『一行で足りる話』
その日は、春にしてはやけに風が強かった。
国道沿いの並木道を抜けた先、川沿いのカフェのテラス席に、僕たちはそれぞれの時間を抱えて集まった。クオリアの神経相関を追い続ける僕と、哲学を途中で降りた無職のソウタ、そして物語を語れなくなった編集者のマコト。年に一度だけ、何となく集まる。理由はない。そういう友達付き合いだけが、いまだに僕たちを人間らしく保っていた。
「クオリアはどうだい、最近」
最初に口を開いたのはソウタだった。カップのコーヒーをくるくる回しながら言った。
「何とかね」
僕は曖昧に笑って、湯気の向こうで川面を眺めた。対岸の桜はもう散りかけていて、春のくすんだ光に、舞い落ちる花びらだけが白く浮かんでいた。
「解明できそうか? 〝感じる〟ってやつをさ」
「まあ……半分くらいは」
「へえ、そりゃすごい。世界の半分を理解した男ってわけだ」
マコトがにやりと笑って、新聞をぱたりとテーブルに置いた。表紙には、また新しいAI革命のニュースが踊っていた。人間を超える、意識を持つ、愛を知る──そんな文字が、あくびを誘うほど無邪気に並んでいる。
「でもさ」
ソウタが言った。
「もしクオリアが完全に解明されても、俺たちはたぶん、あいかわらずコーヒーの味とか、失恋の痛みとかを、まともに説明できないままなんだろうな」
誰も答えなかった。窓の外で風が、川面を細かく震わせていた。
「……で、赤って、どうして〝赤い〟んだと思う? 」
ソウタが言った。トーストの耳をちぎっては口に運びながら、まるで天気の話でもしているみたいな顔だった。マコトが黙ったまま煙草に火をつける。僕は、カップの中で冷めかけたコーヒーを一口啜ってから、言った。
「波長が620~750nmくらいの可視光を、網膜が受け取って……って話じゃなくて? 」
「それは〝赤〟じゃん。〝赤さ〟じゃない」
ソウタはすぐに返した。
「脳の中の視覚野V4が活性化すると、赤として認識される、ってことはわかる。でもさ、そのとき俺が感じてる〝赤さ〟って何? それ、どこにも記録できないじゃん」
「それがクオリアだろ」
僕は言った。
「記録できない主観的経験。脳の状態と一致しない、内側の質感ってやつ」
「じゃあ、わかんないまんまってことか」
ソウタはまたパンの耳をちぎった。
「ま、安心したけどな。お前が〝赤さ〟を完全に理解したとか言い出したら、いよいよ人間辞めたかと思うとこだった」
「やめたくても職場が人間しか雇ってくれないからね」
僕が返すと、マコトが笑った。
「……赤ってさ」
マコトがぼそりと言った。
「俺、高校の頃に書いた小説で、ヒロインが赤い傘差してるシーンを三ページくらいかけて書いたんだよ」
「自分で黒歴史掘り起こすなよ」
ソウタが鼻で笑った。
「でも当時の俺はさ、言葉で〝赤さ〟を伝えたかったんだよ。読んだ人が『ああ、この赤ね』ってピンと来てくれるように。でも、全然だった。編集者に〝冗長〟って言われて、一行に削られた」
「人のクオリアは一行だってさ」
ソウタが小さく笑う。
「せつねえな」
「まあ、一行も残ればいい方だよ」
マコトは煙を吐きながら言った。
「最近じゃ、俺の原稿なんか誰も開きもしないし」
誰も言葉を足さなかった。川沿いのカフェには、午後の光が斜めに差し込んでいた。
「それでも……」
僕はぽつりと言った。
「人間は〝感じてる〟わけでしょ。赤を見て、赤いと思って、何かを思う。その〝何か〟を知りたくて、ずっと研究してる」
「でも、お前自身の〝赤さ〟は、今も説明できないまんまじゃん」
ソウタは言った。
「それ、楽しいの? 」
僕は飲み干したカップを置いて言った。
「どうかな」
「……でも不思議だよな」
「こんだけわかんねえこと話してるのにさ、なんか……気持ちは、伝わってんのな」
ソウタが、空のカップを見ながら言った。
僕は少し考えてから、言った。
「うん。たぶん、それでいいんだと思う」
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