第2話 マイアミ・ブルーシーズ(The Blue Match)

 マイアミはラニウスの出生地ではないが、故郷ではある。

 地区の運動センターで開かれたマイアミ・ブルーシーズとフロリダ・ブッチャーズの合同試合は白熱していた。この手の話になると公式試合でもない所詮子供たちの運動サークルと侮るものが多いが、フロリダ・ブッチャーズとマイアミ・ブルーシーズの因縁は深い。特に親世代など前世の敵かと思うほどの熱量だ。

 とはいえ幸いにして、前世で互いの血で血を洗ったかもしれない彼らは、今世ではスポーツマンシップに則ってお互いをぶちのめすことを選んだ。実に文明的かつ民主的な決闘方法である。

「マーク、疲れてるな」

 コートチェンジのタイミングでうなだれて帰ってきたマークに、ラニウスは彼の水筒を差し出した。1リットルサイズの水筒には彼の親からの期待と彼のやる気が詰め込まれていたが、その重さは今やマークの疲れた腕や足をさらに痛めつけた。

「うん……」マークはタオルを頭からかぶり、観戦席にいるはずの両親の視線から逃げるようにラニウスの体の陰に座った。

 試合の状況はけっして良いとは言えなかった。コートを取り換えた反対側のフロリダ・ブッチャーズの観戦席はすっかり勝利を確信している。7歳のマークは小柄で、向こうの選手が若干九歳にしては大柄なのもあるだろう。

 第一試合のケビンは序盤に緊張して凡ミス連発し、強打型の相手に押された。2-6で敗戦したチームメイトの姿がなおさらマークにプレッシャーを与えている。

 ラニウスは腕時計を確認した。マークが再びコートへ戻るまで、ローカルルールであと10分ある(観客席の子供たちがしばしばトイレに立ったりはしゃぐためだ)。

「マーク、相手の選手は強いか?」

「強いよ……僕よりずっと大きいし、サーブを打ち返すと手が痛いんだ」

「だが打ち返せてる」ラニウスはマークの隣に座り、硬くなった手のひらをマッサージした。「君は相手より体重も軽いし力も弱い。だが打ち返せてる」

 マークは怪訝そうに口をすぼめた。ラニウスが促すと水筒のドリンクを飲む。

 ラニウスはコートのスコアボードを指した。3-5。状況は危機的だが、試合開始直後は0-3だったことをラニウスだけが覚えていた。

「君はさっきのセットで3点取った。一点目は相手のミス、二点目はボレーショット、三点目は相手がボールを追うのをあきらめた。その後、相手は強烈なサーブとスマッシュで二点連続で点を取った」

 マークが頷く。ラニウスも頷いた。

「相手は君を恐れてる」

「嘘だ、僕なんて怖くないよ」

「いいや」ラニウスはサングラスをちょっとずらして、歓声が上がる相手サイドを見た。「相手はわかっているんだ。君に粘られたら終わりだと。君が粘り強くボールにかじり着いたら、必ず自分が先にしくじる。だからパワーで何とかしようと焦る」

 マークがラニウスの肩越しにちらっと相手を見た。それから

「僕はどうすればいい?」

「焦るな」ラニウスは言った。「それだけで勝手に相手が負けてくれる」

 後半戦のホイッスルが鳴った。「マーク!がんばれ!」観客席から激励が飛ぶが、マークは振り返らなかった。そのままコートに入り、ラケットを構える。

 後半戦はラリーの応酬だった。相手の激しいショットにマークはかじり着き、ボールは高く跳ね上がり、コースは平凡なものだった。だがその平凡なラリーに音を上げるのは、いつも相手側だった。

「マーク!決めろ!」スコアが盛り返し、周囲がそう急かしてもマークはただひたすらにボールを相手のコートへ打ち返した。安全に、必ず。

 そしてついにスコアは5-5と並び、6-5とマークが逆転した。さらに激しさを増す相手のボールに、ただただマークは食らいついた。相手はラケットをぶるんと振るう___バックアウト。

