第2話 目覚めた場所
やけに床が柔らかいと思ったら、俺はベッドの上で目を覚ました。服は昨日のまま、近くの小さなテーブルの上には水が入ったペットボトルと俺のスマホが置いてある。
ここがどこなのかよく分からないが、桜のような匂いが妙に落ち着く。
「あ、起きましたね」
女はタオルで顔を拭きながら現れた。ルームウェアなのか、ショートパンツに高級そうなモコモコした長袖を身に着けている。しかしその容姿端麗な顔を見ても、何も記憶に残っていないのは不思議である。
女はそのタオルを簡易的な物干しにかけ、キッチンに向かう。マグカップを二つ持ってきて、それをテーブルの上に二つ置いた。そこにスティックタイプのカフェオレの粉を入れ、白くて細い手で電気ケトルを持ち、お湯を注ぐ。女が柄の長いスプーンで混ぜているとき、俺の視線はマグカップからその女に移動していた。
マグカップを見下ろす目は、憂いがまとっているように見えて、どこか俺に似たものを感じた。
「あの――」
「これ、飲んでください」
まるで声が聞こえていないかのように対応された。とりあえずベットから降り、差し出されたマグカップを持つ。半透明の湯気越しにその女を見て、思考をフル回転させる。
「えっと、あんたは……?」
「それはあとで。とりあえずこれ飲んでください。二日酔いにはいいみたいなので」
女に流されるまま、俺はカフェオレをじっと見つめ、流し込んだ。
「あちっ」
それが舌に触れた瞬間、反射的に声が出た。
「そりゃそうですよ。淹れたてなんですから」
女は雪のように冷たい声でそう言い、マグカップを持つ。そして小さな口に近づけ、二回ほど静かに息を吹きかける。目を瞑って姿勢正しくカフェオレを飲んでいる。まるで茶道のように気品のある姿である。
マグカップから口を離すと、女は柔らかい眼差しで俺を見る。
「それで、あなたは昨日のこと、どこまで覚えてるんですか?」
「昨日……、どこまで……、飲んだ後の記憶は、さっぱりで……」
女は大きくため息をついた。その反応を見て俺は小さく反省した。
「一緒に帰る途中で寝たんですよ、あなたは。それであなたの家がどこか知らないもんですから私の家に連れてくるしかなかった、まぁ元々そうなる流れでしたけど。それだけですよ」
女は淡々とした様子で説明した。だが俺はそれだけでは納得のいかないことがある。どうしてベッドの上で寝ていたか、それを聞こうと考え、言葉を探る。
「えっと、あんたはどこで寝てたん……ですか?」
普段の言葉遣いでは偉そうだと思われそうだったから、自然と敬語に変わった。途中で敬語に切り替えたことを不審に思ったのか、女は柳眉をピクッと動かした。
「私は、床で寝てましたよ」
そこ、と指をさした場所は、フローリングの上にストレッチで使うようなマットレスが引いてあって、その上に毛布が畳まれていた。
もし何もなければそれでいいが、俺が聞きたいのはもっと深いところだった。
「あの、俺、あんたに何もしてない……ですよね?」
恐る恐る質問した俺を見て、女は作り物のような顔を柔らかく崩した。
「もしかして、私を襲ったんじゃないかってことですか? それなら大丈夫ですよ。あなたをベッドの上に移動したころにはもうぐっすりでしたから。それに私は処女のままなので安心してください」
女は答え方にクセがある。特に最後に言った処女だという情報は別に求めていない。だが襲っていないのであれば一安心だった。
俺はマグカップに注がれたカフェオレに三回ほど息を吹きかけ、一気飲みをした。若干、喉が焼けたような気もした。その姿に驚いたのか、その女は目を丸くしていた。
「あの、本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」
「……もう行かれるんですか?」
そのときの女の声は、ほんの少しだけ悲しみの感情が入っているように聞こえた。
「さすがにもう迷惑はかけられないので」
「そうですか……、でも、また会えるかもしれないですね」
「……え?」
今度は俺が目を丸くして訊いた。
「あ、覚えてないんですもんね。まぁ、知らなくても大丈夫ですけど」
そう言うと女はカフェオレをじっと見つめ、息を吹きかける。意味もなくその姿の女を見つめていると、昨日の記憶がうっすらと戻ってきたような気がする。でも、湯気が途中で消えるように、結局は何も思い出せない。
