BUT TWO

@sksng

第1話 意外なオファー(Unexpected Offer)

「今年もマイアミ・トライアスロンに?」

「他に予定が入らなければ」

 そう答えながら、今年は参加しないだろうとラニウスは内心で思っていた。先に屋上へ出たレイリーのスーツジャケットが強い風にはためく。

 FBI本部の屋上から訓練棟のある方向のグラウンドを見ると、早朝のトラックをゆっくりと走る影がひとつ見えた。

「あの大会の時だけやってくるホットドッグとナチョスの露店が最高だ。店員もめちゃくちゃ可愛い」レイリーはここへ来る道すがらドリンクサーバーから淹れた二人分のコーヒーをひとつ差し出し、もう一つを自分の口に当てた。

「完走すると無料券が貰える。走ってみたらどうだ、レイリー」

「バカ息子の去勢手術が終わったら考えよう」

 レイリー・フォルツはいかにも気の良い上司といった風な外見の男だった。年齢は間もなく六十だが堅苦しさやあらゆる影とは無縁そうな足取り、着崩したスーツに整髪料をつけていない白髪交じりの頭。小柄な体格にコミカルで活動的な口元。

 よくアクション映画で主人公の良き相談相手として登場し、その実、闇の支配者であることが多そうな顔だちだ。

 対してその隣を歩いているラニウス・ルーラーを映画の登場人物に例えるなら、近未来を描いたSFアクションで量産されていそうな軍用サイボーグそのものだろう。剃り上げたスキンヘッドに透明度皆無のサングラス。筋骨隆々として2メートル近い体格、ヴィンテージブルゾンにジーンズ。

「それで、FBI本部のコンポーネント統括室長が俺を呼び立てた理由はまだ説明してもらえないのか?」

「なんだせっかちだな。マイアミ警察の新人をしごくのがそんなに楽しいか」

「あんたほどじゃないさ」

「いいこと教えてやる、ラニウス」レイリーはコーヒーカップを握った方の手で器用にピースした。「幹部級になると、遅刻の概念はなくなる____ただし、残業の概念もな」

「ああ、役職員就業規則第二十一条第二項に書いてあるな」

 レイリーが思い切り顔を顰めた。それから渋い顔のまま「第十一条には何が書いてある?」と聞いた。

 ラニウスは答えた。

「第十一条は服務規程の前提文。就業規則第三章は服務について定め、第十一条から第二十条までの十の条文で服務の総括と遵守事項、ハラスメントの禁止、個人情報保護、業務記録に関して定めている」

「君はFBIアカデミーの教官より、法務室の方が適任なんじゃないか?」

「陸軍からFBIに転属するときに一通り読んだだけだ。組織のルールも知らずに所属することは出来ないだろう」

「ああ、オーケー、オーケー。それ以上言うな。君のリタイアを認めたあの時の私をタイムマシンに乗って殴りに行くことになる」

「では、本題に入ってくれ」

「教官になって暇だろ。ひとつ仕事を頼まれてくれ」

「それはFBIとしての仕事か? それとも____」

「私個人としての野暮用だ。だが悪い話じゃない」

 ラニウスはここで始めてコーヒーに口を付けた。少し肌寒さを感じるほどの強い風が屋上に吹き付ける。遠くのグラウンドで走っている人影は、今はクールダウン中と見えてゆっくりとトラックを歩いている。

 暇なのは確かだ。ラニウスは話の続きを聞くことにした。それがもはや仕事を受けることになると自覚したうえで。

「個人レベルであんたが口利きをするとなると、個人警備か秘密任務か。どちらにせよ気が滅入るな」

「PSC(private Security company、民間警備会社)の代打だ。奴らが家じゅうのハンカチを噛み千切るレベルの報酬がついてくる」

「警備対象は?」

「ジャジャーン」

 レイリーの声は平坦だった。彼がラニウスに向けてきた携帯電話の画面に映っているのはウェブニュースサイトの記事だ。

 "有名モデルのアレクシス・バックマン氏、所属事務所との対立は泥沼化"。

「誰だ?」ラニウスは率直に尋ねた。

「SNSやってないのか?」

「公式の情報収集用にはやってるが」

「顔ぐらい見たことあるだろ、アレクだよ」

 ラニウスはかけていたサングラスを少し下ろしてもう一度画面を見た。向けられたウェブニュース画面には画像が添付されており、それを拡大すると大勢の記者に囲まれ裁判所から出てくるスーツ姿の男がいた。シックな紺色のスーツにネクタイ、薄い色のシャツ。同系色でまとめた出で立ちは大企業のエリート社員に見えなくともないが、エメラルドグリーンのサングラスと、なによりも銀髪という要素が、その男が一般人でないことを示唆している。

