第5話 愛莉と共に精神科へ
その日の夜は、一人でいることがとても怖くなってしまい、しばらく俺は愛莉の部屋に滞在して、自分の部屋・●●●号室に戻った。だがその後、俺の様子を心配してくれた愛莉が、
「今日は私がこの部屋に泊まるよ!」
と笑って言って、俺の部屋に来てくれた。
2人でノートパソコンで適当な海外映画を見て、深夜、俺の部屋のシングルベッドで2人並んで寝た。とても狭かった。
愛莉か俺のどっちかが落ちるのではないかと危惧したが、幸い2人とも寝相が良かったため、2人とも床に落下せずに済んだ。
そして、朝を迎えた。
今日は、昨日愛莉と話したように、愛莉と2人で精神科に向かう日である。
月・水・金は俺の主治医が病院に居て、その曜日はいつでも予約なしで診てもらえる。愛莉との話し合いの結果、解離性遁走を自覚したことによる俺の今の状況を主治医にしっかり伝えようという話になった。今の俺の状況を把握しているのは愛莉しかいないので、愛莉も診察室に来てくれるそうだ。
そして、神奈川から猛スピードで群馬に引っ越してくれた愛莉は10代後半からずっと躁鬱病の持ち主であり、躁鬱の薬や眠剤や頓服薬が切れたらいけないので、愛莉も病院に行く必要があった。
今日はたまたま金曜日。俺の主治医がいる日で、2人で病院に行くには都合がいい。
◆
「あ、もしもし。すみません。寺沢愛莉という者なんですけど、X病院さんの方で初診を今日受けることって可能でしょうか? 私、ちょっと事情があって今日そちらでどうしても初診を受けたいんです。はい、はい。えっ、予約なしでも大丈夫ですか!? すみません、ありがとうございます。はい、じゃあ今日伺います。はい、失礼します」
朝の9時頃、愛莉は、俺が通院しているX病院にスマホで電話を掛けた。
電話を切った愛莉は笑顔で俺にこう言った。
「凄い親切だね、この病院。予約なしで初診の患者を診てくれる病院なんてあるんだ。普通は1か月とか平気で掛かるのに」
「かなり田舎の病院だからっていう理由もあるかもしれない。都会のでかい病院だと、こうはいかないよね」
「かなり田舎ってことは、ここから結構遠い病院なの?」
「だいぶ長いこと電車に揺られることになるよ。1時間半くらいかな。でも、群馬県内でいくつか病院を変えて、やっと俺が巡り合った最強の病院だ」
「最強なんだ。じゃあ早めに行こうよ。ちょっと部屋で準備してくるから、待ってて」
「うん」
「速攻で準備するから!」
そう言って、愛莉は勢いよく●●●号室から飛び出していった。
俺も病院に行く支度をしよう。風呂は昨日入ったので、適当に寝癖を直して、顔を洗って歯を磨いて、電動髭剃りで髭をそり、適当に新しいTシャツと短パンに着替えた。あと、院内はスリッパなので靴下を履いた。そしてエコバッグの中に財布やお薬手帳やマスクを入れて、準備完了だ。
それとほぼ同時に、愛莉が俺の部屋に戻ってきた。
「どうせ病院の中ではマスクするから、すっぴんで良いや」
愛莉は女性もののTシャツとハーフパンツに着替えていた。髪もサラサラになっていた。
「よし、優雅。今から急いで病院に行くよ!」
「うん。忘れ物は無い?」
愛莉は薄ピンクのバッグの中身を確認して、こう言った。
「うわっ! 危な! お薬手帳と財布忘れるところだった! ありがとう優雅! 取ってくるね!」
おい、必要なもの全部忘れてるじゃねえか……。
◆
俺は車の免許は持っている。一応軽自動車を所有しており、アパートの駐車場も借りているのだが、遠出する時は電車で移動している。そもそも俺は色んな精神薬を飲んでいるから車の運転ができない。精神薬を貰った時に付いてくる紙には、ほぼ100%の確率で「車の運転などは控えてください」と注意書きがしてある。薬を飲むと集中力が下がったり、ぼーっとするから、精神薬を飲んでからの運転は望ましくない。
よって、俺はほとんど電車移動しかしなくなった。
「今日も暑いね~」
と町を歩きながら愛莉が言う。俺たちは今、最寄り駅に向かって並んで歩いている最中だ。今日も今日とてクソ暑い。
「暑いなー。愛莉の体感だと、神奈川と群馬どっちが暑い?」
「群馬かな~。藤沢はここまで暑くないよ」
「そっか。いつか一緒に神奈川の藤沢に行きたいな。愛莉と俺が住んでた町に行ってみたい」
「そうだね。いつか一緒に行こう。私たちが生まれ育って、一緒に暮らしてた町に」
