第8章:黒竜の葬送

 灰色の雲が空を覆い、かすかな風さえも凪いだように沈黙していた。

 

 竜のゆりかご。

 世界の果て、雲よりも高い孤峰の内部に広がる、竜族の聖域。

 

 その最奥部に、黒竜の亡骸は横たわっていた。

 

 その身体は朽ちることなく、まるで今にも目を覚ましそうなほど威容を保っていた。しかし、その鼓動は永遠に止まっていた。

 

 

 レイは、黒竜の大きな頭の前に立ち、剣を置いてひざまずいた。隣にはウィズとフィラン、少し離れてホリーと、黒竜の子――くろゆりがいた。

 

 

「待て、……何をするのだ?」

 

 くろゆりが低く問いかけた。声には棘があったが、その瞳にはまだ子どものような不安が揺れていた。

 

「ウィズが、黒竜に聖別の儀式を……」とレイが言いかけたそのとき、くろゆりの爪が地面を裂くように踏み鳴らされた。

 

 

「何様のつもりだ、人間!」

 

 くろゆりの怒声が空気を裂いた。

 

「貴様らに、母の亡骸を穢す資格など――!」

 

「待って、くろゆり」

 

 ホリーが一歩前に出て、静かに声をかける。その表情は厳しくも、どこか寂しげだった。

 

 

「わたしたちも……黒竜さまを悼む気持ちは、同じよ」

 

「……っ」

 

「許しもなく、聖別の儀式を始めようとして、すまなかった」

 

 レイは一歩進み、まっすぐにくろゆりの金の瞳を見つめた。

 

「だけど、このままでは――黒竜がアンデッド化して、この大陸全体に災厄が及んでしまう」

 

 静かな、しかし決して折れない意志を込めて、レイは言った。

 

「お願いだ。どうか、聖別の儀式を行わせてくれ」

 

 くろゆりはしばらく黙ったまま、レイの瞳を見つめ返した。やがて、その視線が斜め後ろのウィズに移る。

 

 

「……あいつに、できるのか?」

 

 レイはちらりとウィズを振り返り、不安を隠しきれぬまま問いかけた。

 

「ウィズ……できるんだろ?」

 

「当然だろ」

 

 ウィズは短く答えた。

 

「俺様は天才だからな」

 

 そう言って、ウィズは一歩、黒竜へと近づいた。彼の足元に広がる魔法陣が、静かに淡い青の光を灯し始める。

 

 

「これは……」

 

 フィランが目を見開いた。

 

「なんて術式を発動させるんだ……! こんな術、司祭では無理だ。枢機卿だって、何人使えるか……」

 

 それを聞いていたくろゆりの耳がぴくりと動いた。ウィズの前に展開されている魔法陣を、金の双眸がじっと見つめる。

 

 

(……まだいたのか。人の中に、この術を紡ぐ者が)

 

 その術式は古く、そして美しかった。魔族ですら畏れる、神代の調和と鎮魂の意志。その緻密な構造と光の波動は、まるで大切な者を真に悼む者の手からしか生まれえないものだった。

 

 

(母上に……この術こそ、ふさわしい)

 

 知らず、くろゆりの胸に熱いものが込み上げた。長き孤独の中で誰にも届かなかったはずの祈りが、今ここに具現化している。

 

(この術を紡ぐために、この人間は何を代償にしたのか――)

 

「だから言っただろ」

 

 ウィズは集中を崩さぬまま答えた。

 

「俺様は天才だって。ただ……この術にはちょっと欠点があってな」

 

 手を掲げ、詠唱を紡ぎながら、ウィズはかすかに笑った。

 

「“本当に”の敬意をもっていないと、発動しないんだ」

 

 その瞬間、空気が震えた。大地から立ち昇る光が黒竜を包み、まるで天から差す光が、彼女の眠りを静かに祝福しているかのようだった。

 

 

(……まさか、あの煩いだけの人間が)

 

 くろゆりは視線を落とした。

 

(ほんの少しだけ……見直してやっても、いいかもしれない)

 

 儀式は終わった。光の壁の中で黒竜は、まるで静かに眠るように横たわっていた。その胸の上には、巨大な魔石が淡く光りながら、ゆっくりと浮かんでいる。

 

 

 突如、くろゆりが一歩前へ出て、ためらうことなく光の壁へ手を突っ込んだ。

 

「……っ!? ちょ、くろゆり!」

 

 ホリーの声も届かぬまま、くろゆりは魔石を引き抜き、ウィズの前へ差し出した。

 

「……礼だ。持っていけ」

 

 その声音には、誇り高き竜の気高さと、どこか寂しさが滲んでいた。

 

 ウィズが小さく首を横に振った。

 

「それは……お前のものだ」

 

「恥をかかせるな」

 

 くろゆりはぷいと顔を背ける。だがその指先は、確かに魔石を差し出されたままだった。

 

 

 しばらくの沈黙のあと、ウィズはふっと笑った。

 

「わかったよ。……この魔石に恥じない魔術師になろう」

 

 空はまだ曇天のままだったが、風がひとすじ吹いた。谷の底、静かに眠る黒竜のそばで、ひとつの儀式が終わり、そして、次なる戦いの火種が、確かに手の中に宿っていた。

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