第5話 静かな咀嚼

 朝もやが立ちこめる山奥。谷の底から這い上がるように湿気が満ち、わずかに冷えた空気が土の匂いを膨らませていた。


 八重山蒼樹やえやまあおきは、黙ってホースの蛇口をひねった。冷たい水が散水ノズルを通って、畝に向かって均等に噴き出す。朝露に濡れた葉の上で、水滴が丸く弾けるたび、ほんのり甘い芳香が立ちのぼる。


 鼻歌交じりで淡々と作業を続ける彼女の視線が、ふと畑の隅へ滑った。


 ツルニチニチソウの植わる一角。その土が、他の列よりわずかに盛り上がっている。しかも表土の均しが雑だ。根元の形がいびつで、表面に異物が沈んだような不自然な沈みも見える。


「……また雑にやってくれたわね。あの男」


 ため息とともに眉を寄せた。昨夜遅く、渡貫空郎がこっそり運び込んだ死体ブツ──予告はあったが、相変わらず始末が悪い。センサーの記録がなければ朝まで気付かなかったかもしれない。あれほど“埋めるなら区画を守れ”と伝えているのに。思わず額を指で押さえる。


 ──先日、山で捕獲した素材は実に具合がよかった。


 泣き叫ぶ声は喉を割くようで、のたうち回り爪で地面をかく仕草は一匹の獣のようだった。筋肉は極限まで緊張し、唾液のpHすら測定に値する変化を見せた。苦悶と恐怖に彩られた死体は、優れた分解素材だ。土壌微生物との相性もよく、菌糸も活発に伸びる。


 対して空郎の“それ”は──


「……音もなく、冷えてて、つまらないのよ。あんたが持ってくるのは」


 思わず声に出てしまった。あの男の持ち込む死体は毎回酷い。薬に毒されていたり、心臓が止まって久しいものばかり。振動がない。声もない。匂いに切迫感がない。ただの肉塊。それでも金払いだけは悪くないから、断りきれない。人間性は最悪なのに。


 八重山はホースを止め、畝にかけられた布を整えると、温室へ向かった。

 温室の奥、研究棟の一角。鉄扉の向こうには、通気と遮光を精密に制御された処理室がある。


 机に置いてあったゴム手袋を装着し、分解処理中のサンプルへ近づいた。半透明のアクリル水槽の中、すでに輪郭を失った死体──いや、“養分”は、変性ハエトリグサと土壌改良菌群の作用で徐々に繊維状に分解されつつある。


「サンプルNo.044。投入から18時間経過。体表は70%崩壊。骨格への浸潤開始……」


 淡々と記録を口にし、記録カメラに視線を向ける。補助的に培養している“溶食アガパンサス”が赤みを帯びているのを見て、僅かに口角が上がる。


「ふふ……今日は調子がいいわね。苦味成分が強いのかしら。心臓部の分解反応、早すぎるくらいだわ。ねぇ、美味しい?」


 まるで観葉植物の成長でも眺めるように、穏やかな目をしている。


 モニタを切り替えると鮫淵組からの申請メールが届いていた。処理依頼内容は“複数体”、処理日程は“できれば本日中”──随分と急だ。


「またあの人たち……ほんと、急ぎすぎなのよ。畑だって生き物なんだから、こちらもそれなりに準備が要るのに。」


 愚痴をこぼしながらも、承認メールを定型文で返す。報酬の一部前払いを確認して、端末を閉じようとしたそのとき。


 ──ピッ


 モニターが切り替わる。山中セクションD、熱感知センサー反応。監視カメラが自動で対象を追尾する。映ったのは、布を被せられた何かを背負う影──人のようだが、形がまだ不明瞭。


 八重山は静かに眉を上げた。


「……あら、鮫淵の人達にしてはずいぶんと早いわね。搬入ルートも違うし…さては困った侵入者さんね?」


 にんまりと笑みを浮かべ、ゴム手袋を外す。

 そして、温室の隅に立てかけてあったバイオツールを手に取りながら、静かに呟く。


「さて。今度の獲物は、どんな“声”で還るのかしら」


 朝もやはすでに晴れ、陽光が畑を照らしはじめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

GAME over GAME 歯車壱式 @Haguruma_Hitoshiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る