第二話:フィリア村の光と土の匂い
目を覚ますと、そこは私の部屋の
ベッドの上だった。見慣れた天井。
枕元のスマホ。夢……?
けれど、身体の軽さ、胸の奥に残る
温かい感覚。昨夜の疲労と胃の痛みは
嘘のように消え去っていた。
あんなに痛かった胃が、まるで最初から
何もなかったみたいに、静かだった。
起き抜けの倦怠感も、肩の張りも、
何一つ残っていない。
そして、あの神様の声が、
まだ耳に鮮明に残っていた。
『週末だけそこに遊びにおいで!』
時計を見れば、金曜日の夜八時を
少し過ぎた頃。会社を出たのが七時半。
いつもなら、この時間でも疲れ切って、
食事もせずに倒れ込むように眠ってしまうのに。
今は、不思議と身体が軽い。
体中を巡る血流が、
確かに私自身のものだと主張している。
私は恐る恐る、クローゼットの扉を開けた。
そこにあるのは、いつもの見慣れた服ばかり。
けれど、一番奥の壁が、
ほんの微かに、揺らめいているように見えた。
壁の向こうから、甘く、清らかな空気が
流れ込んできているような気がした。
まさか。
震える指で壁に触れると、
壁の表面が、水面のように波打った。
まるで、薄い膜が張られているかのようだ。
そして、その奥から、温かい風が吹き抜けてくる。
草木の匂い。土の匂い。微かに、花の甘い香りも混じっている。
意を決して、壁に踏み込んだ。
次の瞬間、私の身体は、
見慣れない景色の中に立っていた。
目の前に広がるのは、どこまでも続く、深い森。
頭上には、まばゆい陽光が降り注ぎ、
木々の葉の間から、光の粒が揺れながら落ちてくる。
ひんやりと澄んだ空気が、私の肺を満たしていく。
アスファルトの匂いも、排気ガスの臭いも、ここにはない。
ただ、土と、草と、木の匂いだけ。
身体の奥から、じんわりと温かい力が
湧き上がってくるようだった。
「すごい……」
思わず、声が漏れた。
足元には、柔らかい草が茂り、
その間を小さな昆虫が忙しそうに歩いている。
近くには、小川がさらさらと透明な水を流している。
水面に顔を映せば、そこにいるのは、確かに私だ。
けれど、なんだか、少しだけ、
顔色がいいような気がした。
目の下のクマも、心なしか薄くなっている。
夢じゃない。
だって、土の温もりも、水の音も、
こんなにはっきりしてる。現実より、ずっと、生きてる。
しばらく森の中を歩くと、
どこかで微かな、しかし規則的な金属の音が聞こえた。
その音は森の奥深くから響いてくる。
剣か、斧か――誰かが鍛錬をしているような、
力強い響きだった。
警戒しながらも、好奇心に抗えず、
音のする方へ少しだけ注意を向けた。
やがて、木々の向こうに、人の営みが見えてきた。
茅葺き屋根の家々。畑を耕す人々。
子供たちが小川で水遊びをしている。
絵本で見たような、素朴な村だった。
これが、神様が用意してくれた異世界。
言語理解のチートのおかげで、
村人たちの会話が、すっと頭に入ってくる。
不思議と、何の違和感もなかった。
まるで、ずっと前から知っていた言葉のように。
村の入口で、一人の女性が、私をじっと見つめていた。
少し離れた場所から、私が森の中から現れたことに
警戒しているようだったが、どこか好奇心も混じっている。
私はゆっくりと歩み寄り、にこりと笑いかけた。
「こんにちは」
私の言葉に、女性は少し驚いた顔をした。
「旅の方? この森の奥から来たのですか?」
優しい、けれど強い眼差し。
私は、完全に真実を話すわけにはいかないと判断し、
穏やかに答えた。「はい。少し、迷ってしまって。
道を探しているうちに、こちらへたどり着きました」
彼女は、村の長老の孫娘だと言う。
村の暮らしや、森の恵みについて、丁寧に教えてくれた。
「あの小屋? ずっと空き家で、畑ももう……」
彼女は言葉を濁したが、その視線は荒れた畑を向いていた。
「ここへ来るのは大変だったでしょう。
よければ、村で休んでいかれては?
私の家は少し手狭ですが、何かできることがあれば……」
温かい誘いに、心が安らぐ。
この村の人々は、見慣れない私を、
警戒しながらも受け入れようとしてくれている。
私は感謝を伝え、彼女に案内されるまま、
村の中へと足を踏み入れた。
村人たちは、私を珍しそうに見るが、
誰もが無闇に話しかけたりはしない。
皆、自分の仕事に勤しんでいる。
静かで、穏やかな人々だ。
ここなら、確かに心が休まるかもしれない。
現実の喧騒から隔絶された、本当の安息の地。
村のはずれに、少し荒れた小屋があった。
長老の孫娘が言うには、誰も使っていないという。
「ここを、お借りできますか?」
私が尋ねると、彼女は快く頷いてくれた。
小屋の中は、埃っぽかったが、風通しは良い。
簡単な手入れをすれば、すぐにでも住めそうだ。
小さな畑が併設されているのを見つけた。
今は固く、ひび割れているが、もし、
私の癒しの手を使えば……。
私は早速、畑に出てみた。
土は固く、ひび割れている。
これでは、作物は育たないだろう。
私はそっと、土に触れた。
癒しの手。
掌から、温かい光が土に注がれる。
すると、どうだろう。
ひび割れた土の表面が、
まるで呼吸をするように、柔らかく膨らんでいく。
僅かに土から、甘く、生命力に満ちた匂いがした。
私の腕に、微かな疲労感が走るが、心地よいものだった。
「すごい……本当に……」
思わず、声が漏れる。
疲弊していた心が、じわじわと満たされていくのを感じた。
達成感と、確かな喜び。
泥だらけになることも気にせず、夢中で土に触れ続けた。
この土なら、きっと、美味しい野菜が育つはずだ。
ここから、私だけのスローライフが始まる。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めた。
……でも、戻らなきゃ。
週末だけって、神様との約束だった。
名残惜しさを噛み締めながら、私は静かに目を閉じた。
次の週末が、今から楽しみになった。
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