第10話 事務屋と鍛冶屋①

 トナリ市には公衆浴場が多くある。


 監督官に薦められたのは、ロムレス市にある上等の浴場にも負けぬ素晴らしい風呂だった。天井のガラス窓は美しく室内を照らすし、柱に彫られた全能神ユピテルの彫刻やモザイクで壁に描かれた建国の王ロムスの神話の一場面などは、どれも美しい。


 何より、新鮮で温かな湯がたっぷりと張られている浴槽が最高だ。

 溢れんばかりに張られた湯に肩まで浸かると、全身が快感に包まれた。足の先まで温まる感覚に、自然と口元が緩む。隣ではチタルナル監督官が、同じように大きく息を吐いている。


「やはり風呂は良い。鬼殺しにやられた怪我はどうだ?」


「見てのとおり、もう大丈夫です。骨はつながったし、痛みもありません。昨日のうちに神殿に運んでいただいたおかげです」


 記憶が少し曖昧だが、昨日、私は鬼殺しに叩きのめされたらしい。

 その後チタルナル監督官の駆る馬で、すぐにトナリ市内にある医神の神殿へと運ばれたようだ。気が付いたら神殿で横になっていた。


 お陰で、しっかりと神へ祈りを捧げ、治癒魔法を使える者の手当てを受けることが出来た。寄進を節約しなかったので、首元に僅かな痣が残っているものの体に問題は無い。


「それは良かった。で、今日はどうする? 一日予定を空けているから、何にでも付き合えるぞ」


「ありがとうございます。では、ベルチ執政官への根回しをお願いできますか? 鬼殺しのジョーを竜征官に就けるよう説得してもらいたいのです」


「鬼殺しを竜征官に……昨日もそう言っていたな。君自身でなくていいのか?」


「はい。理由は二つあります。一つは、私が不適当だからです」


「そうは思わないが」


「いえ。長くトナリ市を離れていたという設定のシム・ロークは、トナリ市民とはいえ、この街に友人や知人がいません。そのような人物が組織を率いて議会との折衝を行うというのは、難しいでしょう」


「……うむ」


「二つ目の理由は、ジョセフィーヌ・クインという人物です。彼女の剣腕は、私が今まで出会った誰よりも優れています。そして人々を守りたいという心根に偽りはありません。何より、この町で名が売れています。彼女の方が適任と言えるでしょう。もちろん……」


「もちろん?」


「強力な権限を持つ護民官は、何としても味方にしておきたいという打算もあります。護民官を長に据えてしまえば、その拒否権が発動されることはありません。竜討伐の軍が行動を阻害されることは無くなるだろうという下心です」


「なるほど。それももっともだ」


 さらに加えるなら、単に好みの問題だ。私は二番手以下が良い。責任者となって人の耳目を集めるのは、苦手なのだ。

 とはいえ、こういった弱気の類は侮蔑の対象になるので、あまり表には出さないようにしている。


「分かった、やってみよう。だがベルチ執政官の護民官嫌いは、筋金入りだ。あれに名誉と官職を与えるとなれば、政治的にも感情的にも反発があるはずだ。拒否される公算は高い」


「ええ、分かっています。チタルナル監督官でも説得が無理なら、誰にも出来ないでしょう。潔く諦めます」


 必須の条件というわけではない。そうなれば、やり易いというだけだ。


「他に何かあるか?」


「はい、二つあります。まず一つ目、腕の良い武具職人を教えていただきたい」


「武具職人というと、対竜用の装備を準備するのか?」


「はい。少し特殊な作業ですので、腕の良い方をお願いします」


 私の言葉に、監督官は少し考えこんだ。


「武具商組合の組合長なら紹介できる。ロンギヌスという名で、武具を多く取引している。たしか、元老院の仕事も請け負ったことがあると言っていた。戦神マルスの神殿近くに大店を構えているはずだ。私の名前を出せば、通じるようにしておこう」


