08.1945年(春和元年)8月 厦門

 どういうわけだか、やんごとなき血筋に生まれた私は、人々の注目から逃れることはできない。


 優れていなくてはいけないし、清くなくてはいけないし、美しくなくてはいけない。


 期待を背負って『陽宮はるのみや睦子ちかこ』という照和帝第一皇女の役を演じて十九年ほど生きて、今年からは女帝という役を演じている。


 でも、今はちょっとお休みというか、偽装した身分を演じている。


 私は今、ハルと呼ばれるヤンという中国人になっていて、南国の厦門アモイはコロンス島のポルトガル系一家が経営する宿で、蝋燭の薄明かりの中で同じベッドに横になった男の人の顔を覗き込んでいる。


 この部屋、夫婦用の部屋でベッドが一つなのよね。

 

「ハル、何見てるんですか?」


 柔らかな低い声は、少し不機嫌な色を滲ませているけど耳に心地よい。


「何って、風光明媚なコンロス島の海や石畳の街並みや西洋建築の代わりに、あなたの綺麗な目とお顔を。私、やっぱり出歩けないのね?」

「当たり前でしょう。仮にも逃亡中ですよ。物資も不足し、街は荒れていますから危険です。よって移動は最低限です」


 私が、マコト、と呼んでる人がすごく嫌そうに顔をしかめる。


 彼はたぶん、帝国陸軍の情報機関の人だけど、どこの国の出身の人か、よくわからない。


 少し癖毛の髪は明るい栗色。

 目は昼の太陽の光では灰色、夜の蝋燭の明かりでは青に見える灰青色。

 鼻が高くて、鼻筋が通ってて。

 彫りが深く、目元は二重瞼だけど、少し薄めというか、東洋的。


 西洋と東洋が混ざった不思議な雰囲気の顔立ち。


 でも、とにかく綺麗で、正直に言ってしまうと、好みの顔だった。 


 降嫁する予定だった皇族の婚約者、顔がのっぺりしていてあまり好きになれなかったから、女帝は結婚出来ない決まりで、戦況悪化で延期になっていた婚約が破棄になって、それだけは、本当によかった、と思ったことは、私だけの秘密。


 私ね、顔が綺麗な人が好きなの。


 人間中身が大事、ということはちゃんとわかっているわよ。


 でも、やっぱり譲れない好みって、あるの。


 マコトは、顔が綺麗だし、背も高くて、均整の取れた細身の筋肉質の身体も美しいし、一夜ぐらいなら共にしてもいいかなと思う程度には好みだった。


 まあ、何夜か一緒にいるけど何もないけどね。


 ちょっと揶揄ってみるけど、全然、なびいてくれない。


 簡単になびかれてもつまらないのだけど。


 そして、たぶんこの人は、自分の綺麗な顔が嫌い。


 どちらかと言えば、嫌悪していると思う。


 まあ、これだけ綺麗、というか普通と違うということは、きっと色々苦労があるでしょうから。


「クッションからこっちへ越えるなって言ったよな。あと、また英語、忘れて帝国の言葉に戻ってる」

「ずっと英語だと、言いたいことが言えなくて、滅入って、気持ちが弱ってしまうわ。私、英語よりフランス語のほうが得意だけど、そっちじゃダメかしら?」

「出来ていない方をやらないと意味がない。楽な方へ逃げないでください。それから、あなたより心が図太い人、俺は知らないけど」

「私、繊細よ? 繊細だからデコピンとかしっぺとか痛いの嫌だもの。帝国の言葉で話していいかしら? 代わりに胸、触ってもいいわよ?」

「触りません。馬鹿も休み休みに言ってください。まったく、やんごとなき御方なのに、どこで覚えてきたんだよ、そんなこと」

「やんごとなくても、世俗的な書物に触れる機会はあったのよ。女子習学院とかで」

「⋯⋯つまり御学友が碌でもなかったから、耳年増になったのか……」

「失礼ね、私のお友達を馬鹿にしないでくださる? 私が無理を言って、少しばかり発禁処分の貴重な蔵書を見せてもらったのよ」

「いや、発禁本を持ってる御学友も強請って見せてもらうあなたも碌でもないですね。とりあえず、ここまでで、デコピン一回」

 

 マコトの指が私の額を弾く。


「っ! 痛ったあーい!」

「そんなに強くしてないが⋯⋯」


 マコトね、私のこと、女だとは意識してるの。


 意識はしてるけど、頑なに踏み越えては来ないし、踏み越えさせてくれないの。


 真面目なんだと思うわ。


 それから、たぶん根は優しい人。


 英会話に慣れるため帝国の言葉禁止、それを破った罰のデコピンもしっぺ、大げさに痛がって見せてるけど、実はちっとも痛くないの。


「明日の昼の貨客船で香港に向かいます。早く寝てください」

「……明日から、というか、今もかしら? あなたはポルトガル人の役だったかしら?」

 

 マコトのトランクの中にはたくさんの旅券パスポートや身分証明書が入っていた。


 色んな国の色んな名前。


 必要に応じて選んでるのだと思う。


 こっそり盗み見たいくつかの旅券に記された生年月日は二十四から三十ぐらいの年齢のものだったから、たぶん本人の年齢もその間に収まるのでしょうね。


「ポルトガル語の完成度が低いので出来たら避けたかったんですが……ポルトガルは中立国ですから、今、一番この周辺を往来しやすいのがポルトガル国籍です。帰国していないから忘れた体にして、なるべく英語で押し通したい……もう、さっき宿の主人と少し話しただけで、ボロが出そうだったし……」


 マコトは顔を、両手で覆う。


 彼にしては珍しく、自信無さげで歯がゆそう。

 英語、フランス語、ロシア語、中国語、イタリア語、ドイツ語、色々話せるみたい。


 たくさんの言葉を話せるようになるには、たくさんの勉強が必要。


 きっと、努力家の負けず嫌いなんだと思う。

 だから、ポルトガル語が上手くできないのはとても悔しいのでしょうね。


 あと、顔を覆う、骨っぽい長い指も、結構好みね、と私は思った。


「無事私たちが厦門を離れて香港に渡れるかは、あなたにかかってる。だから頑張って」


 おやすみ、と言って、私は彼に背を向けた。


 マコトもおやすみ、と言って蝋燭を消した。


 目を閉じても、開けても、世界は暗くなった。


 ━━嗚呼、寂しい、こわい。


 反対を向いて、手を伸ばしたい衝動を押し殺して、私は目を閉じた。


 南国の甘い草木の香りの風に混じって、ほんの微かにマコトの匂いがした。


 それだけで少し穏やかに微睡むことが出来た。


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