「”モデル兼俳優、インフルエンサー、動画配信者”……随分肩書が多いな。つまるところ何なんだ」

「その全てを手に入れた男さ」

「人望は手に入らなかったようだが」

 レイリーが肩を竦める。ラニウスはレイリーが差し出す携帯を受け取り、表示されるwebニュースを読んだ。

 ”超人気モデルのバックマン氏は、所属企業との間でかねてより給与の一部未払いやハラスメントにまつわるトラブルがあり、一昨年より退社を願い出ていたものの、企業の管理部との交渉は遅々として進まず”……”二年にも及ぶこの冷戦は、アレクシス・バックマンの名をビジネス誌に乗せるための売名行為とも”……

 記事に添付された画像は三件あった。一枚目は先ほど見たとおり裁判所から出てくるアレクシスの姿。二枚目は所属企業の広報担当者と思しき目鼻立ちがはっきりした男。そして三枚目は、アレクシスがアンバサダーを勤めるブランドのポスター。

 ポスターの中でアレクシスは砂漠を統べる王に誂えられるような石室の窓辺にいた。リネンの布を纏っただけの煽情的な格好で燭台に照らされている。指輪を嵌めた右手を首筋に当てて夜空を眺める横顔は品があり、その裸体からは知性すら感じさせられる静かな迫力があった。

「この男の身辺警護を俺に?」

「実のところ、やるかやらないかは未定だ。腕の立つ人間を紹介しろとのことでね」

「成程。人望以外の全てを手に入れた男だ、連邦捜査局への伝手も持っていても不思議ではない」

「私のバカ息子絡みさ。奴の税理士事務所の所員が、アレクシスから個人的に受けた仕事の情報を事務所に横流ししたらしい。それで所長であるうちのパピーは哀れ契約を切られ、さらにはこの件を公表すると脅された」

「それを避けるためあんたの息子は次に、父親に伝手があることを今度は吐いたわけか」

「生存の危機に晒されちゃ、無い頭も活性化する。死に体の息子はアレクシスからFBIのいい人材を紹介しろと言われた。それが出来なければお前は嘘つきで、そしてビジネスマンとして失格だ、ともね」

「やり口はともかく、その理屈には同意する」

「心優しいパパである私は息子を助けたい。そんな時、ごく最近前線を退いた現役バリバリの君がいることを思い出した」

「あんたは息子に恩を売り、そして俺を売って紹介料を貰うと」

 ラニウスは携帯をレイリーに差し出した。

 だがレイリーがその携帯を受け取り、ポケットに戻そうと手元を引いても、ラニウスは携帯を手放さなかった。

「事情はそれだけか? レイリー、あんたが働くには安すぎる報酬だ」

「それを言うなら君だって」レイリーは悪戯な笑顔を見せた。「休むには早すぎる、だろ?」

 ラニウスはやや逡巡し、だが結局携帯を離した。レイリーは薄型携帯をカードのように指の間でくるくると弄び、そしてあるときぱっと消した。袖内に滑り込ませる手口を知っていなければ、レイリーのことを魔法使いだと信じるものもあるだろう(例えば、彼の孫たち、そして息子のうちの数名などのように)。

