりこん

 天使のパレット 全部まぜたら ぬれば ぬばたま びんろうじ

 魔法使いの世界へようこそ


 この演奏の動画が、イベントの公式チャンネルで公開されて、評判になるとは、誰も予想していなかった。


第十三章 アルマンド


 最高気温が三十五度を超えた昼下がり、放課後になって四人は学内にある冷房がよく効いたラウンジに集まり、夏休み中の練習計画を検討することになった。

「休み中の練習はどうしましょうか。練習室は平日朝九時から夕方六時まで使えますが」

「週に複数回は集まりたいとこだが、いろいろ予定もあるだろうしな」

「学校のグループウェアに、みなさん夏休み期間中のスケジュールはいれてますか?」

「ちょっと待って、まだ未入力のがあるから」

 いずみがタブレットを操作する。

「はい、みなさんにスケジュールを入れてもらったので、練習可能な日は自動で調整できました。最大七回ですか。練習室の予約にインポートしましたけど、あとは抽選に当たるかどうかですね」

「そんな便利な機能があるのか」

「杏子さん、機械苦手だし」

「普通には使えるぞ、多英さんがすごいだけだ」

「いえ、マニュアル通りやっているだけですから」

「それが出来ないんだって、普通は」

「杏子さん、マニュアル読まないタイプだもんね」

「いいんだ。生身の人間が楽器を弾くなんて、アナログの極みだろ」

 杏子は横を向く。いずみは、生徒たちでにぎやかなラウンジを見渡して、

「学園の人たちは、夏休みどうしてるんですか」

「基本わたしらに休みはないからな」

「そうですね、授業の課題は夏休みに集中して取り組みのが前提ですし」

「まあ、コンクールの準備とか出場したり、海外へ短期留学するものいるな」

「エンジニアリング科の人は、将来の就職を考えてインターンシップに参加って言ってた」

「音楽には休みはないんですね」

「あれも選択肢の一つだな」

 杏子が指したのは、掲示板に貼られた、この夏開催される「テティス国際音楽祭24th」のポスターだ。

「今年も八月中旬の三日間ですね。今回のテーマは『フロンティア』で、ヨーロッパの、東欧、北欧、英国の音楽を取り上げることになっていますね。国内外の演奏家やオーケストラ、地元の市民や学生のコンサート、イベントが、街中の音楽ホールで行われるんです」

「大きな規模の音楽祭なんですね」

「いずみさんは初めて?」

「はい、名前だけは聞いたことありましたけど」

「この学園もけっこうかかわっているからなあ。それでこの夏忙しい人もいるはずだ」

「有名な人が演奏するだけじゃなくて、公開レッスンをしてくれるので、それに参加する人もいますね」

「それで、わたしはずっと寮です。そのミュージックキャンプに参加する予定というか、受講生じゃなくて、師匠が講師として来るので、お手伝い。だから準備もしておかないといけないし」

「師匠って、前に話していた?」

「そうなんです。久しぶりに会えるんですが」

「師匠はコンサートにも出るんだね」

「公開レッスンの後、エルガーのチェロ協奏曲、弾くそうです」

「はい、わたし絶対聴きに行きます。何をおいても行きます」

「それはわたしも聴きたいな」

「わたしも、わたしも」

 佐紀も手を上げる。

「美称音生枠があるので、三席確保ですね」

「他にはどんなのがおススメ?」

「注目は、ドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』ですね。美称音の声楽の人たちが、合唱に参加するそうです。もちろん高等部も。担任の宇多先生が指導していて、チェコ語が大変って言ってました。めったにない演目なので、絶対観たいなって思ってます」

「オペラかあ、あんまり得意じゃないか」

「今年のテーマの『フロンティア』、ヨーロッパのどっちかというと、周辺国の、って事でしょう。多英さん、好みだよね」

「はい、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、チェコ、ハンガリー、夢みたいです。特にイギリスのプログラム楽しみで。去年もそうでしたけど、できるだけたくさん行くつもりです」

「美称音生は割引あるからなあ」

「はい、助かってます」

「他の日はどうするの?」

「八月の最初に、一度帰省します。親類の集まりがあるので。後は学校で練習です」

「わたしは、練習で学校来る以外は、ほぼ毎日お稽古事とレッスン。八月になったら親戚回りしないといけないし。全然ゆっくりできないよ」

「お稽古事って、音楽以外もあるんですか」

「そう、お茶、お花、ダンスとフィットネス、ヴォーカルトレーニングもあるけど」

「めちゃめちゃハードですね」

「ねぇ、海に行こうよ。いずみさんにきれいな海みてもらいたい」

「そんな暇あるのか」

「ない、全然ない。でも、夏休みの後半は、家族で海外行く予定」

「どこ行くんですか?」

「今年はヨーロッパ」

「このセレブめが」

「オペラも観劇してきます。おみやげ買ってくるね。何がいいかな」

「そんなの気にしなくていい」

「杏子さんはどうするんですか?」

「わたしは前についていた先生が、2年振りに帰国するんで、レッスンを受ける予定。どっちかというと、怒られに行く方が近いかも。だから、夏休みに入ってすぐ、三週間ぐらい家を空けるかな」

「じゃあみんなと会えるのは、学校での練習ぐらいですね」

「いずみさん、さびしい?」

「はい、さびしいですね」

「もう、そんなマジに返さないでよ。さびしくなっちゃう」

 佐紀は泣きまねをする。


第十四章 フォルラーヌ


 夏休みに入っても、いずみは相変わらず寮と学校を往復する毎日だった。その日も朝早くから寮を出て、学校の練習室にこもって授業や公開レッスンの課題に取り組んでいた。

 お昼になり、校内のレストランでクラスメートたちとランチを食べていると、カフェ・セビリアのマスターから連絡があった。今日の午後、時間はあるかという問合せで、寮に戻るつもりだったと答えると、午後三時にヌオーヴォガレリアにあるレストラン星霜庵(せいそうあん)に来てもらえないか、とても重要な話があるということだった。いずみは、寮へ帰る途中なので、一旦戻ることなく、制服のまま、チェロを抱えて、直接行くとこにした。


 路面電車のヌオーヴォガレリア北口の駅で降りて、すっかり慣れ親しんだアーケード街を歩いていく。制服姿は何度目かだが、チェロを持っては初めてだ。街の人たちは、珍しがって声をかけてくる。「おとのいずみ」がある三叉路を右に行くとカフェ・セビリアだが、レストラン星霜庵は、左側の通り沿いにある。こちらも同じようにアーケードが続いているが、床は白っぽいタイルに変わる。すぐに左手に「星霜庵」の看板があった。入口には「準備中」の札がかかっていたが、かまわずに扉を開く。セビリアのマスターが出てきて、

「こっちこっち、奥の席だよ」

「今はお昼休みなんですね」

「そうそう、アイドルタイムっていってね。わざわざすまないね、学校帰りに」

「いえ、丁度帰るところでしたから」

「それはチェロだね」

「はい」

「重くないのかい」

「もう慣れてますから」

 案内されたのは、レストランの奥にある、六人掛けのテーブル席で、すでに四人が座っていた。中の三人は顔なじみの、楽器店ツインツリーの神保と、エスニック雑貨店ヘテロフォニーの店主、西表秦乃(にしおもて はたの)、そしてイベントスペース鳳凰座の支配人の遠澤で、挨拶しあう。

「私ははじめましてよね」

 恰幅のいい女性が立ち上がり、手を差し出す。

「ここのオーナーの射手田香代(いてだ かよ)です。四人の中で一番年長に見えるけど、二番目に若いからね」

「はい、忘れないでおきます」

「面白い子ね。冷たいもの持ってくるから。マスターの前でコーヒー出すのは気が引けるから、アイスティーでいい?」

「はい、ありがとうございます」


 五人が席につくと、西表秦乃が話を始めた。

 肌は陽に焼けて褐色に近い。雑貨の買い付けにしばしば海外に出かけていて、その時の話をいずみは何度も聞かせてもらっている。

「今日、いずみちゃんにわざわざ来てもらったのは、お願いというか頼み事があるの」

「頼み事、ですか」

「この集まりはね、ヌオーヴォガレリア商工会といって、このアーケード街のこれからをどうするか、いろいろと考える団体があって、その中の青年部の定例会なの。青年部なのに、年くってるっていうつっこみはなしよ」

「そんは事は思ってません」

「このヌオーヴォガレリア、昔は今よりずっとにぎわっていたんだけど、お客さんも減っちゃってね」

「そうなんですか、平日でもけっこう人は歩いているように見えますけど」

「ちょっと前はほんとガラガラだったの。みんなの努力でここまでは回復したんだけど、昔にくらべたら全然」

 秦乃はノートPCの画面をいずみに向けて、

「いろんなイベントをやったり、ネットでサイトを開設して情報発信したりしてるんだけど、サイトのアクセス数がいまいちなのよね。訴求力が弱いというのか、コンテンツに魅力がないのか。いいアイディアはないのかと模索中。だからといって、広告代理店とかに頼るのはコストがかかる」

 秦乃は、指先でトンとテーブルを叩いて、

「そこで、神保クンにお告げがあったの。『われらにはいずみちゃんがいるじゃないか』と」

「わたしがですか?」

「後は、神保クン、よろしく」

「あ、はい。つまりですね、ヌオーヴォガレリアのサイトは、中にある店舗や商品、サービスの紹介をしているページがあるんですが」

 神保は眼鏡を指でクィッと上げると、ノートPCを操作して、そのページを表示する。

「このページがサイトの中心なんだけど、ここが一番アクセスが少ないんです、イベントのページに比べると。ヌオーヴォガレリアの由来とか、過去の写真画像のページにも負けてます」

「そう、なんですね・・・」

 話の流れがいまひとつのみこめないいずみだった。

「店舗や商品、サービスの紹介ページを見てもらうにはどうするか。どうやって魅力を上げるか。ゆるキャラという手もあるけど、いまさら新鮮味もない。そこで、『おとのいずみ』の登場です。ヌオーヴォガレリアのシンボルといえば、アーケード街の真ん中にある『フォンタナ・ディ・ムジカ』、それと同じ名前を持つチェリスト『おとのいずみ』が突如として現れて、店舗を訪問して、そこの商品、サービスの紹介をしてもらう、画像付きで。動画もあればなおさら。それに加えて、その店にふさわしい曲を選んで演奏してもらう、というのはどうかと」

 神保はだんだん熱が入ってきて、声が大きくなった。

「それで、まさかとは思うんですが、その『おとのいずみ』は誰がやるんですか」

 五人の目が一斉にいずみを見た。

「ええっ、やっぱり、わたしですかー」

「まあ、無茶なお願いというのは分かっているの。でも、この案を神保クンから聞いたとき、これだって。こんな偶然ないよねって」

 秦乃は、ぐいっと顔をいずみに寄せた。

「マスターも、オーナーも、きゅーちゃんも賛成してくれたし」

「いずみちゃんなら、ぴったりかなって」

「まあ、天のお導きかもね」

「無茶でも少しでも可能性があるならチャレンジしていこうというのが、青年部の方針で。ここだけの話だけど、ヌオーヴォガレリアのために色々企画を出してもなかなか上が『うん』と言わないことが多かったのよね、かつては。時間とともに、代替わりもあったり、私たちが、少しずつ説得してきて、風通しはよくなってきたけど、まだまだ」

 首を振りながら、遠澤を指さして、

「この春から、きゅーちゃんが青年部に加入して、戦力アップと思ったのに、せっかく斬新なイベントのアイディア出してくれても、やれ資金はどうするんだとか、役所との交渉が面倒だとか、否定ばっかり。そんなのはなんとかしますって言ってるのに、伝統がとかしきたりがとか」

「まあ、そのあたり私も新参者ですから、徐々にってことで」

「こんな状況を変えるのは、若者、よそ者、ばか者、じゃないの。だって、マスターの奥さんの新子(にいこ)さんの店も、ヌオーヴォガレリアの中に出したかったのに、いろいろあって、郊外になったんでしょ」

「まあ、その話は」

「ごめんなさい、つい愚痴がでちゃった」

「秦乃ちゃんは、青年部のメインエンジンなだけに、障害も多くて、いろいろ悩みも多いのよ。察してあげてね」

「はい、わかりました」

「ごめんね、気を使わせてしまって。で、どうかな。もちろん、保護者の方や学校の承認が必要なのだけど」

「ヌオーヴォガレリアの方に協力するのは、全然かまわないんですが、学校の許可がでるかどうか。かなり厳しいので、社外活動については」

「トラブルから生徒を守るという意味もあるからねえ」

「でも、地元貢献、なら許しは出るんだよね。カナル・フェスみたいに」

「それは、まあ・・・」

「じゃあ、商工会から学校に相談する、それで許可がでたら正式に協力をお願いする、それでどうかな」

「はい、それなら協力させていただきます」

「商工会の底力の見せどころね。その時はよろしく、プロジェクト『おとのいずみ』始動だよ」


第十五章 バルカローレ


 八月のある朝、いずみは寮を出て、路面電車に乗る。いつもは下車する高等部前の駅を通り過ぎ、さらに南へ向かう。終点の駅で下りて、少し歩いて川にかかった橋を渡ると、大きく「ルシディフォレスト」と書かれた看板が目に入ってくる。その横に立つ案内板には平面図が描かれていて、図書館、美術館、博物館などの文化施設が一か所にまとまっている場所だとわかる。いずみは図の中かから目的の「ルシディフォレストホール」を探し当てて、案内の通りに進むと、中規模な音楽ホールの正面入口の前に着いた。

 建物の横に回って、連絡があったとおりに関係者口から入り、控室のドアをノックして、いずみは扉を開く。中には、大柄で白いドレスを着た女性が、椅子に座って、紙コップを口にあてていた。

「おひさしぶりです、師匠」

 いずみがあいさつすると、その女性は手に持ったコップをバッタと落とし、飲み物が床にこぼれるのを気にすることなく、長い栗毛を左右にゆらして、どたどたと両手を大きく広げて突進してきた。そして、いずみを思いっきりだきしめた。

