甘い記憶は片隅に
ユー
後味は残らない、でも記憶には…
序章:片隅の始まり
ある男が、同僚と酒の話をしていた……
安い居酒屋のカウンター。串盛りとレモンサワー、よくある平日の夜。
愚痴の内容はだいたい決まっている。
上司がどうだ、顧客が理不尽だ、職場の空気がどうにも合わない……
言ったところで何も変わらないのは、二人とも分かっていた。
けれど、酒が入れば口も滑る。
串を片手に、そんな愚痴を交互に投げ合っていた。
「でもさ、たまには顧客に連れられて、いい店行けたりするじゃん?」
話題が少しだけ浮上する。
同僚がふと笑いながら、前に接待で行ったバーの話を始めた。
個室があっただの、ジャズが流れていただの――
大した話ではないが、話題はそこから、自然に“酒そのもの”に移っていった。
「でさ、今まで飲んだ中で、一番うまかったカクテルって何よ?」
その問いに、男はすぐには答えなかった。
……いや、わざと答えなかったのかもしれない。
焼き鳥をほおばり、串から肉を抜き取りながら――
男は、わざと間を開けた。
どう言えばいいのかわからなかったのだ。
記憶に、確かにある。
けれど、あのカクテルを「うまい」と言ってしまっていいのか、それすらも曖昧で……
ただ一つ、忘れられないだけだった。
「あれはな……今思えば、異常だったのかもしれない」
そう言って、男はようやく口を開いた。
「もう無い店なんだけどさ、ずいぶん前に、あるカクテルを出すバーがあったんだよ」
第一章:記憶の中の一杯
「覚えてる酒があるんだよ」
男はそう言って、レモンサワーのグラスをゆっくり置いた。
氷がグラスの中で小さく鳴った。
その音に、何かの記憶が触れたように思えた。
「名前は……全然覚えてない。味だけが頭の片隅にずっと残ってる」
同僚はまだ冗談半分の表情をしていたが、男はそのまま語りを続けた。
止めないほうがいいと、どこかで察したようでもあった。
「店の場所は曖昧だ。
たしか、雑居ビルの地下だった。看板は……なかった気がする。
いや、そもそも、なんでそこに入ったのかもよく思い出せない」
男は少しだけ苦笑する。
「なんとなく歩いてたら、気づいたらそこにいた。
課長の昇進祝いの二次会の帰りだったんだよな」
「……あー、あの日か」
同僚の表情がすっと曇る。
「あぁ、あの日だよ」
男は苦笑混じりに言う。
「部長がずーっと説教モードでさ。課長は課長で、“俺が昇進したのはお前らのおかげじゃない”って顔しててさ……
あの空気、最悪だったな。全員笑ってるけど、誰も目が笑ってなかった」
串の端をもてあそびながら、男はつぶやく。
「で、二次会の店出たあと、帰ろうと思ったのにタクシー全然捕まらなくて。
仕方なく歩いてるうちに……気づいたらその店にいた」
「どこの?」
「……さあな。駅前の方だったような、全然違う場所だったような……
ほんとに、気づいたらカウンターに座ってて。
で、目の前に――爺さんがいた」
「中は暗かった。
照明も、音楽も、客の声もなくて……
ただ酒瓶だけが、淡く浮かんでた。
カウンターの奥に、爺さんが一人、立ってたんだよ」
レモンサワーの炭酸はもう抜けていた。
それを知っていながら、男は口に運ぶ。
音も立てずに飲み込んで、少しだけ息を吐く。
「何を頼んだのかは、正直覚えてない。
メニューも無かったと思う。
ただ、“甘いのを”って言ったような……そんな程度だったはずなんだ」
男はそこで少し黙った。
串を箸袋に戻すようにして、指先でなぞる。
「でもな……そのあと、何かを焼く音がしたんだよ。
ジュウっていう、あの音。カクテルを頼んだはずなのにさ」
「焼いてた?カクテルを?」
同僚が思わず聞き返す。
「ああ、焼いてた。焦げた砂糖の匂いがしたんだ。
……たぶん、カラメルを作ってたんだろうな。
バーで、カクテル一杯に対して、わざわざ注文が入ってからカラメルを作る……