「交渉成立だな」レイリーはにっこりと笑った。「さっきも言ったが、やるかやらないかは君と相手次第だ。実際に会って決めろ。私がやるのは手引きまでなんでね」

「割りのいい仕事だな」

「普段割に合わない仕事ばかりしてるんだ、今回ぐらい許しておくれ」

「一つだけ聞きたい。声をかけたのは俺で何人目?」

「一人目」

 レイリーはコーヒーを飲み干し、そして横目でラニウスへウインクした。ラニウスは首を捻り、そして溜息をついた。「時間と場所は?」

「そうこなくっちゃ!」レイリーはコーヒーカップで風と乾杯した。「時間と場所は、今頃君の家のポストに届いている封筒の中のチケットが教えてくれる」

 ラニウスはもはや何も言わなかった。

 レイリーはにんまりしたまま美味そうにコーヒーを啜る。それからグラウンドでまた走り出した人影に目を細めた。「ところであれはシュウじゃないか?」

 ラニウスは今度も何も言わなかった。ちょうどコーヒーを飲んでいたからだし、聞かれると思ってコーヒーカップを口に当てたのだった。

 レイリーは屋上の安全柵に肘を乗せ、すこし身を乗り出してグラウンドを見つめた。

「もう退院したのか。彼もタフだな」

「リハビリトレーナーが付いていない」ラニウスは逆方向を向いていた。「おおかた医者を言いくるめて病室から出てきたんだろう……」

 トラックを歩いていた影は、それからまた腕を振り、姿勢を整えてゆっくりと走り出した。陸上の教本に載っていそうなフォームだ。遠距離走の為の基礎を全て守っている。それはラニウスがマイアミ・トライアスロンで実践しているフォームそのものだ。常に楽に走る為ではなく、一定の速度を保ち、速度調節の際の負荷を最低限に抑えるためのフォーム。

 早朝の霞んだ空気の中をシュウ・サイフェンは黙々と走る。黒い髪を靡かせ、古びた時計の針のように。

 彼のランニングフォームの悪癖として、疲れ始めると顎が上がってくるのだが、今朝はそれが見られなかった。ラニウスは満足して踵を返した。

「会っていかないのか?」レイリーがその背中に声をかけた。「恋人が退院したってのに」

 ラニウスは空になったコーヒーカップを後ろ手に振った。

「昔話は好きじゃない」


   /


 レイリーから指定された場所はニューヨークど真ん中の高層マンションだった。

 マイアミから飛行機で約三時間。チケットはレイリーが手配していた(正しくは彼の哀れな息子が)。ラニウスは特に大荷物も持たず、服もオフィスカジュアルなシャツとスラックスで出向いた。紺色のシャツとグレーのスラックスという格好であれば、いくら背丈が二メートルあろうが周囲の奇抜さに負けてジロジロ見られることもない。ニューヨークについて唯一褒めるとすればその点だけだった。

「あなたは?」

 マンションの一階は完全なエントランスルームだった。小規模なパーティなら出来そうなカフェテリアもある。ホテルマンの如く正装した受付のスタッフは一目でラニウスがマンションの入居者ではなく、そして事前に登録されている家族や友人のどれでもないと見抜いた。

「レイリー・フォルツの紹介で来た者だ」

「ミスター、お待ちしておりました。左手のエレベーターホールへお進みください」

 にこやかに促され、二重扉を抜けてエレベーターホールへ進む。ポストも宅配ボックスもなにもない。あるのはエレベーターがやってくるまでの数十秒間を寛ぐためのソファとカウチ、そしてカットガラスを散りばめた天井のライトだけだ。

 やがて音もなく一階へ降りてきたエレベーターに乗り、目的の階を押す。滑らかに上昇するエレベーターは白の大理石で壁面が飾られている。

 目的の階には部屋が三つしかないようだ。そして目的の部屋は一番奥の、突き当たりのプライベートラウンジとセットになった居室だという。

 部屋の前に立っていたいかにもボディガード風のスーツに身を包んだ男は、エレベーターから降りてきたラニウスが自分よりもなお恰幅がよいことにやや驚いた様子だった。

「今度はプロバスケット選手か……」ガードマンはぼそりと呟いた。「すまないが身体検査だ、腕を上げて」

 ラニウスは素直に応じた。そして手提げカバンの中身さえ明らかにした後で、ガードマンは身を翻してドアをノックした。「アレク、面接の人間が来ました」

 返事はなかったが、ガードマンは慣れた手つきでドアを解除し、ラニウスを中へ通す。

 途端、風が強く吹きつけた。生憎靡く髪もないラニウスは棒立ちのまま、広い部屋と、奥で全開になった窓、そして風に暴れるカーテンを見ていた。

「FBIにはスポーツ特待生で?」

 声の主はラニウスのすぐそばに立っていた。

 広いリビングと地続きになったダイニング、そこにあるアイランドキッチンの流し場に銀髪の男が佇んでいる。

 一見して他者と一線を画する雰囲気を纏った男だった。外の汗ばむような空気が男の回りにだけは流れていない。分厚い氷のような銀髪は真っすぐにつむじから目元にかかり、その奥からは真っ青な双眸が覗く。凍り付いた底無しの湖だ。

