049話_部屋に満ちる香りと妄想
セリアは指先を濡らし、
ジョーはすでに二手三手先を考えているらしく、火加減や鍋の配置を矢継ぎ早に指示してくるが、それに食らいつくようにセリアの手もまた迷いがない。
「そっちはローリエと真珠茸の香りを移したら奥の鍋に。火は少し弱めで。」
「はいよっと……あっちの鍋、もう沸いてきたけど?」
「あと一分。香りが立つ前に移すと台無しになる。」
「了解、ボスシェフ。」
茶化すような口調で返すと、ジョーの表情が少し和らいだ気がする。
そんな、ほんのわずかな表情の変化を感じ取るたび、セリアは肩の力がふっと抜けるような安心感を覚えるのだった。
鍋の湯気が立ちこめ、香辛料と出汁の匂いが部屋中に満ちていく。
戦場では、同じ湯気でも血の臭いと鉄の匂いだったのに、今はそれが、腹を空かせた仲間を迎えるための匂いに変わっている。
(もし傭兵を辞めたら、こんな生活も悪くないかもな…)
そんな考えがふと頭をよぎった。
傭兵だって永遠に出来るわけではない。
ケガをしたり、そもそも戦が無くなってしまえば傭兵はやめざるを得ない。
もしそんな事があったら…
せっかく皇女様と知り合えたのだし、このまま王城の料理人として雇ってもらおうか。
はたまた行商の料理人として、各地を旅して回っても面白いだろう。
そんなこんなで懐が温まって来たら、ジョーと二人で店でも構えて。
でもジョーの事だから、一つの場所に留まらず色々な大陸を…
(…いやいやいや!!ジョーは別にいなくたっていいだろ…!)
「―—セリア、鍋を火から上げて~」
「!?…わ、わりぃ…」
ジョーの声で我に返ったセリアは、急いで鍋を火から上げる。
「……なんかボーっとしてるけど、お腹空いてるなら先食べる?」
「ん、大丈夫なんでもない。ただ……」
ただ、こんな時間が、案外好きだなってだけだ。
言葉にはしなかったが、セリアは一度鍋の中を見つめると、また黙々と手を動かし始める。
そう、将来とかジョーの事がどうこうではなく。
今はただ、この忙しなくもゆっくりと流れる時間を、心往くまで堪能出来ればそれで十分だった。
「ジョー、これベヒモスの内臓だよな?…てきとうに捨てとくよ。」
「あっ、待って!それはテリーヌにしたいから、ひとまずそっち置いといて。」
「テリーヌ?なんだいそれ、教えてくれよ!」
ジョーがよく作る『フレンチ』は、この世界には存在しない料理だ。
それに近い料理はこの世界にもあるらしいが、ジョー曰く『フランスもイタリアも無いからなぁ~』との事で、ともかく、ジョーが我々の知らない料理をたくさん知っているのは確かだった。
そしてそんな『未知の料理』を知れる機会を、ここに来てからのセリアは毎日の楽しみにしていたのだった。
…料理名も調理方法も、異世界の言葉ばかりで未だに不明な部分が多いが…
「えっとねぇ…ちょうどいい容器があったら試してみようと思うけど…」
ジョーは四方形の土鍋を持ってきて、そこにベヒモスの背脂を敷き始める。
「うん…豚よりも脂が濃厚そうだね…ここにすりつぶしたレバーを入れて…」
初めて扱う食材のようだが、いつも通り慣れた手つきで容器に食材を入れて行く。
そんなジョーの姿をセリアは真剣な顔つきで見つめつつ、時折語られる説明や調理の流れを頭に入れて行く。
(この時間が永遠に続けばいいのにな…)
そう思った瞬間、その静寂を破るように扉の開く音がした。
「お腹空いた~おはよう二人とも!」
振り返ると、クレセリアが食堂へと入ってきた。
深紅の夜会服ではなく柔らかな薄紫の部屋着に身を包んでおり、やや疲れた様子ながらも表情はいくらか和らいで見える。
「おはようございますクレセリア様。先ほどまで自室で話し合いをしていたのでは…」
「そう、そしてマルチェロの説得から逃げてきたのよ。朝食を言い訳にね。」
そう言って苦笑するクレセリアに、セリアもジョーも思わず肩をすくめる。
「ジョー、私にも何か作ってくれるかしら?」
ジョーは少しだけ手を止め、一瞬クレセリアを見たかと思えば目線だけ上を見上る。
ごく短い沈黙のあと、彼は静かに頷いた。
「…うん、りょーかい。すぐに軽めのものを。」
その応えを受け取ったクレセリアの横顔は、どこか嬉しそうに、だが誇らしげでもあった。
……その様子を、セリアは黙って見つめる。
ルヴァン王国、第三皇女クレセリア。
最初はセリアとの地位や境遇の違いから、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
しかしその後、集団でただ一人の女性だったこともあってか少しずつ仲良くなり始め、最近ではクレセリアから気分転換にと『お人形遊び』として化粧やドレスを着させられたりもしている。
正直セリア自体も、女性の友人が出来た事は今まで無かった為嬉しいは嬉しいが…
クレセリアは言葉に出していないし、そんな素振りも見せていない。
でも、何となく感じる。
もしかしたらこれが『女の感』と言うやつなのかもしれないが…
この皇女様は、ジョーに特別な感情を抱いている。
それはまだ恋というには幼く、しかし信頼や羨望からは既に変化をし始めている……名付けがたい、強く静かな熱だった。
(……あたしの出る幕じゃないかも、ね。)
…いや、別にあたしはそういうんじゃないけど。
何故かこの2人が一緒にいる空間というものに、居心地の悪さを感じてしまう。
そして、そんな居心地の悪さを感じる自分に、心底嫌気がさしてしまう。
「セリア、貴方も一緒に食べましょう!」
「…えぇ、この料理を作り終えたらすぐ。」
セリアは小さく息を吐くと、再び目前の鍋に視線を落とすのであった。
異世界フレンチ~死神の皿は、運命を変える。~ 翌桧誰何(アスナロスイカ) @suika_asu
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