「あいたかった、いずみ!」

 後ろでは、この暑さなのにきっちりスーツを来たマネージャー風の女性が、腰を下して、無表情に床を片づけていた。

「師匠、苦しいです。力入れすぎです」

「ああ、ごめんなさい」

 ぱっと離れると、今度は両手を握って、

「元気そうね、いずみ」

「はい、師匠もおかわりなく」

 その女性は、チェロ奏者の草間・アメリア・芽吹(くさま・あめりあ・めぶき)、いずみの幼い頃からの師匠でもある。

「明季さん、おひさしぶりです」

 いずみは、処置が終わって立ち上がった、草間・アメリア・芽吹のマネージャー、元堀明季(もとほり あき)にもあいさつする。

「こちらこそ、朝とはいえ暑い中、お世話になります」

「公開レッスンなんて無理って言ってたのに、明季さんが引き受けちゃうんだもん」

「演奏者は後進を育てるのも大事な役目です。それに今回はいずみさんがおられますし」

「ごめんね、おどろいてコップ落としちゃって」

「いいえ、いつもの事ですから」

 明季はいずみに近づいて、耳元でささやく。

「断わるつもりでしたが、こちらにいずみさんがおられる事を思い出しまして、エイミー一人では受講者の方に迷惑をかけますが、いずみさんがおられたら大丈夫かと」

「わたしは通訳かなんかですか」

「私はマネジメントはできますが、エイミーの音楽はともかく、発言と行動に関しては理解不能なので」

「明季さんも音大出てますよね?」

「もう、二人で何をこそこそ話しているのよー」

 アメリアは、背後からいずみに負いかぶさって、

「いずみが幸せならなによりだよ」

「わたし、幸せそうですか?」

「うん、匂いでわかっちゃうんだな」

 アメリアは、いずみの頭に顔をうずめてくんくんとかいだ。

「こんな朝早くから仕事なんて、私偉いでしょ」

「はい、よく起きられましたね。偉いです」

「明季さんひどいんだよ、あと五分だけって頼んでるのに、ベッドからほっぱりだされて」

「受講者を待たせる訳にはいきませんから。もうホールでスタンバイしてますよ。それに今夜コンサートなので、終了時間も決まっていますし」

「わかってますよ、私、大人ですから。受けた仕事はきっちりやります!」

「その調子でおねがいします。午後のレッスンが終われば、すぐにタクシーに乗っていただきます。二十分程で到着予定です。そろそろ準備をしてください」

「もう?もうちょっといずみとおしゃべりしたいんだけど」

「それは全部終わった後に、お願いします」

「ええ、だって、お昼も夜も、なんか偉い人とお食事なんでしょ。やだなー」

「大人、でしたよね」

 この不毛ともいえるやり取りを聞いて、なんだかなつかしい気持ちになるいずみだった。


 アメリアの公開レッスンは、なんとか終了した。普段は国外にいるアメリアから直接指導が受けられるということで、全国から希望者が殺到し、受講生はすごい倍率だった。客席での聴講のチケットも完売状態で、ホールは熱気につつまれた。美称音学園の生徒や学生たちもちらほらいる。

 アメリアはそんなことは気にする様子もなく、普段通りマイペースで、時折とんちんかんな事をいいながら、指導を続ける。受講生が戸惑って首をかしげると、すかさずアシスタント役のいずみが、普通の人に分かるように、かみくだいて、あるいは、意訳して伝える。すると、受講生は納得した顔になり、客席には深い内容に感服したような雰囲気が流れる。

 最後には、課題曲のカサドの組曲のアメリアの演奏があって、レッスンは感動のうちに終了。その演奏を舞台袖で聴いて、やっぱり師匠にはかなわないなといずみは思った。傍らでは明季が感涙にむせんでいる。それが演奏への感動か、レッスンが無事終了した(世間の評判が崩壊しなかった)安堵なのかは、きかないでおいた。

 受講生に請われるままサインや握手をして別れをつげて、関係者の見送りの中、荷物をまとめた三人は楽屋出入り口から外に出た。すでにタクシーが停まっていた。すると運転席のドアが開いて、ドライバーが息をきらせてかけてきた。

「たった今、連絡がありまして、今市内は大渋滞だそうです。ヘロンホールまで、どれくらい時間がかかるかわかりません。下手に巻き込まれると、身動きがとれなくなるかも」

「どういうことだ」

 関係者たちは慌てて、あちこちに連絡を取り始める。

「バイクなら、時間通りにつけるだろうが」

「大事なチェロをどう運ぶんだ」

「ヘリコプターは用意できないか」

「そんな無茶な」

 いずみがタブレットの地図アプリを開くと、たしかに市内の道路は真っ赤で、全体が渋滞していることを示していた。

「渋滞の原因はなんなんだ」

「情報がありません」

「あの、いいでしょうか」

 いずみは青ざめた顔の明季に話しかける。

「ひとつ思いついたことがあるので、連絡してもいいですか」

「何か当てがあるの?」

「はい、もし上手く行きそうなら、明季さんからみなさんに伝えてもらえますか」

 いずみはその場を少し離れて、スマホを取り出した。

「マスター、今よろしいですか」

 相手は、カフェ・セビリアのマスター。

「ああ、大丈夫だよ。どうしたの、いずみちゃん」

「実はですね、」

 いずみは今の状況を手短に伝えた。マスターはすぐに察して、

「わかった、私は難しいが、仲間に声をかけてみる。とにかく時間の勝負だね」

「すみません、急なお願いで」

「いずみちゃんには世話になっているからな。また連絡するよ」

 通話を切ってしばらく待つと、マスターからの着信があった。返事をしながら、明季の元へ戻り、OKサインを出した。

「大丈夫です、間に合います」


 ルシディフォレストのすぐ横を流れる川の岸につながった階段を、先頭から、いずみ、アメリア、キャリーバッグを持った明季、そしてアメリアの愛機を大事に抱えた関係者たちの順で、ゆっくり下りていく。川沿いの船着き場にで、いずみはチェロのケースを受け取る。やがて、川下からエンジン音がだんだん大きくなってきて、一隻の小型クルーザーが近づいてきた。

「お待たせしました。只今参上!」

 小型クルーザーの係留ロープを、関係者の一人がすばやくパリーナに結びつける。

「秦乃さんが来てくれたんですね」

 操縦していたのは、ヌオーヴォガレリア内にあるエスニック雑貨店の店主、西表秦乃だった。スリムな体に、サイクルスーツを着ていて、褐色の顔から白い歯が光る。

「困った時はおたがいさま。さあ、まずは救命胴衣をつけてね」

 投げられた救命胴衣を、二人は急いで身に着ける。アメリアはいずみと明季が手伝う。秦乃が差し出した腕をたよりに、船に乗り込む。陸から荷物を渡されて、いずみはチェロケースをしっかり抱え込む。

「ご案内させていただくのは、この街最大の商店街ヌオーヴォガレリアで、雑貨店ヘテロフォニーを経営しています、西表秦乃です。小型船舶の操縦は経験を積んでるので、ご安心ください。さあ、出発するよ」

 ロープがはずされて、関係者が手を振る中、クルーザーは大きく反転して、川下へ向かう。

「マスターから連絡あった時は、びっくりしちゃった。あわててロードバイクでマリーナまで爆走して。いやほんと、市内はすごい渋滞で、車は全然動いていない」

「急にお願いしてすみません」

「急だから連絡してくれたんでしょ。頼りにされてるってことで、悪い気はしないよ、誰も」

「秦乃さんも船舶免許もっていたんですね」

「そう、マスターとは悪友仲間ってことで、感化されちゃって」

「あの、急に水路を船で移動するって、許可はいらないんでしょか。申し遅れました、私、草間・アメリア・芽吹のマネージャーの元堀と申します」

「元堀さん、ご配慮いただいてありがとうございます。でも、ご心配なく。そりゃ許可は必要ですけど、ヌオーヴォガレリア商工会、これ私の店も加盟している商工会ですが、商工会の底力、関係先には根回し済みってやつです」

「でしたら、安心しました」

「それに、いずみちゃんのお願いだったら何でもやるって連中は、いっぱいいますから」

「素晴らしいわね!」

 アメリアはまた後ろからいずみに抱きついた。

「この街で、素敵な人たちにかこまれて、幸せに暮らしているのね。私安心した」

「いえいえ、いずみちゃんの師匠が困っているのであれば、お助けするのが当たり前ですから」

「うれしい!ありがとう!いずみ大好き!」

 アメリアの動きで船が左右にゆれると、それにもケラケラと笑う。


 船は鉄橋やいくつかの道路橋の下を抜けて、左に大きくカーブして、三十メートルにもなる高さの橋をくぐっていく。

「この街は、水路がはりめぐらされていて、『水の都』と呼ばれてるんです。最近は水面から見た街づくりがされているんです」

「なんて素敵。今までいろんな街にいきましたけど、大抵は空港、ホテル、ホールと車での移動ばかり。こんな素晴らしい体験、感謝します」

 船は波を立てて進んでいく。アメリアはつばが広い白い帽子を手で押さえながら振り仰ぐ。それぞれ表情が違う橋、青い石を積み上げてた両岸の壁、その上に並ぶ家や店舗、水上を行きかう大小の船、そして街を包み込むような深い緑の繭山。風になびくアメリアの長い髪は、陽光に照らされて踊り、黄金にキラキラと輝く。日頃どんなにポンコツでも、この神々しい姿に、誰しもが魅了されるんだなと、いずみは改めて思うのだった。

 やがて船は目的地のホールの前にある船着き場に到着する。既に大勢の関係者が待ち構えていた。関係者に抱きかかえられるように、アメリカは船から下りる、秦乃に「ごきげんよう」と手を振りながら。

「いやー、なんというか、浮世離れしているというか、すごいね、いずみちゃんの師匠は」

「はい、わたしもそう思います」

「ご挨拶はまた改めてさせていただきます。本日は大変お世話になりました」

 名刺を秦乃に渡し、一礼してから明季は後を追う。

「それでは、秦乃さん、わたしも行きます。本当にありがとうございました」

「まあ、こっちもいい経験させてもらいましたよ」

「マスターはじめ、みなさんによろしくお伝えください」

「もちろん、いずみちゃんの活躍は、みんなにしっかり話しておくから」

「それは、やめてください」

「私が言わなくても、みんな聞いてくるからね。じゃあ、また」


 コンサートは無事開催できた。オーケストラ団員や指揮者は、渋滞の前に楽屋に入っていたので事なきを得た。渋滞で遅れてくる観客のために、開始時間を三十分ずらしたが、それでも完売のはずが、空席はちらほらとあった。

 アメリアは少し駄々をこねたが、明季たちがなだめすかして、舞台へ送り込んだ。一度出てしまえば、堂々とした演奏で、聴衆を圧倒するのは、いつも通り。舞台袖でいずみは、絶対に見習いたくはないけど、絶対にかなわないなと思うのだった。

 コンサートの後、家路を急ぐ人々がいなくなったホワイエで、いずみはようやく杏子、佐紀、多英の三人と合流した。

「おつかれさまでした」

「大活躍だったね、いずみちゃん」

「災難だったな」

 そう労をねぎらわれたが、

「あの、今日の事、どこまで知っているんですか」

 佐紀はスマホの画面を見せて、

「どこまでって、ネットで拡散されているよ。『緊急事態であたふたする大人たちを尻目に、一人の女子高生が窮地を救った』とか」

「またヌオーヴォガレリアの人たちでしょ」

 いずみは顔を覆った。

「でも、みんなも大変だったんじゃないですか、ここへ来るまで」

「いや、わたしは普通に歩いてきたが」

「やっぱ、杏子さんだね」

「わたし、電車はあきらめて、寮の自転車を借りて」

「おー、多英さん、すっかりパワフル」

「佐紀はどうしたんだ」

「あー、すまぬ、知華さんに送ってもらった」

「まあ、佐紀の家は遠いからな」

「でも車は動かなかったんじゃ」

「バイクの後ろに乗せてもらった」

「だから、髪がぺちゃんこだったのか」

「知華さん、二輪の免許も持っているんだ」

 感心するいずみだったが、

「で、演奏はどうだった」

 そのフリに多英はせき込むように、

「素晴らしかったです。チェロ協奏曲。一生の宝物です。草間・アメリア・芽吹さん、天使でした。わたし、白い羽が見えました」

 杏子は多英の熱気に若干引き気味ならが、

「いい演奏だったな。押すとこも引くとこも、強弱も、自由自在、天衣無縫な感じで」

「すばらしかったです。泣けちゃいました。いずみさんの師匠、お会いしたいな」

 佐紀の両手をにぎりしめたお願いポーズに、いずみは逡巡して、

「まあ、それはいいんですけど、ちょっと覚悟さえしてもらえたら」

「覚悟?そりゃ有名な偉い方だもんね。失礼のないようにしないといけないですね」

「ぜひ、わたしもお会いしたいです」

 多英も目を輝かせる。

 いずみは、マネージャーの明季に了解をもらって、緊張の面持ちの三人を楽屋へ案内した。アメリアは、ソファにだらしなく座ってくつろいでいた。いずみが三人を紹介すると、アメリアは電撃をくらったようにとび起きて、裸足のままかけ寄ってきた。

「あなたたちが、いずみのお友達ね。話は聞いているわよ。カルテットやっているのよね。素敵よね、カルテット。私も大好き。これからも、いずみと仲良くしてね」

 それぞれの手を握って握手していく。まずは多英、次に杏子。そして佐紀。

「あら、かわいい。お人形さんみたいね」

 そうして、佐紀の体に腕を回して、お姫様だっこをして、鼻歌を歌いながら踊り始めた。

「お、おろして下さい」

 佐紀の悲鳴にも似た声。多英は目が点になり、杏子はフリーズ状態。明季はやれやれという顔。いずみは、演奏後は必ずテンションがいつも以上におかしくなるので、会わせなければよかったと、頭をかかえて後悔するのだった。明季はいずみの耳元でささやく。

「エイミーは、いずみさんのこと、本当に心配していたんですよ。どうすればいいんだろう、何ができるんだろうって。その憂いが晴れたので、いつも以上にはっちゃけてますが」

「はい、それはありがたく思っています」

 まわりからはとんでもない人と言われるけれど、かけがえのない、大事で大好きな人なのだ。ただ、後に、三人から、びっくりしたけれど、「いずみの師匠」ならそういう人だと納得できる、どこか似ている、と言われた時は、大いに否定することになった。


 ちなみに大渋滞の原因は、街の中心部の交差点で、大型トラックが横転して、運搬していた牛十数頭が道路上に逃げ出したことだった。トラックを撤去し、逃げた牛をつかまえるのに数時間を要して、その間、広範囲の道路を封鎖せざるをえなかったのだ。幸い、人にも牛にもケガはなかった。


第十六章 カヴァティーナ


 数少ない、夏休みの学校での四人の練習日。一日練習なので、ランチはみんなで校内のレストランへ行く。休み期間とはいえ、学校に来ている生徒は多いので、レストランはずっと営業されているのだ。それぞれ注文したものを受け取って、テーブル席に座ってランチタイムになる。