「すみません、なにも覚えてなくて。じゃあ失礼します」
俺は立ち上がり、逃げるようにして玄関に向かった。初めて来る家だっていうのに、玄関までの道は迷わなかった。
「じゃあ、ありがとうございました」
靴を履いて、見送ってくれた女に礼を言った。
「はい、また」
俺はその家から出た。女は、また会えるかもしれないですね、と言っていたが、たぶん、もう会うことは無いだろう。偶然出会った男女なんて、ドラマや映画でしか再会しない。そう思っていたのだが、家を出た瞬間、既視感に襲われた。
ここから見える高層ビル、電波塔、コンビニとコインランドリーが隣接していて、遠くには大学に通うときに使う駅が見える。この景色は、とても見慣れたものだ。まさか、と思ったが、俺の家は間違いなくこのアパートにある、と疑う点が無かった。だからもう、疑念は確信に変わり、背後のドアを見つめた。
――ここ、俺の家の隣だ……。
それを知ったとき、昂る心を抑えることができなかった。その結果、俺は論理的には説明できない行動をとった。チャイムも押さずノックもせずに女の家のドアノブに手をかけていて、気づいたときには勢いよくドアノブを回していた。
開けると、女は桃色のブラにショートパンツに手をかけている姿だった。視線は迷いなく谷間に向かったが、我に返った俺は慌てて「ごめん!」と大きな声で言い、すぐにドアを閉める。心臓はドラムロールくらいの鼓動を打っている。
「別に大丈夫ですよ」
ドアの向こうから淡泊な女の声が聞こえた。逆に女はそのドアを開けて、「どうしました?」と訊いた。そのときには上下セットのルームウェア姿に戻っていた。
「俺、あんたの隣人でした」
女はなんて言ったらいいのか分からない、そんな顔をしていた。そりゃあそうだ。自分の恥ずかしい姿を見られた男に、しかも昨日の酔っぱらいにそう言われて、何を返せばいいか分からないだろう。
冷静に考えて、この事実は別に伝えなくても良かったと思う。俺は慌てて、
「すみません、変なこと言って」
と言って逃げるように女に背を向け、俺の家に帰ろうとした。
「待ってください」
女は俺を呼び止めた。まつ毛の向こうにある素朴な目は、俺に向けてくれない。
「掛橋さんは私のこと覚えてますか?」
その質問に答えは見つからない。それに、なぜ俺の名前を知っているのか、記憶がないときに名前を言ったのだろうか。ひとまず俺は「いや」と答えた。全く知らないから。
「……そうですか」
心なしか、変化のない素朴な目は悲しんでいるように感じた。だが、気になることがついさっき生まれたため、女が閉めようとするドアに手をかけた。女は言葉を発さず、少しだけ視線を上げて俺を柔らかく睨む。
「なんで俺の名前を知っての?」
純粋に、ただ訊きたいことを訊いた。昨日自分で言っていましたよ、なんて答えを待っていたが女は目線を合わせようとはせず、長いこと息を吸った。
「とりあえず、中に入ってもらえますか。もし見られたらアレなんで」
ドアを押し返され、とりあえずもう一度家の中に入った。アレとは何か、深く考えずに靴を脱いで爽快な空気の部屋に戻った。
「あのテーブルの近くに座っててください。またベッドの上でもいいですし」
その言葉に従い、テーブルの近くに座った。女は何か準備をしているようだった。そりゃああんな姿だったのだから、シャワーでも浴びる予定だったのだろう。本当に申し訳ないことをしたと反省した。
女は冷蔵庫から何かを取り出そうとしていた。ひとまず女から視線を逸らし、失礼ではあるが家具や家電、私物などに視線を移した。さっきは慌ててよく見ていなかったが、一人暮らしには適切な大きさの家電や家具があり、美容器具や健康用具、メイク道具が多く散らばっている。それに床は髪の毛が数本落ちている程度で他のゴミは何一つない。美意識の高い人なのだと、ここから伝わる。
「お待たせしました」
透明なコップには、赤身の強いオレンジ色の液体が注がれていた。差し出されたのはおそらく野菜ジュースだ。
「いつも朝はこれ?」
「はい、私は仕事上、あまり……アレなので」
歯切れの悪い言葉だった。さっきから聞くアレとは何なのか。気になるが深く追求はしなかった。他に訊きたいことがあるから。