正気の沙汰じゃない」
男はそう言って、またグラスに口をつけた。
底の方に残ったサワーをゆっくりと飲み干す。
「でも……その時は、何も変だとは思わなかった。
ただ、出されたグラスを見て――
最初に思ったのは……“プリンじゃん”だった」
第二章:ひとくち目の記憶
「プリン……だった。どう見ても、どう嗅いでも」
同僚は笑いかけたが、男はそれを遮るように、わずかに首を振った。
「冗談じゃない。……本当に、そうだったんだよ」
カクテルのグラスの中には、うっすらと濁った色の液体が注がれていた。
乳白というほどではない、けれどどこか濃度のある、淡いベージュ。
そして底には、沈んだ琥珀色の層があった。
「最初に感じたのは、甘い香りだった。……焦がした砂糖の匂い」
男は空になったグラスを、静かに回す。
「ひとくち飲んだ時……たしかに炭酸があった。けど……妙に柔らかかったんだよ。
泡立たない炭酸、って言えば伝わるか?」
「え、それってサワーなの?」
「……うん、サワーだ。多分、分類としては。でも、味は完全にカスタードクリームだった」
男は少し目を細める。
「卵っぽい感じがあるわけでもないのに、なぜか“プリン”の印象が舌に残る。
あれ、どうやって作ったのか未だに分からない。
たぶん、舌より先に、鼻がだまされてたんだと思う」
同僚は黙ったまま、箸を止めた。
男は続ける。
「三口目で、炭酸が消えた。完全に、ふっと。
その時点で、もう“サワー”じゃなかった。
ただ、プリンの味だけが口に残ってた」
串の端を折る音がした。
男はそのまま視線を落とした。
「すごかったのは……後味が残らなかったこと。
あれだけ甘かったのに、飲み終わったあと、何も残らない。
舌も、喉も、鼻も……何も、だ」
「なんだそれ……」
同僚が思わず呟く。
男はうなずいた。
「そう、“なんだそれ”なんだよ。
俺もずっとそう思ってる。
あんなカクテル、見たことも聞いたこともない。
レシピもなけりゃ、ネットにも載ってない」
そして、ぽつりと。
「……あれ、多分、“作れるやつ”がもういないんだと思う」
第三章:沈むものと浮かぶもの
串を横に寄せ、男はグラスの縁を指先でなぞった。
「俺の時は、カラメルが下に沈んでた。
で、店に先にいた女性客のグラスには、上に浮かんでたんだ。……そういう出し方をしてたのかもな
…たまたまかもしれないけど、その時はそうなってたんだよ」
「は?なんだそれ……性別で変えるってこと?」
「いや、わからない。たまたまそうだっただけかもしれないし……
でも、俺の方には沈んでて、彼女の方には浮いてた。それだけは確かだった」
男の声に、少しだけ笑いが混じる。だがそれは茶化しではなかった。
「飲み始めは、カラメルの存在なんて気づかない。
炭酸の軽い泡が先に来て、カスタードの甘さがふわっと広がって、
……で、グラスの半分を越えたあたりで、底に沈んでた重たい甘さが、少しずつ混ざってくる」
男は、空のグラスを見ながら続ける。
「女性客の方は、グラスの上から甘い香りが立ってた。
横目で見ただけだが……香りの立ち方が違うのは、明らかだった」
「それって……意味あるのか?」
「意味?……さあな。爺さんは何も言わなかった。ただ、そう出した。
でも、違いはあった。
沈んでる甘さは、だんだん“重く”なっていく。
浮いてる甘さは、最初に広がって、それから少しずつ消えていく……そんなふうに見えた」
男は口の中に、もう存在しない味を思い浮かべるように、静かに喉を鳴らす。
「たぶん、“どこに甘さがあるか”で、残る印象が変わるんだ。
それが偶然だったのか、わざとだったのか……もう確かめようがないけどさ。
……でも、俺のは沈んでた」
炭酸は抜けたレモンサワーが、グラスの底で静かに揺れていた。
「まるで、後から染みてくる思い出みたいにさ。
