Appendix 2
何十年か分の紫煙を受け止め続けてきた色の壁紙。小会議室の壁にかかった時計は七時三十分をいくらか回っている。
昨年まで所属した超大手不動産会社の傘下にある発注者との詰めの調整会議を終えた下川茉莉は、本社には1組しかないウェブミーティング用の機材をテンポよく片付けつつ内心の安堵感に浸っていた――注文をつける者とつけられる者とで見え方がいかに異なるかを痛感しながらも。
課長と課長補佐の雑談が耳を打ったのはそのときであった。
「そういえば社長、具合悪いんですって?」
「あーそうそう。昼に吉永さんが言ってた。何か今日電話したら繋がらなかったらしいよ。下川さん何か知らない?」
「………いえ、何も」
茉莉自身、気がつけばここ数日連絡は取っていない。会社で見ないのはいつものことだが、『お友達』のメッセージグループにも、そんな話は特に出ていない。縫い止めることにひとまず成功して以来、社長と四人の誰かとの毎晩のメッセージ交換も、緩やかにその頻度を低めつつあったところであった。
「そっか。大丈夫かね?ほら社長もまだ独身でしょ?しかも相変わらず一人だしさ…」
何があったのだろうか。
沈思がはじまり、周りの音が遠ざかる。リズミカルな動作が、急激にそのテンポを落とす。小会議室を出て部署に戻るまでの間にも、芽生えた疑念は確実に成長する。知らず知らず、唇が引き結ばれていく。
「下川さん……下川さん」
肩まで叩かれて我に返る。振り向くと課長補佐がいた。
髪を短く刈り揃えて薄く日焼けした顔の大きな目がいつも通りかすかに笑っている。確か昭和が平成に変わる三年前の生まれ。高校では野球部の副将と主務を兼ねて、県十六強まで進んだのだそうだ。
「何から何までやってくれて助かったわ今日」
「あ、いえ」
「話変わるんだけど下川さんってたまに社長の家行ったりしてるの?」
「…はい。たまにですが」
咄嗟に頻度を偽る。
「様子見にいってあげたら?あとやっとくから」
半瞬の停止。
「え。でも議事録がまだです」
「録画してあるんでしょ?急ぎじゃないし」
誰がやるのかは明言されなかったが、今の茉莉にはそれで十分だった。腰をほぼ九十度に折るや否や、走る音のような歩く音を廊下のタイルに刻み残して歩き去っていった。課長補佐は目元の笑み皺を少しだけ深くして着座し、会議アプリへの再ログインを試みた。
「あれ?下川さんは?彼氏?」
「帰ってもらいました。めっちゃ頑張ってもらったんで」
部屋の主にかなり無理を言ってもう一本の予備鍵を預けてもらったことを今日ほど感謝したことはなかった。部屋番号を押してチャイムを鳴らす。沈黙の十秒を聞き遂げながら、灯らない受話ランプに強い視線。ナイフで切るような。
玄関を解錠する。エレベーターに乗る。三十一階のボタンを押して、同乗者のない無限の一分に、扉をまたも凝視し続けている。
エレベーターが開扉するや、茉莉は一散に飛び出した。扉にたどり着き、鍵を刺す。剣の刺突の如く、しかし手の震えを堪えながら。
脱いだ靴も揃えずにそのまま寝室まで突き進む。
目に入ったのは、丁寧に敷かれた毛布と、その中に小さく横たわり、目を瞑る一人の男だった。
「…兄さん?……兄さん!」
顔を近づけた茉莉の言葉に男は僅かばかり薄目を開けた。しかし、喋らない。いつもより少しこけた頬は青いというより色がない。息は早く、僅かな、しかし確かに鼻をつく甘い臭気を茉莉は捉えた。
「兄さん!どうしたの!」
手を強く握って揺さぶる。冷たい。そして汗ばんでいる。
反応のなさに茉莉は思考まで停止しかけた。どうしてよいかわからなかった。
惰性において繰り返し男に呼びかけながら、また徐々に強く体を揺さぶる。
触れるところはひどく熱い。
男の口から、ようやく言葉が漏れた。視線は合うようで、しかし焦点を結ばない。
「………お腹が痛い。……茉莉…叔父さんは?………」
そうだ。おじさんだ。
少しだけ自由を取り戻した指でスマートフォンの履歴を手繰る。二度すべって、「加賀巌」の文字が現れた。なんとかタップする。三度鳴ってつながった。
「おー茉莉ちゃんか。どうした?」
後ろは静かだ。どうやら飲み屋ではないらしい。
