幻視痛

 不思議な夢に魘されていた。天井に時計が貼り付いている。枕元にあるべきデジタル時計だ。これが夢であることは明白だった。示す時刻が明瞭に見えるのだ。寝覚めに確認するときは、眼鏡で忽ち目が冴えるのを嫌い、その液晶を眼球に押し当てる。だから、あんな遠くの時計など見えるはずもない。もしくは、天井が極めて低いか。六時二十八分。二秒、三秒、四秒……。一秒一秒が正確に刻まれている。ジジジジ。聞こえないはずの機械音まで目立つ。


 初恋の相手は右足が義足の男だった。丁寧な言葉遣いも、痩せていて肌に血管が浮くのもよかった。礼を言う際の笑顔を求め、彼の手伝いは進んでした。というか、利発な子どもが正しく歩けない様に興奮していた。地面に押し返されて僅かに弾む義足に、目が奪われる。勘づかれないよう横目でじっと見た。抑えている欲望に勃起させられると、口が半開きになっていることも自覚できて、やっと目を逸らせた。

 彼は時折、事故で失った足が痛むと言う。不可知は神秘的だ。かつての画家のように耳を削ぎ落とすのは恐ろしいが、幻肢痛を知れる機会が訪れたなら、生活の困難を甘受できるとさえ思った。何者にでも変身してしまえる小説を四六時中読んだところで、感情は模造できるが、感覚には手が届かない。誰も知らないアンドロイドの世界への憧れよりも、甘酸っぱい青春や異国の文化、麻痺する身体ないし異性の身体といった、この世で当然に実感している人も居る感覚を手掴みしたかった。

 成長期になって、幼少期から悪かった視力はますます落ちたが、これには多少の愉悦もあった。輪郭の結ばれない眠くなる視界と、レンズによってピントを合わせた鋭い視界とを日頃より往復できる。感じ取れる世界は二倍だ。

 照れて笑う彼にキスした。元の彼の性格と平仄が合わないのも気にしないで、喜んで受け入れてくれたことにする。それより、無理して立ち上がろうとする彼に手を貸す方がよいか。左に傾ぐ彼を支えるように抱き合う。それ以上はしたくない。女と寝るのより、きっと素晴らしい幸福があるはずだ。こうして純真を楽しんでいられるのは、本来の性を捨象して生きると決めたからだ。手に入らないなら、その方がよい。無理に近づけば幻想が崩れてしまう。見てはいけない。

 そう思った途端に、彼に押し倒された。顔が見えない。突然すべてのものが暈けてしまった。動けない。胸に秘めていた欲情を表出してしまえば、こうして幕が降りると判っていた。だからこそ、当時は嘘を吐いていたのだ。

 目の前に刃物が見えた。正確に言えば、鋒で光が反射するのを見た。もしかしたら硝子片などかもしれない。いずれにせよ、眼球から数センチメートルの場所に凶器があるのは具合が悪かった。持っているのが彼であるのもいけない。じわじわと光が近づいてくる。もう忘れてしまった彼の叫び声もする。何かを訴えているが、意味を捉える前に霞んでしまう。角膜に刃先が触れた。冷たい。左右どちらの目かを気にしていなかったが、これは左目だ。触覚を必要として初めて決める。刃は水晶体を通過して押し込まれる。熟れ過ぎた果実を親指で潰すように、液体が漏れ出していくのを感じる。映像には血が滲み、赤い無造作な欠損が全体へと徐々に広がった。そんな恐怖をどこか気持ちよいと錯覚する自分が不気味だ。痛い。機械音も止んだ。


 六時半のアラームで目覚めた。


 夢か現か判断の付かない感覚は、夢でしかしない。残念なことに、夢の中ではその事実を忘れて、現実もこれくらい曖昧なものだと誤認するが、覚醒した後の意識はエスプレッソほどに精緻であって、さっきまでのリアリティを次々と蒸発させた。名残惜しく思えるが、抗わないまま布団の温もりにしばらく身を委ねるのもよい。眼鏡を掛けて、隣に横たわる妻を眺める。昨夜は愛人の家に寄ったらしい。六時三十二分。五十七秒、五十八秒、五十九秒。起こさないように部屋を後にした。

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流離う耽譚ショート 樅木 霊 @dec25oct31

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