 スコア7-5。

「やった!」マークは審判が勝利宣言が言い終わらないうちに飛び上がった。「やったぞ!」

 ラニウスはサングラス越しに目を細め、そして試合後の握手へとマークを促す。相手先週はもはや顔をしかめる気力もないのか、汗を滴るほど垂らしてマークと握手を交わした。

 ラニウスは次の選手であるソフィアにウォーミングアップさせようと観客席を振り返った。

 感激するマークの両親、まだ幼い妹、そしてチームメイトたち。

 その一団から少し離れた最も最後列の隅に、ラフな格好に黒いキャップを目深にかぶった男が座っていた。

「コーチ?」

「____なんでもない。ソフィア、次は君の番だ。準備をして」

 ソフィアが小鹿のようにベンチから飛び降りてコートへ向かう。彼女は助言を必要としていなかった。ラニウスは黙ってソフィアを送り出し、入れ違いに戻ったマークの汗みずくの笑顔をかるくつねった。

 観客席最後列に座った男は、この日はラニウスと同じようなミラーレンズのサングラスをつけていた。髪もほとんどがキャップに仕舞われている。だが体格や座り方、そして一見地味なウインドブレーカーの肩についたロゴはその男がアレクシスだとラニウスに教えた。

 そしてラニウスが悟ったことをアレクシスもまた悟ったかのように、最後列の男はひらりと気取った仕草で手を振った。

「コーチ」ストレッチと軽いウォーミングアップを終えたソフィアがラニウスの手を引いた。「私もマークやケビンみたいに泣きべそかいたほうがいい?」

 ラニウスはコートへ向き直った。そして膝をつかず、腰ほどもない背丈の少女を見下ろしたまま(膝をついて目線を合わせるほうが彼女の機嫌を損ねる)言った。

「君の分は相手が泣いてくれる」



/



 マイアミ・ブルーシーズの勝利に沸き、そして水平線の向こうへ沈みゆく西日を追うように一人また一人と子供たちが帰路につく。

 最後まで自主練習に残っていたケビンとマークは、一旦先に妹や荷物を家に帰してくるとコートを離れた親が戻ってくるのを待っている間にすっかり寝入ってしまった。

 ラニウスは疲れて眠りこんだ二人に挟まれるようにして観客席に座っていた。その横顔を強烈な西日が焼き付ける。

 あるとき、その西日がふっと消えた。黒い日傘を携えたアレクシスが西日を遮るように傘をさし、斜め後ろに座っている。キャップを脱いで、サングラスはかけたまま。透けるような銀髪を手でかきあげる。

「ボランティアが趣味だなんて学生みたいだな」

「趣味じゃない」ラニウスは日傘の影に入るように右隣のケビンの頭を膝に乗せた。「双方の提示する条件が合致した。それだけだ」

「子供が好きか?」

「このチームが好きだ」

「……そ」

 その時、ケビンが寝返りを打った拍子にむにゃむにゃ言いながら目を開けた。「パパ?」

「パパはまだだ」ラニウスが言った。「もう少し寝てろ」

 ケビンの目はすぐに見慣れない男を見つけた。体を起こし、ラニウスの体を盾にするようにしてのぞき込む。「誰?」

「ハーイ」アレクシスは落ち着きのある声で応じた。「こんにちは、俺は君たちのコーチの知り合いだ」

 ラニウスは黙っていた。ケビンはラニウスの顎のあたりを見上げ

「コーチの新しい恋人?」

 と口に手を当てて囁いた____本人は囁いたつもりだったのだろうが。ラニウスは当然、アレクシスの耳にもはっきりと聞こえた。アレクシスは平然と言った。「恋人? ああ、そうだよ。よろしく」

