三つの魂の調和 裏切りの仮面

 午前四時。断崖の祭壇では、蒔田が激怒の声を響かせていた。

「貴様、最初から騙すつもりだったな」

藤原は二挺目の拳銃を構えながら、妻と娘の前に立った。血を流す足で踏ん張り、家族を庇うように両腕を広げる。

「三年間、俺は復讐のことしか考えてこなかった」

藤原の声は震えていたが、その瞳には迷いがなかった。

「でも、本当に大切なのは守ることだったんだ。麻衣と由香を、そして仲間たちを」

蒔田は冷笑した。

「美しい改心だが、もう遅い。契約は成立している。巫女は我々のものだ」

「契約書をもう一度読み返せ」

藤原は懐から血に染まった紙片を取り出した。

「『巫女引渡の権は学者に属す』と書いてある。俺は神崎に権利を委譲した。お前たちに巫女を渡す義務はない」

蒔田の表情が歪んだ。

契約の条文を悪用されたことに気づいたのだ。

「法的な抜け穴を突くつもりか」

「そうだ。元警察官として、契約書の重要性は身に染みて知っている」

藤原は銃口を蒔田に向けた。

「麻衣と由香を解放しろ。それが条件だ」



同じ頃、黄泉神社では緊迫した対峙が続いていた。

村人たちが神社を取り囲む中、女将が群衆の最前列に立っている。その手には、先ほど落とした包丁が再び握られていた。

「皆さん、落ち着いてください」

沙夜が両手を広げて制止を試みたが、村人たちの興奮は収まらない。

「高槻さん、あなたも共犯なんじゃないですか」

山本が詰め寄った。

「研究者が来てから、村がおかしくなった。そして、あなたも最近変わりました」

「確かに私は変わりました」

沙夜は静かに答えた。

「でも、それは村を守るためです」

その時、女将が一歩前に出た。

「皆さん、もう十分でしょう」

女将の声は、これまでの慈愛に満ちた調子とは全く違っていた。冷徹で、どこか計算的な響きがある。

「女将さん?」

山本が困惑した。

「十五年間、この村で情報を収集してきました」

女将は包丁を高く掲げた。

「八岐会のために」

村人たちは驚愕した。信頼していた女将が、まさか敵の一員だったとは。

「貴女が…」

沙夜は震え声で呟いた。

「はい。神崎さんの一挙手一投足、すべて報告してきました」

女将は冷笑した。

「優しい女将を演じるのも、今夜で終わりです」



社務所では、悠真が円環盤の前で必死に星座の配置を調整していた。藤原の銃声が遠くから聞こえ、時間が残り少ないことを痛感している。

「姉さん、僕はもう迷いません」

悠真は勾玉に手を触れた。これまでのような幻視ではなく、温かい光が心を包んだ。

「あなたを失った悲しみも、罪悪感も、すべて受け入れます。でも、それに縛られることはもうしません」

円環盤の南十字座を示す赤い珠が、静かに光を増した。悠真の内面的な成長を感知したかのように。

「沙夜さんを、村を、みんなを守ります」

その時、外で女将の告白を聞いた悠真は、急いで境内に駆け出した。



「沙夜さん!」

悠真が境内に現れると、女将は素早く包丁を沙夜に向けた。

「来るな。一歩でも近づけば、巫女を殺す」

村人たちは混乱していた。事態の展開についていけず、ただ恐怖に震えている。

「女将さん、なぜこんなことを」

悠真が問いかけた。

「なぜって?」女将は嘲笑した。

「この村の人間は皆、単純で騙しやすかった。特にあなたは、私の優しさを疑うことすらしなかった」

「確かに僕は騙されました」

悠真は一歩前に出た。

「でも、それは人を信じることの大切さを知っているからです」

「甘い考えね」

女将が包丁を振り上げた瞬間、後方から銃声が響いた。

藤原が断崖から戻ってきたのだ。足を引きずりながらも、的確に女将の手首を狙撃し、包丁を弾き飛ばした。

「三人揃った」

藤原は苦痛を堪えながら笑った。

「これで封印を完成させられる」



午前四時十三分まで、残り五分。

三人は円環盤の周りに立った。悠真が南十字(学者の星座)、藤原が大熊(戦士の星座)、沙夜が琴座(巫女の星座)の位置に就く。

「僕は姉への執着を手放します」

