第3話 お墓参り

 曇天の下、背の高い木々が背比べをするように伸びている下の見慣れない道を、俺は現役アイドルと並んで歩いている。麻衣はマスクをしてベレー帽のようなものを身につけて最低限の変装をしているが、俺は周りの目を気にしてしまう。すれ違う人々のほとんどが麻衣の顔やスタイルをチラ見して通り過ぎていくことがよく分かるから。


 しかし俺をどこに連れていこうとしているのか、麻衣は教えてくれなかった。「私についてきてください」とだけ言って出発したため、心が落ち着かず、フワフワとしている。


 改めて隣にいる麻衣がアイドルをしていることが未だに夢のようなことだ。俺の人生で隣に女性が歩くことなんて一度もなかったのに、その初めてがアイドルというのは摩訶不思議な出来事だ。


不愛想な俺の顔を見て誰も隣を歩こうとしないのに、そんな俺の隣を麻衣はなぜ躊躇せずに歩けるのか。いや、俺のことをなんとも思っていないからこそできるのだろう。だとしたら、気を張る必要などない。


「ここ曲がればすぐです」


 麻衣は声色一つ変えずに、こっちも見ずに言った。その横顔は殺風景な顔というのか、感情を持っていなかった。


 そして曲がり、二十一、二段ほどの階段を上ると灰色や黒の墓石が一帯を占めていた。


「お墓?」と俺が訊くと、「はい」とそよ風のような声で麻衣が答えた。


「なんでここに俺を連れてきたんだ?」


「私の母に挨拶してほしいなって」


 墓地に来た時点で薄々勘づいてはいたが、いざ聞くと、胸がキュッと締め付けられる。


「亡くなってるんだ……」


「そんなに悲しいことじゃないですよ」


 まるで供えられている菊の花のような笑みを浮かべ、麻衣は言った。


顔も名前も知らない俺を母に紹介してどうするんだろう、と心の中で呟く。


 麻衣が遠慮するように歩き出し、俺はそれについて行った。


墓参りに来るのは久しぶりだった。というのも、俺の弟は十歳という若さでこの世から消えた。飲酒運転による交通事故に巻き込まれて、ルールを守っていた側が命を落とすという理不尽な事故だった。それを受けて、俺は、この世は狂気にまみれていると思った。もう弟は帰ってこないから恨むことは止めたが、この世界に対しては不満ばかり抱いている。


 だから俺も、近いうちに弟に会いに行こうと思っている。この世界にいるより楽しいことがたくさん待っていそうだから。


 でも死ぬ覚悟はない。やっぱり、死ぬのは怖いと思ってしまう。情けない男だ。


「ここですよ」 


一人考え事をしながら歩いていたら、麻衣が俺を呼び止めた。そこには『橋掛家之墓』と彫られていた。麻衣はカバンから水の入ったペットボトルを取り出す。キャップを外すと、それを墓にドバドバとかけ始めた。


「え」


突然の行動に思わず声が漏れた。何事もないように、麻衣はそれを続ける。


「柄杓とか桶とかは?」


「使いませんよ。いつもこれで済ませてますから。何かあったら母が化けて出てくるでしょうから、これでいいんだと思います」


「へー、なら、いいのかなぁ……」


 多少の戸惑いはあったが、所詮他人の墓だ。そこまで気にすることではない。


水をかけ終わった麻衣はペットボトルをしまい、両手を胸の前で合わせて目を瞑った。俺も隣に並んで同じ行動をとった。とはいえ麻衣の母の顔を知らない俺は悼むことが何一つない。悩んでいると、掛橋さん、と隣で今にも消えそうな表情の麻衣に名前を呼ばれた。遠くを指さし、移動する合図だと察した。特に何もしなかったため、小さな申しわけなさがしこりのように残った。


 移動し始めると、雲に隠れていた太陽が顔を出し、嫌みのように熱を与えてきた。そんな明るい視界になると、麻衣の肌の白さに驚きを覚えた。以前食べた雪見だいふくとほぼ同じ色だと思えるくらい真っ白だった。だがその紫外線を気にしたのか、麻衣はカバンから麻衣の肌色とほぼ同じくらいの折り畳み傘を取り出し、開いた。俺の方を振り向いて、