「恋人じゃない」

「ふーん、前の人より美人だね」

「ぼく、ルッキズムって知ってるか? 俺が美人なのは事実だが発言には気をつけろよ、炎上するぞ」

「やめろ」

「……コーチ、この人ほんとに恋人なの?」

「そうだぞガキ。だから敬語使え」

「違うと言ってる」

 そのとき、コートにケビンとマークの母親たちがやってきて息子を呼んだ。ケビンがマークをゆすり起して二人分のリュックを腕にぶら下げる。「行こう、マーク! 今日だけは持ってやる!」

 先に駆け出したケビンをマークは寝ぼけ眼のままで追いかけた。二人はもつれあうように互いにじゃれつきあいながらコートを走り抜け、そして外通路の曲がり角で見えなくなる。その寸前、二人の「”それだけで勝手に相手が負けてくれる”!」という歓声がこだました。

「マセガキが」アレクシスが傘を差しなおして言った。

「自己紹介か?」ラニウスは足元に置いていたスポーツバッグを手に取った。

アレクシスがじろりとラニウスを睨んだ。ラニウスは右手に車のキーを持っていた。車はコート外の駐車場に停めてあった。シルバーのジープ・グランドチェロキー。歩けば十分とかからず乗り込み、そして帰宅できる。

だが、アレクシスが眠る子供たちに日傘の影を分け与えた件について、まだ誰もそれに報いていなかった。そしてここにはもうラニウスしかいなかった。

「ケビンとマークへの厚意に免じて空港までなら送ってやるが、どうする。それともタクシーを呼ぶか?」

「海が見たい」

 アレクシスは言った。西日を睨み返し、あっちか、と呟く。その声が存外無垢だったので、ラニウスもまた「あっちだ」と言った。溜息を誤魔化すためでもあった。「……少し待て、荷物を車に置いてくる」

 夕暮れの海はジンジャーエールのように輝いていた。砂浜に打ち付けては白く泡立ち、砂浜をオリーブ色に染めていく。

 サーファーや散歩する市民はちらほらといたが、強烈な西日がアレクシスの存在をかき消した。アレクシスは日傘を畳み(そして当然のようにラニウスに持たせ)、サングラスを外した。

「”目が痛い”んじゃなかったのか?」

「ブルーライトじゃないから平気だ」アレクシスは鼻で笑った。そして波打ち際に蠢く人々の黒い影を横目に歩いた。「海なんて……」

 潮風が吹き付け、人々がざわめき、誰も彼もが行き過ぎていく。彼らの頭の中は空腹を満たすこととシャワーを浴びることで一杯だ。

 アレクシスは時々立ち止まり、じっと海を眺めたりした。このときのアレクシスはひどく無口で、そして明らかに疲労を押し殺していた。

「何故来た? 観光というわけでもないだろう」

「お前が俺にくだらないでまかせを言ったのかどうかを確かめに来ただけだ」

「それだけなら別の人間を寄こせば済む」

「俺の横を歩かせるかもしれない奴を選ぶのに、他人になんて任せられるか」

 ラニウスは黙った。アレクシスの物言いには自分の矜持よりも、他人への軽蔑そのものが色濃く現れていた。むしろその不信感こそが彼の矜持なのかもしれなかった。

 昨日。スタジオで見た彼は常に自信に溢れ、生気に溢れていた。誰もが彼に従い、彼のために尽くすことに違和感すら抱かなかった。彼が横柄に振舞うことすら望んでいた。

 だが、今西日に照らされている彼は無口で、もう随分長い間飲まず食わずで歩き続けた老人のようだった。その目は悟りを開き、深い諦観に沈んでいる。一人だけ周囲とは異なる時間の流れにあって、周囲の鈍重さに辟易としているようにも見えた。

「疲れてるな」

 と、ラニウスが言った。アレクシスは少し遅れて反応し、そして挑発的に笑った。

「……今度は俺にラケットの振り方でも教えてくれるのか? それとも”焦るな”って?」

「テニスがしたいなら教えるが、それよりもまずは生活習慣を整えることだ」

「それが出来るならそうしてる」

「何故出来ない?」

「仕事があるからだ」

「仕事を管理しろ。仕事に管理されるな」

 管理部門は何をしている?

