Appendix(「地に落ちて死なずば」二次創作)

@hatohasebi

Appendix 1

 タワマンがいくつか建っているところに夜行ってみたことはあるかな。

 ああ、自慢のつもりじゃないんだよ。断じて。絶対に。


 初めてそういうところ―取り繕ってもしょうがないね。

 ぼくが今の部屋に引っ越しだの何だのを済ませてはじめて外へ出たその日の夜、何が耳についたかってね。


 見事なまでの静けさ。『シーン』ってね。本当にそう聞こえるんだよね。

 周りの店やらなんやらが駅近くに似合わず早々に閉まるっていうのもある。

 あの音、部屋の中でも聞こえることがあるし、たまにうちの会社の会議でも聞こえることがあるよ。どんな時かって?それはもう、大変な時だよ。


 本当に大変な時。

 みんなが会社の中で、なんなら取引先にも必死の根回しを終えた後なのに、あらかじめ誰にも相談しないで「それは違うんじゃないか」とか言い出すやつがいるときとかね。誰のことかって?


 ぼくのことだよ。


 最後にやったのは五年前だったかな。七年前だったかもしれない。

 総務部長の吉永さん(49)にそれはもう、散々言われた。

 後で知った叔父さんにもこってり絞られたね。


 でもそれはもういいんだ。ぼくはもう、それを冗談にできる。本当だよ。


 タワマンの話に戻るんだけどね。

 周り中人工物しかないのに、いや、だからかもしれないが、びっくりするほどの静寂が保たれている。

 最新の建材。堅牢な外壁。よくよく見ると分厚いガラス。


 プライバシーが最大限守られた集合住宅。

 現代都市の人々は、集まって住まえば住まうほどに、皮肉にもそれ自体さえも人工的な環境との障壁をより厚くする。

 といって、部屋どうしの壁だけは薄かったりするんだどね。

 でも叔父さんに言わせると、実は結構いい遮音材料使ってるらしいから、結果的にぼくには願ったりかなったりだ。

 隣の誰かの生きてる気配を少しでも感じにくくて済むのは、有難いことなんだ。心から。


 でも最近はその、たちがね。

 よく来るからね。彼女たち、びっくりするほど自然に来て自然に帰っていくよ。

 相も変わらず溜まり場って言葉がぴったりくるね。

 ぼくだけの愛すべき静寂は、いったいどこに行ってしまったというのだろうか。


 誰かと自分の気持ちや日常を分かち合うのは、それはとても素晴らしいことだよ。

 「地に落ちて死なば」の出版を筆頭にそれはもう色々あって、ぼくもそのぐらいのことはよくわかった。

 でもね、今ぼくは久々に、部分的にせよほとんど完全な静けさを手にすることができたんだ。本当に久しぶりにね。


 なんでこんなこと言ってるかというとね、たった今この瞬間、ぼくはたった一人で、学校の教室の半分くらいはあろうかというだだっ広い個室のほどよく硬いベッドに寝っ転がって、見たこともない天井を訳も分からずぼうっと眺めてるからなんだ。


 端的に言おう。ぼくはどうやら入院していたらしい。



 意識を取り戻していの一番にぼくがやったことは、胸元を丸首に切った制服らしきものを着た、たぶん看護師さんと思われる人が来てくれたときに―何せナースコールがどれなのかさえもわからなかったから―ぼくの着けていた時計のありかを尋ねることだった。

 なんでも、着いたときに持っていた小物はすべて、小袋に入れて保管されているのだそうだ。    

 ありがたいね。


 で、今、返してもらった―と言っても自分がいる部屋の金庫らしきものに入っていた―たぶんS社の「5」を耳にぴったりと当ててその規則正しい音を聞きながら、何があったのか思い出そうとしている。