「さっき、同じクラスの寮生の子に聞いたんだけど、歓把寮(かんとるりょう)、急に工事があるんだって?」

 パスタ料理をフォークでつつきながら、いずみが問いかける。歓把寮は多英が住んでいる新しい寮だ。

「はい、電気関係の部品交換とかで、二日間寮生全員退去しないといけないんです。ずっと停電するそうで」

 多英は冷麺をすする。

「昨日緊急通知があって。検査で不具合が見つかったようです。寮生は出るだけですけど、管理側の人は準備で大変です」

「この暑い中、冷房なしは無理だな。楽器にも悪い」

 杏子はカツカレーのカツを頬張る。

「多英さんは、二日間どうするの」

 佐紀はサラダに追いドレッシングをしている。

「また実家に戻ろうかと」

「ええ、じゃあウチに泊まればいいじゃない」

「そんな急な話では。迷惑はかけられませんよ」

「部屋はあるから心配しないで。なんならみんなも。あーなんだかわくわくしてきた」

「工事日はいつなの」

「来週の木金で、実質木曜の朝に出て、帰りは土曜の朝になります」

「ごめん、来週わたし海外だった。帰国が土曜日なんだ」

「まったっく、佐紀はよく話をきけよ」

「申し訳ない」

 佐紀は両手を合わせる。

「わたしの家は家族が多いから、泊ってもらう部屋もないしなあ」

 杏子は首をひねる。いずみはフォークを置いて、

「じゃあ、わたしの寮で決まりだね。届けさえ出せば大丈夫だし」

「いいんですか?」

「部屋のベッドは広いし、予備のベッドを入れることもできるし」

「では、よろしくお願いします」

「ただ、一つだけ大事な確認事項があって、多英さん、猫アレルギーはない?」

「アレルギーですか、実家は猫を飼ってるんで大丈夫ですよ」

「そうなの、どんな猫なの?」

「茶トラの十才超えたおばあちゃん猫がいます」

 佐紀はこういう話題には目がない。

「どんなにゃんこなの?画像ある?」

 多英はスマホを見せる。

「かわいー!」

「寮には猫が二匹いるんで、アレルギーの人は泊められないんですよ」

「その話は聞いたことあるな。開寮以来ずっと猫がいるって」

「杏子さんはどうなの?」

「ウチは犬をずっと飼っていて、猫がいたことはないけど、だっことかしたことはあるんで、アレルギーはないはずだ」

「で、どんなワンちゃんなの?あるんでしょ?」

 佐紀の圧におされて、杏子はしぶしぶ(のふりをして)スマホを取り出す。

「二才の黒柴、まだ遊び盛りなんで、朝夜の散歩はトレーニングになっていい」

「またまた、かわいすぎじゃない」

「それで、当日なんだけど」

「ちょっとー、この流れでわたしにも訊くでしょ、普通」

「言いたいだけだろう」

「ほら、見て」

 佐紀は、大型犬二匹にはさまれた写真を見せる。

「ゴールデン・レトリーバーか、賢そうな顔してるなあ」

「そうでしょ、そうでしょ。杏子さん、顔がにやけてるよ」

「してない、失礼な」

「いずみさんは、飼ったことはないの?」

「ずっと、マンション住まいだったから。だから、寮に猫がいるって、とってもうれしい。だっこは嫌がるけど、ナデナデは大好きなの」

「それは楽しみですね」

「いいな、いいな、帰国早めようかな」

「急な変更無理だろ」

「杏子さんはどうする」

「来週の木金か、どっちも朝から忙しいな。特に木は夜まで予定が入ってる」

「金曜日の夜だけでもどうかな。港から上がる花火が、寮のバルコニーから見られるそうなので」

「ああそうか、来週末はグラン・エスカルか。小さい頃はよく行ったけど」

「どんなお祭りなんですか」

「港周辺が中心で、大型船が寄港したり、船のパレードがあったり、シーフードの屋台が出たり、海洋祭って感じかな」

「花火は、沖に停泊した船の上から上げるんだよね」

「じゃあわかった、金曜の夕方にでもお邪魔するよ」

「二人の届け、出しておくね。宿泊一人、訪問一人」

「いいなー、いいなー。旅行どうしよう」

「そこは家族を優先しろよ。今さらキャンセルなんか無理だろ」

「絶対、次のイベントは参加するからね!」

「それで、多英さんに頼み事なんだけど」

「泊めてもらう以上は何でもしますよ」

「いえ、そういうつもりじゃないんだけど、前にちょっと話したヌオーヴォガレリアの件」

「プロジェクト『おとのいずみ』ね」

「絶対ないと思ってたんだけど、学校の許可が出そうなんだって」

「まさか!」

「まさかだよね。許可がでるなんていったい、どこから手を回したのやら」

 杏子は佐紀をちらっと見て、

「佐紀のとこがからんでるってことはないよな」

「ないない、いずみさん嫌がっていたもの」

「師匠の件で、断りにくいよな」

「そうなったらなったで、覚悟はしてるんだけど。それで、各店紹介の文章は用意してくれるけど、その店にふさわしい、チェロで演奏する曲を選んで欲しいって」

「それはちょっと難問だな」

「あんまり有名なものだけだとオリジナリティに欠けるので、メジャーだけどちょっとマニアック的な選曲をして欲しいって言われても、わたしの知っている曲はマイナーなのが多いし」

「そこで、多英さんの出番か」

「お願い、協力して。協力者として名前はクレジットするからって」

「いや、それはいいんですが、ちょっと、なんか、おもしろそうです」

「よかった。じゃあ、お店のリスト送っとくね」

「来週木曜日までには、案を考えてみます」

「よろしくね」


 木曜日の朝、いずみは寮を出て、路面電車に乗り、いつもよりもう一駅先で降りた。そこから数分だらだら坂を上ると、美称音学園の歓把寮、通称新寮に着く。寮の名前が書かれた門柱につけられたリーダーに、生徒証のIDカードをかざすと、門扉が開いた。

 敷地の中には、すでに工事関係の車両らしきものが停まっている。建物の入口でも同じようにして、やっと玄関の中に入ることができる。中では、すでに多英が制服姿で待っていた。

「朝早くからごめんなさい、わざわざ来てもらって」

「とんでもない、新しいっていう寮を見たかったから、お願いしたのはこっちだし」

 多英が一時的に牟鹿寮に避難するにあたって、着替えなどの荷物や楽器を運ぶのに、ぜひ手伝いたいとお願いしたのはいずみの方だったのだ。もっとも、停電で灼熱地獄になる部屋に、予備とはいえヴィオラを置いていくのははばかられるので、全部運ぶには、人手はあった方がいい。

「とりあえず、部屋に上がってください」

「おじゃまします。なんだか初めてのとこはわくわくしちゃうね」

 玄関で靴を脱いで、来客用のスリッパに履き替えて、多英の後をついていく。

「それにしても厳重だね。学園の生徒でも、寮生以外は、事前に利用日を登録申請しておかないと、ロックを解除できない仕組みになっているなんて」

「そうなんです。中からドアを開けて入ってもらうこともできなくて」

「引っ越しの時とかどうすの、家族とか入ってもらうでしょ」

「それも事前申請で、人数分の仮のIDカードを借りるんです」

「ああ、わたしも最初の日そうだったな。それだけ安全なんだね」

 中の雰囲気は牟鹿寮とはまったく異なり、機能性重視で清潔感があった。興味津々でまわりを見回すいずみ。寮生の多くはすでに出て行ったようで、閑散としている。先に歩く多英がエレベーターのボタンを押す。

「エレベーターあるんだね」

「そうです、わたしの部屋、四階にあるので」

 多英の部屋に入るのにも、IDカードが必要。広さはいずみの部屋の半分もないが、ベッド、デスク、クローゼット、バスとトイレ、電磁調理機が備え付けのキッチン、などなどが整っている。

「ごめんね、部屋の中、じろじろ見ちゃって。何もかもわたしのとことは違うので。全部最初からあるんでしょ」

「そうなんです。高校生が一人住むには十分な設備があるっていうのが売りですから」

 部屋の真ん中には、すでに持っていく荷物が準備されている。

「多英さんは、料理つくるんだよね」

「はい、朝は基本自分で。夜はいずみさんのとこと違ってまかないがないので、宅配を頼んどくか、自分で用意するしかないんです」

「多英さんは料理が得意だもんね。繭山の時も持って来てくれたし」

「いえ、必要にかられてです。冷蔵庫を空にしないといけなかったので、この一週間大変でした」

 残り時間はあまりないので、二人は牟鹿寮へ出発した。


 路面電車を降りて、二人は荷物を抱えて、汗をかきかき寮へ歩く。寮の門を抜けて、建物の全景が見える場所に来ると、多英は立ち止まる。

「素晴らしいです」

「そうだよね、やっぱり」

「牟鹿寮はイギリスのカントリー・ハウスがモデルなんでそうですね」

「カントリー・ハウス?」

「はい、イギリスの郊外に建てられた貴族の邸宅です。ミステリーの舞台にもよくなったり」

「ああ、クリスティーとかの世界ね。ドラマでよく見たなあ。クリスマスに遠方から一族が集まってとか」

「そうです、そうです。学園の創設者は貴族階級ではなかったみたいですけど」

 歓把寮と違って、正面のドアから靴のまま中に入る。ここでもまた多英は立ちつくす。エントランスホール内を見回しながら、

「感動です。やっと見ることができました」

「よかった、多英さんをさそって。わたしなんか、なにげなく越してきて、なにげなく住んでいるけど」

「でも、とっても素敵って言ってましたよね」

「わたしの場合は直観的。多英さんみたいに知識はないから、本当のよさはわからないかも」

「いえ、知識は人の目を曇らす、ともいいますし」

 二人は荷物を持って、階段を上っていく。

「お屋敷として使われていた頃は、壁に大きな絵画がいくつも飾られていたそうですよ」

「たしかに、先輩が昔はホールの天井から豪華なシャンデリアがつり下がっていたって言ってたなあ。掃除が大変だからはずしたって」

「はい、絵画もシャンデリアも今は学校の資料室にありますね」

「そうなの、知らなかった。今度連れて行って」

「いいですよ、いつでも入れますから。ただ、あんまり来る人は少ないですけど。ああ、ここの壁紙は邸宅だった頃のが残っていますね。ウィリアム・モリスがデザインしたのが。その時は、図書室とか撞球室もありましたが、今は改装されているんですね」

「多英さん、詳しいなあ。ここに来るのは本当に初めて?」

「初めてです。お恥ずかしい話ですけど、一年の頃は、しょっちゅう学校の図書館とか資料室にこもってましたので。創設当時の資料とかを見てたんです。まだ電子化されていないので、紙の本で読むしかないんです。それで頭の中で、この建物の様子を想像していたもので」

 いずみはポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。

「鍵の形もいいですね。IDカードは便利ですけど」

「そうなの、不便というのもまたいいものだなって」

 部屋の中に荷物を置いて、多英は窓から下をのぞいた。

「庭も見てみたいです、ぜひ」

「ああ、ここのお庭、イングリッシュガーデン、英国式庭園なんですってね」

「はい、自然を大事にして、ちゃんと設計図があって手をかけているのに、そうは見えない素朴な美しさがいいんですよね。」

 廊下を通って、また階段を降りる。

 一階のホールの南側には、ガラス入りの両開きのドアがあって、そこから庭に出ることができる。

「フランス窓から出られるのもいいですね、あこがれでした」

「フランス窓?」

「はい、フレンチドアともいうんですが、昔のイギリスの小説を読むと、必ず出てくるです。最初は窓から出入りってどういうことって謎だったんですが」

「窓から出入りだど、なんかやましい事している感じだものね」

「あとで、そうじゃないって知ってびっくりしました」

 真夏の太陽に激しく照らされた庭園は、緑の草木で覆われている。季節的に花の種類は減っているが、薄紫の花が数多く咲いていて、柔らかな香りが流れてくる。

「ラベンダーかと思ってたけど、季節違うよね」

「はい、ラベンダーは春から初夏に咲くので、これはロシアンセージですね。暑さに強いんです。だからサマーラベンダーを呼ばれることもあるんです」

「多英さん、花にも詳しいのね、素敵」

「まあ、将来の夢の一つは、イングリッシュガーデンを作る事なので、調べたりしているんで」

「多英さんは、イギリスの音楽が好きになったのは、そっちの方から?」

「どうなんでしょう。イギリス音楽は元々直観的に好きになって。そうするとそれを生み出したその土地の風土や文化、言語に興味が出てきて、理解が深まれば深まるほど、その音楽の魅力が再認識できるというか、すとんと腑に落ちるというか」

「音楽とその土地、二つがちゃんと結びついているんだね」

「そうですね、そうだと思います」

「そうやって、多英さんの音楽が形作られているんだ」


 部屋に戻って、いずみは飲み物を用意する。今朝寮を出る前に作っておいた水だしアイスティーを、冷凍庫から取り出した氷を入れたグラスに注いだ。

「なんだか生き返ります」

「淹れ方は、寮長さんに教わったんだ。とっても詳しい人で」

「この建物の中で、お茶をいただくなんて、いいですね」

「落ち着いたら、練習しておこうか」

「そうですね、午後は出かけますし」

「どうせなら、一階のホールで弾くのはどうかな。ピアノもあるし」

「いいんですか?」

「今日は、この時間わたしたち以外に寮生いないし、気兼ねすることないのよ」

「じゃあやりましょう。ここへ来てわくわくしっぱなしです」

「それでね、一緒に演奏しない?」

「一緒にですか?」

「レベッカ・クラークの二つの小品、前に教えてくれたヴィオラとチェロの曲、実はちょっとさらっていたんだ。それを弾くのはどうかな」

「本当ですか、うれしいです」

 二人はそれぞれ楽器を持って一階へ降りる。ピアノの隣に、備え付けの椅子と譜面台を移動させる。街の中にあっても、一階のホールは柱時計の音が聞こえるくらいの静けさで、集中力は自然と高まる。チューニングと日課の基礎練習の後、二人は視線を交わして、息を合わせて、最初の一音を奏でた。紡ぐ調べは、天井の高いホールを満たして、二人を包み込む。十分足らずの後、いずみと多英は弓を下して、笑顔を向けあった。いつの間にか、どこからかリーヌとジーシャが現れて、二人の前にちょこんとすわっていた。リーヌは音のしない鳴き声をあげて、ジーシャは右向きに小首をかしげる。

「やっぱり、一緒に弾くのは楽しいね」

「はい、とても気持ちよかったです。カナル・フェスも楽しかったですし」

「そうだね、多英さん、ひとつ訊いていいかな?」

「なんでしょうか」

「佐紀さんに真ん中に立ってもらおうって計画、事前に相談してたことだけど、多英さんは大丈夫だったのかなって」

「いえ、わたしはあくまでもサブでしたし、コスプレ、変装してたので平気でしたよ」

「ならよかった、無理させたんじゃないかと思ってて」

「はい、不特定多数の前で弾くのは案外緊張しないんです」

 多英はリーヌとジーシャを交互になでながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


 午後になり、二人はヌオーヴォガレリアへ出かけた。ヌオーヴォガレリア商工会青年部から連絡のあった、最初に取り上げる六店舗を回るためだ。ヘテロフォニーの店主・秦乃と待ち合わせて、その案内でいずみから改めて挨拶をするのと、そこで演奏を想定する曲決めのために、多英に雰囲気を感じてもらう必要があったからだ。