「うん。いつか」
◆
最寄り駅に到着し、切符を買って改札を抜けると、すぐに電車がやってきた。俺たちは電車に乗った。
平日の昼間という事もあり、車内はとても空いている。しかもめちゃくちゃ涼しい。
愛莉と俺は並んでシートに座った。
電車が走り出してしばらく時間が過ぎると、愛莉が俺の肩に頭を乗せて、くっついてきた。愛莉は俺の手を握ろうとした。それが分かったから、俺は手を広げて、愛莉と手を繋いだ。互いの指と指が交差する形で手を繋ぐ。俺の5本の指の隙間に、愛莉が5本の指を入れた。
その状態で手を握る。
「この車両、誰も人が居ないね。優雅」
「そうだね」
「こうやって優雅と電車に乗るの、めっちゃ久しぶりだよ」
「そっか。俺はこうやって愛莉と電車に乗るのは初めてだ」
「変なの」
「変だな」
「私は優雅の記憶が戻らなくてもいいと思ってる」
「愛莉が全部覚えてるから?」
「そうそう。躁だけに」
「俺は思い出したいことが沢山あるよ。愛莉のことは思い出したい」
「別にいいよ。思い出さなくて」
「思い出はこれからいくらでも作れるから?」
「そうそう。躁だけに」
「そっか」
「うん。私は優雅に6年ぶりに会えただけで嬉しいから。それ以上は求めない。思い出はこれから作ればいい」
「愛莉は前向きだな」
「優雅の方が前向きだよ。だって……」
「だって、なに?」
「なんでもない」
「なんでもないような事が幸せだよな」
「そうそう。躁だけに」
「それ、流行ってるのか?」
「いや、全然」
そう言って愛莉は笑った。俺も笑った。
「私は優雅のこと好きだよ」
「なんだよ急に」
「思ってること言っただけ」
「愛莉」
「ん?」
「俺って愛莉に対して、好きとか伝えるタイプだった?」
「LINEでは大好きとか言うくせに、口では全然好きって言ってくれなかった」
「そっか」
「多分照れ臭かったんだろうね」
「わざわざ言葉にするまでも無かったんじゃない?」
「知らない。私も優雅の心の全てを知ってたわけじゃないからね」
「俺は俺のことに関して、愛莉が知ってることしか知らない」
「私から見て、優雅より優しい人はこの世にいなかった」
「そんなことない。世界は広い」
「世界は広いって言うけどさ、人間が一生の中で見れる世界なんて、ほんのごく僅かなんだよ。出会える人の人数だって、かなり限られてる」
「それもそうだな。あと愛莉も優しいよ」
「どこが?」
「行方不明になった俺を6年も探してくれた」
「それは、優雅が6年かけて探す価値のある人間だからだよ。どうでもいい人なら探さない」
「ありがとう」
「なんかずっと電車に乗ってたい気分」
「最初、俺は愛莉のことを幻覚だと思ってた。もし幻覚だったらどうしよう」
「幻覚じゃないよ。あと、最悪幻覚でも別に良くない?」
「なんで?」
「この世で本当に価値のあるものは、目に見えない事が多いから」
「ん?」
「私、優雅と再会するまでの6年間で、優雅のことを考えなかった日は1日も無かった。苦しかったけど、私にとって本当に大切なものが何なのかに気付けた。苦しかったけど私にとっては大切な日々だった」
「……」
「幻覚も実体も、別に大差ないよ。精神的に満たされてるかどうかが大事なんじゃない? それに私だって、優雅が幻覚なんじゃないかって疑ってるよ。だって会えると思ってなかったんだもん」
「そっか。俺は幻覚じゃないよ。ここにいる」
「幻覚でもいいから、もう私から離れないでね」
「うん」
◆
『正常な体温です』
『正常な体温です』
女性の機械音声が2連続で鳴る。
X病院に入ってすぐの位置にある、体温を自動で測定する装置が、愛莉と俺の体温を正常だと判断した。
病院に到着した俺と愛莉は、下駄箱に靴を入れ、スリッパに履き替えた。
待合室は混んでいない。若い人が数人と、年配の人が数人いるだけだ。ここは大きい病院ではないが、日によっては混んでいることもある。たまたま空いていて良かった。
空調が効いていて涼しい。俺と愛莉はマスクを着けている。
俺は受付の事務員さんに診察券の入ったお薬手帳を渡し、マイナンバーカードを機械に通して受付を済ませた。
愛莉は事務員さんに、小声で、
「すみません。今朝電話した寺沢です。私、今日が初診なんですけど、佐藤優雅の付き添いで一緒に診察室に入りたいので、佐藤優雅の診察の後に私の診察をお願いしたいのですが……」