 そう言いかけて、ラニウスは口を噤んだ。アレクシスとその所属事務所が緊張関係にあることは既にいくつものウェブニュースやゴシップが報じている。

 だがアレクシスはその沈黙を「勘違いするなよ」と一蹴した。

「勘違いするな、俺は哀れな労働者じゃない。俺がやることのすべては俺の意思だ」

アレクシスの瞳には輝きがあり、それは優美というよりも痩せぎすの獣が持つ激しい光だった。

その瞳を見たとき、ラニウスには直感があった____この状況におけるすべては作為的なものだと。メディアや芸能業界にとって門外漢である自分が、その業界の最前線に立つ男とこうして向き合っていること、そして今感じているすべて。

アレクシスに感じた好感すらも、それ自体は嘘ではないが、誘導されている。

レイリーの顔が一瞬よぎった。だがラニウスは早々に、あの得体のしれない人生の先達者に対する疑念を捨てることにした。彼はかつてFBI捜査官として、そして今は管理者としてその職務に精励している。そのことに疑いはない。なにせラニウスが陸軍からFBIへ異動したとき、二年もの間ラニウスの面倒を見たのはレイリーだった。その二年間がもしすべて噓偽りだったとしても、ならば猶更レイリーはラニウスの尊敬を勝ち取るだけだ。

 ともかく、ラニウスは認めざるをえなかった。アレクシス・バックマンは傲慢な男ではあるが、その根幹には揺るぎない信条があり、規則がある。彼はその自らが定めた規律を守るべくして自分の体に鞭を打っている。

 その価値観や振る舞いは、ラニウスが愛さざるを得ないあり方だった。

 ラニウスは車から持ち出してきた未開封のペットボトルを差し出した。

「なんだよ?」アレクシスは眉を寄せた。

「水だ」

「はあ?」

「水を飲め」

 アレクシスはぽかんとしていたが、差し出されたペットボトルが完全に未開封であると察して受け取った。滴るほど結露に濡れたペットボトルのふたを開け、一口飲む。それから勢いよく半分ほど飲み干した。

「飲み終わったら空港まで送る」

「なんだ? 急に」

「ビジネスクラスかファーストクラスだろう。出発までラウンジで寝ろ」

「命令するな」

「睡眠をとることを推奨する」

「……そうする」

 空港までの車中、アレクシスは静かだった。帽子もかぶらず、サングラスもかけずに窓を開けて海をずっと眺めていた。「マイアミに来るのは久しぶりだ。こんな場所だったか?」

「こんな場所だ、夕暮れはいつも」

「そうか」アレクシスは子供のように座席にもたれた。「夕方はこんなに静かなんだな」

 ラニウスはそれまで小さな音量でかけていたラジオを消し、助手席の窓を半分閉めた。アレクシスは目を閉じていたが眠ってはいなかったようだ。

「着てろ」

「あ?」

「着ることを推奨する。これから日が暮れると冷える」

 ラニウスが差し出したのはスポーツウエアだった。有名なスポーツブランドのありふれたジャージ。急な雨のために持参していたが、今日は出番がなかった。

 アレクシスはぼんやりした目でジャージをしばらく眺めていたが、やがて受け取った。ラニウスにとっては体にフィットするサイズのそれが、アレクシスが着ると大分オーバーサイズだった。立てた襟に額まですっぽりはまった状態になってようやく、助手席からは寝息が聞こえ始めた。

