第37話-後編

それから、どれほど時間が経っただろうか。あたりはまだ暗く、朝が来る気配はない。けれど確かに風のにおいが変わり始めた頃だった。


王がゆっくりと体を起こし、あるものを懐に入れた後、羽織を着た。それは完璧な王の姿だった。彼は少し迷った後、タタユクに近付く。


頬に手を触れようとして、やめる。王には、今の彼がそれを望むかどうか、分からなかった。


「……愛している」


ぽつりとそれだけを落として、王は天幕の外へ出ようとした。しかし羽織がぱさりと落ちて、それは叶わなかった。


「わたくしも愛しています。カシュハさま」


羽織は、光の色をした腕に掴まれていた。


「……起きていたのか」


「あなたのことはよく分かっていますから」


王は眉を下げて笑い、少しの躊躇した後、「共に来るか」と聞いた。客人は迷わなかった。


「はい」


二人は天幕を抜け出して大樹のそばに連れ立ち、星の客人を見つめた。


「先ほどより大人しいな、タタユク」


片眉を上げる王に、客人は微笑みを返した。そこには少しの怒りがまだ燻っていたが、ほとんど愛に満ちていた。


「誤解なさらないでください。納得したわけではありませんから。……納得できないまま別れるよりは、腹を立てながらでもあなたの隣に立って終わりにしたいと、考え直しただけです」


王は迷ったが、「ありがとう、タタユク」と返すほかなかった。彼の苦しみに甘えることは年上の王として情けなく思ったが、通り過ぎるにはあまりに愛しかった。


「……あの、カシュハさま」


「なんだ?」


「今までの時間が全て苦しくなるかもしれません。最後にあなたを愛したことを後悔するかも。けれど、いま……あなたに口付けたい。いいですか?」


今まで断ったことなどないのに、この青年はいつも伺いを立てる。自信なさげな言葉と、期待にあふれた声音が、いつもちぐはぐで愉快だった。


「ああ。タタユク、そなたにだけ許す」


カシュハはいつもと同じように答えた。これを特別なものにしたくなかった。幾度か交わした口付けのただひとつに過ぎないのだと思わせたかった。


二人の唇は夜風にさらされて冷たかった。


離れていく瞳を見つめながら、王は口を開く。


「タタユク。さきほど願いはふたつと言ったが……もうひとつ、頼まれて欲しい」


「……何ですか?」


その囁きは不穏な色をしていた。何度こんな思いをすればよいのだろうと、タタユクは石を飲み込んだような気持ちになる。


「星を返して、私が倒れたら、この体は鳥に捧げて欲しい」


「え……?」


その願いがあまりに突拍子もないものだったので、タタユクは言葉を返せなかった。肉体を、鳥に、捧げる? そんなことを、タタユクは生まれてから一度も聞いたことがない。


「森林の国ではどうか知らぬが、砂漠の国では、鳥に体を捧げることで次の命を得るのだ」


客人の表情を見て王はそう付け足したが、彼を納得させるには不十分だった。


「……わたくしには、できません。あなたの体を傷付けることなど……」


タタユクは頑なにそれを拒絶しようとしたが、王のほうも、余裕がなかった。なにしろ彼は今夜、彼と別れるのだから。


「次の命でもそなたに会いたいのだ。王ではなくなるかもしれぬ。同じ国に生まれる可能性もあるだろう。それが、それだけが、私に残された望みなのだ。どうか頼まれてくれ」


年上の王に手を握られ、懇願されると、タタユクは困り果ててしまった。


「あぁ……」


ひと息だけ切なく嘆くと、残りの息をふーっと吐いて、色違いの瞳を見つめる。そこには戸惑いこそ残っていたが、恐怖はなかった。彼も望んだのだ──この王と再会する日を。


「……わかりました。わたくしが責任を持って、あなたの体を……鳥に捧げると、お約束します」


そして、と続ける。


「わたくしはわたくしの方法で生まれ変わり、必ずあなたを探し出します」


それを聞いて、王は破顔した。喜びと、彼なら本当にそうしてみせるだろうという、期待があった。


「ああ。待っている」


ふたりはしばらく見つめ合っていたが、ふとあることに思い至ったタタユクが、首をかしげた。


「……鳥に捧げる、とは、どうすればよいのですか?」


「血のにおいで鳥を呼ぶ。通常なら、遺族が体に傷を付けて、それを印とするのだ。そのあと、鳥からよく見えるように、丘の下に横たえる。ここだと、大樹が邪魔になって、よく見えないはずだ」


タタユクはぎょっとしたが、王は笑って「傷を付けるのは、自分でやる。その様子では難しいだろうからな」と言った。そして懐から小刀を取り出し、はだけさせた胸のあたりにそれを立てる。