と言った。すると事務員さんは優しい口調で了承した。
俺と愛莉は空いている椅子に座った。前方の高い位置に設置されたテレビはとても音が小さくて、字幕がついている。いつも思うが、この病院の待合室に来ると心が静かになって落ち着く。
喋っている人は誰もいない。
左脇にある廊下を看護師や医師、薬剤師や看護助手などが往来している。
やがて愛莉が小声で、
「ねぇトイレってどこにあるの?」
と俺に訊ねた。
俺は軽く指を差して言う。
「そこを左側に真っすぐ進むとすぐトイレ」
「ありがと」
愛莉はトイレに向かった。
◆
愛莉がトイレから戻ってきて5分くらいが経つと、俺の主治医である山村先生が【2】と書かれた診察室へと入っていった。そろそろ俺の名前が呼ばれるはずだ。
俺は小声で愛莉に言った。
「あの先生が俺の主治医の山村先生。そろそろ俺の名前呼ばれると思う。今日は2番の診察室だ」
「そっか、わかった」
それから1分後くらいに山村先生のアナウンスで、
『佐藤さん、佐藤優雅さん、2番にお入りください』
と言われたので、俺と愛莉は立ち上がった。
俺が先に2番の診察室のスライドドアを開け、「こんにちは、お願いします」と先生に言った。すると山村先生は「こんにちは~」と言った。続いて愛莉が「お願いします」と言って、スライドドアをゆっくり閉めた。
「どうぞ、2人ともお掛けください」
と山村先生がさりげなく言う。初見の愛莉には特に触れる様子がない。
この診察室にはパイプ椅子が2個ある。俺と愛莉はほぼ同時に腰かけた。
「そちらの方は、初めましてですね」
と山村先生は笑顔で愛莉に言った。
すると、愛莉も笑顔で、
「あ、私は佐藤優雅の恋人の寺沢という者です。今日は付き添いで来ました」
と言った。
「そうですか」と笑顔の山村先生。
やがて山村先生は真剣な顔になり俺の目を見た。
「今日はどうされました? 佐藤さん」
「えっと、その、ちょっと説明が難しいんですが、自分は今まで6年間、解離性遁走を起こしていたみたいなんです。その状況を知っているのは今ここに居る彼女だけです。なので付き添いで来てもらいました」
「……ん、解離性遁走?」
山村先生はやや困惑している。すると愛莉が毅然とこう言った。
「私と彼は6年前まで神奈川県の藤沢市のマンションで同棲していたんです。ですが6年前、彼は自分以外の家族全員を事故で亡くした直後、突然行方不明になってしまいました。それ以降、私は彼のことを6年間ずっと探していたんです。私は警察に捜索願も出しました。そして彼が遠く離れた群馬県で見つかったのが、つい先日のことです。彼は警察に保護されて、警察から私に連絡が来ました。私はすぐ神奈川から群馬に引っ越しました。彼は、記憶が無いまま群馬県に来て新しい生活を始めていたんです。彼は過去の記憶をほとんど全て無くしています。今、彼は自分の置かれた状況に混乱していて、不安定な状態で、不安の発作も強いです」
「そうですか。彼は以前の記憶を全て無くしているんですか?」
「群馬県に来てからのおおまかな記憶は一応あるようです。ですが私との記憶や家族の記憶、学生時代の記憶も全く無いんです」
とまで愛莉が言うと、愛莉は俺の目を見て、
「他の記憶はどう?」
と優しく訊ねてきた。俺は愛莉の目をしばらく見てから、視線を移し、山村先生にこう言った。
「他には……子供の頃の記憶も無いし、社会人時代の記憶も無いし、自分がどういう人間だったのかという記憶もありません。自分は群馬県にいつの間にかいて、群馬県で生活基盤を作っていて、暮らしていたんです。それに疑問を感じていなかった。自分が全ての記憶を無くしていると自覚したのは、彼女が自分に会いに来てくれてからです」
「そうですか。今、混乱や、恐怖はありますか? 佐藤さん」
「はい。昨日、彼女の部屋で学生時代の卒業アルバムを見ても、何も思い出せなくて困惑したり、自分は誰なんだろうと思ったりしました。あとは、昨日の夜に急に不安に襲われて、一人でいるのが怖くなってしまって、頓服のロラゼパムを飲んで、すぐ彼女の家に行きました」
「今は近くに住んでいるんですか?」
「はい。彼女とは同じアパートに住んでいます。彼女がすぐ引っ越して部屋を契約してくれて」