「FBIにそんな制度はない」

「名前は?」

「ラニウス・ルーラー 」

「"Ruler(統治者)"? たいそうな名前だ」

「Mr."Bachman"」ラニウスは「お祖父様はスティーブン・キング*か?」*Richard"Bachman"=スティーブン・キングのペンネーム

 アレクシス・バックマンは冷ややかな男で、そしてスティーブン・キングをそれなりに読むらしい。

 少なくともそれがラニウスから見た第一印象で、対するアレクシスはもっと慎重で、懐疑的だった。自分に対しても他人に対しても。アレクシスはまだラニウスに対する第一印象すら決めていなかった。

「俺の財務状況を垂れ流していたクソ税理士の話じゃ、その税理士の世界一恐ろしい親父が従えてる戦闘サイボーグが来るって話だったんだがな」

「誰しも明日食べていくことすらできなくなるほど追い詰められれば、目の前の一瞬を切り抜けるためにどんな嘘でもつくだろう」

「いやいや、期待通りで逆に驚いたよ」アレクシスは皮肉げに笑った。美しい男だった。「俺はただ、俺が頼んでいた仕事はもう頼まないと言っただけなんだが」

「その一言で路頭に迷う人間がいると諌めて欲しいのか、それとも、いち税理士の年収を一人で支払っていた羽振りの良さを称えてほしいのか?」ラニウスはまだダイニングに一歩踏み込んだ位置から動いていなかった。「生憎俺は、此処で仕事を貰えなくともなんら問題ない。ニューヨークまでのフライトも小旅行だと思えばいい」

「FBIを辞めたんじゃ?」

「まだ片足を突っ込んだままだ」

「もう片足で俺を守れるのか?」

「出来る出来ないの話なら、出来るな」

「自信過剰」アレクシスはシステムキッチンのシンクに手をついた。いちいち絵になる仕草で「それとも自意識過剰と言うべきか……」

「どちらでも好きに解釈してくれていい。いずれにせよ、事実を正しく認識できない奴は早晩死ぬ」

「年齢は?」

「三十三」

「五つ上。今日は何処から来た?」

「マイアミ」

「一番長くやったことのあるスポーツは?」

「テニス」

「いつからスキンヘッドに?」

「十年前」

「誰かに振られた?」

「いいや。ザハドの砂漠地帯に長くいて、そこでは何もかもを節約する必要があった。水はその最たるものだ。だからその時に全身の毛を剃った」

「ふん」アレクシスがラニウスのすぐそばまで来た。「存外肌が綺麗なのはそのせいか」

「どうも」

「サングラスをかけてるのはシャイだから?」

「視線の動きを悟られないためだ」

「つまりシャイなんだな」

 アレクシスはアイランドキッチンの側に置かれたダイニングテーブルの椅子を引いた。「座って話そう。見込みがある」

 何人もの希望者が座ることのできなかったダイニングチェア(それは食卓を囲むためのものだが、アレクシスは殆どその椅子もテーブルも物置きや撮影台として使っていた)へラニウスが座ると、アレクシスはその側に立ってラニウスを見下ろした。

