09.1945年(春和元年)8月 香港①

 土埃を含んだ風が舞い上がる。


 風が土で汚れた紙も巻き上げる。


 その紙は帝国支配への抵抗運動の伝単ビラだったが、誰も気に留めず、高く舞い上がった。



 ━━1945年(春和元年)8月中旬、香港。



「ねえ、この坂、いつまで、続くの?」


 息も絶え絶えに睦子ちかこが言った。

 マコトの──男物の背広を日除け代わりに頭から被り、炎天下の中、坂を上っている。


 汗だくで、ぜえぜえと喘鳴を漏らし、前傾姿勢で歩くその姿は、優雅からは程遠く、実に情けない。


 一国の女帝には、到底見えないに違いない。


「上海のときも思ったんだけど、瞬発力はあるけど、持久力、なさすぎませんか?」

「うるさい。四月から軟禁生活だったのよ。体力落ちてるに決まってるじゃないの」

「毒づくときだけ一息で話せてるじゃないか。後、坂は目的地に着くまで。香港島は階段と坂だらけって常識だけど」

「知らないわよ、そんなの。どうして車とかないのよ?」

「上海より香港は燃料事情が悪いんだ。補給が碌に来てない」

「⋯⋯うん、なんか、そういうことなら、ごめん。何も知らないし、何も出来ないけど……不甲斐ないわ」


 一応、名目上は睦子が国家元首なので、何も出来なかったことに関しては責任の一端を感じる。


 本当に何の実権も持っていないのでどうすることも出来ないが、それがもどかしくて仕方がない。


「ハル、別にあんたが悪いわけじゃないから謝らなくていい」


 マコトは、睦子の偽装用の呼び名を呼んで、少しばつが悪くなったように言う。


「そう⋯⋯?」

 

 それもそうなのだが、やはりどこか居心地が悪い。


「でも⋯⋯少しでも、何か出来ていれば⋯⋯」

「そんなことよりもう少し速く歩いてほしい。治安の悪い地域を避けたから遠回りしてるけど、こんなにかからない。遅い」


 優しさを見せたかと思えば、やっぱりマコトはマコトだった。辛辣だ。

 睦子は負けじと言い返す。


「それは、無理。だから背負ってくれてもいいのよ?」

「あんた、誇りをどこに捨ててきたんだ?」

「そんなもの、さっきビクトリア・ハーバーに捨ててきたわよ」

「捨ててくんな。それに、俺も瞬発力派だから、重量物を背負って運ぶ持久力とかないんだよ」

「嘘おっしゃい! 私は羽のように軽いわよ! 重量物だなんて失礼な!」

「あんた上背がちょっとあるし着痩せするから、細く見えても重いんだ。上海のときだって、途中から段々ずっしりと重く⋯⋯」

「うっ、背はちょっとあるけど、あなたと頭一個違うじゃない! そんなに重くないわよ! それに、だから走ったじゃないの!」

「走ってすぐ息切れして、また担いで、俺がバテて、走って息切れして⋯⋯何あの、Endlessエンドレス repeatリピート⋯⋯」

「……よく、逃げ切れたわよね、あれ……」

「二度とやりたくない、あんな無謀」

「今ならただ背負うだけだから、無謀じゃないわよ、さあ」

「誇り、拾ってこい」

「一度、坂を下りないと拾ってこられないわ」

「……」

 

