29話

『只今より、女子800m競走を行います』


 緊張が走る。手汗が酷く、いつもよりグリップ部分が湿気を帯びてる様に感じる。そんな中、俺はかのかの姿を探すと彼女はアウトフィールドで体をすとれストレッチをしていた。後藤からの事前情報によると4組目。5レーン。

 電子式のスタート音が響きつつ、あっという間に、彼女のレートなった。背後に迷惑のかからないかを確認し、立ち上がると、カメラのレンズを彼女に向ける。


 スターターがピストルを頭上に上げた。それと同時に生唾を飲み込む。その瞬間、乾いた音が鳴り響いた。


 同時に選手達が一斉に走り出す。俺は夢中でシャッターを押し続ける。彼女は一気に後続を放す走りを見せた。初めて彼女の走りを見たが、姿勢や流れる様に前へと駆ける足周りが、綺麗で無駄がない。思わずシャッターを切るのを忘れてしまいそうになる。

 

 そんな彼女は、一周目を1位で通過し、その勢いそのままで2周目に突入する。差は少し詰められているものの、このまま行けば準決勝に進める。


 しかもタイムがすこぶる良いのだ。すると回りの観客がざわめき始める。このままのペースでいけば、高校記録を塗り替えてしまうのではないかというのだ。周辺から聞こえる声に胸の高鳴りを覚え、気を引き締めレンズを覗く。また予選からそんな記録が出るかもしれない状況に観客達も沸き立ち始めている。


 熱視線を送る観客が見守る中、レースは終盤。ゴールまで後、100mを切った時だった。レンズを覗き、かのかを追っていた筈が、いきなりフレームから彼女の姿が消えた。


 慌てて、直視すると、彼女が、両膝をついていたのだ。

 どよめく競技場内。かのかはゆっくり立ち上がるも、後続に次々抜かされ、1位の選手がゴールを迎えた。


 一瞬頭が真っ白なったものの、すぐさまカメラのレンズを彼女に合わせる。すると彼女は立ち上がり、天を仰ぐ。そして右足を引きずる様にし、少しずつゴールへと進む。その顔は痛みで顔がゆがんでいるのがわかる。


 瞬時に胸が締めつけられ、唇を噛みしめた。今すぐにでも手を差し伸べたい。ただ、それは彼女が許さないであろう。案の定係員が彼女に声をかけに行くも、断りゴールを目指す。

 

 ここで手を借り、棄権となれば、記録が残らないのだ。その事情は理解している。だが、痛みに耐えて進む彼女を見ていられない。


 その時、ふと先日母親が話してくれた事を思い出した。戦場カメラマンは真実を伝える事であり、その時、助けを求める者がいたとて、その現状を残す為に、助ける前にシャッターを切るのだという。

 勿論その後すぐに救助にあたるにしても、人の惨劇を撮る行為にいつも懺悔するという。

 それと同時に、目を反らしてはいけない真実を周知してもらうという本分があるからこそ出来るのだと母は苦笑して言っていた。


(多分今が近しい状況なんだろうな……)

 

 瞬時に頭に浮かぶ言葉。だが、今はただひたすら、シャッターを切るしかない。そんな中、かのかはゴールに近づいていく。


 どよめいていた観客からは拍手が起こり始めている。彼女はそれらに後押しされるように、出来いる限りの早歩きをする。10m、5m。ゴールは眼前に迫り、拍手喝采が起きる。

 

 そして彼女がゴールと共に両手に拳をつくり、肩上まで上げと共に、先の苦痛の表情から一変満面の笑みを浮かべた。


 夢中でシャッターを切る中、俺の視界は徐々にぼやけ、連写を止める最後の方は、フレームに捉えている彼女の輪郭しかわからなかった。




 まだ多くの人が行き交う中、医務室の前だけは何故か静かだった。俺は腕章を後藤に返し、そのまま医務室へと向かう。

 あの後、かのかは係りの人の肩を借り、医務室へと向かった。マネージャーと後藤は彼女と会ったらしく、思ったよりすがすがしい顔をしていたという。 

 まあ本人的にはやりきったのは間違いない。あの最後の顔を見ればわかる。すると、廊下に顔見知り3人が、医務室から出てきた。一様にどこか陰を感じる様な空気が漂いつつ、俺に気づく事なく、反対側へと歩いて行った。

 その背中を見送り、俺はドアをノックする。すると、中から声が上がり、医務室に入った。すると、祖父が経営している接骨院同様カーテンで仕切られた区画が5区画あり、その窓際奥に医務員がいた。


「どうしました?」

「すいません。友人がこちらに」

「佐藤君?」


 声だけ聞けば至っていつもと変わらない。


「ああどうぞ。さっきも友達来てたのよ。1人結構元気の良い学生いたわ。まあでもここに運ばれて来てるの、彼女だけだから良いだけどね。後、申し訳ないんですど、連絡あって、直ぐに戻りますが、本部にいかなくてはいけなくなってしまったので出てきます」


 そう言い、奥のカーテンを開いてくれた。そして医務員は退室する。俺は会釈をしその区画を覗く。すると、背もたれにタオルが駆けられたイスが一つ置かれ、その向かいベッドに座り、足を冷やされているかのかが居た。


「さっき、渚達がきてくれたんだけど、合わなかった?」

「出てく背中は見た」

「そっかーー にしても準決勝ぐらいまでいけるかなって思ったんだけどね。テーピングもがっちり固定して、サポーターもしてたし、痛み止めも飲んだんだけどね」

「でも途中までは高校新のペースだったらしい」

「そうだったみたいだね。後藤先生が言ってた…… でもそれ聞くと悔しいな」 


 その後視界を下に向け、暫く押し黙ると、いきなり俺を見た。


「そうだ。碧映君。無理言って写真撮ってくれて有り難う。で、どんな感じ?」

「ああ」


 そう言いバッグから本体を取り出し、彼女に液晶を見せた。


「凄いよく撮れてるね」

「液晶が小さいからちゃんと出力すればもっと鮮明になる」

「そっかーー」

 

 すると一枚の写真をじっと見ている彼女がいた。


「…… 私、ゴールの時こんな笑顔してたんだね」


 そう言うと、顔を俺の方に向け、笑みを浮かべる。すると、瞳から一筋の涙が落ちた。


「あ、れ…… 私……」


 すると、その涙は止まる事なく、次々と流れる。


「私っ」


 俺は立ち上がり、背も垂れにあったタオルを彼女の頭から被せた。そして、小刻みに揺れる頭をゆっくりと撫で、自分の胸元に押し当てる。彼女の息と、そして涙で服が濡れる感覚全てを抱きしめる様にもう片方の腕で肩を抱く。するとかのかは俺の服を両手で掴む。そしてか細い声を上げた。


「頑張ったよね。私っ」

「ああ」


 すると堰を切ったように声を出し泣く。俺はそんな彼女を再び強く抱きしめた。


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