Vol.4【猫は私を見ていた】

平良 リョウジ

第1話

 猫は私を見ていた。大きくて丸い、黄色い眼で。

 私はぼんやりした頭でゆっくりとソファから立ち上がると、向かい側の窓際から猫がこちらを見ていることに気が付いた。色は黒。性別は雌。名前はまだ決めていない。私達家族にとってペットの名前などどうでもいいのだ。

 ふと見ると私が寝ていたソファにはもう一人誰かが寝転んでいた。長い髪に白いワンピース、頬には黒子が星座の様に並んでいる。

そうか。私は死んだのだ。

 私は寝転んでいる私の亡骸を撫でようとするが、その手はすり抜けていく。

 時計を見ると朝の4時を指していた。親と兄弟が起床する数時間前である。おそらく現在この家で起きているのはあの猫だけだろう。

 ふと気が付くと、亡骸を目の前にした私の意識はゆっくりと霧のように消滅し始めている。それは天国に飛ばされていく希望の「消滅」だろうか。それとも巨大な闇に飲み込まれ、押しつぶされていく絶望の「消滅」だろうか。私は死生観について考えたことはないが、一度消滅してしまったら現世に戻れる確証が無いことぐらいは想像できる。

 私は家族に最後の挨拶もできずに、このまま無惨にも人生を終えてしまうのだろうか。

私は何度も「お父さん! お母さん!」と叫んでみる。喉が裂け、血が出る程大きな声で。しかし、その声が届くことは無い。お父さんとお母さんは何も知らずにぐっすりと眠っている。

私はいつの日かやって来る死から目を背け、明日も朝を迎えられると思っていた自分を呪い続けた。私の中で悲しみと後悔の気持ちが土砂降りのように襲いかかる。でも、不思議と寂しさは無かった。

 猫は真っ直ぐに私を見つめている。真剣な眼差しというよりは、どこか間の抜けた眼であった。相変わらず何を考えているのか分からない子。いつも私が勉強している時に部屋にやって来て、本を齧ったり、パソコンのキーボードの上を歩いたりして邪魔をしてくる。私が布団で眠っている時だって布団の上で転げ回ったりするものだから一向に眠れない。私が晩御飯を食べている時は、食卓に跳び乗って何かしらおかずを盗み食いしようとする。家族のみんなはそんな猫に無関心で「可愛い子」と言うだけで何のしつけもしてくれなかった。一番被害を受けている私からすればたまったものじゃない。あの子はどうして私ばかりに構い続けるのだろう? あの子は今私が消えてしまうことをどう思っているのだろう?

 消える間際に、せめて映画みたいにエンドロールが流れてくれれば少しは気が楽になったのかもしれない。今までお世話になった人達全員の名前がずらりと並んで下から上へとスクロールされていくのを私は想像する。ところどころで私が赤ちゃんだった頃や、私の中学校の卒業式などの思い出の写真が現れては消えていくのだ。

 しかし、現実は非情である。もう私の意識は色を失い、透明なアクリルのような見た目となっていた。おそらくあとものの十数秒で消えてしまうだろう。

 猫はそんな私を見つめている。大きくて丸い、黄色い眼で。

私は言う。

「今まで尻尾を掴んだりしちゃってごめんね。晩御飯の焼き魚を分けてあげなくてごめんね。うっかり部屋に鍵をかけて閉じ込めちゃってごめんね。私も今まであなたに酷いことばかりしてきた駄目な奴だけど、本当はもっとあなたと仲良くしたかったの。そして、もっとあなたが何を考えているのかを知りたかった」

沢山の謝罪と願望の言葉をかけた私はふと自分の亡骸が横たわっているソファに目をやった。

何これ。悪戯? いや、違う。もしかして、全部分かっていたんだ。

思わず私の頬に雫が伝った。

「そっか。あなたは今日、私を見送るためにずっと側にいようとしてくれていたのね。それがあなたの考えていたことだったんだ。実はね、私の考えていたことは、あなたと一緒に魚を食べることだったの」


それが現世で彼女の魂が放った最後の言葉だった。

ソファと彼女の亡骸が着るワンピースには猫の毛が沢山引っ付いており、お土産の魚が置いてあったという。

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Vol.4【猫は私を見ていた】 平良 リョウジ @202214109

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