 まずは雑貨店ヘテロフォニーへ向い、多英と秦乃は面識はあるが、ちゃんと言葉を交わすのは初めてだ。

「あの、はじめまして。沖木多英です」

「ほぼ、だよね。よろしく、秦乃だよ。多英ちゃんのことはいずみちゃんからよく聞かせてもらっているから、私ははじめて話すって感じじゃないんだけどな」

「はい、よろしくお願いします」

「そんなに緊張しないで。取って食おうってわけじゃないんだからさ」

「はい・・・」

「本当に無理なお願いをきいてくれてありがとう。頼りにしてます」

「が、がんばります」

 最初は、「おとのいずみ」から。夏休み期間中なので、店舗の営業時間内は、正時に数分間噴水が上がる。その時は、「おとのいずみ」の周りを子供たちがはしゃいで駆け回っているのが見られる。商工会青年部の残りのメンバーとはそこで落ち合う。

 正式の撮影は後日ヌオーヴォガレリアにある写真館が行うが、本日は記録のために神保がカメラ係を務める。セビリアのマスターはマイクを持って録音係。星霜庵のオーナーと秦乃は、保護者よろしく背後から見守る。鳳凰座の支配人は所用のため欠席。

 それから、一旦楽器店ツインツリーに戻って、それから道順にフルーツショップ・ユリウス、茂折時計店、はきものスワン、カフェ・セビリア、写真館スプルースを回っていくコース。フロアだけでなく、カウンター内やバックヤードも見せてもらい、お店の人の話を聞く予定だった。


 始まりは二人なじみの楽器店ツインツリー。売り場やカウンター前には何度も足を運んだが、工房の奥に入るのは初めてだった。すごい量の部品に、見慣れない工具類、神保はカメラを秦乃に預けて、二人の質問に一つ一つ丁寧に説明していく。

「どうしても弦楽器中心になってすみません」

「それは当然だから」

 最初はいずみが中心だったが、だんだんと多英も前のめりになっていく。

「あのね、悪いけど、次もあるから、そろそろ切り上げてもらえる?」

 秦乃はカメラを神保に戻して、二人を促す。

「すみません、つい熱中してしまって」

「いいの、いいの、それだけ真剣なんだから。次は『フルーツショップ・ユリウス』だからね」

 ツインツリーの斜め前が、外装も内装も原色を使った鮮やかなお店。店主の入出(いりで)は、到着を今か今かと待ち構えていた。

「おじゃまします」

「いらっしゃい、一時間前から準備しちゃってた」

 スタッフが、いずみと多英、そして他の四人にもフレッシュジュースを渡す。

「まずは一口飲んでもらって、それからなんでも聞いてね」

「おいしい!」

 二人は同時に声をあげる。

「でしょ、新鮮なフルーツをしぼったばかりだからね」

 そして、店のコンセプト、並んだ果物の説明、百年以上前から続く青果店のリニューアル、自家製ドライフルーツの作り方、全国の市場や農園を飛び回っての仕入れの苦労や笑い話等、ノンストップで続ける。圧倒される二人なので、秦乃が間に入って、なんとか質問の機会を作る。

「フルーツにかける情熱は何がきっかけだったんですか」

「それはね、私が幼稚園児だった頃に始まって、病気で休んでいる時に、わざわざ看病に来てくれたお祖母ちゃんがむいてくれた桃の味が忘れられなくなって。きっかけってそんなものだけど、音楽を始めるのだって、似たようなものでしょう。だから、」

 ただし、いずみが一言しゃべると百倍以上が返ってくるのだが。その後、出張に行く時間が迫ってきて、ワンマンショーはようやく終演となった。

 次の茂折時計店は、一見何の店か分からず、入ってみるとそこは静寂の世界だった。壁にかけられた時計が秒を刻む音が聴こえるほどだった。応対に出てきた店主の茂折(もおり)も、物腰やわらかで、口調も落ち着いていた。あいさつの後、奥の工房に招かれて、向かいあって座ったいずみは、

「わたし、時計のお店って、販売と修理がメインかと思っていたんですが、こちらは違うんですね」

「私は三代目で、以前はもちろんそうだったんですが、今はオーダーメイドがメインですね」

 それから、茂折は時計作りにはまったきっかけ、国内では飽き足らず海外の学校へ留学したこと、現在注文が二年待ちであることなど、ゆっくりと語った。これまで製作された時計の一部を見せられて、その精巧さと美しさにいずみと多英は息をのんだ。無論、どれも高校生とは別世界の値段がつけられる。

「私は、時計作りと音楽って、共通点があると思うんです。設計図があって、一個一個の部品を用意して、組み上げていくんですが、二度と同じ時計は作れない。正確に時間を刻むのは当然だけど、それだけでは何の面白味もない。あえて、手作りにこだわってみる。だから、今時アナログの象徴のような楽器を学んでいる学生さんたちと話してみたいなって、この取材を引き受けたんです」

「ありがとうございます」

 それからは、いずみたちからよりも、茂折が問いかける形になった。真摯に考えて答えるいずみと多英。うなずいたり、静かに微笑んだりする茂折。ゆったりとした空気が流れていって、やがて約束の時間となった。

「今日は、お話できて楽しかったよ」

「こちらこそお忙しい中、ありがとうございました」

「一度君たちの演奏を聴いてみたいな」

「機会があればぜひ」

 満たされた表情で、次の店に向かう二人だった。

 はきものスワン、店主の諏椀(すわん)が、美しい歩みで二人を出迎えた。

「ようこそ、スワンへ」

 店名のスワンは苗字から来ているのだが、看板には白鳥の絵が描かれている。

「店の名前の由来はつかみはOKって感じなんだけど、祖父がシャレでつけただけで」

 諏椀はスツールに長い足を伸ばして座り、二人にもすすめた。

「こちらは靴の専門店ってだけじゃなくて、靴のライフスタイルのアドバイザーもやられているんですね」

「そう、あなたたちもそうだけど、生活の中で靴をはいている時間は長いのに、それに無頓着な方って多いでしょう。人間の体を支えるいるのが足で、それを守るのが靴、だから健康を維持する、命を守るのがはきもの、靴なんです」

 そしていかに靴が重要なのか具体例をあげながら説明する。

「自分に合った高い靴を買って、修理して長く使うって、高級ブランドのバッグと同じなんですね」

「あなたたちが使う楽器もそうでしょう、古いものを何代にも渡って使い続ける」

「そうですね、どんなに高い楽器でも、飾ってあるだけじゃダメで、弾き続けることでよさが保たれるって」

「そう、じゃあちょっと立ってみて」

 二人は諏椀から歩き方のレッスンを受けることになる。優雅で美しい歩き方を何度も練習させられたのだ。秦乃たちもちょっと真似してみる。

「あなたたちも分かっているでしょうけど、舞台に立つ人は、歩き方で印象が変わるでしょう」

「脚のラインもきれいになりそうです」

「ちょっとした心がけ、今日は特別にレッスン料はいただかないからね」

 二人は軽やかな足取りで店を出て、次のカフェ・セビリアへ向かう。

 なじみの店ではあるが、杏子がいないので、マスターのコーヒーの蘊蓄は止まらない。また、オープン時の苦労話など、今まで知らなかったこともたくさん出てきた。

 最後は、ヌオーヴォガレリアの一番端にある写真館スプルース。店主の樅木(もみき)は、蝶ネクタイにサスペンダー、ハンチング帽というカメラマンの古典的スタイルがよく似合っていた。撮影セットにもなっている吹き抜けの階段を上がって、応接間に通される。

「こちらでも撮影されているんですか」

「昔はね、最近は立っての撮影が多いから」

 そして、百五十年以上にもなる店の歴史を話してくれた。

「この写真館の初代が撮ったのがこれです」

 金の額縁にはモノクロの和服姿の女性の写真が収められていた。

「ダゲレオタイプ、銀板写真というものですが」

「はじめて実物を見ました。歴史の教科書に載ってたりするものですね」

 多英は興奮気味だ。

「そうです、そうです。壊れやすいので、ウチに残っているのはもうこれだけで」

「そんな貴重なものを、ありがとうございます」

「この写真はどなたなんですか」

「それが記録はないんですよ、家族とかではなかったようで」

 二人は改めて写真の女性を見つめた。

「写真は時間を封じ込めるものって言った人がいましたが、確かにそうだと思いますね。本来は消えてなくなってしまう時間がこうやって残っている、ほんの少しですけど。この店には、被写体となった大勢の人や家族の思いとかが積み重なっていいるんだなと感じるんですよね」

「音楽は時間芸術って表現されて、ほとんどは消え去ってしまうけれど、写真と同じように録音として残るものもありますからね」


 二人のお店訪問は、二時間以上かかってやっと終了。大人組はぐったりしていたが、いずみと多英はケロッとしている。オーナーからレストラン星霜庵へ案内されて、軽食をふるまわれる。

「おつかれさまでした、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます。みなさん、いろいろとお話してくれて、楽しかったです」

「普段は絶対に見られないとこも見られて、おどろいたり、感心したりでした」

「素直な感想いいなあ。私が訊いても絶対にあんな受け答えしないもんね」

 秦乃はふざけてちょっとやさぐれる。

「高校生にジェラシー感じちゃだめでしょ、秦乃ちゃん」

「別にそんなことないですよ。日頃と全然態度が違うってだけで」

「そりゃ、あんなに目をキラキラさせて質問されたら、誰だって丁寧に答えるよ。おかげで、原稿のいいネタがあつまったよね、神保クン」

「いやもう、いろんなエピソードが聞けて、どうまとめるか考えちゃいますね」

「頼んだよ、神保クン」

 そこでいずみは疑問をぶつけてみる。

「ここと秦乃さんの店は入っていないんですね、最初のお店に」

「そこは大人の事情ってやつなのよ」

 星霜庵のオーナー香代はウィンクする。商工会内の雑音封じのため今回は対象にしないという判断のようだった。


第十七章 サラバンド


 木曜日の夜、時間が来たので、いずみは多英を連れて一階のダイニング・ルームに降りてきた。夏休み中なので、元々寮生はあまり残っておらず、寮長の円と妹の環だけが席についていた。いずみは多英を二人に紹介する。見分け方はすでにレクチャー済みだったので、円、環の順に挨拶をする。

「二晩よろしくおねがいします。」

「こちらこそ、歓把寮の方は大変ね。今夜は夏野菜カレーだから、はやく取ってきて、一緒に食べましょう。」

 キッチンカウンターから、木曜日の定番メニュー、カレーライスと野菜サラダを受け取って、トレイを円と環の前の席に置く。

「こちらの寮はどうかしら」

「はい、今回初めて中に入らせてもらったんですが、風格ある建物と、手入れの行き届いた庭園、感動しました」

「あら、うれしい」

 円は両手を合わせる。

「歓把寮のトラブルで、こちらへ避難する人は多いかなって思っていたのに全然で」

 環が残念がる。

「どうしていなかったんですか」

「よく分からないけれど、わたしも何人かお誘いしたんですけど、結局多英ちゃんだけ。ねえ、多英ちゃんって呼んでもいいかしら」

「はい、もちろん」

「わたしたちの事は、円と環って呼んでね」

「わかりました」

 井江姉妹のほんわかした雰囲気に、多英の緊張はほぐれてきたのだった。その後に、また二人ダイニング・ルームに入ってきた。円は手招きして、

「こちら、歓把寮のトラブルで泊まることになった、二年生の多英ちゃん、沖木多英ちゃん」

「よろしくおねがいします」

「二人とも三年生の萩都樹さんと有相妃頼さんよ。」

「災難でしたね。旅行に行ったとでも思って、ゆっくりするといいよ」

 都樹は大柄な体をゆすって笑う。

「ありがとうございます。わたしはヴィオラですが、先輩は専攻はなんですか?」

「わたし?体形に似合わないコントラバスだよ」

「見た目のままでしょう」

「お前がつっこむなよ」

 都樹は、ぼそっとつぶやいた妃頼のナチュラルボブの頭を軽く叩く。いずみは先輩たち相変わらずの平常運転だなとほほえましく思う。

「先輩は何を?」

「見た目の通りに、世界一地味な楽器のオーボエよ。ヴィオラのあなたとは話が合うかもしれないわね」

「はい・・・」

「あ、こいつの言う事、まじめに聞かないほうがいいよ、疲れるから」

 都樹と妃頼がトレイを持って、円の隣にすわると、

「今、多英ちゃん以外だれも歓把寮からこっちに来ていないっていう話をしていたの」

 都樹は腕を組んで、

「それねえ、わたしも後輩に何人か声をかけたんですけど、断られちゃって」

「どうしてかしら」

「それは、あなたが誘ったからじゃないの」

 都樹は妃頼のつっこみを無視して、

「いまどきの若い子は苦手みたい。こうやって先輩と一緒にごはんをたべるとかいう雰囲気が」

「いまどきって、あなたいくつよ」

「多英ちゃん、歓把寮ってそうなの?」

 円は多英に話を向ける。

「はい、食堂はありますが、狭いのしかなくて、大体みなさん自分の部屋で食事することが多いです。お風呂も部屋についていますし。寮に帰ってきたら、朝まで部屋を一歩も出ないで、そのまま学校へ行くっていう人が多いと思います」

「そうなの、なんだか残念」

「寮に入る意味がないというか、普通のマンションみたいね」

「誰だって孤独が好きなのよ」

「だから、後輩たちは、ホテルの部屋をとって泊まるんだって。費用は学校から出るしね。」

「こういう体験は今しかできないのにね、もったいないわ」

 環はため息をつく。

「明日は、お友達がもう一人来られるんでしょう」

 円は話を切り替えて、いずみにたずねる。

「はい、夕方に。一緒に花火を見ようかと」

「室内楽のお仲間ね」

「いいわね、仲がよろしくて」


 食事が終わった後、いずみと多英は三年生たちにお風呂に誘われた。二階の廊下の端の階段を降りると、一階のダイニング・ルームの隣にある。湯舟は十人も入ればいっぱいになるが、今夜は六人しかいないので、狭くはない。風呂上りは、またダイニング・ルームでしばらく寛いだ後、先ほどの階段を登って、それぞれの部屋に戻る。

