街角サインポール
プラットホームで背広の男を線路へ突き落としたくなる衝動のように、殊に望むでもなく立ち上る、忌むべき思考回路が存在する。その欠陥を誰しもが持つと知ったときは、心底安堵したものだ。いつか大罪を犯す狂人に違いあるまいと、独りきりで怯える青年期を過ごしたためである。しかし、安心と同時に人生に興醒めするような気分もした。教室のお笑いを葬る学級委員長の如く、大人になるという諦めを知らしめる灰色の知識だ。
散歩の道を変えたのも、かような無彩色をやり過ごすためだった。大通りは喧しいが、住宅街に入ってしまうと刺激に欠ける。私はどうにかして少しはおもしろい通りに出ようと歩み進めたが、寝室のための家屋が暫く続くだけだった。あと二つ曲がって変わらないなら引き返そうと考えた折、寂れた理髪店を見つけた。
店の前にあるトリコロールの円柱は年季が入っている。私はそれを見ると園児の頃の記憶に寄せられた。母と送迎バスを待つとき、目の前には常にそのポールがあって、際限なく昇っていくのが不思議で堪らなかったのだ。三色の歯磨き粉のように実は柔らかな素材であり、上部まで行けば内側を滑り落ち、再び下部で広げられているのだと、散々考えを巡らせた。私は大人に訊くのをせずに、一人で悩むのに興じていたが、毎日眺めていれば、遂にはその場で回転しているだけだと気が付く。途端に、縞模様が昇っていくようにさえ見えなくなった。
それが初めて見た灰色だった。私の想像した仕掛けの方がずっとおもしろく、ずっと魅力的である。そこで世界の方を変えてしまうことにした。サインポールは内側を使うものだと認識していても、暮らしを何も妨げない。ならば、そう信じてしまえばよい。要するに空想に耽る子どもになった。授業中に見上げる雲の上には確かに王国があったし、森に行けば河童の世界に通じる穴が必ずあった。やがて無価値な物語を生み、職もなく文壇の門を叩き続けるようになる。しかし、人や社会に罵られれば、前のめりな理性が癇癪を起こし、文学など馬鹿馬鹿しいと一蹴するのだった。それまでの人生の華やかさが今でも惜しい。
店の前で呆けていると、気さくそうな主人と硝子越しに目が合った。散歩に金を使いたくないが、汚い髪を見せびらかして逃げるのは気が引けて、扉を開けた。
私は理髪店という場所を疎んでいる。鋏を持つ人間が傍らに立つという状況に落ち着いて居られない。理容師が狂人であったなら、忌むべき思考回路に接続した瞬間、歯止めが利かずに首を掻き切られる。顔剃りに至っては、ほんの少し手元が狂えば血が吹き出る。出会ったばかりのこの男にどうして命を預けられようか。
長髪が食事に障れば自前で切るという粗雑な管理をするようになって久しく、店でシャンプーの匂いを嗅ぐと些か緊張感が走った。座るや否や主人は眼鏡を外すように言う。気に入りの鼈甲を預けるのも不快だが、鏡の中の詳細が判らなくなることには一層恐れがあった。とはいえ、神経症らしい怯える姿を晒すわけにもいかないから慣れた態度を演じる。髪型の名前を露も知らず、主人の裁量に任せると注文した。が、バリカンで剃って随分頭が軽くなれども、躊躇いなく切り進める様子に不安が募る。暈けた視界の黒髪を睨めば、明らかに毛量が少なすぎる気がした。
漸く返された眼鏡で確認すると、戦時中の坊やになっていた。予約客もなく、すぐカットできたことに納得する。もう顔剃りはせずに帰ろうと決めるには十分な出来だったが、妙にこの髪型を気に入った。見知らぬ人の陰口を集められそうであって、実に気安い。よく観察すれば左右非対称であり、単に主人の趣味の問題でなく腕も悪いのだと判って、それもよかった。
主人に激昂する文句を考えるだけして店を出る。後頭部の不揃いな刈り上げを撫でた。昇り続けるサインポールをちらと見て、あれが歯磨き粉ならどんな味がするのだろうと、舌を上下に動かした。
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