週末だけ異世界で、あなたと老いていく―転移OLと不器用騎士の遅咲きスローライフ―

五平

第一話:終電と微睡みのその先で

午前二時。キーボードを叩く指が、鉛のように重かった。

液晶画面には、無慈悲な数字が並んでいる。

システムのバグ。また、徹夜か。

佐藤梓、二十八歳。都内IT企業のシステムエンジニア。

これが私の、日常だった。


数日前から胃がキリキリ痛み、昨夜からは頭の芯がずきずきする。

瞼は腫れぼったく、鏡を見ればそこに映るのは、生気の無い自分だった。

同僚たちはすでに何人か、ソファで毛布にくるまり眠っている。

私だって、今すぐ倒れ込みたい。

けれど、締め切りは明日。

顧客からの催促の電話が、耳の奥でまだ響いているようだった。


「梓さん、そこ、お願いできますか」

先輩の声が、遠くで聞こえる。

「はい、すぐに…」

唇がひび割れて、うまく言葉が出ない。

喉が渇いて、ペットボトルの水を煽る。

冷たい水が、焼ける胃にしみる。


――でも、誰かに助けてなんて、言えるはずもなかった。

弱音を吐いたら、全てが崩れてしまいそうで。

……結局、私はいつも、全部ひとりで抱え込んでしまう。


もう、何のために働いているのか、分からなくなっていた。

残業代? それは生活のため。

評価? それはただの数字。

夢とか、希望とか、そんなものは、とっくの昔に忘れた。

ただ、目の前のタスクをこなすだけ。

呼吸をするように、ただ、仕事をする。


ああ、このまま私、一体どうなっちゃうんだろう。

薄れゆく意識の中で、キーボードを打つ指が、ぴたりと止まった。

がたん、と椅子が音を立てる。

目の前が真っ白になった。

あぁ、ついに、終わったのか。

全てが、真っ白に――。


---


次に意識が戻った時、私はふわふわと宙に浮いているような、不思議な感覚に包まれていた。

身体は軽くて、痛みはどこにもない。

どこか遠くで、優しい音楽が聞こえるような気さえした。

目を開けると、そこは一面の白。

上下左右、どこを見ても真っ白な空間だ。

天井も壁も床もなく、ただ無限に広がる、光だけの世界。

夢? いや、これは現実ではない、それだけは直感的に分かった。


「おやおや、目が覚めたかい?」

突如、間延びした、けれどどこか楽しげな声が聞こえた。

声のする方を見れば、白いローブをまとった、ひげもじゃの老人が立っていた。

細い目元は笑っているように見え、人の良さそうな、しかし底の見えない雰囲気を纏っている。

ただの老人ではない。その佇まいには、全てを見透かすような、不思議な威厳があった。

けれど、どこか抜けていて、気の抜けた笑顔を浮かべている。


「あの、あなたは……?」

掠れた声で、どうにか尋ねる。声はまだ、私自身のものとは思えないほどかすれていた。

「私かい? 私はねぇ、この世界の……あー、そうだな、“調整役”みたいなものだよ」

神様、という言葉が頭に浮かんだ。心臓が、微かに跳ねる。神様、なんて、そんな馬鹿な。


「キミのこと、寿命が来たって勘違いしちゃってさ!

いやー、まさか君がそんなに疲弊してるとは思わなかったもんでねぇ。

てっきりお迎えが来たのかと! ゴメンゴメン!」

神様はそう言って、アハハ、と気の抜けた声で笑った。頭をガシガシとかいている。

勘違い? 私、死んだんじゃなかったの?

あまりにも突拍子もない話に、呆然とする私に、神様は続けた。


「まぁ、間違いは誰にでもあるものさ。私も完璧ってわけじゃないんでね。

そのお詫びと言っちゃなんだがねぇ、君にちょっとしたおまけをあげようか。まずはこれ!」

そう言うと、神様の手から、淡い光が私へと放たれた。

それは、まるで春の陽だまりのように温かく、私の身体にゆっくりと流れ込んでくる。

内側から、何かが満たされていくような、不思議な感覚だった。


「それが【癒しの手】だね。

触れたものの疲労や劣化を回復させ、品質を最高に引き出す能力。

ただし、ちょっと精神的に疲れるけどね、使いすぎには注意が必要だよ!」

その言葉とともに、光が私の胸のあたりにゆっくりと沁み込んでいく。

まるで、乾いたスポンジが水を吸うように、私の心身が癒されていくのが分かった。

体が温かい。


「それから、【異界の恵み】。

異世界で手に入れたものを、好きな時に出し入れできるポケットだよ。

無限じゃないけど、普段使いには困らないさ。

大量に入れるとちょっと頭が重くなるかもね?」

私の目の前に、手のひらサイズの小さな空間の歪みが浮かび上がっては消えた。

便利、と素直に思った。


「あと、【言語理解】。

これがあれば、どこへ行っても言葉の壁はないってわけだ。

会話はストレスフリーが一番だろ?」

頭の中に、まるで辞書を丸ごと読み込んだかのような情報が流れ込んできた。


どれもこれも、にわかには信じがたい話だ。まるで夢でも見ているかのように、現実感がなかった。

私が戸惑っていると、神様はにこっと人懐っこく笑った。

「まぁ、異世界と現実じゃ時間の流れがちょっと違うからね。

それに、癒しチートもあるし、のんびり暮らしたいでしょ?

だから、ついでに――寿命、ちょっと延ばしておいたわよ。

フフ、サービスの極みってやつだね!

“物語の都合”とかじゃなくて、“快適さの追求”ってことでね♡」


寿命を延ばした?

そんなことまでできるの?

思考が追いつかない私に、神様はさらに言葉を重ねた。


「そしてね、一番の目玉はこれさ!

君が心ゆくまでストレスフリーになれる場所を用意してあげたから、

週末だけそこに遊びにおいで!

最初は『週末限定』ってことでお願いね!

完全移住? そりゃまぁ……君の頑張りとか、世界の巡り合わせとか、人の想いの強さとかで……ルールが揺らぐことだって、あるかもねぇ。アハハ! ま、お楽しみに!」

神様はそう言って指を鳴らすと、真っ白な空間の中に、一瞬だけ、幻のような景色が浮かんだ。


それは、深い森の中。

陽光が木漏れ日のように降り注ぎ、木々の間から、温かい風が吹き抜けていく。

そして、その森の中に、一人の青年が立っていた。

黒髪に、落ち着いた青い瞳。

精悍な顔つきだが、どこか憂いを秘めた、優しい眼差しだった。


彼は、静かに風を受けながらこちらを見ていた。

一瞬だけ、目が合ったような気がして――心臓が、ふいに跳ねた。

胸の奥が、熱くなる。

これは、誰?

夢? 幻?

私の問いかけに応えるように、神様が満足げに頷いた。

口元は笑っているが、その瞳の奥には、すべてを見通すような、深い知性が宿っているように見えた。


「さぁ、そろそろ現実に戻る時間だ。

次の週末が楽しみだね!

ふふ、新しい人生の始まりだ!」

神様の言葉を最後に、突然、視界が真っ白な光に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る