 いずみは部屋に戻って、ベッドにうつぶせになった。

「なんだか今日はよく歩いたし、早く寝ましょう」

「ナイトケアちゃんとしないと、また佐紀さんのチェックが入りますよ」

 多英がふざけて言う。

「大丈夫だよ、今海外だから。でも、確かに日々の積み重ねが大事、だもね」

 二人はスキンケアの後、寝る前の日課、ハンドクリームを手につけてマッサージをする。

「わたしたちは、手のケアが大事ですもんね。多英さんは冬は荒れるタイプ?」

「はい、とっても痛いです。乾燥肌なんです」

「楽器の乾燥対策も大事だけど、指も大事だよね」

「ちょっとでも手を抜いたら、ひどいことになるので」

「使っているのはこのメーカーのなのね」

 いずみは多英が置いたチューブを手に取る。

「はい、いろいろ試したんですが、あんまりべたべたしないし、強い香りのは苦手で」

「ネイルケアは毎日してます?」

「その方がいいんですけど、ついつい一週間に一回」

「あはは、わたしもそう」

「爪の手入れは時間がかかって」

「弦の宿命よね。管の人は唇の手入れが大変みたい。2組のフルート専攻の人、この寮にいるんだけど、冬は特にリップクリームを大量に塗ってから寝るって」

「たしか、宮野さんって人ですね」

「そうそう、前に話に話したと思う」

「寮にはずっといないんですね」

「夏休みに入ってすぐに。地元にいた頃から、フルート・アンサンブルやフルート・オーケストラに参加していて、夏は公演やらなんやらであちこち飛び回っているみたい。時々画像付きの連絡があるんだけど」

「寮にはまだ何人か二年生がいるんでしたっけ」

「チューバの人はサマースクールに参加中で、ピアノの人は秋のコンクールの準備で先生のところに行っていて、もう一人も帰ってくるのは八月末なの」

「みなさん、忙しいんですね」


 備え付けのベッドは、一人には広いので、今夜はいずみと多英は二人で寝ることにした。明かりを消して、横になってから、いずみは話しかける。

「多英さんは、イギリスの音楽は、どういうとこが好きなの」

「そうですね、一言でいうと『地味』なところでしょうか」

「『地味』なのが魅力?」

「弦楽の曲とか特にそうなんですけど。牧歌的というか、派手さがないというか。聴いていると、風とか草のにおいを感じるんです。わたしは田舎育ちなので、そういうのが性に合うんです。派手なのはちょっと苦手だったり」

「そうなんだ」

「ヴィオラ弾いてるというのもあって。ヴィオラの曲が多いイメージもあるんです、わたしには」

「今日弾いた曲も、イギリスの人だよね」

「はい、他にもオルウィンとかヴィオラのいい曲たくさんあって」

「それでイギリス自体も好きになったのね」

「はい、まだ行った事はないんですが」

「じゃあどうしてこの寮を希望しなかったの。今も空き部屋あるし」

「入学した時は、思うこともあったんですが、正直集団生活は苦手なんです。寮長さんたちに言った歓把寮の事は、わたしの事でもあったんです」

「でも、多英さんは人嫌いじゃないよね。初対面は苦手というのは分かっているけど、今日いろんなお店でいろいろ質問してたじゃない」

「それは、いずみさんがいてくれたからです。いずみさんが道をつけてくれるから。いずみさんはすごいです。いろんな人とすぐ話せて、仲良しになれる」

「そんなことないよ。ただわたしが、知りたがりだからだよ。分からなかった訊くしかないもんね」

「それが、わたしにはできないです」

「わたし、なんにも考えてないからなあ、そういう時。本能のおもむくまま、って。それじゃ師匠と同じか。その点多英さんはすごいと思う。よく知ってて、よく考えてて」

「考えすぎなんでしょね」

「さっきの話みたいに、自分の考え、思っていることを言葉にできて、それが人に伝わるってすごいと思うよ」

「そうでしょうか」

「それが、多英さんの音楽の力だと思う」


第十八章 パッサカリア


 翌日、二人は朝から学校へ行く。練習室のそれぞれの予約時間よりも前に着いた。東棟にある資料室を多英に案内してもらうためだ。多英の解説で、学園の創立以来の歴史の展示、牟鹿寮になる前の屋敷にあった、絵画や蔵書、シャンデリアなどを見て回った。

 練習が終わった後は、ラウンジに集まって、昨日の結果を元に、プロジェクト「おとのいずみ」で、各お店で「弾く」曲を選ぶことにする。二人はタブレットを開いて、多英はまとめた資料をいずみに共有する。さらに自分といずみのイヤホンを無線で接続した。

「選ぶ曲としては、なるべく編曲物じゃなくて、チェロのために書かれた方がいいですよね。チェロだけの無伴奏曲も、ピアノ伴奏も含めて」

「なるほど、なるほど」

「演奏時間はあまり長くない、十分以内の小品か、チェロ・ソナタの楽章というのもありでしょう。あまりマイナーなのは避けて、有名なのも少し入れて、バランスをとりましょう。聴きやすいのが大事ですから」

「対象はわたしたちじゃないものね」

「わたしたちが弾いて楽しい曲と、普通の方が聴いて楽しい曲は別物ですから」

「そのバランス取れるって、なかなか難しい。『音楽に詳しい』ってイメージは、それができる事なんだろうけど、そういう人ってあまりいないのよね、わたしもそうだけど」

「いずみさんはそうじゃないと思いますが」

「ううん、バランス悪いよ。あんまり常識ないもの。というか、まわり基本非常識な人ばっかりかもしれない。」

「たしかにそれはいえるかも・・・」

「その点、多英さんは常識があるというか、一般的なイメージの『音楽に詳しい』だよね」

「そんな事ないです。わたしも偏ってます。いろんなジャンルが好きなだけで」

「そうかなあ」

「とりあえず、あらかじめ曲の候補は考えてきましたが、昨日の印象もあるので、あらためて決めてていきましょう」

「すごいね、多英さん。一週間でここまでまとめたのね」

「いえ、そんなに時間はかけてないですよ、わたしの知ってる範囲からなので」

「それがすごいんだけどな。わたしたちって、自分がやる範囲以外の曲って、知らないもの。関心がないというか。まして、別の楽器のなんてさっぱり」

「それはあるあるですね」

 多英はタブレットの画面をタップして、資料の最初のページを開く。

「まずは、『楽器店ツインツリー』です」

「楽器店専門店で、チェロも販売してますから、ここは王道のバッハの『無伴奏チェロ組曲』でどうでしょう」

「となると、第1番のプレリュード?」

「そうなりますね。紹介するお店の最初ですし」

「いいね、それ。わたしも好きだし」

「チェロを弾く人にとっては、あこがれなんでしょうか」

「そりゃそうだよ、バイブルみたいなもので。全曲演奏会なんて、夢だよね」

「ヴィオラでも弾いた人います」

「そうなの、今度教えて」

「はい、この後で紹介しますね。じゃあこれは決まりということで、次は『フルーツショップ・ユリウス』、フルーツにかける情熱がすごかったです」

 多英は、次のページに進める。

「店長さん、ものすごく熱い人だったよね。気温が何度か上がったんじゃないかな」

「いくつか候補を考えていいたんですけど、店長さんの熱量なら、お店の中も鮮やかだし、サン=サーンスの『アレグロ・アパッショナート』がいいかなと。短いですけど」

 多英は再生ボタンを押す。

「ああ、この曲ね。速く、情熱的に、なるほど、ぴったりだね」

 いずみはイヤホンから流れる音楽をしばらく聴いて納得する。

「では、次は『茂折時計店』です。店主さん、物静かな方でしたね」

「職人さんっていうと怖いイメージあるけど、とっても穏やかで」

「それで、ポッパーの『ノクターン第3番』を選んでみました」

「ポッパーにそんな曲あるんだ」

 いずみはイヤホンからの音楽に耳を傾けて、

「とっても気持ちが落ち着くね」

「チェロの音って、それだけで心が浄化されるみたいですね」

「お店にも、茂折さんにも合ってるし」

「じゃあこれにして、次は、『はきものスワン』です。店主さんの苗字というのが一番のびっくりでしたけど」

「看板も白鳥の絵なのにね」

「ここは、定番中の定番『白鳥』以外に思いつかないんですよね。白鳥は見た目は優雅だけど、水中では懸命に脚を動かしているって言うし」

「諏椀さんの歩き方なんか、とっても優雅で曲調と合ってると思うよ」

「美しい歩き方のレッスン、参考になりました」

「わたしも。あれからちょっと意識したりしてる」

「サン=サーンスがだぶってしまいますが」

「いいんじゃないかな、曲の印象は全然違うし」

「次は『カフェ・セビリア』です」

「やっぱり、ロッシーニ?」

「はい、ロッシーニって方向で最初は考えたんですが、マルティヌーの変奏曲とか。それから、スペイン・アンダルシアのセビリア出身のトゥリーナの組曲『セビリア』どうかなと・・・」

「ごめん、知らない」

「マイナーですから。それも決め手がなくて。それでマスターの話を聞きながら思いついたのがこれです」

 多英は再生をタップして、

「チック・コリアの『スペイン』で、編曲物にはなってしまうのですが、チェロ版があったので」

「アランフェスなの?」

「はい、最初はアランフェス協奏曲で」

「なんか、ノリがいい」

「次がチック・コリアのオリジナルです」

「全然違うけど、なんだかすごい、楽しい。多英さんこういうジャンルのも聴くんだね」

「まあ、有名曲程度ですが」

「本当に多英さんは音楽好きなんだな」

「そんな、時間があるだけですよ」

「相変わらず、謙虚だなあ」

「いろんな楽器でカヴァーされているんです。『リベルタンゴ』みたいなものと考えてもらったら」

「ああ、なんだかそれでわかる」

「ギターのカヴァーが一番有名なんです」

 多英はいろんなヴァージョンを流す。

「編曲によってはダメダメになってしまうんですが・・・」

「ギターはたしかに素敵。マンドリンのもいいかも」

「奏者のセンス、なんでしょうね、結局」

「どうやって弾こう」

 考え込むいずみに、くすっと笑う多英。

「え、おかしかった?」

「いえ、いずみさんらしいなって。もう弾くつもりでいるんだなって」

「だって、なんだか意欲かきたてられるし」

「いずみさんはそうじゃないって言ってましたけど、やっぱり師匠さんと似てますよ」

「そうかな、どこが似てるのかな」

「音楽にまっすぐなところです」

「そんなことないって。わたしは師匠ほど純粋じゃないもの」

「そうでしょうか」

「そうなの。見習いたい点はあるけど、なりたいとは思わないし、なれるわけでもないし」

「それはそうかも」

「この話はおしまい」

「じゃあ、これでいいですね」

「一曲ぐらいこういうのがあっていいね」

「最後は、『写真館スプルース』。店主さんのコスプレじゃなくてレトロなファッションは雰囲気に合ってましたね」

「苗字が樅木(もみき)だからスプルースだったね」

「スワンと同じパターンですね」

「じゃあ曲はシベリウス?」

「それは最初考えたんですが、実際に時間とかのお話を聞くと、別のがいいかなって」

「そっか、そうだね」

「ですので、チェロ・ソナタのひとつの楽章になりますが、ショパンの『チェロ・ソナタ』の第三楽章がいいかなって」

「ああ、なるほど、歴史の積み重ね、言われてみればそうだね」

「ショパンとチェロの組み合わせが意外性があるかもしれません」

「ショパンは有名だけど、チェロ・ソナタはそんなに知られてないものね」

「これで六曲全部決まりました」

 多英はイヤホンの接続を解除した。いずみは、曲のリストを見ながら、

「有名なのから、マイナーなの、編曲物、バッハからチック・コリアまで、バラエティに富んでるね」

「とりあえず、このリストを神保さんに送っておきます」

「本当ありがとう。多英さんがいなかったらできなかった」

「いえ、わたしも勉強になったし、楽しかったです」

「自分で店を持っている人たちって、それぞれが専門家なんだなって感動しちゃった」

「そうですね、みなさんその道のプロでした。探求心というか、向上心というか」

「プロフェッショナルなんだね。わたしも今やっていることをもっと究めないとって」

「わたしも、なんだかいい刺激をうけてしまいました。」

「それと、お店に来てくれる人たちの事を考えているんだなって」

「どうやって満足してもらうかを、常に大事にしているんですね」

「それって、わたしたちにも重要だよね。音楽って、聴いてくれる人がいないと成り立たないって」

「プロとしてのプライドも大事だけど、ひとりよがりでは人の心を動かせないって、とても納得しました」

「プロの人って、それぞれ目指す先は違うけど、進む道は同じだよね。ますますちゃんと協力しないとって思った」


 夕方、寮へ戻ると杏子がエントランスホールに置かれたソファで、腕を組んで待っていた。

「お待たせ」

「いや、約束時間より前だし」

「おうちの方はもう大丈夫なの?」

「ああ、もう片付いた。多英さん、昨日は手伝えなくてごめんね」

「そんな、だって、しょうがないじゃないですか」

「とりあえず、わたしの部屋にあがって」

 三人が階段を登ろうとしたタイミングで、玄関の扉が勢いよく開かれる。

「じゃじゃーん!」

 セルフBGM付きで、佐紀登場。

「帰ってきました、みなさん!」

 濃紺の地に金魚柄、薄い黄色の帯を結んだ浴衣姿、髪はふだんと違って小さめのお団子でまとめていた。三人は階段の途中で固まる。

「驚いた?」

「佐紀さん、まだ海外じゃなかったの?」

「えへへ、帰国の日を一日間違えていました」

 佐紀はぺこりと頭を下げる

「なんだ、そうだったんだ、じゃあ一緒に遊べるね」

「人騒がせなヤツ」

 三人は佐紀の前に戻ってくる。

「きれいな浴衣だね」

「えへへ、ありがとう。ということで、知華さんお願い」

「かしこまりました」

 再び扉が開くと、知華が大きなケースを運んできた。

「お騒がせいたしましたことの謝罪も兼ねまして、僭越ながらみなさまの浴衣を用意させていただきました」

「どうやって用意したんですか、レンタルですか」

「ご心配なく。レンタルではなく、全て紺家所有のものでございます」

「わたしのは、昔おばあさまが着ていたものなの」

 佐紀はその場でくるっとターンする。

「最近はレトロブームだし、こういう柄のもいいかと思って。いろんなのを持ってきたから、みんなは好きなのを選んでね」

「またコスプレさせるのかよ」

「違うわよ、乙女のたしなみってやつ」

「わたし、着付けできないんですが」

「わたしでもできるけど、知華さんの方が上手だから安心して」

「なんでもできるんですね」

「恐縮です。みなさまには、御履き物もご用意させていただきました。こちらはレンタル品となっております。ポーチと髪飾りも準備しておりますので、お好きなのをお選びください」