「それで、なんで俺の名前を?」
女は野菜ジュースを一口飲むと、物音立てず静かにコップを置いた。そして久しぶりに視線がぶつかった。
「勝手に財布を開けました」
女はそう言うとすぐに目を伏せた。
最初の目が真っ直ぐすぎて、それがすぐに本当なのだと信じられるくらいだった。俺は咎めるように言うつもりは全くないが、まだ何か喋りたそうな姿を見て、何も言わず息を殺して次の言葉を待っていた。
「……あの、勝手に見たのは申し訳ないです。でも、もしかしてって思ったんです」
女の声に少しだけ力がこもっているように聞こえた。信じてください、とでも言っていそうな声だった。
財布から札が何枚とられようがどうでもいい。元々大して入っていないし。それに……。
「なにがもしかしてなの?」と俺は訊いた。
すると女は立ち上がり、冷蔵庫の近くにある棚をいじっている。
しかし、改めてよく見れば女はいいスタイルをしている。細すぎないが程よい肉と筋肉がついている脚は、まるでモデルみたいな脚だ。それに加え、不意に見てしまった胸も大きくてマシュマロのように白い。容姿だって、ミステリアスな雰囲気がある切れ長な目に主張しすぎない高い鼻、歯は模型のように綺麗で真っ白。それは現実で会った女性の中で圧倒的に一番綺麗だった。それに加え、こんな俺に優しくする性格の持ち主だ。
どうしてこんな魅力的な人が処女なのか、そう思うとその女に興味が惹かれる。
そして女はカードのようなものを持って戻ってきて、それをすぐにテーブルの上に置いた。それは、女の高校時代の学生証だった。
「えっと……橋掛麻衣さん」
突然それを差し出された俺はなんて言えばよかったのか、とりあえず書かれている名前を読み上げた。
「はい、私の名前です。麻衣で大丈夫です」
そう言うなら、麻衣と呼ぼう、と心の中で決めた。他の項目を見ていると麻衣は俺と同い年で十九歳だということが分かった。そして誕生日を見ると、俺と誕生日が一日違いだった。それを伝えようか伝えまいか迷ったが、どうでもいいと思い、心の中にしまった。
「覚えてませんか?」
俺が心の中にしまったと同時に、麻衣はそう口にした。何が何だか、俺の頭の中で渦潮が起きている。
その様子を見た麻衣は、肩まで伸びた髪の毛を耳にかけて俺の目を真っ直ぐ見つめる。
「高山中学校は、知ってますよね?」
知ってるもなにも、麻衣が口にした単語は、俺がかつて通っていた中学校の名前だった。俺はいささかの動揺を抑えて首を縦に振った。すると麻衣は鎖骨辺りを手で押さえて小さく息を吐いた。
「中二のころに転校した女の子を覚えていますか?」
麻衣は悲壮感漂う目で俺を見る。それを俺は真剣さだと捉え、それに応えようと俺も真剣に過去を回想する。
思い返せば答えはすぐに分かった。やせ細った可哀想な人がいた。そしてそのときには麻衣が何を言いたいか、答えが分かった気がする。
俺はゆっくり、麻衣の目を見て頷いた。すると麻衣はほんのり笑みを浮かべて、
「あれが私です」と言った。
やっぱりそうか、と思った。俺は麻衣の顔を隅々まで見て、必死にあのときの麻衣を思い出そうとする。が、中学の記憶は全て消えていた。麻衣がいたことだけは思い出して、他は何にも思い出せない。つまんない中学時代だったから、かな。
「思い出したよ」とひとまず俺は言った。
「……ありがとうございます」
麻衣は相変わらず表情を変えずにそう言った。財布の中に学生証をしまうと、少し気が楽になったのか、膝を抱きしめるようにして三角座りをした。麻衣は俺の体を眺めるように見ていた。俺は気まずい空気を断ち切るために会話のきっかけを探す。
「今は何してるんだ? 学生……ではなさそうだし」
俺が躊躇するようにそう聞くと、麻衣は「あれを見てください」と言って指をさした。細い指がさす方を見ると、一般女性が着る服としては派手でセクシーな衣装がクローゼットに多く掛けられている。
「……見てもよく分からないよ」
「衣装です」
いつもの淡泊な声で麻衣は答える。それに衣装と口にした麻衣に、俺は少し頭を回転させる。ファッションデザイナーというのが俺の思考の限界だった。
「これも見てください」