「何が得意?」アレクシスはだしぬけに聞いた。「何が出来る? 他人よりも自分が優れているところは?」

 ラニウスがわずかに眉を浮かべる。濃いサングラスの縁から現れたそれは形がきっかり平行線で整っていて、さほど太くない。

 ラニウスはかすかに首を捻って、それから答えた。

「沈黙の使い方」

「かっこいいな。で、何言ってるんだ?」

 ラニウスは人差し指を立てた。アレクシスは片眉だけ浮かべた表情のまま黙った。

 ラニウスが人差し指を立てた手とは逆の手を差し出す。

 アレクシスの目がラニウスの白く広い手のひらをじっと見て、それからそっと自分の手をそこに乗せた。

「緊張してるな」ラニウスが言った。「警戒心が強い。猜疑心と虚栄心の強さはその裏返しだ。他人を信じていない。だから質問ばかりして、主導権を決して手放そうとしない」

 アレクシスは動揺を見せなかったが、わずかに細めたその目には古いナイフのような錆びた色が過ぎった。

「成程、その手の上から目線はお手のものというわけだ。さすが天下の連邦捜査局のエリート、感心したよ。一息でよくここまで人をイラつかせてくれる」

「この程度のことは特別なスキルじゃない」

 ラニウスが広げていた手のひらをひっくり返すと、今度はアレクシスの手のひらにラニウスの手が乗った。

「脈拍を測ってみろ」

「心理テストの次は命令?」

「謝罪の代わりに種明かしをしようと思って」

 アレクシスは怪訝そうだったが、頑なに拒む方が彼の美学に反するらしい。ラニウスは隣の椅子に座ったアレクシスに身体ごと向き直り、右腕を差し出した。

「訓練すれば指先でもおおよその脈拍を測れるが、慣れるまでは手首や顎の裏、頸動脈、それか直に心臓のある位置で測ればいい」

 ラニウスの右手首にはブレスレットも腕時計もなかった。筋肉でコーティングされた腕は太いが、手首はその対比で綺麗なくびれを描いている。

「通常の心拍数は一分間に60から80、一秒に一回程度。まさに今この時の俺の脈拍がそれだ。これが運動や緊張、興奮によっては一分間に100を超え、命の危険に晒されるような致命的な状況では一分間に175回まで加速する」

 手首に太く浮き出たラニウスの静脈をアレクシスの指が軽く抑える。指は健康的だが白く、全ての指先には綺麗に形を整えられ、表面が滑らかに整えられた爪がついていた。親指と中指にそれぞれシンプルなシルバーリングが嵌められている。

「訓練された者なら、高ストレス下でも脈拍は75回程度に抑えられる。だが表情や声は誤魔化せても、心臓を誤魔化せる奴はそういない」

「つまり——」

 アレクシスの指が突然動き出し、ラニウスの静脈をなぞった。

 ラニウスが視線を上げると、アレクシスの顔は想像よりもさらに近くにあった。

「————俺を前にしてちんたら動く心臓の持ち主であるあんたは、只者じゃないって言いたいのか?」

「ニューヨークじゃいちいちマウントの取り合いをしなきゃならないのか、大変だな。だが俺はマイアミ育ちだ」

「さっき、」アレクシスが白い手でラニウスの手首を掴んだ。「少し脈が乱れたな」

「お前の脈だろう」

「俺がどきどきしてるって?」

 アレクシスの指は驚くほど冷えていて、目で見て確認せずともそれがどのようにラニウスの腕を伝って動いているのかがはっきりと分かった。ラニウスは最早鼻先まで迫ったアレクシスから目も顔も背けることはできない。それは安全の為だった。

 アレクシスは見透かせるはずのないラニウスのサングラスごしに、まるでその奥が見えているかのような強い眼差しを向けた。

「ミスター____いつもこうやって女を口説いてるのか?」

 面倒な男だ、とラニウスは思った。話が一向に進まない。こちらが一つ言ったことに対して、頼んでもいない的外れなことを二つも三つも気にしだす。

 これが生来の性格なのか、そうでないのだとすればよほど酷い目に遭ってきたのだろう。

「この手で口説いたのは男だ」

 ラニウスは答えた。聞かれたことにだけ率直に。

 アレクシスが面食らった様に目を見開き、そして初めて黙った。

 ラニウスは最早この仕事を受けることを放棄していた。この場に来た時点でレイリーの面子は立てたのだ、結果までは問われない。性的嗜好としてラニウスは間違いなく男も女も恋愛対象であったし、事実、先程の手口で口説いたのは男だった。