「おととい、浴衣を着るかどうか確認があったのは、こういうことだったのか」

 知華は杏子にぐいっと圧をかける。

「和亜さまには、大きな柄で、暖色系のものをおススメします。どうか後でご覧ください」

「あ、ありがとう」

「ということは、寮の方には連絡済みってことですよね」

「はい、乙野さま、おっしゃる通りです。学園の方を通して、寮長さまにも了解いただいております」

 元撞球室で、今は中央にビリヤード台の代わりに大きなテーブルが置かれた部屋へ、知華は浴衣や帯、小物類が入ったケースを持っていく。いずみと多英は一旦荷物を置いてくる。テーブルの上にはケースが開かれ、佐紀と知華が、杏子、いずみ、多英に似合う浴衣を見立てて、それに合う髪型に知華がてきぱきと整えていく。突然の展開に驚きはしたが、並べられたあでやかな浴衣、帯などを見ると、心はわきたつのだった。いずみは、シンプルな矢絣柄の浴衣の着付けをしてくれている知華にそっとささやいた。

「本当に日にちをまちがえてたんですか?」

「乙野さまの相変わらずの洞察力には感服いたします」

「やっぱりそうでしたか・・・」

「ご両親に、土下座せんばかりに懇願されておりました。これは内密に」

「そういうところが、可愛くてしかたないんですね」

「御明察です」


 浴衣姿の四人は、階段やホールでいっぱい写真撮影をした後、宵闇迫る中、知華に見送られて寮を出る。もよりの船着き場から水上バスに乗ってグラン・エスカルの会場へ向かう。フィナーレの夜、すでに大勢の人の波で、車が通行禁止になった道の両側にはシーフードを中心にした屋台が並び、広場に作られた舞台では海賊姿のパフォーマーの大道芸が披露されている。

「小学生の時以来かなあ。」

 長い黒髪を三つ編みにした杏子はしみじみと述懐する。

「その時も浴衣だったの」

「まさか。同じクラス仲間と自転車に乗ってきたから」

「今は、可憐な乙女だよ、杏子さん」

「うるさいなあ、佐紀の趣味につきあっただけだ」

「まさか浴衣が着られるなんで思ってなかった、ありがとう佐紀さん」

「どういたしまして。海にも行きたかったけど、まあ、水上バスにも乗れたし、いずみさんによろこんでもらえてよかった」

「佐紀さんは、いつもサプライズだね」

「本当に、浴衣を着るなんて、小学校へ入る前以来です」

 多英は、白地に水色の朝顔柄で、胸元に手を置く。

「そうなんだよね、イベントがないと着てくれる機会ないし、それが問題なんだよね」

「呉服店のセールスかよ」

「浴衣姿で演奏なんてどうかな。それとも、本格的に和装してみる?」

「和服には興味あるけど、演奏はちょっと」

「そうか、チェロは脚を広げないといけないからな」

「この間は立って演奏しましたけどね」

 屋台で食べ物、飲み物をあれこれ買って、四人は、岸壁に臨時で海に向かって並べられたベンチにすわった。


 時間が来たので、四人はまた水上バスに乗った。花火の開始時間に間に合わせるためだ。寮に戻ると、ホールには昨夜は帰ってきていなかった三年生も含めた寮生が集まっていた。花火の夜に増えるというのは知っていたいずみだったが、何より驚いたのは、全員浴衣姿だったことだ。寮長と環、都樹と妃頼、そして今日帰寮したばかりの圭以と團子。

「みなさん、浴衣に着替えてたんですか」

「こちらの方のおかげよ」

 黒地に花柄の浴衣の寮長の円が微笑む。知華は、すでに大人っぽいしじら織の藍染の浴衣に着替えていた。

「おじゃまさせていただく以上は、寮生の皆様にもお召し替えいただければと思いまして」

「びっくりしちゃった。人数とおおよその体形を教えてほしいと言われて」

「わたしの体格に合う浴衣があるなんで思わなかったよ」

 寒色系で縦ストライプ柄の都樹が豪快に笑う。

「両国ならあるんじゃないかな」

 桃花色を着た妃頼が隣でぽつりとつぶやくと、都樹からヘッドロックされた。

「全体の形変えてやろうか」

「いたい、やめて」

 じゃれあっている都樹と妃頼を横目に、円はいずみと多英の手をとって、

「それで、いずみちゃんと多英ちゃんには秘密にしてて欲しいって。ごめんね二人とも、黙っていて」

「いえ、そんな」

「わたしの思いつきにおつきあいいただいて、本当にすみません」

 佐紀が前に進み出て頭を下げると、

「とんでもない。みんなとってもよろこんでるの」

「そうよ、こんな素晴らしいプレゼント、感謝しかないわ。この夏のいい思い出になるわ」

 白地に花柄の環も言葉をそえる。

「そろそろバルコニーへ行きましょう。花火が始まるわ」


 花火の後は、この寮恒例の、階段に並んでの写真撮影になる。紺地に藤の花模様の圭以が三脚とカメラを用意する。その後ろに立つ知華にいずみは声をかける。

「知華さんも入って」

「いえ、わたくしは」

 いずみは知華の腕をひっぱって、佐紀の横に立たせる。

「じゃあいきますよ」

 圭以がタイマーをセットして列に戻ると、十秒後にストロボが光った。


第十九章 ラメント


 夏休みが明けて、学園内はこれまでとは異なる雰囲気になる。長い休暇中の経験に裏打ちされた自信にあふれた表情と、そして、間もなく行われる前期期末のテストへの緊張と。放課後、四人は楽器を持って校舎から練習棟へ中庭を抜けていく。

「みんな、試験の準備はできてる?」

「いずみさんはどうなの?」

「わたしは、一般の方はいつもまままあだから、なんとかなりそうだけど」

「いいなあ」

「そう言う佐紀は大丈夫なのか」

「まかせてよ、って言いたいとこだけど、専門はともかく、一般がやばい」

「夏休みどうしてたんだ」

「忙しくてそれどころじゃなかったし。ねえ、多英さん」

「なんでしょうか」

「頭いいよね」

「いきなりど直球かよ」

「だって、テストの成績いつもいいじゃない」

「まあ、そこそこですが」

「またまた、ご謙遜。できればぜひ勉強会を開いていただけないでしょうか」

「すぐ人に頼るなあ」

「だってしょうがないでしょう。特に数学がやばい」

「音楽は数学みたいなものって人いましたけど、同意できないよね」

「わたしもそこそこですけど、それでよければ」

「ありがとう、助かる!」

「数学だったら、わたしも参加していいかな」

「杏子さん、ずるい!」

 四人がわちゃわちゃしていると、木陰から飛び出した人影が前に立ちふさがった。残暑厳しいというのに、白いコートを着て、足元は白のシューズ、頭には白いバンダナを巻いている。不審者かと身構える四人。

「お前は、いつぞやの」

 杏子だけでなく顔に見覚えがある。レイスヒルホールのパイプオルガンの前にいた生徒だった。

「ピアノ科の安良田格留(あらた いたる)です」

 コートを脱ぎ捨てると、中からはさらに上下真っ白のトレーニングウェア姿が現れた。

「遅くなってしまいましたが、謝罪させてください」

 深々と頭を下げた。

「なんだ、その恰好は」

 突然の状況に戸惑う四人。

「紺さん、沖木さん、乙野さん、そして和亜さん、あの時の誹謗中傷、心よりお詫びします」

 顔を伏せたまま、謝罪の言葉を述べる。

「頭を上げなよ。まあ、わざわざ謝りに来たことで、反省の気持ちは伝わるから」

「ありがとうございます」

「なんでそんな真っ白なんだ」

「これは、歴史に詳しい友人のアドバイスで、謝罪するときは、ムネリンみたいに白装束がスタンダードだと」

「ムネリンってわかる?」

 杏子は多英にそっとたずねる。

「たぶん、豊臣秀吉の小田原攻めの時に、死を覚悟であやまりにきた伊達政宗の事じゃないでしょうか」

「ありがとう、頼りになる」

 格留は、頭のバンダナに手をかけた。

「頭を下げるだけでは、誠意が伝わらないと思いまして」

 バンダナをはずした下の髪は、ベリーショートどころか、丸刈り状態、バスカットだった。これには四人あっけにとられる。

「よ、よくその髪型にしたな」

「なんで、そこまで」

「どうかこれで許してください。あの時の後の二人は、わたしの話にあわせてただけなんで、勘弁してください」

「どうする、佐紀、十分すぎるよな」

 腰が引けていた佐紀は、ちょっと顔をひきつらせて、

「そうですね。ここまでしてくれたのなら、もうかまいませんよ」

「ありがとうございます」

 格留はまた頭を下げた。

「じゃあ、これで」

「もういいからね」

 四人が早々に立ち去ろうとすると、

「和亜さん」

「な、何?」

 名指しされたので、戸惑う杏子。

「この状況でお願いするのはおかしいとは思うのですが、わたしを和亜さんの伴奏者にしてもらえないでしょうか」

「はい?」

「今、特定のピアノ伴奏者はいないと思いますが」

「確かにそうだけど」

「いきなり伴奏者というのは無理でしょうから、一度わたしのピアノを聴いてください。それで判断してもらえたら」

「そんなこと、急に言われても」

「わたし、自分で言うのもなんですが、ピアノは上手い方です。成績もいい方です。それに、昔から、和亜さんのヴァイオリンが好きで、伴奏したいなと思っていたんですが、すでにバディがいたのであきらめていました。でも、高校に入って、フリーになったのは知っていても、クラスも違うし、今まで声をかけられなくて。和亜さんの演奏は、聴けるものは全部聴いてます。和亜さんの演奏の好みとか癖とかも把握しているつもりです。それから、」

「わかった、ええと、安良田さんだっけ」

 どこまで続くかわからなかったので、さえぎる杏子。

「安良田格留です。わたしがあんな悪口を言ってしまったのは、本当は、わたしの醜い嫉妬からだったんです。和亜さんに近づきたいのに、全然かなわなくて。それであんなひどいことを。みなさんを、和亜さんを怒らせてしまって、この夏ずっと悩んでいて、どうにかして許してもらいたいと思っていて・・・」

「だから、こんな極端なことをしたのね」

 いずみは、芝生に落ちたコートを拾い上げて、格留に渡す。

「すみません。変な奴にみられるのは承知の上で。気持ち悪いですよね、こんなことして。でも、どうにかして気持ちを伝えたくて」

「わかったから、安良田さん、練習が終わったらゆっくり話そう。練習が終わるまで待ってくれるか」

「はい、もちろん。いつまでも待ちます」

「じゃあ、ちゃんと着替えて、ラウンジで待っていてくれ。練習が終わったら行くから」

「ありがとうございます」

 格留は何度もおじぎをして走り去っていった。杏子は大きくため息をついた。

「どうするの、あの子、本気だよ」

「わかっている。まあ、嫌なやつだったけど、根は悪い子じゃないんだろうなあ」

「杏子さん、優しいね」

「まあ、ちゃんと話して、納得してもらうしかないなあ」

「断るつもりなの?」

「ピアノの腕前がどうのじゃなくて、いくらあやまられても、ありえないからな」


第二十章 ノヴェレッテ


 室内楽の授業があった日の放課後、練習室は取れなかったので、四人は学内にあるラウンジに集まっていた。今日、指導教官から、動画撮影をするようにとのお許しが出たのだった。

「これで第一段階はクリアということだな」

「合格が出たのって、他のグループより一番早いかも」

「第一次審査が動画による審査って、おもしろいね、学内なのに」

 いずみは、タブレットで、室内楽の校内オーディションの要項をながめている。

「最近のソロのコンクール、一次審査は動画でってのが増えてるので、それに慣れる意味もあるらしいが」

「じゃあ、予約入れますね」

 多英はエントリーサイトを開いて、動画撮影を申し込むために、必要事項の入力を始める。

「多英さんは、動画の撮影は緊張しない?」

「校内のスタジオでの撮影ですから、問題ないと思います。すみません、気をつかってもらって」

「あやまる事ないよ。鬼教官の前で弾くのに比べたら、絶対リラックスできるって」

「第一次審査は、室内楽以外の先生も参加されるのね」

「半分に絞られるから、公平になるようにらしい。それで残ったグループだけが、レイクスホールでの第二次審査に進むんだ」

「学内での公開オーディションだから、去年客席で聴いたよね。先輩の応援に行ったもん」

「誰でも入れるんですか?」

「いや、学園の関係者だけ、先生と生徒だけで、保護者も入れない」

「ほぼ満席だったよ、去年。見ているこっちが緊張するぐらい、すごい雰囲気だった」

「そこで上位に選ばれた一組か二組が、秋の一般への公開コンサートに出られるんだ」

「それがインディゴホールで開かれるのね」

「そうだ、三年生の卒業演奏に選ばれた優秀者とか、学内オーケストラとかと同じ舞台に立つ」

「インディゴホールって、カナル・フェスがあった川沿いの水際公園にある建物だよね」

「そうです。昔あのあたりは倉が建ち並んでいて、だからそれを模した外観になっているそうです」

「倉がいっぱいあったんだ」

「はい、屋根は黒い瓦が敷き詰められたようにデザインですし」

「それであんな屋根なんだ」

「ただ、壁は本来白いそうなんですが、名前通りに鮮やかな藍色なっています」

「目立つよね、あの色は」

「毎年そこなんですね」

「学園の外部に向けた最大のイベントだからね。けっこう有名なんだよ」

「街の人たちも知ってるんですね。」

「そうそう。わたしも小さい頃に聴きにいったよ」

「チケットもすぐ売り切れるらしい」

「予約できました。指導教官の承認が入ったら次は抽選ですね」

 多英がタブレットから手を離した。

「ありがとう」

「あとは、担当がエンジニアリング科の誰になるかだね」

「動画の撮影は、二年生が担当するので、それも授業の一環だそうだから。自分が撮影したグループが上位のに残ると、評価があがるという噂があるらしいけど」

「それって、都市伝説みたいなの?」

「エンジニアリング科の担当で、動画の出来に良し悪しがあっても、そもそも指導教官の評価があるので、それには左右されないという噂もあるし」

「指導教官からOKでなくて、一次に進めなかったって人、今までいるの?」

「噂では、開校以来たった一組あったという話ですが」

「それも都市伝説でしょ。それよか、わたしたちの演奏ってどうなのよ」

「今日も、まあまあ褒められましたよね」

「一人だけ足をひっぱてるかもしれんが」

「杏子さん、相変わらずひどいー」

「いや、冗談なんだが」

「真剣な顔で冗談いわないで、誰かみたいに」

「そうか、じゃあこれは冗談じゃない。リラックスしすぎて失敗するなよ。まあ、レイクスホールの舞台に立つってのが、当面の目標ではあるが。その先はまた考えたらいい」


 エンジニアリング科の誰が動画撮影を担当するかは、公平な抽選になる。担当者が決まり、指定された時間に、四人は校内の録音スタジオに集合した。練習室と同じ建物、練習棟内に設置されているのだ。