 空港に着くころには空も随分暗くなっていた。西日は遠くに沈み、灰を被ったような薄闇の中で空の低いところだけが篝火のように赤く燃えている。

 西日に照らされていた肌には冷たい風が吹いた。車を降りたアレクシスはぶるりと震え、キャップを再び目深に被った。

「出立は何時?」ラニウスも車から降りた。

「20時過ぎ……あと二時間は寝られるな」

 アレクシスはビジネスクラス用の待合口へ進み、電子チケットで認証を行った。明らかにグレードの異なる制服を着たスタッフが案内のためにラウンジの方からこちらへ歩いてくるのが見える。

 そこでアレクシスはふとガラス扉に映る自分の姿を見た。

「ああ、上着返さなきゃな」

「いい」

「くれるのか? 俺明日からまたニューヨークだぞ」

「問題ない」

 ジャージの襟にかけたアレクシスの手が止まる。形のいい眉がくいと浮かぶ。ラニウスは言った。サングラスの奥にその目を隠したまま。

「明日、俺が取りに行く」

 ラウンジのガラス扉が内側から開き、スタッフが慇懃に歓迎の言葉を述べた。そしてアレクシスに対してにこやかに入室を促す。「お客様、よろしければそちらの上着をお預かりいたします」

 アレクシスは襟のジッパーを握ったままだった。そして下ろしかけたそれを、彼は再び上まで引き上げた。「___いや、このままでいい。冷え性でね、なにか温かいお茶でももらえるか?」

 スタッフがアレクシスを連れてラウンジの奥へ去っていくと同時にラニウスもその場に踵を返した。別の帰着便からぞろぞろと降りてきた乗客と、入れ違いに清掃へ向かうスタッフの人の波をすり抜け、時には向こうがスキンヘッドにサングラスをつけた巨漢を果敢に避け、駐車場へ戻る。

 車に乗り、オレンジの車内灯に照らされるなかでラニウスは短いチャットを打った。

『あんたの息子の尻をぬぐってやることにした』

 即座に既読がつき、レイリーからはさらに短い返事が届く。『優しく頼むよ』

 ラニウスは携帯を助手席に放った。そして車のエンジンをかけ、ジープは流れるように空港を後にした。

「___アレクシス、今なんて言った」

 そして同刻、ビジネスクラス用のラウンジの一角からアレクシスは去り行くジープの赤いテールライトを見ていた。

 その手元には携帯があり、ビデオ通話中と表示された画面には光沢のあるグレーのスーツを身に着けたエリオット・シュナイダーが映っている。

 エリオットはPCから参加しているのか、顔は正面を向いているが視線はカメラから微妙にずれている。手元がかすかに動いていることからして仕事中だろう。アレクシスは自分にとって兄弟のようなこの男が、得てして本当の兄弟がしばしばそうなるように別の方向を向いて進み始めていることをこのときもまた感じた。そしてやがて致命的な決別を迎えようとしていることすらも。

「もう一度言ってくれ」エリオットは軽くウェーブのかかったオリーブ色の髪を撫でた。「マネージャーを新しくするなんて話、俺の記憶が正しければ今日初めて聞いたが」

「安心しろ、今日初めて言った」

「どこの会社から引き抜いた?」

「FBIからスカウトした」

「冗談でかけてきたのか?」エリオットの声は掠れていた。取引先はこの声をひどく持て囃す。「そもそもお前今どこにいる」

「マイアミ。久しぶりに来たがいいとこだな」

「……仕事に穴を開けなきゃエジプトだろうがブラジルだろうが構わないが、マネージャーの件は駄目だ。お前はうちの看板だぞ、FBI捜査官だからなんだ、結局ズブの素人だろうが」

「そのズブの素人を嫌ったお前が用意したベテランどもは全員音を上げて逃げちまっただろ」

「お前が追い出したんだ」

「根性なしの温室育ちは話が遅くてイライラする。あいつらは喋りたがりで駄目だ、そのくせつまらん」

「アレクシス」

 エリオットの声のトーンが変わった。ずっと動いていた彼の手元は止まっていた。 

 エリオットが画面越しにまっすぐアレクシスを見た。

「お前が事務所に不満があるのは分かっている。だが事務所だってお前に不満がある。お前は好き放題に不平不満を言い、独立するとまで言い出したが、事務所はそれでもお前を許して、文句も言わずに付き合ってるんだ。我儘も大概にしろ」