 ラニウスはアレクシスが数秒後には自分から離れ、そして当たり障りのない言葉か、あるいは当たり障りまくりの言葉でこちらを追い出しにかかるだろうと思っていた。

 だが、そうはならなかった。アレクシスが面食らっていたのはほんの数秒で、次に彼はニヤリと微笑んだ。

「採用だ」

「なんだって?」

「気に入った。今のところはな」アレクシスは身を翻し、リビングを突っ切って奥の部屋へ入って行った。「この後撮影があるから着いてこい。トライアルといこう」

「聞いてないぞ」

 奥の部屋から突然銀色に光るものが飛んできた。ラニウスがそれを掴み、手のひらを開く。そこにあるのは車の鍵だった。

指示された場所へ向かう際、驚いたのは出会ってまだ一時間もないラニウスにアレクシスが車の鍵を任せたことだった。とはいえアレクシスからすれば「持っている車の中でも一番古いもの」らしいが、実際ラニウスがハンドルを握ることになったBMWは傷一つなく、最新モデルではないにせよトレーダーに出すにも惜しいほどのものだった。

「まあ、ぶつけたら修理費は出せよ」

「ならトライアルで運転させるな」

「度胸がない奴は大抵何をしても駄目だ」

「度胸と無謀は違う」

 アレクシスが鼻で笑った。

「賢いつもりの臆病者がよく言う言葉だな」

指定のスタジオはニューヨークの一等地に建っていた。雑誌やWEBニュース含めたメディア事業を展開する企業で、CMや映画事業にも手を伸ばしている。

関係者専用通路へ車が侵入した時点で、警備員は助手席にいるアレクシスの顔を見るなり早々に駆け寄ってきてエスコートを始めた。彼らのそれはファンというよりも仕事人のそれで、好意的には思われなかった。まるで犯罪者を秘密裏に別の刑務所へ移送する刑務官のようなきびきびとした手つきでラニウスとアレクシスを案内し、エレベーターへ流れるように押し込む。

「彼らに嫌われるような心当たりは?」

「彼らは此処に来るやつ全員が嫌いだ」

ラニウスは「そうか」と短く言った。エレベーターはあっという間に目的のスタジオに二人を運び、そしてドアが開いた途端そこは別世界だった。「アレクシス!」「バックマンさん」「やあミスター、お出ましだな」機材を運んでいたスタッフや社員が次々にこちらを振り返り、手を止めて歓迎する。

 そして決まって彼らはラニウスを見て固まった。

「彼は新しいビジネスパートナーだよ」アレクシスはにこやかに言った。「サングラスを外したら存外キュートなんだ」

 ラニウスは沈黙を選択した。そもそもまだ正式に雇用されたわけでもない。説明の義務も何ら発生していない。ラニウスに課せられていることは、この場で見聞きした情報の一切を、それらが公式に発表される前に漏洩しないことだけだ。 

 当然撮影の内容も聞いてはいなかったが、スタジオのセットや機材の配置を見ている限り表紙撮影らしい。

 慣れた様子でスタジオ脇のドレッサーに座らされ、スタイリストに化粧やヘアセットを受けていくアレクシスがそれまで一切の化粧をしていなかったことにラニウスはひそかに驚いた。保湿スプレーを振られ、肌の表面を冷やして下地を塗り、薄い色合いのファンデーションを顔の凹凸に合わせて乗せる。パールの入ったパウダーを軽く乗せ、眉を整え、目じりに濃い締め色のアイシャドウを細く引く。唇はほとんど無色のグロス。

 衣服は事前に指定されていたのか、アクセサリーをいくつか付け替えただけで支度が終わった。それでもドレッサーの前から立ち上がり、撮影のセットへ向かうアレクシスからは他人とは明らかに一線を画する風格がにじみ出ていた。

 グリーンカーテンの手前に小規模で四角形の水槽が置かれ、鮮やかな色の花びらがいくつか浮いていた。アレクシスはスタッフに促され、水槽脇の階段に腰掛け、水面に向かって頬杖を突くような体制になった。水槽に見えたそれは実際には底上げされているらしく、アレクシスが投げ出した腕は数センチばかり沈み込んだ位置で止まっている。