 そう言って浴槽の脇に控える従者に、手で合図をした。従者は一つ頷くと、すぐにどこかへと去っていった。おそらく、話を通しに行ったのだろう。

「ありがとうございます。二つ目は、竜征軍の人選です」


「どれだけ集める? 編成は?」


「とりあえず、100人。内訳は、重装歩兵50、そして弓と投げ槍の軽装歩兵50。それとは別に建築や土木作業の技術者を可能な限り多く」


「たったの100? それに技術者というのは?」


「竜を相手にするため、特殊な装備を持たせる必要があります。本当に特殊な物なので、用意できるのは100人分が限界でしょう。ですので、その人数で勝てる策を用意します。土木作業の詳細については、後ほどゆっくりとご説明します」


「分かった。魔法使いなどは、どうする?」


「魔法使いや僧侶、神官のうち、技術と精神を信頼できる者がいればお願いします。数より、質が欲しいです」


 魔法使いと名乗る者の中には、何の効果も無いまじないで高額の謝礼をせびる輩もいる。竜退治に求められるのは、竜に確実な痛撃を与える魔法使いや、兵の傷を癒す奇跡を行使できる神官だ。

 それほどの実力者は、トナリ市ほどの大都市であっても、数えるほどしかいないだろう。


「そのあたりは、監督官である私こそ適任だ。任せてくれ。市民名簿から選りすぐろう」


「ありがとうございます」


 チタルナル監督官は笑顔でざぶりと立ち上がった。


「仕事が山積みだな、楽しくなってきた。私は早速、ベルチ執政官に会いに行こう。のんびりしている暇は無さそうだからな」


 確かに、あの竜の様子を見るに、あまり時間はないだろう。周囲の物を次々と食べつくして、都市へと近づいてくるはずだ。準備が進めば、夜を徹しての作業も必要になるだろう。


 しかし風呂は別だ。風呂に入らなければ死んでしまう。これは必要なことなのだ。そう、必要なことなのだ。


「では、そちらはお願いします。私は、ひとまずジョセフィーヌ・クインに会おうと思います」


「護民官に? 昨日、骨を折られたばかりだろう?」


 チタルナル監督官は、興味をそそられたように眉を持ち上げた。昨日の昼までであったら、顔をしかめていただろう。大した進歩だ。


「ええ。昨日は協力の返事を頂けましたが、少し有耶無耶になってしまいました。確実にしておきたいのです」


「そうか。ああ、奴に悪さをする奴が現れないよう、私の方でもいくつか手を回してある。貴族連中の全てを掌握しているわけではないので、完ぺきではないだろうが、君の言が反故にされない程度には意味があると思う」


「ありがとうございます」


 監督官が影響力を行使するなら、ひとまずは安心だ。もちろん私の方でも、こっそりと彼女のために手を配っている。


「鬼殺しなら、中央広場か戦神マルスの神殿、あるいはコロッセウムあたりを探せば会えるはずだ。その辺りで、毎日欠かさず体を鍛えている。その後に武具商組合へ向かうなら、ちょうど話が伝わっている頃合いだと思う。では、今日は別行動だな」


 連れ立って浴室を出て、体に付いた水分を綺麗に拭き取り、香油を塗り込むと服を身に着けた。私はチュニックにズボンで、チタルナル監督官は相変わらず真っ白なトーガだ。

 端正で精悍な顔立ちに輝く金髪も相まって、光明神アポロンが降臨したかのような思いさえ抱かせる。


 公衆浴場を出て彼と別れると、まずは鬼殺しのジョーを探して街を歩いた。


 浴場からマルス神殿までは、私の足で歩いてもすぐだった。神殿前の広場では大きな石を上げ下げしたり、短剣を振ったりと、訓練する者達がいる。


 その中に、鬼殺しことジョセフィーヌ・クインもいた。

 例の長剣を、何かの型をなぞるように振り回している。動きに合わせて、指輪や首飾りが美しく黄金に輝いている。

 彼女とはぜひとも協力関係を築きたい。そのためには、誠実に向かい合うべきだろう。


 人の間を縫って、ゆっくりと彼女に近付き、声をかけた。

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