「不満? 言いたいことがあるなら言えよ。俺の個人の稼ぎまで個人の税理士脅して調べておいて、くどくどと面倒な話をするな。結局俺の稼ぎを手放したくないだけだろ」

「それがお前の価値だ」

 エリオットは淡々と返した。「そしてお前の価値をここまで高めたのは誰だ? まさかお前ひとりの手腕だとでも?」

 アレクシスはラウンジの窓から外を見た。だが日が完全にくれた外は闇ばかりで、ガラスに映るのは自分ばかりだった。

「……とにかく決めた。もう決めたんだ。マネージャーをあいつにやらせる。お前にとっても悪い話じゃないだろ、俺が決めて俺が責任を持つんだ。これで失敗したら、お前は大手を振って俺を好きにできる」

「思いあがるな。俺が腹立たしいのは……」エリオットはそこで額に手を当てた。「お前がいつまでも子供のままでいることだ」

 アレクシスは返事をしなかった。明日事務所に行くこと、細々した書類の用意を言い逃げのように頼んで通話を切った。

 子供のまま。エリオットの声がアレクシスの耳にこびりついていた。

 どっちが、とアレクシスは思わず呟いた。成功を掴んだ者の多くは、成功を掴む前のがむしゃらだった日々をよく覚えているものだ。まるでいつか自叙伝を書いたり、インタビューされることをわかっていたかのように。

 だがアレクシスは昔のことをもうあれこれと具に思い出せなくなっていた。10代でこの業界に飛び込んで、今では考えられないぐらい安い仕事も受けた。呼ばれておいて顔をちょっとも映さない撮影などざらだった。

 媚びへつらうのが嫌で、その分ひたすら努力した。努力が表情や素振りに滲み出るぐらいだ。影の努力なんて意味がない。血の滲むような、その人間の皮膚にまで浮かび上がるほどの、それほどまでに努力しなければ駄目だ。努力の価値を決めるのは努力した本人ではない。だから努力しましたなんて自己申告しても何の意味も無い。問答無用で、言葉が違っても文化が違っても、一目でわかるほどに努力しなければ。それ未満の努力など時間の無駄だ。

 そんな我武者羅だった日々はもう濁流のように流れ、過ぎ去り、排水溝の底に溜まった泥のようにだれに顧みられることもない。もはや今のアレクシスは地上にいて、スポットライトの差す場所に立っている。

 あの頃の自分が子供だったのなら、大人になれというのはどういうことなのだろうか?

 昨日の些細な成功を繰り返し自慢して、媚びへつらうことが今のステージでは求められているのか?

(ごめんだな)

 アレクシスは鼻で笑った。かつてはそれを後押ししてくれたエリオットは考えを変えた____否、彼は適応したのだろう、過酷な環境に。適応できずに潰れていった多くの同僚の死体を踏み越えて。

 アレクシスが名声を掴んだように、エリオットも今や事務所の下働きではなく、事務所の次期代表と目される人物だ。誰かの車を運転する側ではなく、される側になった。

 そして今度はエリオットという環境が、アレクシスに適応を迫っている。適応か、死か。

 エリオットのマネジメントや営業、業界とのコネクションは確かにアレクシスに巨額のプロダクションを運んでくる。事務所のやり方が気に入らないと言いながら、アレクシスもまたその恩恵を一心に受けていることは明らかだ。

「バックマン様、お茶のおかわりはいかがですか?」

 背後からの呼びかけにアレクシスは振り返る。声をかけたスタッフがたじろぐほどまでに完璧な微笑で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る