「善人というものは……」
三雨ぬめり
善人というものは
男が椅子に座り、にこやかに微笑みを携えながら、男から見て正面にある椅子に座っている青髭の男に、至って冷静に話し始めた。
「わたしは、善人というものは、スルスルと喉をついて褒め言葉が出るものだと思うのです」
「それは何故か、お聞きしても?」
「ええ。勿論構いません。わたしが思うに善人というものは、皆、人を褒める言葉を山のように持っていて、良いことをすればその語彙を使い、悪いことをすれば優しく正す、そのようなものだと思うのです。」
「──優しく正す、とは、具体的にどういう」
「悪しきを悪しきとただ糾弾するのではなく、悪しきは間違いと教え、叱り飛ばすのではなく言葉を尽くして誤った者の背を撫で、再び良いことを出来るようにしてやることにございます。」
「それでも分からない場合はどうするのですか?」
男は男に尋ねられ、首を傾げもせずにまた冷静に、男の言葉にこたえた。
「その場合は、善人は親のように寄り添うのです。優しさと慈しみをもってして、誤ちを犯した者をしっかりと正してしまわれるのです。」
「しかし、どれだけ言っても改心しない悪心を持った人間も世の中には居るでしょう? その場合も善人は寄り添うのですか?」
「ええ、例えそれが根っからの邪人とて──ああ、わたしは決して性悪説を否定するつもりはございませんが──善人はしっかりと傍に寄り添い正すのです」
「そうですか。では聞きますが、あなたは善人と言えば、誰を思い浮かべますか?」
男は微笑みを湛えたまま、はいはい、少しお待ちくださいね、と反対の椅子に座った男に言った。
反対の椅子に座った男は、背をしっかり伸ばして、少しも猫背や貧乏揺すりのみっともなさを感じさせない、生真面目そうな男を見ながら青髭を撫でた。
数分待った。
青髭の男が言った。
「すみません、質問を変えてしまってもいいでしょうか。」
「分かりました」
「では、またお聞きしますが、あなたは自身を善人と思われますか?」
「全く思いません。」
今度は男は即答した。青髭の男が顎に手を置いて青髭を撫でて、それはまたどうしてですか、と聞いた。
生真面目そうな男は色が白く、落ち着いた黒髪で、見るからに温和そうなうりざね顔の好青年といった容貌をしている。彼が、彼の語る善人のように優しく人を褒めたり、正したりしていると言ったとて誰も疑わないだろうし、彼の語る善人とは実は彼自身の事なのだと言ったとしても、そうだったのか、と納得されるだろう。それくらい人の良さそうな顔をしていた。
なのに、彼は自分は善人ではないと否定したのだ。
「──わたしは人に優しくできぬたちなのでございます。泣く子を見れば腹が立って、誰かの失敗を怒鳴りつけたくなるような、浅ましい人間なのでございます。一度怒るとわたしは、油を薄く塗りたくった皮膚の下に、乾燥した炭の詰まっているような、そんなふうに、カッと燃えてしまう。そんな私が善人などと、口が裂けても言えません。」
「私が思うに、それは、生きていれば必ず一度は誰しも抱く気持ちだと思いますよ。誰だって心に余裕のない時はあるでしょうし、他者に寛容になれない時は私だって勿論あります。」
「いえ、違います、そうではなく。わたしのこれは先程申したように、たちなのです。生まれついて髪が黒いのと同じような、性根なのです。わたしは人様に頭を下げて生きていくべき、情けない人間なのです。」
「でも、それでも善人は悪いことを正すのでしょう? なら、あなたは善人の方が居れば、頭を下げずに済むのではないでしょうか。」
「勿論、善人はわたしのようなものを正道に戻します。ええ、戻します。戻すのですが」
そこで初めて男は口篭った。ええ、ええ、と汗を流して、その汗をポケットから取り出したハンカチで拭きながら、何度も何度も口篭る。それを見ながら青髭の男は、男に助け舟を出してやった。
「生まれついた性根は変わらない、いえ、変わり難いものだ、ということですか?」
「──ええ、そうです。そうなのでございます。善人と言えど、生まれついてのものを変えるのは出来ないのです」
「おかしいですね」
青髭を撫でながら、男が表情を変えずに続けた。反対に、生真面目そうな男は困ったように血色のない肌から更に血の色を無くして汗を流した。
「なにがですか」
「あなたの発言です。先程は『根っからの邪人でさえ善人は正せる』と言いましたが、今は『生まれついたものを変えるのは出来ない』と仰られましたね。」
「ああ、それは」
「まさか嘘をつかれたのですか?」
「いえ、違います、ち、誓って本当に、わたしはただ言葉を間違えてしまったのです」
「間違えた?」
「あ、ああ──ああ、申し訳ございません、」
男は椅子から転げるように立ち上がろうとして、その後すぐに脱力したように泣き崩れ落ちた。哀れな程涙を流した男は、何度か嗚咽混じりに言葉みたいなものを口から漏らしながら、申し訳ございません、と謝り続けた。
それに青髭の男が傍にしゃがみこんで、優しく声を掛けた。
「──田中さん、大丈夫です、わざとではないのは分かっていますよ。すみません、こちらも言いすぎました。気が済むまで泣いてくださいね」
「あ、ああ、申し訳、ございません、申し訳ございません──申し訳ございません──」
青髭の──白衣を着た男は、患者服の田中と呼ばれた、生真面目そうな、今は泣き崩れた男に声をかけた。
白衣の男、即ち医者は嗚咽を聞きながら思考する。
──彼は青年の頃に、両親からの過度な虐待により心を壊して、それ以降この精神病棟でこうやって時折認識に対する治療を受けながら、薬の効果で半端に正気に戻りかけたりして過ごしているのだ。前回は枕を医者と思いながら"善人の話"を続けていたから、今回はマシかと思ったが、やはり今回もダメだった。
手元の紙のカルテの項目にバツを付けて、医者は深くため息を吐いた。
「善人というものは……」 三雨ぬめり @nmnmklll
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