 周りのありとあらゆるものがぼんやりする中、この音と振動だけが確かだ。


 ぼくの記憶が正しければ、ここ三日ほど何となく熱っぽかったんだ。

 時には寒気もした。

 そうこうしているうちにお腹も痛くなってきたんだが、あっちが痛くなったり、こっちが痛くなったり、何のせいなのかがよくわからなかった。


 そういえば、吉永さんには電話を入れて、ちょっと具合が悪いから何日か会社にはいかないよって電話したんだったかな。

 「わかりました」という声に、いつもだろ、って声色が微量に含まれてたのはよく覚えてる。

 そこからは横になって過ごしたから、そんなに辛くはなかったんだけど、ただ、痛みのせいで、段々と部屋の中を歩くのもしんどくなってきたんだったと思う。

 いつもの皆さんは珍しく、揃ってご多忙のため休むのにはちょうどよかった。

 青佳さんはご家族でご旅行に行ってたんじゃなかったかな。たぶん。


 そこから先のことは、正直言ってよく覚えてない。


 というか、全くわからないんだ。ぼくはお酒にそう強くもないから、実のところ人生の中で意識を自ら望まないで手放したことはただの一度もない。

 まあ、に出かけなくちゃと思ったこともあったけど、それもちゃんと自分で決めたことだった。あのときはね。


 そのへんのことが今、何一つわからないんだ。

 ひとしきり喋って時計を返してもらってから、今、自分がぼうっとしていることだけはとてもよくわかる。


 まるで今のぼくが、今ここにいるのに、今ここにいるぼくとの接続を時間的にも空間的にもばっさりと断ち切られたみたいだ。

 これを、そういうのかな。意識の変容、Metamorphoseって。

 ぼくも単語ぐらいならドイツ語知ってるよ。

 好きだったからね。ワーグナー。


 でももう、またよくわからなくなってきた。


 瞼が落ちてくる。


 どうやったって抗うことなんてできやしない。

 まかせよう、世界が空から落ちてくるのに。



 最後に視野の隅にちらりと捉えたのは、現代の普通の建築にはどう見てもありそうにないくらい大きな窓と、そこから見える星一つない暗闇だった。















 朝になったらしい。というのも、ぼくは意識を取り戻したからだ。

 このぼくの、ぼくだけの意識を。

 それに、誰かが「おはようございます」と言ってくれた。

 だから、今は朝なんだろう。


 完全に目覚めてみれば何のことはない。

 部屋も大して広くはないし、窓も大して大きくはない。

 それに、今までさっぱり気づかなかったけど、左手に点滴。

 さらにその左に点滴の袋と、それから横置きの機械にセットされた注射器らしきもの。

 何かいくつかの数字と波からなる液晶画面。

 和服みたいな襟の薄い服。

 胸にシールと何かのコード。

 足の下の方から出ている何かの液体が通っているホースのようなもの。

 