「撮影担当させてもらいますエンジニアリング科二年の名居府空です。いずみさんと多英さんと同じクラスだよ。和亜さんと紺さんとは話すの初めてだね」

「よろしくお願いします」

「よろしくね」

 エンジニアリング科の生徒は、器楽科など他の科とはちがって、教室以外で制服を着ていることはほととんどない。大抵作業着で、空も同様、学校指定のライトグリーンのジャンプスーツ姿だ。

「あんまり時間もないから、始めようか。でも、ラッキーだなあ。抽選とはいえ、いずみさんたちの担当だなんて」

「ラッキーなんですか?」

「そりゃそうでしょ、エンジニアリング科でも、みんなの評判は知ってるよ、『ウィッチ・カルテット』」

 その名前に、杏子が露骨に嫌そうな顔をした。

「あれ、この話題NGだった?地雷ふんじゃった?」

「その評判ってヴォーカルのヴィジュアルが?」

 佐紀がふざけて言うと、

「うん、それもあるかな、なんてね。動画再生数やばいって。やっぱ、いい演奏を担当すると、いい経験をさせてもらえるからね。耳が肥えるってやつ」

「えー、お世辞言っても、キャンディ一個ぐらいしか出ないって」

 佐紀は、ポケットから赤い包み紙の飴を取り出して、空に渡す。

「サンキュー。さあさあ、入って入って。けっこうスケジュール、タイトなんだ」

 すでに、椅子や譜面台は用意されていたので、四人は位置や高さを微調整してから、楽器の準備をする。それに合わせて、空はマイクを確認する。

「じゃあ、よろしく」

 チューニングが終わった後、空はドアを閉めて、ガラスの向こうのコンソールの前に腰を下す。四人の顔をそれぞれ見て、アイコンタクトをとってから合図を送る。四人は楽器をかまえて、呼吸を合わせて、弓をひいた。


第二十一章 カッサシオン


 週末の土曜日の午後、いずみ、杏子、多英の三人は、立派な門構えの前で、車から降り立った。制服姿で、それぞれ楽器を抱えている。扉が開き、佐紀が迎え入れる。

「いらっしゃいませ。今日はありがとう」

 佐紀もまた制服姿。背後には、佐紀よりも小柄な和服姿の女性。

「本日はわざわざお越しいただいて、ありがとうございます。佐紀の母、紺花織(こん かおる)でございます。さあ、中にお入りください」


 発端は一週間前、室内楽の校内オーディションの第一次審査の結果は、その日の朝七時になると、校内のサイトにタイマーでセットされた結果が表示される。四人は登校前にそれぞれが合格を確認して、授業の開始前に集まって手を取り合って喜んたのだ。

「よかったね」

「よかった」

「よかったです」

「まあ、実力通り、じゃないでしょうか」

 佐紀は胸をはる。

「今日だけは、佐紀の冗談につっこまないでおく」

「ええ、どうして」

「わたしも実力通りだと思うからだ」

「ちょっと、杏子さん、そんな事言ったら泣いちゃうよ」

「泣けばいいよ、うれしかったら」

「もう、いずみさん、なんか言ってやってよ」

「杏子さんは、佐紀さんをほめてるんだよ」

「いずみさんまで、やめてよ。みんながんばったからでしょ、ねえ、多英さん」

「そうですね、それはそうです。動画見ましたが、空さんの編集もよかったですね。音のバランスとか特に」

「確かにそれはわたしも思ったな」

「ちょっといいですか?提案がありまーす!」

 佐紀が右手を大きくさし上げた。

「二次審査に進んだんだし、祝勝会開きませんか?」

「って佐紀、一次審査通っただけだぞ、大げさな」

「それがさ、正直、今までコンクールと名がつくもので、一次審査すら突破したことなくて。今朝結果を伝えたら、もうお父さまとお母さまが大喜びで、お祝いさせて欲しいから、我が家に招待したいって」

「でも、佐紀さんのお家には、合宿とか衣装とか浴衣とか、いっぱいお世話になっているし、これ以上は、ねえ」

「そうだよ、せいぜいセビリアに行くくらいでいいじゃないか。メニューも秋仕様になってるし」

「それはそれ、これはこれ、絶対招待受けて欲しいって、わが紺家あげてのお願いなの」

 佐紀は、両手を合わせて懇願した。

「大げさだな」

「でないと、知華さんたちが無理やりにでも・・・」

「それ、しゃれにならないぞ」

「じゃあ、こんなのはどうかな。わたしたちからも感謝を込めてプレゼントするとか」

「プレゼント?」


 三人は玄関から上がると、あいさつもそこそこに、長い廊下を進んで、奥の部屋に通された。そこには、すでにジャンプスーツ姿の空がいた。

「やあ、けっこう早かったね。準備は終わったのでいつでも大丈夫だぞ」

 その部屋には、学校のスタジオと同じように、マイクやカメラ、その他の機材が並べられ、黒いケーブルで接続されている。学校と違うのは、別に通信機器も置かれていることだった。正面には椅子と譜面台が四脚並べられて、左右から照明で照らされている。

「さすがに一人でセットアップやライブ配信は大変なんで、友達連れてきたんだ。人見知りははげしいが、腕は確か」

「・・・こんにちわ・・・田出羽緒(たいで はお)、です・・・」

 ダークネイビーのベースボールキャップを目深にかぶって、声はか細くて消え入りそう。

「同じエンジニアリング科の二年、実習が一緒なんだ。杏子さんとは同じクラスだよね」

「よろしく、羽緒さん」

「・・・はい・・・」

「いやもうほんとにラッキー。たまたま録画担当させてもらっただけなのに、声かけてもらって。こっちが要望した機材みんな揃えてくれてるなんて、触れるだけでラッキーだよ」

「でも、配信のやり方、機材だとかプラットホームだとか全然分からないから、空さんが引き受けてくれてよかった」

「理由も聞いている以上、失敗はできないからね、最善をつくすよ」

「・・・がんばります・・・」

「ありがとう」

 いずみの提案は、四人の演奏を、生配信することだった。遠い場所にある病院にいる佐紀の祖父のために。

「じゃあ、準備はじめましょうか」


 四人は制服姿でスタンバイ完了。

「じゃあ、そろそろいいですか」

 ヘッドホンをつけた空がミキサーを前にしてキューサインを出した。となりでは、羽緒がスイッチャーを操作する。佐紀はマイクを持ってカメラに手を振った。

「こんにちわ、おじいさま。ごきげんいかがでしょうか。今日はみなさんの厚意で、演奏を聴いてもらいます。学校の室内楽の授業で一緒に演奏した、お友達です。こちらが、知っているとは思うけど、杏子さん。とっても厳しいけど、とっても優しい人です」

「あー、どうも、あらためて和亜杏子です。佐紀さんとは一年から同じクラスで、まあ、一緒になんだかんだしながら、演奏してます。今日は、楽しんでいただけたらと思ってます」

「それから次が、音楽がとっても大好きで、ヴィオラがとっても上手で、頭がよくて、ちょっとはずかしがりやさんだけど、とっても心優しい多英さん」

「あの、えと、ヴィオラの沖木多英です。佐紀さんにいろいろと助けてもらってます。一生懸命弾きますので、よろしくお願いします」

「最後が、チェロの乙野いずみさん。おじいさま、たぶん知ってるんじゃないかな。ついついとっ散らかりそうなわたしたちを、正しい方向にむけてくれる、あったかくて、頼りがいがあって、ちょっと面白いとこもある人です」

「はじめまして、乙野いずみです。佐紀さんや、ご家族の方、関係者の方々には本当にお世話になっています。短い時間ですけど、心を込めて演奏させていただきます」

「それじゃ、始めますね。おじいさまの作ったヴァイオリン、弾かせてもらうね」

 四人は楽器をかまえると、目と目で合図して、息をあわせて、最初の音を奏でる。


第一楽章 アレグロ・モデラート ほどよく速く

 杏子、佐紀、多英、いずみ、四人の奏でる音は静かにゆっくり始まり、からみあう。内に秘められていた感情は、時折波打つようにほとばしりながら、強い意思をもって進んでいく。けっして誇りを失わないその感情は、やがて静かに収まっていく。


第二楽章 ピアチェヴォーレ(ポーコ・アンダンテ) 楽しく(歩く速さより少し遅く)

 暖かい陽の光のような表情の佐紀を、いずみと多英がやさしく支えて包みこむ。そして、杏子が佐紀を鼓舞するように歌い上げていく。慈愛に満ちた視線は天上へと消えてく。


第三楽章 アレグロ・モルト 非常に速く

 多英といずみから始まり、すぐに杏子と佐紀が加わる。力強く、情熱的に、四人の音は鋭く叫ぶ。やがてフィナーレを迎えて、音は突然途切れる。


 無事生配信を終えて、紺家の「ささやかな」ホームパーティーが始まった。会場となる広間は、座り心地のよさそうなソファが並べられ、ソファの真ん中のテーブルには、様々な料理が用意されている。

「さあさあ、皆さん、お着換えも終わったようですし、大したものは用意できませんでしたが(紺家比較)、お好きなものをお召し上がりくださいね」

 佐紀の母親が笑顔で、私服に着替えたみんなを歓迎する。

「こちらへどうぞ。お飲み物は何になされますか。アルコール以外でしたら、何でも揃っております」

 その傍らで、モーニングコート姿の知華がエスコートする。

「知華さん、その姿は・・・」

「はい、乙野様。今回お約束通りに、リムジンでお迎えに参りましたので、それならば、ぜひ執事スタイルをするようにとのお嬢様からのアドバイスがありまして。絶対に受けるからと」

「そうなの、知華さん絶対に似合うからって。写真とって、とって、いずみさん」

 カジュアルなスタイルの佐紀は、知華と並んでピースサインを作る。羽緒も積極的に寄ってきて一緒に撮影。ポーズを作ってそれに応える知華は、遠巻きに眺めていた杏子に、

「和亜様、このスタイルお似合いでしょうから、次の演奏機会がありましたら、お貸しいたします。ぜひ」

「いや、いいって」

 杏子はあわてて手を振る。

「文化祭の企画でいいかもね」

 佐紀がにまにまする。


 それぞれソファに座った後は、手に飲み物を持ってまずは乾杯。佐紀はコホンと咳をするふりをしてから、

「それでは、僭越ながらわたくしが。室内楽校内オーディション第一次審査突破と、生配信成功を祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 後は、めいめいが小皿に料理をとって、食べ始める。

「今日の演奏、ありがとうございました。わたくし、クラシックはあまり詳しくはないんですが、感動しました」

 佐紀の母親は、両手を握りしめた。

「あの部屋はね、佐紀のおじいさまが、いつかサロンコンサートを開きたいって、改装したんですが、実際に使ったのは今日が初めてで。おじいさまもさぞよろこんでいると思います」

「素晴らしい音響でした」

「わたくし、決めました。これから定期的にあの部屋でコンサートを開きます。ぜひご協力ください」

「お母さま、突然そんなこと言って、みんなびっくりするよ」

「いいえ、これも何かの縁。人と人のつながりは大事にしないといけません。名居府さんと田出さんも手伝っていただけるわね?」

 山盛りのお皿を持って、口の中いっぱいに頬張っていた空は目を白黒。羽緒に背中を叩かれて、

「は、はい、よろこんで」

「今日はお父さまも来たがってたんだけど、出張でしばらく海外なの。向こうでお父さまたちにも動画を見てもらえるんだよね」

「しばらくはアーカイブを視聴できるんで、URLとパスコードを伝えれくれたら大丈夫」

 空は左手でOKのサイン。

「まさか、後にこんなパーティーがあるなんで、知らなかったよ。これで夕食代浮くし、ラッキーすぎる」


 それぞれが食事したり、おしゃべりしていくうちに、杏子は佐紀の隣でそわそわし始めている。

「どうしたの、杏子さん」

「いや、その、レトリーバーはいないのかなって」

「あら、和亜さん、そういえば、ワンちゃんを紹介するって約束でしたわね」

 佐紀の母親が知華を呼んだ。

「ワンちゃんたちのところへご案内さしあげて」

「承知しました。さあ、和亜様、どうぞこちらへ」

 にやにやが止まらなくなった杏子は、知華に手をひかれて部屋を出て行った。

「会いたい人は一緒に来てね」

 佐紀がその後を追っていったので、残りのみんなも自然と席を立つ。そうして、犬専用の広い部屋で、ゴールデンレトリーバー二匹に押し倒されて、幸せに満ちた顔をした杏子をながめることになった。


 その後、広間に戻る途中、いずみは視線に気づいた。佐紀が、小さく手招きをして、逆方向に歩いて行ったので、その後をそれとなく追っていく。廊下を抜けて、階段を上がって、ガラスの扉を開いて、バルコニーに出た。

「わたし、いずみさんにお礼をいわなきゃいけないと思っていて」

「今日の演奏のことなら、こっちがお礼を言いたいぐらい」

「そんなことないよ。おじいさまにわたしたちの演奏を届けるなんて提案、うれしかった」

「本当に、いろいろお世話になったから」

「それとね」

 佐紀は振りむいて、手すりに体をあずけた。

「杏子さんって、わたしのあこがれだったんだよ。前にも言ったよね、コンクールに出てもわたしは全然だめだったけど、杏子さんはいつもトップ。演奏もそうだけど、舞台上の姿も他の人とは全然違う。そういうのを、天稟(てんぴん)の才能っていうんでしょ」

 佐紀は夜空を見あげて、手を伸ばした。その姿は月の光にぬれたようだった。、

「音楽の専門学校にいると、それはもっとはっきりわかる。杏子さん、多英さん、そしていずみさんは、持っている人。わたしは違う。音楽の才能は、わたしは『持たざる者』。くやしくて悲しいけど、それは事実だし、受け入れるしかない」

 佐紀は胸に手を置いて、ぎゅっとにぎりしめた。

「前は嫌だったの、この家に生まれたことが。小さい頃は、おじいさまのヴァイオリンを世界の人に聴かせるんだなんて大きな夢があったけど、それは無理ってすぐに思い知らされた。美称音の受験に合格した時も、どうせお金の力で入ったんだろうと陰口をたたかれていたのも知っている。正直、もういいかと思っていたの」

 いずみはただ見守るだけだった。

「それがね、同じ学校に杏子さんがいて、コンクールとかに出なくなったって聞いて、その理由も、なんとなく分かった。それで、わたし頭に来たの。望んでも絶対手に入れることが出来ないものを持っているのに、それを生かそうとしていないことに。できるならわたしの力でなんとかしたかった。だから、安良田さんの気持ち、少しわかるんだ。でもね、無理だった。うざがられても、つきまとうぐらいしかできなかった」