「……っ」


しかし、そこからが長かった。王は自分でできると考えていたが、いざその時になると恐怖で力が入らなかったのだ。


「大丈夫ですか、カシュハさま」


「ああ……いや、しばらく時間がかかりそうだ。はは、すぐに終わると思っていたのに……」


その手のひらが震えるのを見て、タタユクは耐えきれず、己のそれを重ねた。


「わたくしが代わりましょう」


カシュハの体に傷を付けることは、タタユクにとっても苦しいものだった。けれどそれは、カシュハの痛みや恐怖よりはるかに小さなことだ。


「……」


カシュハは力を抜いて、小刀がするりとタタユクの手に渡るのを力無く眺めていた。


「……よろしいですか」


「ああ」


傷を受ける自分よりよほど痛ましい表情が浮かんでいるのを見て、王は泣きたくなった。けれど止めるつもりはなかった。ここで止めれば、彼との再会を諦めることになる。彼はさらに苦しむだろう。


するどい痛みが胸に走った。王は、友人のゆがんだ表情から目を逸らさずに言う。


「それでは足りない。もっと深くしなければ」


「……はい」


痛みで体を動かしそうになるが、必死に耐えた。血が滴る感覚が伝わる。


それを見て、タタユクは咄嗟に、王のゆがんだ瞳に迫った。


「カシュハさま、口付けてもよいですか?」


「は……、はあっ? 何を言って──」


タタユクは答えを聞かず──王の声に乗っているのは戸惑いだけで、拒絶の色はなかった──唇を合わせた。それはいささか乱暴なものだった。


「……っ! タ、タタユク」


彼の腕や腰のあたりを押して抵抗しようとしたカシュハだったが、血の上った頭でふと気付いた。彼に触れているところを意識していれば、胸の痛みからは気が逸れる。彼はそのためにこんな真似をしたのだ……と。そうでなければ、この真摯な青年が、無理に口付けるはずがなかった。


「もうすぐ、終わりますから……」


これで最後だと思えば後悔するかもと苦悩していた、数刻前のタタユクを思い出す。彼はきっとこの口付けを忘れないだろう。最も苦い最後の時間を。


「すまない……すまない、タタユク」


王の瞳からはじめて涙が溢れた。彼は大切な友人、愛しい恋人に、つねに実りあるものを預けたいと願っていた。それは未来への希望や、長く満足のいく人生や、自分以外の理解者だった────これほど痛みに満ちたものを残したいとは、一度たりとも願わなかった。


