第7話-1 冷たい石
中間テストが終わって、六月の最初の土曜日。
あれから涼介が戻ってくることが多くなった。昼間はソラさん、夜に涼介というのがパターン化した。
ソラさんは向こうで意識がはっきりしたらしい。夜、あちらの世界で眠るときに、こちらで涼介として目覚めているようだった。
睡眠不足にならないか心配になるものの、本人は問題ないと言っている。噓かほんとうか、ぐっすり眠れて目覚めはいいと。
そういうところに時間のひずみがあって、過去と現代の時の流れるスピードがちがうのかもしれない。
今日は水族館に行く約束の日だ。
朝からよく晴れている。迎えに来てくれたのは、まぎれもなくソラさんだった。
「小春ちゃん、髪型!」
「ダメですか? 似合ってない?」
学校ではないから、いつもの三つ編みをやめてハーフアップにしてみた。アップにした部分は、お団子だ。ふたりきりで外で会うということに、力み過ぎただろうか。
「ダメとかではなくて、その……かわいい」
赤らんだ顔を見て、よかった、ダメじゃなかったと、力が抜けそうになった。
髪型だけじゃない。今日は、ほんのうっすらと桜色のネイルを施してある。
メイクの方法はまだよくわからないから、せめて爪の先だけでも、大人びてみたかった。それから、色つきのリップも塗ってみた。
背伸びがしたいと思うのは、まるではじめての私だった。
「じゃあ、行こうか」
「あ、はい! あの、向こうでは何日でしたか?」
「3月1日だったよ、昭和20年の」
こちらと向こうの時間の流れは、ほんとうに全然ちがうんだ。おまけに変則的。だからいったい、こちらであと何日後に、ソラさんの生きる時間での、東京大空襲が起きるのかわからない。それまでになんとかして、ソラさんが助かる方法を考えないとならないのに。
私たちは自転車で駅まで行き、いつもと同じ方向の電車に乗り、乗り継ぎ、目的地の駅にたどり着いた。
入場料をそれぞれが支払う。ソラさんの分も払おうとしたけれど、女性に出してもらうわけにいかないと言われ、だけど涼介くんのお小遣いを勝手に使うのも悪いから、小春ちゃんの分までは払えないんだ、というわけで各自が出した。
うす暗い館内へ足を踏み入れる。
「中は広くて暗いんだね。とっても幻想的だなあ」
「ですよね」
暗がりにぼんやりと照らされる水槽に、私たちは吸い寄せられていく。
「ほら、見て」
私は宝物を自慢する、子どものような気持ちになった。ソラさんならきっと、好きになってくれるはずだ。
「なにこれ!」
砂底から伸び出た細長い身体を、ゆらりゆらりと揺らす姿に、ソラさんは釘付けになっている。
白地に黒い水玉模様の細長い身体で、丸っこくてかわいい顔。
「ヘンな名前にヘンな動きだね。こっちまで、ゆったりしてくる」
「丈琉が大好きなんです、チンアナゴ。私も好きだけど」
「そうなんだね。いいね、すごく癒される」
「顔が、犬の狆(ちん)に似てるからなんだそうです」
「犬の! ああ、似ているかもしれないね」
無邪気に楽しむソラさんが新鮮だった。
来てよかったと思う。もっと一緒にいたい、もっといろんなことを見せてあげたい。
そしてソラさんのいろいろな表情を、もっと見てみたい。
しばらく水槽の前を占拠していたソラさんは、小さな子の「見えないよう」というクレームに、さっと場所を移動した。
歩きはじめ、ソラさんは右脚を引きずった。
「ソラさん? ここでは脚、大丈夫ですよ?」
「あ……そうだったね」
苦笑いして、両脚で闊歩する。
それから私たちは、優雅に泳ぐクラゲたちに魅了され、ペンギンたちの愛らしさに微笑みあい、ウツボの想像以上の大きさと獰猛そうなキバにゾッとした。
堪能した水族館を出てから、駅ビルの中のイタリアンカフェでランチをいただいているときだった。
「小春ちゃん」
パスタをフォークでくるくるすることに格闘したあげくに挫折し、頼んだお箸で食べはじめたソラさんが、思いだしたように私の名を呼んだ。
「今日、このあと、つきあってほしいところがあるんだ」
「どこですか?」
「ちょっと遠いんだけど、僕の家の墓参りに」
「お墓?」
きょとんとしてしまう。デートにお墓参りとは。そもそもやっぱり、これがデートといっていいのかわからないけれど。
「僕の家族が眠っているかもしれない。墓誌があれば、誰がいつ亡くなったかわかるでしょう? たいせつな人たちが、あの戦争を生き抜けたのか気になるんだ」
そうか、ソラさんのご家族が、この時代にもまだいるかもしれない。
「それに……ほんとうにここが、僕のいた時代の、延長なのかも知りたくて」
「どういうことですか?」
「だってほら。東京に大空襲があるっていっても、やっぱりピンと来ないよ。もしかして僕の時代の日本では、東京大空襲も沖縄の本土決戦も、広島と長崎の原爆投下も起きてなくて、戦争に勝っているかもしれない。今のこの世界は、ひとつの嘘の世界なんじゃないかって……ほんとうの世界は、子どもたちが苦しむことのなかった過去からつづく、明るい未来なんじゃないかっていう気がして」
それって、この世界がパラレルワールドということだ。
そう思いたい気持ちは理解できる。
ソラさんは、いや、誰だって、あの戦争がもっともっと悲惨なものになるなんて、信じたくはない。私だったらパニックだ。ソラさんみたいに、誰かにやさしくできないし、微笑んでもいられない。
「ソラさんて、強い人ですね」
つくづくそう思った。
「いつも自分より、誰かを思ってる。それって、お国のため、天皇陛下万歳って亡くなっていった兵隊さんたちと、ベクトルはちがっても、誰かを守りたいっていう気持ちはおんなじですよね」
「僕はそんな、心の広い人間じゃないよ」
困ったように言って、ソラさんがアイスコーヒーをすする。
「ううん。だって前にソラさん、教えてくれたじゃないですか。誰かを守る、まっとうな人間でありたいって。ソラさんはすでに、そういういうことができている、ほんとうに立派な人です」
「そうかな……ありがとう、小春ちゃん」
それから私たちは、なんとなく無口になった。
もしかしたら、ソラさんには向こうに、過去の世界に、だいじな人がいるのかもしれない。
なんの根拠もない。勘だった。
その人を守りたくて、その人を戦争で失いたくなくて、この現代が虚構であると思いたいのかもしれない。
そう考えたら、心の中が痛んだ。
これは嫉妬だ。そのだいじな人が、きれいな女の人だと思いこんでしまうから。
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