「あの…兄さんが。部屋で。具合が………」
声を制御できない。電話の向こうで居住まいを正す気配がした。
「すぐ行く。待ってな」
三沢青佳は家族旅行から帰って荷解きを終えたその時、メッセージアプリのグループチャットで下川茉莉が伝えたメッセージから、元上司、また元見合い相手にして家事手伝いの依頼主たる男の病と入院をはじめて知るに至った。
ただちに連想したのは
同時に胸中に黒々と焔が湧き上がる。腹痛と昏倒と発熱。それは
ただ、続けてメッセージを手繰るにつれ、
とすればそれは、この国では死病ではない。まだ、大丈夫だ。
「昨日の深夜に手術は無事終わって、面会はできなかったですが、先生によれば今朝は普通に話ができたんだそうです」
「先輩おかわいそう。負けないで早く元気になってほしいです!」
「appendiciteですか。でしたら、手術のあとは改善することを期待しましょう。近いうち皆で御見舞に行くのは彼を元気づけるでしょうか」
青佳は少しだけ考え込んだ。
社会的慣行として病院への見舞いそれ自体は避けるべき行為ではなかったはずではある。とはいえ、件の感染症以来、それは必ずしも常に歓迎されるものではないと青佳は考える。であれば、お友達と自分と社長にとって最も望ましい方針は何であろうか。
そうして有機ELディスプレイを親指が走る。他の三人の誰よりも早く。
「お報せ下さってありがとうございました。茉莉さんはきっと大変だったことと存じます。何より陛下は今病気と闘ってらして、その艱難は察するに余りあります。体力が落ちてらっしゃるところに感染症のこともありますし、個人としてもまた会社も含め大変重大なことと存じます」
「私としてはしばらく、退院してからお元気になられるまでは、直接のご連絡も含めてご家族にお任せするのが最も良いのではないかと考えております」
いくばくかの時間に続いて、薄い振動と通知音がいくらか。
『確かにそうですね!そこまでは考えが至りませんでした…』
『指摘の点はよく理解しました。ローマ人のようにせよ、と言いますね』
『ご配慮すみません。ありがとうございます。兄さんのお母さんを除くと厳おじさんが最も近いので、二人と連絡を取っていこうと思います』
それぞれにリアクションボタンを押して返して、青佳はベッドにやや所在無げに腰掛けた。涙を流したい気持ちもある。だがそれ以上にこれから何をすべきかに考えが自ずと巡る。
最も望ましい方針は何であろうか。
結局のところ変わりはない。
―縫い留めること。そして、独占すること。
あの夏の日々、男は深刻さにおいて
それをなんとか縫い留めてから一年余。
あの花火の夜、意思を露わにした四人に対して、男はそれ以後それぞれに真摯に―少なくとも、紛れもなくそう見える程度には―この一年をかけて向き合ってきた。
今のところ四人はいずれも不利ではない。したがって有利になった者は誰もいない。
不運にも男が身体的な危機に見舞われた今、青佳はこれまでの時間とこれからの時間について思いを巡らせる。
一年の歳月は当然にも、あらゆる人の年齢を一歳繰り上げさせる。この世界でも、肉体の健康と若さは無限でもなければ絶対でもない。男が今まさにそうであるように。
何が最も望ましいか。
しかし、同時に何を最もすべきであるか。
青佳は夕食に呼ばれるまで、ぼんやりと考えていた。
とあるカフェの二人席テーブルで、下川茉莉は瞠目し、少々困惑していた。
同席者―青佳は退院後に「お世話」する立場を一時茉莉に譲りたいのだという。
「―やはり、こんな大変な時はご家族であるとか、少なくともご親戚にお任せしたほうがよいのではないかと思いまして。元気になるまでは」
その顔にいつもの柔らかな笑みはない。いきおい、茉莉の背筋も普段以上に伸びた。これは誰が男を独占するとか、そういう話ではない。決して。
「…身に余る大役ですが、なんとかやり遂げたいと思います」
青佳が頷き、その日大事な話はそれで終わった。
「あ、そういえば兄さんのキッチンって…」
「まあ!ご安心ください、色々こまごまとありますけどちゃんとお教えいたしますからね?」
しかし、
そこからが具体的で重要な話のはじまりであった。