 ぼくの体に絡みついたそれらは、ただそこに在るだけのように見えるが、同時にまたぼくの体を生かすために何か働いているのかもしれない。

 静かに。ぼくにはわからないことだらけだ。


 しばらくしたら、白衣の人が何人かやってきた。

 襟首は看護師さんらしき人たちと同じ丸形なんだけど、生地はもっとペラッペラだ。


「おはようございます」


 渋いバリトンボイス。一番年配で一番背が高い。


「シトーしたナカジマといいます」


 シトー?…ああ。しっとう。執刀。ああ。


「ぼくは手術されたんですか?すみません、大変申し訳ないんですが、その、状況がよくわからなくて」


 ナカジマと名乗ったその人はどうやら医師らしかった。

 彼の話を要約するとこうだ。


 ぼくが救急車で運ばれてきた時に付き添ってくれてたのは、叔父さんと「親戚の女性の方」。

 たぶん茉莉さんなんだろう。

 熱があって、お腹をとても痛がっていて、喋りはするものの目は開けていなくって、血圧も低かった。のだそうだ。


「緊急でゾーエーCTを撮ると虫垂炎がありまして、腹膜炎といっておなかの中まで炎症がある状態でした。なので緊急手術をして虫垂を取っておなかの中をよく洗いました」


 ぼくは沈黙していた。

 一語一語の意味するところへの理解が、追いつくようで追いつかない。

 が、彼はそのまま続けて、こちらがその虫垂です、と言い、持っていた透明の容器をベッドの上に差し渡してある白いテーブルのようなところに置いた。


 カチリと極めて軽い無機質な音を立てて置かれたそれの中には、なんだかよくわからない肉塊としか呼びようのない、赤黒い塊が横たわっていた。


「ここに穴があいていて、ここからおなかにバイ菌が広がってしまったんですよね」


 ですよね、と言われても、ぼくの目にはただ黒い、見方によっては赤いと言えないこともない、小さな小さな肉塊があるだけだった。


 ぼくから分かたれた塊。

 いくらそれが身体の中にあった肉であろうとも、ぼくとは関係のないところで息づいていた。

 もうぼくの中にあるはずがない肉塊。

 でも黒黒と、そして少しだけ赤々と光っている。


 これは。いや、これに限らずぼくの身体は、ぼくなのか。

 そうではなく、ぼくとは全く異なる何かなのか。

 切り離されてしまえばぼくの一部をもはや構成しなくなるものたち。

 それはぼくだと言えるのか。

 そして切り離されたあとの残りものは、ぼくだと言えるのか。

 どこまでがぼくなのか。

 手だとどうか。足だとどうか。胴体のどこまでならどうなのか。…


「とにかく、手術は無事に終わりました。引き続き経過をみていきます」


 なにか喋りつづけていたナカジマさん…ナカジマ先生と呼んだほうがいいのだろうか。

 彼が話を閉じようとしていることに気がついたので、人類がデカルトの後にも前にも何万回煎じたかわからないような陳腐なまとまらない考えの中から自分を辛うじて引き戻しながら、ぼくは問うた。


「あの、退院はいつごろなんでしょうか」


「そうですね、ご飯が食べられることを少しずつ確認するので、あと1、2週間ちょっとというところでしょうか」





「で、十日で退院してからさらに一カ月の軟禁生活が加わったんでしたっけ?」


 高いワインを美味そうに飲み干すと、由理くんは実にいい笑顔で聞いてきた。

 こいつはほんとに…


「既知のことをあえて問うのは意味か定義を再検討するときだけでいいと思うんだがね」


「ではそのように。あれは軟禁生活だったと、先輩はそう思っていらっしゃる。合ってますか?」


「そもそも軟禁生活だったなんて、ぼくはいつそう言ったかな」


「たったいま。『既知のこと』と――そう言いましたよね?」


 酔っぱらっての不用意な発言を混ぜっ返され、ぼくは沈黙を余儀なくされた。




 

 集中治療室というところを確か一日か二日で出てスマホの存在を思い出したぼくが何にびっくりしたかといえば、未読メッセージを知らせる通知の数。

多かったんじゃないよ。一件もなかったんだ。一件も。

 これが驕りに聞こえたなら許してほしい。

 その、なんだ、みなさんとのコミュニケーションがあまりにも、人力の孤独死見守りサービスみたいな様相をこれまでは呈していたものだから、ぼくも少しは覚悟を持ちながらスマホの画面をタップしたんだ。

 でも全くの逆。


 あとで茉莉さんに聞いたら、どうやらみなさんの間で申し合わせがあったらしい。

 病気というのは、それも入院するほどの病気というのは重大事なのだから、ぼくとぼくの血縁以外がうかつに立ち入るべきではない、という。

 だとしたら茉莉さんはもっと前に出ても良かったのかもしれないけど、どうやら下川の姉さん―つまり、茉莉さんのお母さんからかたく言い含められて、茉莉さんでさえも入院中にそういう立場は取るに至らなかったのだそうだ。


 ぼくと、もしが生じれば叔父さんまで。

 そういうことだったらしい。

 後から考えれば、それは実にまっとうな、普通なかなか望み得ないくらいまっとうな配慮だったのだと思う。

 

 ただ、メッセージの一通もないことに薄い当惑を抱えながら、ぼくは入院を終えた。

 帰りの車―叔父さんのAMGで、片手間に叔父さんがその病院に土地を貸していることやら、ぼくを発見して叔父さんに電話をくれたのが茉莉さんだったことなんかを聞かされながら、柄にもなく、これはどうやらしばらく一人で療養することになるらしいなどとごく近い未来の予測をしていた。




 家のすぐ近くで降ろしてもらった後、三十一階のぼくの家のドアを開けて閉めるや否や、誰か、いや何かがぼくの胸のあたりにぶつかってきた。

 ぼくはよろけて、危うく転びそうになった。

 ほら、何せ二週間近くも大して歩かないで過ごしてきたわけだし、足が弱ってた、というやつだったんだろうね。

 二秒たって、それがどうやら茉莉さんの頭らしいということに思い至ったが、ずっと顔のあたりを擦り付けてきて離れてくれない。

 しばらくぼくは、およそ十五年ぶりに聞いた茉莉さんの獣みたいな号泣と、例の『シーン』という音の二重奏を聴かざるを得なくなったんだ。当惑を深めながらも、それは不思議と嫌な気持ちではなかったんだけれどもね。