 マコトという男は端正な容姿とは裏腹に、中身は、泥臭い努力で成り立っている。

 だから、しばらく一緒にいると弱点も見えてくる。

 瞬発力はあるが、持久戦になると、少しばかり不利になる。

 こつこつ計画を練るくせに、それを崩されたとき、すぐ眉間に皺を寄せ、短気で怒りっぽい部分が顔に出る。

 神経質なのに、睦子がこっそり背中の後ろから、トランクの旅券パスポートを覗き見れてしまうほどの、脇の甘さがある。

 これは、本人が隠す気を失っていた可能性もあるけど、不注意だと思う。


「背中に乗れよ、まったく」


 それから、結局、マコトは睦子を背負って坂を上った。


 押しに弱い、これも弱点の一つだ。


「ゆっくりだらだらしてると強盗に身ぐるみ剥がれちまう」


 渋々という顔をして言う。

 治安が悪い地域を避けたといっても、道端には、やせ細った物乞いがいた。

 憲兵も覇気がなく、どこかぼんやりとしている。

 燃料だけではなく、おそらくすべての物資が足りていない。


 マコトが「やっぱり重い」と小声で繰り返し、その度に睦子は「うるさい」と言い返した。

 足早に睦子を背負ったマコトは坂を上り、ようやく目的地に着いた。


「ここだけ木があるのね……」


 目的地は半山区ミッドレベルズにある小さな屋敷だった。

 コロニアル建築の三階建タウンハウスには、寄り添うように白樫の木が植えられていた。


「ここは目隠しが必要な場所だから、燃料用の薪にされずに済んだ……背中から降りてください。あと上着も返して」


 睦子はマコトの背中から降り、マコトは上着を着る。

 マコトが小さな門扉を押して、敷地に入る。

 睦子もそれに続く。

 木陰に入ると、ざあと葉擦れの音と蝉時雨が聞こえた。

 先程までの炎天下が嘘のように涼しい。

 階段を数段上がった玄関ポーチに人が立っていた。

 短小銃に銃剣で武装した帝国陸軍の制服を着た男だった。

 色黒でいかめしい、いかにも軍人という偉丈夫だ。


「小坂軍曹、藤木中佐は戻られているか?」


 マコトに小坂と呼ばれた男は、無表情のまま、低く静かに言う。


「戻られてますよ、昨日からお待ちです」

「うわ……」


 マコトが顔をしかめる。


「何? これから怒られるの?」


 小声で睦子が聞くと、


「そうじゃないけど、いや、ちょっと違うけど」


と、マコトは歯切れ悪そうにどっちつかずの返事をした。


 厦門アモイで予定より一日多く足止めされたせいだ。


 書類不備やマコトのポルトガル語の不出来ではなく、貨客船の整備による遅延だったので、咎められる謂れはない。

 でも、規律や時間厳守を重んじるのが軍隊、叱責されるのかもしれない。


「藤木中佐、ただいま帰還いたしました」

「遅かったじゃないか。疲れただろう?」


 だが、玄関ホールを抜け、通された応接室にいた背広姿の男は、睦子の予想に反して柔和な笑顔を向けてきた。

 マコトもそうだが、藤木もあまり軍人らしさを感じない。

 いや、あえて軍人らしさを、脱臭している、が正解か。


 ━━情報機関の人、だものね


 睦子は、そう思い、納得する。


「こっちに座りなさい。お嬢さんも」


 マコトが少し眉間に皺を寄せつつも、差された側のソファに座る。

 睦子は『お嬢さん』という言葉に少し引っかかりを覚えつつも、マコトの隣の下座側のソファに腰をかける。


 ━━彼は、私の『正体』を、知ってるのかしら。


 マコトをちらりと見上げると、眉間に皺を寄せたまま小さく頷く。


 ━━知っているが、『今』はそうは扱わない、ということね。


 それは『陛下』では都合が悪いということなのかもしれない。

 本来、中佐の藤木や、その部下であるマコトは、帝に直答が許される身分ではないのだ。

 直接、話すために形式上、知らない振りをして、敬意を払わないという立場を取るのだろう。


 なんとも回りくどい。

 睦子はそう思いながら藤木を観察する。


 藤木は白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた細身の中年男性だった。

 細身だが決して貧相な印象はなく、マコトほどではないが背が高かった。

 きりりとした眉と鼻筋の通った鷲鼻、面長の輪郭は、若い頃は美丈夫だったのだろうと思い起こさせる。

 しかし、柔和な笑顔を浮かべてはいるが、よく見ると眼光が鋭い。


 牧原侍従長と同じ匂いがする、と睦子は判断した。


 ある程度は信用できるが、弱味を見せてはいけない相手、そういった分類だった。


「前置きもなくて申し訳ないけど、本土では広島に米国の新型爆弾が投下されて相当の被害、ソ連が参戦し満州へ侵攻を開始した」


 回りくどく見えたのに、藤木の言葉は、ひどく直截的だった。


 ━━今、何て?


 睦子は、その直截過ぎる言葉の内容に理解が追いつかずに、反応できない。


「は?」


 マコトが訝しげな声を出したが、藤木は柔和な笑みを浮かべたまま睦子を見据えた。

 

「この戦争はもうすぐ終わりますよ」


 睦子は言葉を失ったまま、藤木を見つめた。


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