下川茉莉が兄と慕う、より正確に言えば自分に幾度も救いを与え、また自分が幾度か救いを与えた男を実際に世話するのに当たって最も心理的な負荷を与えたのは、物理的なことではない。物理的なことは
無論、入社したばかりの会社を休むことでもない。そもそも、その社長の不予なのである。直接の上司たる課長補佐も、快く理解を示してくれた。
また、彼は。もちろん歩くこともできたし、食べることもできた。
しかし断片化した医師の言葉の記憶が、茉莉を時折捉える―
「運が良かったのは間違いありません。状態が悪いのは脱水のせいだけでした。でもばい菌が全身に回りかけてたらしいので、あと二、三時間放っておいたらどうだったかは…」
「…―喋れてたんですか?!凄いですね」
「…開腹はしないで済みましたが手術は大変でした。癒着と言って、お腹の動きが後で悪くなってしまう危険が……」
「退院は問題ないと思います。でも退院した後は、慎重に―……」
瀉血すれば恢復する、などという次元の話ではない。
個々の臓器はいかに連関し、それがどう損なわれたか。
はるか昔、亡児についてのわだかまりは、あった。
しかし、もうない。
残滓も残さずに拭い去られた。
疑うことによって傷つけずにはいられなかった、かつて王だった男の心のためにも、茉莉は今このときだけに集中するべきであった。
「兄さん?とにかく疲れを溜めてはいけないんだそうですよ」
スーパーを出たすぐ後に男を軒下のベンチに座らせて、
男は背中を丸め、ほんの少し肩で息をしている。
きのう茉莉が干して畳んだ紺色無地の半袖Tシャツは、縮退するその色にも関わらず一回り大きくなったように見える。
縮退するその色がゆえに首と、そして二本の腕が一層細く白くなったようにも。
「大袈裟だな、茉莉は」
「大袈裟じゃありません。だって昨日コップ割ったでしょう?」
僅かばかり語気が荒くなるのを自覚する。
「でもほら、ちゃんとお腹も空いてるし、食べたい味も分かったし、選ぶこともできたから、そんなに悪くないんじゃないかと……いや、ぼくはそう思うんだけど………」
茉莉は努めて男の言い分を聞き取ろうと、凝っと男の顔を見つめる。男の語気は次第に弱くなる。
一見、身体について述べているようにみえるが、実のところそうではない。
身体について何を考え、何を感じているか。
それしか言っていない。
あの「地に落ちて死なば」を、茉莉はそう読んでおり、したがって男のこともそのように見ていた。
つまるところ茉莉の「兄」は、こんな大病の後でさえも、本質的には自分自身の身体には、特に身体の機能には全く興味がない。
ある面で生きる力にひどく欠けている。
茉莉にはそう見えた。
「兄さんの思ってることはわかりました。でも一昨日退院して今日ですよ。少なくともこれは私が持ちますから。ね?」
「うん…うん。その、…ありがとう」
少し下を向いて、男の面持ちにはその言葉と裏腹に少しだけ承服しかねるといった色が残っている。
茉莉はわざとらしく両肩も使ってため息をついてみせた。
「兄さんは、こういうとき私がいないとダメなんですから。もっと頼ってください」
男の唇と目に笑みが浮いたように見えた。秋になって倒れ伏す間際の河原の細草のような。
わたしはこの人を、守らねばならない。
今月は大きな向日葵の写真があしらわれている。ちょうど先週の今日が退院日だったのだと思い起こされた。
―もうちょっと静かに過ごしていてほしいものですこと!
「兄さんの体力のことはよく知らないで来たみたいです。すぐに疲れたのを見てか15分くらいで帰ったので、まあよかったんですけどね」
らしからぬ汗の絵文字が添えられている。
「それと、今のところ教えていただいた卵粥はお口に合うようで、そればかり欲しいと言ってます。本当にありがとうございました」
莞然として返事をタップする。笑顔の顎から首筋、肩から腕、そして指先に至るまでの優美なしなやかさ。
「お気に召していただけているならそれに勝る喜びはありません。引き続きよろしくお願いしますね」
―今はこれでいい。
わたしはあの人を、守らねばならない。
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