最初は気づかない。でも、あとから抜けなくなるんだよ。
……その甘さが」
男の言葉が途切れると、しばし沈黙が落ちた。
炭酸の抜けたレモンサワーが、グラスの底で静かに揺れていた。
同僚が、手にしていた串を静かに皿へ置きながら、ぽつりと口を開く。
「甘い酒ぇ……俺はぴりっと締まる感じがいいけどなぁ。炭酸が舌を刺すくらいのやつ。終わったあと、すっきりしてるほうがいい」
笑い混じりのような声だったが、その目は少しだけ遠くを見ていた。
「でもな……そういう“妙に残ってる味”って、あるよな。俺にも、昔――」
言いかけて、やめる。
同僚は、それ以上は語らず、グラスを回した。氷の音は、もう鳴らなかった。
第四章:地図にない夜
「……その後、何度か探したんだよ」
男は、ふと遠くを見るように言った。
「場所は……たしか駅前のはずだった。でも、ないんだ。
ビルも、道も、雰囲気も、何か違う」
同僚が箸を止めたまま、ちらと視線を向ける。
「覚えてるのは、地下へ降りる階段。
重たい鉄の扉。暗い照明。
……でも、それがどの道だったのか、地図で見ても一致しない。
見つからないんだよ、どうやっても」
男は、グラスの底に残ったレモンサワーを見つめた。
すでに氷は溶けて、何の音も立てていなかった。
「数日後にもう一度行こうとした。でも……見つからなかった。
あれから何度か、夜に歩いた。終電ギリギリの時間とか、酔ったふりして迷い込むように。
でも、明かりもない。人もいない。
あの日の“あの道”に、もう一度だけでも、入りたかったんだけどな」
同僚が、やや呆れたような口調で言う。
「……だから最近付き合い悪かったのかよ。誘えよ、そういうとこ」
串を箸で持ち上げたまま、笑うような、文句のような声だった。
男は軽く首を振るだけだった。
「もうなかったよ。……たぶん、最初からそういう場所だったんだ」
少し間をおいて、同僚がぽつりと漏らした。
「なんかさ、それ夢だったんじゃね?…お前結構酔ってたしさ」
男は返さなかった。
ただ、串の先端を指先で折って、皿に置いた。
「それでもいいよ。夢でも、幻でも。
でも……確かにあの時、泡が消えた音だけは、耳に残ってる」
第五章:再び、あの夜を
「でさ」
同僚が、ふとしたように言った。
「もし、今あの店があったら……もう一度、飲みたい?」
男は少しだけ目を伏せた。
グラスの底、残り少ないレモンサワーが、わずかに揺れていた。
「……わからないな」
そう言ったあと、少し間を置いて、付け加えた。
「また同じ味がするとは限らないし、同じ出し方をされるとも思えない。
それに……あの夜だったから、あれがああだったのかもしれない」
「じゃあ、飲みたくないってこと?」
「うーん……いや、違うな。
あれが“どんな味だったか”を、もう一度確かめたくなる時はある。
でも、それって……“あの味”を壊す気がしてな」
男は、指先でグラスの縁をなぞる。
氷はすっかり溶けて、ただの薄い液体になっていた。
「だから、飲みたいかって言われると……**“わからない”って言っとく方が、ちょうどいいんだよ」」
同僚は苦笑しながら、箸を置いた。
「なんかさ、お前の話、ぜんっぜん参考にならねぇな」
「だろうな」
男も同じように笑った。
二人の前に、焼き鳥の皿だけが残っていた。
音のないテレビが、淡々とニュースの字幕だけを流していた。
男は最後に、空になったグラスを持ち上げて、
底に残った水のような液体を、そっと飲み干した。
グラスが静かに置かれた。
その瞬間――
……どこかで、古い扉がひとつ、ゆっくりと開いた。
その隙間から、焦げた砂糖の甘い香りが、静かに流れ出していた。
甘い記憶は片隅に ユー @Ryo_wa
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