だが答えを探そうとする前に次の情報を提示された。差し出されたスマホを覗くと、麻衣の水着写真だった。思わず釘付けになってしまったが、白い水着が似合う麻衣は美しかった。だが自分の水着写真を見せてなんとも思わないのか、と少し戸惑いが生じる。
「えっと……、何でしょう」
思わず俺は敬語で聞いてしまった。目の前にいる人の水着写真を見たことによる恥ずかしさからだろう。
そして麻衣はスマートフォンを操作して次の写真を見せる。それは、大勢の女性が華やかなステージの上で歌って踊る姿だ。ついさっき見た衣装を着ているように見える。
「私、アイドルやってるんですよ」
これまで生きてきて、そんな会話をされたことがないから、その言葉が脳をすり抜けた。
「へ、へぇー、そうなんだ」
そのまま聞き流すには俺のメンタルがもたず、すぐに「どういうこと?」と訊いた。麻衣はやれやれと言わんばかりの顔をしながら立ち上がり、スマホをいじって机の上に置いた。なにやら準備をしている。
次の瞬間、スマホから大音量の音楽が鳴りだした。俺は驚いた。大音量の音楽が流れたことではなく、超有名なアイドルグループである『流渓橋37』の曲が流れたことに驚いた。
そして麻衣は今まで俺に見せなかった煌びやかな笑みを浮かべ、音楽に合わせてダンスをする。正解が分からないダンスを見ているが、細かい手の動きや腰の動き、左手にマイクを持つ仕草、一本一本の指の動きまで再現しているようだ。今の格好も相まって、とても妖艶なダンスだった。これがプロか、と舌を巻くものだった。
一連のダンスが終わり、息切れ一つない麻衣は、無に近い表情にスッと戻し、また膝を抱くように三角座りをした。麻衣の凄さに脱帽した俺は、ぽかんと口が開いたままだった。
「まぁ、こういうことです」
自慢気に言うのではなく、隠しきれない恥ずかしさが麻衣の表情と目線から読み取れる。
「……すげぇな」
圧巻のダンスを称賛する拍手を送った。
俺は流れた曲のグループに所属しているのか、その真実を確かめるために質問すると、麻衣は迷うことなく「はい」と頷き答えた。どうやら麻衣は超一流アイドルになっていた。そういうことなら麻衣のスタイルのことや部屋に美容器具やメイク道具が溢れていること、それに麻衣が処女だということに納得できる。
だが俺はアイドルについて特に詳しくない。たったいま流れた曲だって、バイト中に流れていたから分かっただけで、メンバーをだれ一人と知らない。
しかし芸能人が近くにいるというのは、思わず好奇心が高まる。目の色を変えて俺は麻衣に質問をした。
「いつアイドルになったんだ? 元々憧れてたとか?」
俺の質問に耳を傾けるが、一瞬歯を食いしばった麻衣を俺は見逃さなかった。その心情を読み取ることはできないが、聞かない方がいいと脳が察した。
俺は「ごめん」と言って、別の話題を考えた。
「気を遣わなくていいですよ」
思考中、麻衣にそう言われた。麻衣は俺の心情を読み取ったのか、いや、ただの偶然だろう。
「でも、訊かない方がいいだろ」
「そうでもないですよ。もう乗り越えましたから」
そう言って麻衣は悲しそうな顔をする。どうやら、本心からアイドルになりたいという気持ちは無く、何らかの理由があって渋々なった、そんな風に読み取れる。
「俺、帰ろうか。麻衣も仕事あるんじゃ―—」
「今日は無いですよ。それに私は【じゃない方アイドル】ですから、仕事がそもそも多くないです」
その悲しき事実を自ら言う麻衣に対して、俺は、そっか、としか言えなかった。そんなことないだろ、なんて無責任なことは言えなかった。
帰ろうにも帰れない重圧の空気が全身を襲い、それに潰されそうになる。すると麻衣の視線は俺の方に向け、少しだけ顔を傾げた。
「ちょっと出かけませんか」
特に断る理由が無いため誘いを受けようと考えたが、相手は国民的アイドル。懸念点があった。
「アイドルだったら、男といるってなったらまずいんじゃないか」
「大丈夫だと思います。だって私たちの間にやましいことは無いですし、別に知名度ないですし」
麻衣はすました顔で言った。俺は抱いていた懸念点を最小限に小さくして「わかった」と答えた。それを聞いた麻衣の口角が微小に上がったのを俺は見てしまった。
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