 佐紀はようやくいずみと視線をあわせた。

「それを変えてくれたのは、いずみさん、あなただったの」

 そして、いずみの胸を指先でつついた。

「いずみさんは、ただ室内楽の演奏をもっと良くしたいと思っていただけかもしれないけど、杏子さんが身にまとっていた鎧が、みるみる溶けていくのを間近で見られてうれしかった。練習している時に、わたし杏子さんに叱られたでしょ。あの時、本当はめちゃくちゃうれしかった。だって、それまでは視界の外だったのに、初めてわたしを演奏者として見てくれたから。それから、わたしが陰口をたたかれた時、多英さんが体をはって守ってくれた。わたしのために怒ってくれた。わたしの音楽をみとめてくれた」

 佐紀はその場でくるりと回転してみせた。

「そしてね、決めたの。音楽の才能は『持たざる者』だけど、ならばわたしはわたしのやりかたをやるしかない。この家に生まれたことを最大限、言い方は悪いけど、利用してやるんだって。わたしだけじゃない、みんたのためになろうって。だから、いろいろとお金をかけること、ためらわない。自分のお金ではないけど、それが役に立つならためらわない。大好きなヴァイオリンとみんなとこれからも一緒にいるために」

 佐紀は、いずみの手をとった。

「わたしを変えてくれたのは、いずみさんなの。みんなとの出会いを作ってくれたのもいずみさんなの。そのお礼が言いたかったの。ありがとう」

 いずみは首を振った。

「いえ、佐紀さんが変わったのは佐紀さん自身の力だよ。わたしはほんの少しお手伝いしただけ。それは、杏子さんも多英さんも同じ」

 佐紀をまっすぐに見る。

「それに、わたしたちを天稟の才能を持っているって言うけど、たとえそれが真実だとしても、将来が約束されているわけでもない。将来どうなるかなんて、誰にもわからない。ただ、今を懸命に生きているだけ。それは佐紀さんも同じでしょ」

「それはそうかもしれないけど」

「でも、これだけははっきり言える。今の私にとって佐紀さんは大事な仲間、かけがえのない人なんだって。誰が欠けてもいけない。他の二人もそうだって、断言できる」

 二人はしばらく無言のまま見つめあっていた。そして、にっこりと笑いあった。

 いずみは、夜景の向こうに浮かぶ山影を見やって、

「あれは、繭山?」

「そう、ここは高台だから、いつでも見えるんだよ。なんだか一緒に登ったのは、ずいぶん前のような気がするね」

「また登りたいな。みんなと」

「桜の季節になったら行きましょう。お弁当いっぱい持って」

「必ず、ね」


第二十二章 カルテット


 レイクスホールでの第二次審査は、公開で行われ、学校の生徒は自由に聴く事ができる。出場者はより一層練習に力が入る訳で、優先的に練習室を使わせてもらえる。四人もほぼ毎日練習室にこもった。そして、第二次の公開審査を明日に控えた最後の練習が終わる。

「いよいよ明日か」

「ホールの響きって、練習室やスタジオと全然違うから、事前練習できてよかったね」

「これで選ばれたら、秋にインディゴホールである演奏会に出られるんですよね」

「長いようで、短かったなあ」

「落選したら、これが最後の練習になるんだね」

 佐紀がぽつりと漏らす。

「あの、やっぱり明日でなきゃいけないですよね」

 多英が弱気な発言をする。

「今更?」

「緊張するのは多英さんだけじゃないよ、わたし今夜寝られる自信がない」

「あがってもいいじゃないですか。それにこれまで、イベントや、佐紀さんの家で演奏してきたし」

「わたし、本当はあがり症じゃないんです」

「それって、どういうこと?」

「舞台に立つのが怖いんです」

「でも、今までだって」

「それは・・・」

 多英はしばらく口ごもった後、

「その、身内とか、先生とか、心を許せる人の前なら、逆に全然知らない人の前とかなら、大丈夫なんです。でも、知り合いじゃなくても、音楽を専門にやっている人たちと前にすると、怖くて怖くて、演奏ができなくなるんです」

 多英は、今までため込んできたものを吐き出すように叫んだ。

「それは、どうして、そんなことに?」

 多英は再び口を閉ざしてからのち、ゆっくりと話始めた。

「わたしも三歳からヴァイオリンを始めて、上手く弾けると周りが喜んでくれて、わたしもうれしくて。教室で年二回の演奏会で、他の生徒さんと合奏するのも楽しくて、舞台に立つのが待ち遠しかった。小学校に上がると、コンクールに出るようになって、もう弾けることが楽しくて、レッスンも全然苦にならなくて」

「なんか多英さんらしいな」

「それが、小学校四年生の時。あるコンクールに出て、わたしの出番が終わって、他の人の演奏を聴いた後、休憩に入って、なんとなくホールの中をぶらぶらしていたんです。当時仲のよかった子と一緒に。初めて来たホールだったんで、子供っぽい探検ですね。そしたら、奥にある部屋のドアが半開きで、中を覗いてみると、机とか椅子とか看板とかいろんな物がはいっていて。そっと二人で忍び込んで、置いてある古いポスターとか見てると、廊下の方で、話声と足音が近づいてきたので、あわてて大きな机の後ろにかくれたんです。ドアを開けて入ってきたのは、顔は見えなかったけど、大人が二人、話している内容から審査員の人たちって分かった。具体的な言葉はもう正確には覚えていないけど」


『ああ、疲れる。延々と下手くそな演奏聴かされて、ほめるコメント書かなきゃいけないのは大変』

『しょうがないでしょ、天才とか神童なんてのがそうそう現れる訳ないし』

『そういう子が教室にいたら、箔がついて経営安定するのにな』

『地道に行かないと。下手だろうななんだろうが、レッスン料払って下さる親御さんが、もうやめると言われたら大変だもの』

『音楽やっている子の家は、大体裕福なとこで、お世辞言われ慣れてるから、こっちが歯が浮くような事言わないと満足してもらえなし』

『そうそう、ちょっとでもいい成績とってもらわないとね。顧客満足度ってやつ?だからって、露骨な採点もできないし、できたら別の教室のお子さん、失敗してくれないかなって願っちゃうな』

『それそれ、ミスすると、やったーって思っちゃう』


「そんな話をした後、笑いながら部屋を出て行きました。机の陰から出てみると、タバコの匂いが残っていて、こっそり吸いに来たんだって分かったんです。わたしは話の内容に驚いて、『信じられない、あんな人もいるんだ』ってその子に言うと、『普通だよ、そんなの。お母さんたちもよく言っているし。わたしだってコンクールの時、他の人が失敗すればいいといつも思っている』。わたし、その言葉にもショックを受けて、『え、わたしにも』『ちがうよ、友達にはそんな事思わないって。前のコンクールとかでいい成績とっていい気になってる子とかだよ。それにわたし、音楽なんて大嫌いだし、元々。お母さんに無理やりやらされているだけだよ。娘がヴァイオリン弾いてると鼻が高いとかで』もう頭の中がぐちゃぐちゃになった」

 多英は頭をかかえて、

「わたし、音楽をしている人は、誰もが音楽が好きって思い込んでいたんです。子供っぽい純粋さなんですけど」

 あふれ出る涙を指でぬぐった。

「今思えば、それが全て本心って訳でもないし、そういう人もいるんだなって、流せばよかったのに。まあ、小さくてそれが出来なかったんでしょうね」

「ひどい。多英さんは誰より音楽が好きなのに」

 佐紀が多英にしがみついて泣きだした。

「ありがとう、佐紀さん」

 多英は佐紀の頭をなでる。

「その日から、わたしヴァイオリンが弾けなくなったんです。家族は突然の事に驚いて、お医者さんに連れていったりしたけど、本当の事は話せなくて」

 いずみを見つめて、

「以前、ヴィオラ始めるのが早いってすごいって言われましたが、本当はそうじゃないんです。ヴァイオリンが弾けなくなって、その時両親がヴィオラの演奏会に連れて行ってくれて、衝撃受けて、それでヴィオラは弾けるようにはなったんです」

 多英は佐紀の肩を持って顔を上げさせる。

「でも、いざよく知らない人の前で、それも音楽にかかわっている人たちの前で弾こうとすると、この人たちは本当は音楽なんか大嫌いなんだ、わたしが失敗するように祈っているんだ、そういう考えが頭の中いっぱいになって、腕が指が動かなくなってしまって」

 多英は手元のヴィオラをなでる。

「でも音楽は好きで、ヴィオラは続けたくて、先生の紹介があって、思い切って家を出て、ここに来たんです。すみません、個人的な話をしてしまって」

「ううん、話してくれてうれしいよ」

「そうだよ、そんな気持ちだったとは全然知らなかった」

「ごめんなさい、多英さん。そんな事とは知らないで、いろいろ連れまわしたりして」

「全然そんな事ないです、いずみさん。うれしかったんです。みなさんのおかげで、自分ひとりじゃできないこと、行けない場所に連れて行ってもらって感謝しかないです。なのにこんなことになってしまって、みなさんに迷惑をかけてしまってすみません」

「あやまることじゃないよ、迷惑だなんて思っていないよ」

「そうだよ、あやまらないで。だって、わたし、多英さんのヴィオラ、好きだから」

「わたしたちの前では普通に弾いてくれてるの、それってうれしいな」

「みなさん音楽が好きっていうのが分かったから。最初はよく分からなくて、みなさんが音楽をどう思っているのか分からなくて。聞くのも怖かったんですけど」

「そういえば、最初、佐紀は苦手そうなタイプに見えたなあ」

「まあ、それはうすうす感じてはいましたが。みえない壁というか、何というか」

「いえすみません、わたしの悪い癖で、先入観で人を判断して。でも、佐紀さんと一緒にいたら、そんなのは誤解だったってすぐ分かりました」

「ならよろしいです」

「おお、上から目線だな」

「だって今は大切な友達だもん」

「わたしは、多英さんは無理をする必要はないと思う」

 いずみは力を込めて言い切った。

「賛成だ。出場辞退でもかまわないよ」

「わたしは出たいんです、本心は。みなさんと演奏できて楽しい。少しでも長く演奏していたい。出なかったら、もう演奏できなくなる。それは嫌なんです。でも、ここのような音楽の専門家、演奏家の前で弾くのが、怖くて怖くてしかなないんです。そんな人はいないって、信じたいけれど」

 多英の心からの叫びだった。

「多英さんが、どうするか決めたらいい。どっちを選んでもかまわない」

 杏子も佐紀もうなずいた。


 第二次審査の日が来た。レイクスホールの控室には、いずみ、杏子、佐紀。自然と約束の時間よりもずいぶん早く集まっていた。多英はまだ現れない。

「多英さん、来てくれるかな」

「絶対に来る、必ず」

「信じて、待つだけ、それだけ」

 集合時間ぎりぎりになって、ようやく多英はやってきた。疲れ切った顔をして。荷物を置いて椅子に座り込んだ多英の周りに集まる三人。顔を伏せたままで、

「わたし、自分を変えたい。このままじゃ嫌なんだ・・・」

 しかし、頬は青ざめたまま。その切迫した声に、誰も何も返せない。控室は沈黙のまま、言葉をかわす事もなく、時間だけが過ぎていった。

「エントリーナンバー7のみなさん、準備が終わったら舞台袖に移動してください」

 進行係の生徒が声をかけてきた。

「どうする。時間だ」

 いずみは、多英の冷たくて固くなった手をとった。

「多英さん、聞いて。わたしね、この学校に転校してきて、本当によかったと思っている。だって、みんなに会えたから。これまで、わたしの周りは、みんな大人ばかりで。一緒に演奏して、それはそれで楽しかったのだけれど、それは音楽仲間ではあったけれど、友達じゃなかった。でも、今は違う。一緒に笑って、泣いて、困ったり、喜んだり、はしゃいだり、同じ時間を共有しているみんながいる。だから、最後はみんなで演奏したい。途中で止まってもかまわない。わたしは多英さんと同じ舞台に立ちたい。それだけなの」

「そうだよ」

 杏子も手を重ねた。

「一人じゃないんだ。今はわたしたちがいるんだ。もう一人になんかしない。わたしは、多英さんの音楽が、ヴィオラが聴きたいんだ」

 佐紀はもうぽろぽろ涙をこぼしながら手をそえて、

「いやだよ、わたし、多英さんと一緒に弾きたいよ。一緒じゃなきゃいやだよ。ここまで来たのは多英さんのおかげなんだよ」

「お前が泣いてどうすんだ」

 そう言う杏子の目にも涙がにじんでいた。

「だって、だって、いやだよ。いやなんだよ」

「ごめんね、みなさん。最後の最後に迷惑をかけてしまって」

「全然迷惑なんかじゃないよ」

「あやまらないでよ、お願い」

「そうよ、それにこれが最後じゃない。最後じゃないから」

「ありがとう、みなさん」

 多英はやっと顔を上げた。

「じゃあ、」

 いずみは、すっと息を吸い込んで、

「歌おう、みんなで」

 そしていっそう強く手をにぎりしめた。

「絶対に離さないから」


 歌の翼に 憧れ乗せて 雲を渡って 海の向こうまで

 花は咲き乱れ 月は輝き まどろみ誘う 水の流れ

 夜のとばりは 夢をいだく 夜のとばりは 夢をいだく


「さあ、行きましょう。楽しい音楽が始まるよ」


エピローグ


 秋の日のおだやかな午後、川沿いに立つインディゴホールの前の公園は、スズカケの金色に染まった葉で一面に覆われていた。その落葉を踏みしめて、ホールへ向かう人々の中に、一組の老夫婦がいた。手をつないで、お互いをいたわるように歩いていく。

 インディゴホールは、かつてこの川岸に建ち並んでいたという倉をモデルにした外観を持つ。鮮やかな藍色の外壁は、暖かな陽光に照らされて輝いている。

 少しだけ石の階段を上がったところにあるホールの入口には、「美称音学園高等部 秋の演奏会」と書かれた立て看板が置かれている。二人は電子チケットで入場して、受付係の生徒から琥珀色のパンフレットを受け取る。ホワイエで立ち止まり、ページをめくっていると、出演者の紹介の箇所で手が止まった。

「ねえ、あなた、この子たち、覚えてる?」

「ああ、たしか、春頃、繭山の上で会った」

「そうよ、弦楽四重奏って、言っていたわね」

「オーディションに合格したんだな」

「演奏曲目は、エルガーの弦楽四重奏曲ですって」

「それは聴いたことないなあ」

「楽しみね」

「楽しみだ」

 うなずきあう二人は、分厚い扉の向こうへ消えていった。

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おとのいずみ ふじもりあきら @AKFM2025

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