「こういう小さなことから気を付けないと生き残れないんですよ」と微笑みながら言った。


 その帰り道、俺は周りの目を気にすることなく、部屋で話すように麻衣と話をした。


「アイドルの仕事はどんなことするんだ?」


「基本的に歌って踊るっていうのが世間一般の認識ですけど、それ以外にもいっぱいあるんですよ。デビュー時からお世話になっているバラエティ番組もありますし、ファンクラブ用の動画撮影にメッセージ、オフィシャルサイトで公開されるブログとか。後はメンバーによりますけど舞台女優とかラジオパーソナリティーとして活動することもありますよ。でも私は人気が無いので歌番組にも出ないし、バラエティにもあまり出られません。だから全メンバーと比較すると私の仕事は、塵積の塵みたいなものですね」


「その話を聞いてると、やっぱアイドルって大変だなって思うよ。給料とか格差あるだろ?」


「そりゃありますよ。グループのトップを走る西にし野の奈な々(な)未みって人がいるんですけど、その人は私の家賃の百倍が月収だったりしますから」


「……てことは五百万か」


「あくまで私の予想ですよ。前に見た明細ではそうだっただけで、今はもしかしたらその倍になってるかもしれませんし」


「やってらんねえな、よく続けてるよ」


「まぁ、社会人として働くよりは貰ってると思うので。変な話、お金が良いから続けてるだけです。ただ精神的に考えると今すぐに辞めたいです」


 まだ辞めないですけど、と付け足してくすりと笑った。


「そうか。辞めるタイミングとかどうするんだ? けっこう難しそうだけど」


「戦力外通告か不祥事を起こしたら辞めますよ。言い方を変えると、辞めざるを得ない状況にならない限り辞めない、ですね。その方がさっぱりして終われますから」


「潔いね」


「じゃないとしがみつきそうなので」


 垣間見えた麻衣の顔から、ピリッとした空気感が伝わる。自然と俺の背筋は伸びた。


 だがその瞬間、麻衣の顔から氷が溶けたように笑みがこぼれ始め、その表情を俺に向けてきた。


「よかったら私がアイドルとして働いているところ、見に来ませんか?」


 少し拍子抜けをした。どうしてそんなことを言い出したのか、脈絡が全くなかったことに疑念を抱いた。


「それはどうして?」


「たぶん掛橋さんはアイドルとか興味ないだろうから断るかもしれませんけど、私がアイドルとして活動している姿を見てほしいなっていうシンプルな理由です」


「そんなに慮らないでくれてもいいぞ。その誘いは嬉しいけど、俺なんかが行っても迷惑じゃないか? 笑顔一つ作れないやつだぞ」


「そんなことないですよ。メンバーも地元の友だち呼んだりしてますから、こんな私でも枠を取っとくことができるので、任せてください」


 ポンポン、と左胸を拳で叩いて言った。


「でもさ、俺のせいで本当に来たい人の枠を取っちゃうんだろ?」


「大丈夫です。私が本当に来てほしい人を誘っていますから」


 ……調子が狂う。


 感情の起伏はないが、次第に言葉が柔らかくなっているのがよく分かる。だが麻衣の奥底にある気持ちは固い紐で結ばれていてほどくことができない。


 ただ、久しぶりに人の温かさを感じている。俺の目を見て話してくれるのは、注意するときの教授や職質をする警察官くらいしかいない。友だちと呼べる人がいないから、同い年でこんなに親しそうに話すのは懐かしい。


 ――私が本当に来てほしい人を誘っていますから。


 この言葉は常套句なのか、はたまた本心か。素直に受け取ればいいのに、深読みするのは悪い癖だ。考えたところで何もないのは毎度の結末なのに。


「じゃあ、その言葉に甘えるよ」


 降伏するように俺は言った。少々聞こえが悪くなってしまわないか、不安を抱くのは言い終わってからだった。


「ありがとうございます!」


 俺は驚いた。こんな人間らしい笑顔を見せてくれるんだ、と。いつも向けられる嘲笑に慣れていたからか、新鮮な笑顔だった。


「チケット、手に入ったら渡しますね」


 麻衣は俺がライブに来るのがそんなに嬉しいのか、さっきから小さな笑みがこぼれ始める。ウキウキ、という擬音が聞こえてきそうだ。それに、やみつきになりそうな笑顔だと俺は思った。

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