「じゃ、始めよう」カメラマンの男が言った。「ライト、もう少し低く。水飛沫いいか?」

「いいです」明後日の方向から小さく応答があった。

 撮影は前触れもなく始まった。シャッター音が一度鳴った。そのあとも立て続けにシャッターが切られ、水槽の水面がゆらめき、浮いていた花びらが揺れ、飛沫が立った。アレクシスは慣れた様子で、特に支持されることもなく水面を見つめたり、目を伏せたり、花びらをひとつ指に挟んで持ち上げたりした。

 手遊びのような仕草が続き、あるときふいにアレクシスは水面に浮いていた花びらを手のひらに集め、水ごと持ち上げた。手のひらから透明な水が滴り落ち、ついで無造作にかき集められた花びらも零れていく。

 その水を啜るようにアレクシスは自分の手首に唇を寄せた。目を伏せ、それからふと、また目を開く。その先には図ったようにカメラのレンズがある。

 そのとき完全に、需要と供給がぴたりと一致した。

「____OK!」

 カメラマンが言った。「完璧だ」

 周囲がにわかにざわめく。歓声を押し殺したがゆえのざわめきだった。アレクシスは動じることもなく身を起こし、濡れた手についた花びらを無造作に払う。「おい、今のは撮るなよ。オフだぞ」再び鳴ったシャッター音に眉を浮かべる。カメラマンが笑った。

 アレクシスがセットから降りてくると、周囲のスタッフが我先にとバスタオルを差し出す。出遅れたものは、アレクシスが歩いた後に点々と落ちた水滴すら奪い合うようにして拭いていた。

「ほら」

 着替えるためにラニウスの前を横切ろうとしたアレクシスが濡れた手を差し出す。人差し指と中指の間には鮮やかなハイビスカスの花びらが一枚挟まれていた。「やる、少し待ってろ」

 ラニウスは自分の手のひらに落ちた花びらをしばらく眺めていた。全身に突き刺さる大量の視線を感じながら。

 それから

「……ゴミ箱はどこに?」

 と、ラニウスは近くのスタッフに尋ねたが、その問いかけは周囲全ての人間を親切な隣人から敵に変えた。

 問われたスタッフは信じ難い愚行を目の当たりにしたような顔でラニウスを睨みつけ、無言で立ち去った。ほかのスタッフもあきれた様子で次々に踵を返した。

 アレクシスにとってこの企業が仕事先の一つであるように、企業からしてもアレクシスは仕事相手の一人だ。だというのに随分好かれているらしい。少なくともこのフロアにいる人間でファンクラブが結成されていそうなほどの一体感(このときはラニウスに対する敵対行動として)を感じられる。

 ラニウスは仕方なく花びらをポケットに押し込んだ。アレクシスは早々に戻ってきたが、装いは一新していた。目の醒めるようなブラックのスーツ。大きく開いた胸元に対してベルトで絞られたウエストがスタイルの良さを強調する。

「いい子で待ても出来ないのか?」アレクシスは早々に場の空気を察したらしい。

「吠えないで待ってたぞ」

「いい子だ。でも愛想がないな」

 アレクシスがラニウスに顔を近づけた。周囲がぎょっとしたが、ラニウスはアレクシスの行動の意図を察した。ラニウスのサングラスを鏡代わりにして髪を整えているのだ。

「ん____どうも前髪が気に入らない」

「やめろ」

「おい、動くなよ」

「鏡なら他にいくらでもあるだろう」

「待てって」アレクシスは顔をそむけるラニウスを追いかけて体をひねり、そしてニコッと笑った。「ああ、うん。これでいい」

 少なくともラニウスの目には何が悪かったのか、そしてそれがどう改善されたのか皆目見当もつかなかった。「今度はちゃんと愛想よくおすわりしてろ」アレクシスは無邪気に片目をつむり、再びスタジオの方へ向かった。先ほどとは様変わりしたセットは中央に映画監督が腰掛けるような簡素な椅子が一つと、それを囲うように光沢のあるシャツを身に着けた男女が立っている。

 アレクシスが中央の椅子に座り、隣に立っていた女から縁の無いサングラスを受け取るなり、前触れもなくシャッターが鳴った。撮影が始まった。アレクシスがサングラスをかけ、足を組み、時にはレンズをずらして片目を露出させたりする。スタジオのライトは次々に色を変え、取り巻いて立っている男女もきびきびとポーズを変えた。腕を巻き付けあったり、官能的な曲がりかたをした指先で触れたり。