「……“遁走”というのは逃避や脱走という意味です。稀な解離性健忘の一種です。解離性遁走は強いストレスや隠された強い願望などによって引き起こされます。佐藤さんの場合、ご家族を事故で亡くしたことによるショックがおそらく遁走の原因なのでしょう。自己同一性に関する混乱や過去の記憶について困惑が見られる場合、あるいは新しい自己同一性や、自己同一性の欠如について葛藤が見られる場合、解離性遁走が疑われます」
そこで山村先生は一拍置いて、愛莉にこう訊ねた。
「寺沢さん。家出する前の佐藤さんの様子を、覚えていますか?」
すると愛莉は、ちらっと俺の顔を見てから、山村先生を見て言った。
「家出直前の彼は、とても精神的に不安定な状態で、ずっと泣いているか、魂が抜けたようにボーっとしているような感じでした。私がどんな声を掛けても、それが全く彼には届いていないというか……。6年前の9月の中旬頃、同じマンションで夜に一緒に寝て、朝に目が覚めたら、彼の姿はもうどこにもありませんでした。彼のスマホはマンションに置きっぱなしだったから、連絡もつきようが無くて。それで1日経っても彼が帰ってこなかったから、私はすぐ警察に捜索願を出しました。彼は事故で家族全員を亡くしていて、親戚との繋がりも無かったから、身寄りが無かったんです」
「そうですか……。なるほど。とても心配だったでしょう、6年間も彼が見つからなかったのは」
「はい、とても心配でした。生きてるのか死んでるのかも分からなかったから……」
「でも、見つかってよかったですね」
「はい。全てが報われたような感覚です」
「今、佐藤さんの不安の症状が強いということですので、薬を少し調整してみましょう。量も今までより増やしてみて、それでしばらく佐藤さんの様子を見て、状態が悪化するようでしたら、いつでもすぐ来てください。現在処方している頓服の抗不安薬の強さや量も調整してみましょう。今後、佐藤さんの記憶が戻って、混乱や恐怖や不安がより強まる可能性もありますから、もしその辺りに変調があるようでしたら、いつでもここに来てください」
「はい」と愛莉。
「はい」と俺。
とりあえず、俺の薬の量が増えたり、薬の種類が少し変わったりするみたいだ。ひとまず、これで安心だ。正直言って、今は薬で自分を少しでも安定させるしかない。俺の記憶が戻らない以上、こうする他に選択肢が無い。もし記憶が戻ったら話は別かもしれないが。
やがて、話は愛莉のことに移行した。
愛莉は言った。
「あ、そうだ。実は私、今日がX病院の初診で……あの、私、双極性障害なんですけど、すごくバタバタして神奈川から彼のいる群馬に引っ越してきたから、今まで神奈川の病院で処方されてた薬を今日処方してほしいんです」
「そうですか。分かりました。佐藤さんの事もありますし、寺沢さんの診察は私が担当しましょう。では、一旦、佐藤さんの診察は終わりでよろしいですかね」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」と俺は言った。
「ありがとうございました」と愛莉。
「お大事に」と山村先生。
愛莉と俺は同時に椅子から立ち上がり、山村先生に頭を下げてから、2人で診察室を出た。
◆
椅子に2人で並んで座ると、小声で愛莉が言った。
「なんか雰囲気が優しくて話しやすい先生だね」
「良い先生だよ。薬を変更したい時とかも自分から『こういう薬に変えたいんですけど』って提案できるし、診察時間も、どれだけ時間が長く掛かっても診てくれる。あと、よく笑う先生。俺が変なこと言うと爆笑する。嫌味じゃなくてね。患者と対等な目線に立ってくれる先生」
「へぇ。私が通院してた藤沢の病院は、診察時間が5分って絶対決まってたし、薬の提案なんて、まず出来なかった」
「色んな病院があるな。精神科にも」
「そうだね。ここは良い病院だね」
「うん」
「あと私の主治医も山村先生になりそうで良かったよ。あと、私は初診だからめっちゃ時間かかると思うけど、待たせてごめんね」
「いいよ。どれだけ時間掛かっても」
そんなことを話していると、やがて山村先生が2番の診察室からのっそり出てきて、どこかに行った。おそらく事務室か薬剤室だ。山村先生は白髪で禿げていて小太りである。年齢はよくわからないが、60以上70歳以下という感じがする。
3分くらい時間が経つと、山村先生は再び2番の診察室に入った。
それから少し時間が経つと、
