『結婚の定義とは?』
志乃原七海
第1話:結婚の定義会議
第一話:結婚の定義会議
「お姉ちゃん、そろそろ本気で考えなよ。」
睦実の声は、いつになく真剣だった。リビングのローテーブルには、熱いほうじ茶の湯気が立ち上り、その穏やかな香りが、私、ななみの緊張をほんの少しだけ和らげてくれた。
「何のこと?」
私は努めて平静を装ったが、心臓は不規則なリズムを刻んでいた。睦実の「真剣な」話というのは、大抵、私の結婚についてだ。
「ほら、もうすぐで私も2年経つじゃない?なのに、お姉ちゃんったら、まだ独身。私、お姉ちゃんの将来が心配で心配で。」
「心配しないで。私、自分の人生、ちゃんと考えてるから。」
「考えてるのはわかるんだけどね。でも、女性として、いつかは家庭を持つのが普通っていうか…」
また出た。「普通」。その言葉を聞くたびに、私の胸の奥がざわつく。結婚=家庭=女性の役目、という、睦実が信じる「わかりきっている常識」。それは、私にとっては、どこか遠い国の話のように感じられた。
「私、仕事も好きだし、読書もしたいし、それに、結婚したからって、すぐに家庭に入るなんて考えられない。」
「それ、結婚したくない言い訳にしちゃダメだよ!それに、あの(うちの父と母の)結婚生活を見て、まだそう思える?」
睦実が、唐突に父と母の話を持ち出した。父は、仕事一筋で、家にいる時は新聞に埋もれているか、居間で静かにテレビを見ているか、どちらかだった。母は、父の世話を焼き、家事をこなし、時折、疲れた顔でため息をついていた。二人で仲睦まじく笑い合っている姿を、私はほとんど見たことがなかった。
「お父さんとお母さんの結婚は、あれはあれで…」
「あれで、何?お父さんが定年退職したら、お母さん、どうするんだろうね?ずっとお父さんの世話焼いて、自分の時間なんて、ほとんどなかったんだよ?」
睦実の言葉は、痛烈だった。確かに、母の人生は、父の「仕事」と、その後の「引退」に、大きく左右されてきたように見える。そして、母自身が、自分の人生を、父の人生に寄り添わせることで、定義していたようにも思えた。
「お姉ちゃんは、あんな風になりたくないんでしょ?」
睦実の瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「…なりたくない。」
その言葉は、私の本心だった。結婚して、出産して、社会復帰したら、女は家庭に入ればいい、という風潮。都合が悪ければ「誘いにくい」、そんな言い訳をする女たち。それらすべてが、私には息苦しく、自分らしさを失ってしまうように思えた。
「じゃあ、どうしたいの?お姉ちゃんの思う「結婚」って、なんなの?」
睦実の問いに、私は言葉を失った。
「結婚したら、仕事も続けたいし、夫とも対等に、支え合って生きたい。子供ができても、それは私の人生の一部で、私自身を定義するものではないって思ってる。」
「でも、それって…」
「いや、でも、じゃない!私、最近、夫婦別姓のことも調べてて。」
思い切って、話題を変えてみた。
「別姓?なんで?」
「だって、結婚したら、姓を一つにしなきゃいけないのが、まずおかしいと思わない?私、親から受け継いだこの「七海」っていう姓、大事にしたいんだ。それに、社会生活で、会社だけの仕事ネームにするか、実名にするか、色々議論したんだけど、結局、福利厚生とか含めて、同姓にするメリットなんて、私達にはないなって。」
睦実は、少し驚いた顔をして、私の言葉を咀嚼しているようだった。
「メリット、ないって…でも、銀行とか、保険とか、色々面倒になるんじゃないの?」
「それは、ある程度は。でも、それ以上に、私は私でいたい。仕事も続けて、自分の名前で、責任を持って働きたい。」
「うーん…」
睦実が腕を組んで唸る。彼女にとって、私は、理解不能な生き物なのかもしれない。
「とにかく、お姉ちゃんの結婚観、なんか、全然わかんない。」
「そう?じゃあ、今日、ここで、みんなで話し合ってみようよ。」
私は、ローテーブルに並んだお茶を指差した。
「父さんと母さんも呼んで。」
睦実が怪訝な顔をする。
「なんで?お姉ちゃんの結婚の話だよ?」
「うん。でも、結婚って、私達二人の問題だけじゃないでしょ?両親が、どういう結婚をしてきたか、そして、これから私達がどういう結婚をしていくか、それを、みんなで「結婚の定義」について、会議しようよ。」
睦実は、ため息をつきながらも、頷いた。父と母を呼ぶのは、少し緊張する。きっと、父は「結婚は家と家を結びつけるものだ」と言うだろう。母は、無言で、しかし「家庭を守る」ことの重要性を、その表情で語るに違いない。
しかし、私は、もう、流されるつもりはなかった。結婚という、漠然とした「常識」に囚われるのではなく、私自身の言葉で、私自身の定義を、この場で、明確にしたかった。
「さあ、始めようか。私の「結婚」の定義会議。」
私は、ほうじ茶を一口すすり、静かに宣言した。
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