「わたくしは……」


タタユクは王の涙を頬に受け止めながら、隙間を縫うように言葉を紡いだ。


「あなたが、天に昇って……星になる手助けを……したいのです」


王は頷いた。まつ毛に乗った水のつぶが、乾いた砂の色を変える。それに血が重なったとき、肌から冷たい感触が離れた。


胸にはまっすぐな傷ができた。鳥を呼ぶには十分な赤さだ。


ふたりは唇をはなして、傷を見た。王はやわらかな髪の下で薄い唇が震えているのを見て、ぐっと歯を噛み締める。


「ありがとう。そしてすまない……タタユク」


王は大樹に向かい合った。タタユクはとっさに王の右手を掴み、決して離さなかった。


星のかけらの返し方は、非常に単純だった。


大樹に触れて、ただ「星を返す」と願うだけ。星のかけらが皮膚に浮かび上がるほど病が進んでいれば、星がその声を聴いて飛び立つことができる。


大きく息を吸い、ふーっと吐いて、王は願った。


すると、王の右目のあたりが熱を帯びて、羽化する直前のさなぎのように蠢きはじめた。


「っく……!」


それは痛みを伴ったが、王は大樹に額をつけ、身じろぎひとつしなかった。


しばらくして、星は溶けるようになくなった。すうっと痛みが引いていくなかで、王ははっと顔をあげる。


声はない。けれど確かに聞こえる。


「……願いをひとつ叶える、と言っている」


驚いたのはタタユクだ。彼もかつて、この地で星の客人と話したことがある。あの時と同じことが、今、目の前で起きているのだ。


「願いか。……確かに、こんな思いをしたのだから、願いのひとつやふたつ叶えてもらわねば割に合わないな」


王は顔の半分だけで笑ってみせた。そして、今は遠い砂漠の国の輪郭を見た。


「……元通りにとは言わぬ。ただ、決して果てぬ豊かな川を、あの遥か遠き国へと巡らせてほしい」


タタユクは王の手をぎゅっと握った。彼の願いはそれ以外にないだろうと確かに思ったが、けれど、もっと欲深く……彼自身が受けられるものを望んで欲しいと思った。


──彼が望まないのなら、自分が望めばいい。そう心に決めたとき。


「そしてこれは、これから星を返す王たち全ての願いだ。今後、願いは何ひとつ叶えてくれるな」


タタユクは信じられない気持ちでカシュハの横顔を見た。


「……言っただろう。そなたは欲深い。そしてそれは、いつかそなたの翼を焼く。そのような王を生み出さぬためには、こうするほかない。それに、星は信用できぬからな」


反論を許さない口調だった。穏やかで、落ち着いていて、しかし決して曲げられぬ芯の通った声だった。


「星の客人よ。われらの願いはそれだけだ。星のかけらは順番に返してゆくから、この地からは離れてくれぬか」


カシュハの横顔を見つめていたタタユクの頬を、星のまたたきが照らした。星が頷いたのだ。


「ふう……これで、終わりだな」


王は力が抜けたように、大樹に背をもたれかける。その右目はもう開かなかったが、これまで抱えていた痛みが引いたことで少し楽になった。それと同時に、体から感覚が抜けていくのを感じた。


「カシュハさま……」


タタユクも頽れるように膝を折り、王に寄り添う。その表情は切迫していて、王はそれをほぐすように笑って彼の肩を抱いた。その体はこの地に来てからみるみるうちに大きくなって、初めの頃からはるかに厚みが増している。このみずみずしい体がどのように朽ちていくかを、まさにその隣で見守れたらどれほど良かったろうかと、思わずにはいられなかった。


「これが最後ではないのだ。いつか必ず再会すると約束しただろう」


「……はい」


「では何が不安なのだ、タタユク。そんなに哀れな顔をして、困ったやつだ。これでは易々と体を捨てられぬ」


頬を撫でて促すと、タタユクは震える唇で答える。


「……あなたがいない世界で、わたくしはどう生きればよいのでしょう? ふたたび木々に埋もれて生きるには世界を知りすぎてしまいました。一滴の水もない地で生きるには、あなたという湖の記憶が大きくなりすぎてしまいました。わたくしの心を満たすには、今や何もかもが足りないのです」


王は、まぶたを閉じながら、微笑みを浮かべた。


「そなたがひとりでここに来て、私と愛し合ったことは、事実としてその手の中にある。一度手に入れてしまえば失われることはない。そなたはすでに”それを手に入れたタタユク”なのだ。未来永劫、ずっとな。それにふさわしい場所で生きて、そして……」


タタユクは虫の声を聴くように耳をすませた。カシュハの慰めは真実タタユクのためだけのもので、それは最後に受け取れる唯一の愛だった。


「……いつでも思い出すといい。あの旅の日々、私との口付け、そなたの痛みを。私はいつでも、そこにいる」


タタユクの瞳から落ちた涙が、カシュハの頬を濡らしている。それがかの王の唇、首すじ、そして胸に走った傷に流れていくさまを、星々が見つめていた。


「タタユク」


王の息は消えそうなほどか細かった。


「……はい、カシュハさま」


タタユクも、囁き声で答える。それらの声は向かい合ったふたりの間にとどまり、どれほど優しい風に吹かれても、この砂漠をさまようことはなかった。


「約束だ。互いに誇れる姿で会おう」


「はい」


「そなたは、今よりもっと体が大きくなっているかもな」


カシュハが笑いながらそう言うので、タタユクも笑って答える。


「どうでしょう。わたくしとしては、この木を持ち上げられるくらいになりたいのですが」


「はは、いいな。それと……そなたの豊かな肌が、損なわれなければいいのだが」


王の左目がうすく開き、視線で眼前の肌を撫でた。タタユクは涙をぬぐって、王の背に回した手にぎゅっと力を込める。


「……あなたには、今度こそ自由に飛び回れる翼を授かっていただきたいです。そうしたら、わたくしを背に乗せてくれますか?」


「ああ……約束しよう」


「今度は世界じゅうを旅しましょう。空も海も森も、この世界のはるか先の果てまで、ふたりで」


王は笑みを浮かべた。


「……楽しみだ」


タタユクは音を立てないように涙をこぼした。腕のなかにあるそれが力なく傾ぐのを支えて、きつく抱きしめる。


頬をぬぐいながら、振り返って砂漠の国を見た。世界はまだ闇のなかで、誰もが静かな寝息を立てている。この穏やかながらもつめたい世界で、彼は明日からひとりで生きるのだ。




タタユクはまだやわらかな王の体を、砂漠の開けた場所に横たえた。その背中を、美しくするどい太陽の光が照らしていた。

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