 彼らの姿は時に白飛びしそうなほど強いライトに照らされ、かと思えば背後からのライトによる逆光で黒く塗りつぶされたりした。

 その後もアレクシスは化粧直しや着替えを挟み、セットも変えて二時間近く撮影を行った。すべての工程を終え、機材やほかのスタッフがじんわりと汗すらかいているなか、セットから抜け出てきたアレクシスはひんやりとした空気を纏っていた。

「ハア」

 アレクシスは肩をすくめて息を吐いた。こめかみを指で掴んで揉む。「目が痛い……」

 ラニウスはアレクシスの頭上に手をかざした。そのとき丁度室内の照明が点灯し、あたりがパッと明るくなる。

「これで終わりか?」

「ああ、ワンちゃん……お待たせ」

 アレクシスは自分の目元にかかる影の中で眠たげに瞬きをした。

 先ほどまで強烈な光の中にあってなおそれらを手懐けていた男がゆったりと瞬きする様は余りに無防備で、ふとその横顔を目にした数名のスタッフは思わず目を背けてしまう。まるで女の裸を目にしたように。

「帰るぞ、ワンちゃん」

 アレクシスに促されるまでも無くラニウスもその場を後にした。万華鏡のようにきらびやかなライトアップの世界ではほんの数分の出来事のように思われたが、現実ではとうに四時間以上が経過していた。

 車が街を走る。アレクシスは完全遮光のスモークガラスに囲われた後部座席で携帯をいじっている。暗がりの中でブルーライトに照られた顎のラインは白く、ふと目を離せば体ごと消えていそうなのに、先ほどの撮影で塗ったリップが残ったままの唇の艶だけがやけに生々しく生命力に満ちている。

「明日も来い」

それは実質的な正式採用の宣言だった。アレクシス・バックマンのボディガード。華やかな業界に住むことが許される市民権の付与。

「無理だ」

だが、ラニウスは言った。アレクシスはちらっと視線だけを運転席へ向けた。

「無理?」アレクシスは目を細めた。「返事はイエスか喜んでだ。俺の貴重な時間をくれてやって職場見学までさせてやった。それを全部無駄にする気か? お前の判断で?」

「明日はマイアミ・ブルーシーズの試合がある」

「マ____」アレクシスが口を開けたまま固まった。「なんだって?」

「マイアミ・ブルーシーズ」

ラニウスは機械のように復唱した。道路は昼間以上に混んでいて、遠くに見える信号機はもう何度も青と赤で入れ替わっているのにその距離は縮まらない。

ラニウスは後部座席で携帯画面を指がたたく音を聞きながら、ハンドルを切って横道へ逸れた。

「……子供のテニスサークルしかヒットしないぞ、どこの球団だ?」

「それだ」

「どれ?」

「マイアミのサークル。中学生未満の子供たちが有志で結成してる地域チームだ。俺はそこで臨時コーチをしてる」

 アレクシスはまだ口を開けたままだった。訝しみ、眉を寄せ、肩を浮かべ、それから手元の携帯に映る子供たちの笑顔と、素人感丸出しの(よく言えば非常にアットホームな)サイトを見て____それからもう一度運転席に座っているラニウスの上腕二頭筋の太さだとか、ゼロミリに刈り取られた彼の頭髪だとか、バイオ・ハザードのウェスカーがかけているようなサングラスを見た。

「……あー、その」

 アレクシスは言葉を探した。だがそれは車内の床やリクライニングの隙間には落ちていなかった。

「つまり……ああ、子供たちの……すごく楽しそうで、とても……その……」

 ラニウスは細い路地裏へ車体を滑り込ませるようにハンドルを切っていた。

「……明日の対戦相手はどこ?」

「フロリダ・ブッチャーズ」

「ブッフ!!!!」

 運転席のリクライニングが衝撃で揺れた。アレクシスの振り上げた足が思い切り蹴り飛ばしたのだ。だがアレクシスの笑い声の激しさを思えば、その衝撃を限りなく軽減したリクライニングがいかに高品質だったのか思い知る。

 安い車であれば今頃脳震盪を起こしていただろう。ラニウスは今運転している車種を買い替えリストに書き加えることにした。

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