悠真が南十字の赤い珠に手を触れた。珠は温かく光り、悠真の心から重い鎖が外れるような感覚があった。

「俺は復讐心を捨て、守ることを選びます」

藤原が大熊の青い珠に触れると、長年胸に燃え続けた炎が静かに鎮まった。

「私は個人的な愛を、すべての人への慈愛へと昇華させます」

沙夜が琴座の金の珠に触れた瞬間、境内全体が柔らかい光に包まれた。

三つの星座が完全に一直線に並び、天空に巨大な光の三角形が描かれた。



円環盤から立ち上がった光の柱が、神社全体を包み込んだ。村人たちは恐怖から解放され、安らかな表情を浮かべている。

「七重結界封印術、再構築開始」

沙夜の声が境内に響いた。しかし、その声は完全にイザナミのものに変わっていない。人間としての温かさを保ったまま、神聖な力を行使している。

光の柱は空高く伸び、黄泉の国と現世の境界を再び明確に区切った。村に現れていた死者の影は静かに消え、怪奇現象も止んだ。

「成功しました」

悠真が安堵の声を上げた。

「でも、沙夜さんは…」

振り返ると、沙夜はまだ人間の姿を保っていた。依代化は完了していたが、三人の絆によって人間性を失うことなく、神の力を制御することができたのだ。



断崖では、蒔田が敗北を悟っていた。封印が再構築されたことで、八岐会の計画は完全に破綻した。

「こんなはずでは…」

蒔田は歯噛みしたが、もはや打つ手はない。部下たちも動揺し、統制が取れなくなっている。

「藤原怜司、貴様のせいで…」

「俺のせいじゃない」

藤原は妻と娘を抱きしめながら答えた。

「お前たちが間違っていたんだ」

封印の光が断崖にも届き、麻衣と由香の瞳に生気が戻り始めた。完全な回復ではないが、確実に人間性を取り戻している。

「お父さん…」

由香の小さな声に、藤原は涙を流した。

「ただいま」



午前四時十三分。正確にその時刻に、東の空が白み始めた。

新しい封印の光は徐々に薄れ、神社に平安が戻った。村人たちは混乱から回復し、女将は気を失って倒れている。

「終わったんですね」

沙夜が微笑んだ。その笑顔は、依代としての神々しさと、人間としての温かさを併せ持っていた。

「はい」

悠真が頷いた。

「でも、これは終わりではなく始まりです」

三人は境内に立ち、昇りゆく太陽を見つめた。

藤原は家族を取り戻し、復讐心から解放された。悠真は姉への執着を昇華させ、真の学者として成長した。沙夜は依代の力を人間として制御し、村を守る新たな神職となった。

それぞれが内面的な成長を遂げ、真の絆で結ばれた三人。その調和こそが、古代の封印を現代に甦らせた力だった。



一週間後。

村は完全に平穏を取り戻していた。怪奇現象は一切起こらず、村人たちも日常生活に戻っている。

悠真は民俗学者として、この経験を学術論文にまとめることにした。ただし、超常的な部分は伏せ、地域の伝承と文化について記述する予定だ。

藤原は家族と共に新しい生活を始めた。妻と娘の回復は順調で、私立探偵として今度は人を救う仕事に専念することを決めた。

沙夜は黄泉神社の神職として、これまで以上に村人たちから信頼されるようになった。依代の力を持ちながらも人間性を保った彼女は、真の意味で神と人との橋渡し役となった。

三人の間には、困難を共に乗り越えた深い絆が生まれていた。それは単なる友情を超えた、魂の結びつきだった。

黄泉の鍵は再び厳重に封印され、神社の収蔵庫で静かに眠っている。しかし、それは単に閉じ込められているのではなく、三人の意志によって制御されているのだ。

夕日が境内を染める中、三人は本殿の前で話し合っていた。これからも協力して、この地域の平安を守り続けることを誓いながら。

物語は終わったが、三人の新たな人生は始まったばかりだった。

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黄泉の鍵 @azarashi_suki

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