『寺沢さん、寺沢愛莉さん。2番にお入りください』
と山村先生のアナウンスがあった。
「行ってくるね」
「うん」
愛莉は立ち上がって、2番の診察室に入っていった。
愛莉が診察室から出てきたのは、約1時間30分後だった。愛莉が出てくるまで、俺はスマホもいじらず、ずっと無心でテレビを眺めてボーっとしていた。テレビによれば、日本の夏が暑いらしい。知ってる。
愛莉が診察を受けている最中に、俺が座る椅子の背後の受付の事務員さんが小声で「佐藤さ~ん」と俺を呼んだ。俺は薬や診察券が入ったお薬手帳などを受け取った。ちなみに俺の医療費はタダである。俺が住んでいる市は福祉に特化していて、特に障害者支援が手厚い。俺のような精神障害者には助かる助成制度が多い。
◆
俺が受付で薬を受け取って愛莉を待っている間に、椅子に座っている患者は俺と、あと若い女性1人だけになっていた。ここ最近、このX病院でも若い患者が男女ともに増えた気がする。
愛莉が診察室から出てきて、俺に近づいてきて、小声で、
「お待たせ~」
と言った。
「なんか思ってたより短かったな」
「そう? だいぶ長くなかった? 成育歴とか通院歴とか聞かれてたから、私は長く感じた」
「俺は、ぼーっとしてたから時間が短く感じたのかもしれない」
「そっか。まぁ今日はとりあえず無事に終わってよかったね。私もこの病院に通院することになったよ。山村先生が主治医になった。診察券も次回の通院までには出来るらしい。優雅はもう会計済ませた?」
「うん」
「じゃあ後は、私の薬を待つだけだね」
それからはお互い無言になり、2人共ぼーっとしていた。
◆
やがて愛莉の名前が受付の事務員さんから呼ばれて、愛莉は会計を済ませていた。
俺たちはX病院を後にした。
◆
俺たちは、帰りの電車に揺られていた。2人で並んでシートに座る。車両は空いているが、俺たち以外にも何人か人が居た。
俺は、ぼーっと車窓を眺める。青々とした緑の風景が高速で移り変わって流れていく。そして数秒前に見た光景は俺の脳の記憶から消えていく。俺たちの人生も同じようなものかもしれない。俺は人生がとても儚いものに感じられてならない。
いつか愛莉は死ぬ。いつか俺は死ぬ。いつか必ず。
「なんか切ないよな、人生って」
「どうしたの、急に」
「窓の外の景色を眺めてたら、急に切なくなった。高速で全てが移り変わって、愛莉も俺もいつか死ぬんだ」
「みんな死ぬのは平等だよ。私、思うんだけど、人間って生きてる状態が異常で、死んでる状態が正常なんじゃないかって思うの」
「ああ、それは俺も全く同じことを思ってる。3億くらいの精子の中から、たった1つの確率を引くのは、どう考えても異常だ」
「異常な奇跡が起きて、異常な確率で意識を獲得して、異常な奇跡が起きて私と優雅は今、一緒にいる」
「そうだな。異常な奇跡だ」
「喜んだり笑ったり悲しんだり泣いたりできるのは、生まれた人間だけだから、私はその全てを貴重な財産だと思ってる。喜びはもちろん、深い悲しみすらも財産なの。ネガティブもポジティブも全て生まれた人間だけの特権」
「へぇ、愛莉は悟ってるんだな」
「優雅が何年も前に私に言った発言の受け売りだよ」
「俺、そんなこと言ってたのか」
「うん。神奈川に住んでた時、優雅は私と一緒に海に行くと、ぼーっと海を眺めながら、俗世から離れたような事ばかり私に言ってたよ。それが面白いところでもあるんだけどね。でもそれと同時に、きっと優雅にとってこの世界は生きづらいんだろうな、とも思った」
「どういうところに俺の生きづらさを感じた?」
「優雅は世間のみんなが興味を持ってる事には一切興味を持たなかったの。逆に、誰も価値を感じないような事に大きい価値を感じてた」
「そうか」
「例えば、私が私のことを無価値だって言うと、優雅はいつも絶対それを否定した」
それからしばらく間が空いて、愛莉は静かに呟いた。
「……私ね、優雅に、一つだけ大きい噓をついてるの」
「なに?」
「アパートに帰ったら、ゆっくり私の部屋で話すよ」
「大事な話なのか?」
「大事な話」
「そっか、じゃあタバコでも吸いながらゆっくり話すか」
「あ、私の部屋は全面禁煙です」
「じゃあ俺の部屋で」
「うん」
~第6話に続く~
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