「茉莉、茉莉、どうやらぼくを救ってくれたのはこれで三回目らしいね。いや、四回かな?…まあいいや。なんにしても、お世話になったね」


 それでも茉莉さんは泣き止まなかった。


「心配かけたね。ごめん」


 茉莉さんの泣き声はより一層大きくなった。ぼくは途方に暮れた。





 茉莉さんは有給休暇を取ったのだそうだ。

 それも入社から今までで使えるのを―と言ってもまだそんなに溜まってはいなかったのだが―全部。

 おまけにぼくが親等の条件を満たす血縁である以上、どうやら介護休暇も全部取れてしまったらしい。介護休暇。介護。

 ぼく自身が何年か前にその制度自体を決めておいてなんだが、いまだかつてこれほど恥ずかしい思いをした社長はたぶんいないに違いない。

 体調不良に社員(親族)をつきあわせる羽目になるなんて。

 それも、介護という名前で。

 人事部の人たちは内心目を回したのだろうけど、きっと吉永さんが横からそっとうまいこと収めてくれたのだろう。

 そう思ってまた申し訳ない気持ちに苛まれる。


 苛まれながら、ぼくは茉莉さんお手製の卵粥を茶碗かられんげに掬って吹いていた。

 れんげなんていつから我が家にあったか、全く記憶にない。

 ないのだけれど、青佳さんが買っておいてくれたのかもしれない。

 たぶん。


「兄さん、食べにくくないですか」


「ありがとう。優しい味がするな」


 米、溶いた卵、わずかな出汁らしき味と塩。

 愛すべき単純な味。


「喜んでもらえてよかった。実は青佳さんに相談したんです。そしたら、これがいいでしょうって」


「ああ。…ああ」


 同じ卵粥を自分は小ぶりのスプーンで一口すすって置いた茉莉さんがぼくを見る目はびっくりするほど真剣だった。


「兄さん。退院後の生活について受けた注意はどんなものでしたか?」


 ありましたか、じゃないんだよ。

 どんなものでしたか?だって。できるバリキャリ仕草が垣間見えるよね。

 吉永さんによれば上手くやっているらしい。

 いいね。概ね。概ねに含まれない部分はどこなのかな、ともたまに思う。


「そうだな、少なくとも次の診察までは家で安静にしてること。その間は消化のいいものを食べること。傷口はシャワーで清潔を保つこと。…ああ、あとお酒は許可があるまで控えることと看護師さんは言っていたかな」


 茉莉さんの目が光るのを、ぼくは確かに見た。

 その時、その目の光の色は青佳さんそっくりだった。


「そうなんですね!ではしばらくお酒は飲めませんね」


「…そうだね。お許しを頂いてからだね」





 茉莉さんの関わりは、なんというか徹底していた。

 彼女、朝9時に来て夜9時に帰るんだ。

 労基が何て言うだろう。怖いったらない。

 彼女はぼくのごはんを作ってくれ、外に出たいと言えば付き合ってくれるし、店に入ろうとすればマスクを出してくれたりする。

 ぼくが疲れたと思い始めるほんの少し前に帰ろうと言ってくれる。

 何というかな、そう。まるで青佳さんがのりうつりでもしたみたいにぴったりと、ぼくに合わせてくれるんだ。

 ただ、その視線がね。

 なんというか、いつも凝視されている感じがするんだ。

 こいつ、目を離したら五秒で死ぬんじゃないかなとでも思われていそうだ。

 その目線の強さもあって、一度だけ知子さんがお見舞いに来てくれたんだけど、その、ね。一時間と経たずに帰ってた。


 話は変わるんだけど、ぼくが退院してからというもの、何に困難さを感じていたかといえば、ぼくの意志と実際の動きの乖離になんだ。

 ああ、もちろん手の震えとかそういう話じゃないよ。

 そういうのは今のところはない。

 そうじゃなくて、もっと根本的なところでね。


 例えば、普通の速さで立ち上がって歩いただけでも微妙におぼつかない感じがあるんだ。

 何時間か後に筋肉痛のような張りのようなものがきて、次の日に本物の筋肉痛がやってくる。

 あとは本でも食器でもいいんだけど、取ろうとすると動きが元々のと合っていなくて上手く取れなかったり、どうかすると落としてしまったりする。


 最初の一週間は本当にひどかったんだが、茉莉さんのおかげで被害は最小限に抑えられた。

 ただ、なんというか、その。

 距離が近いんだよね。

 物理的に。

 一度なんか転びそうになるや身体ごと支えてくれた。

 そのまましばらく抱きしめられていたのが、いったい何故だったのかはよくわからないんだけどね。


 何が言いたいかというとね、ぼくの、このぼくの意志というのはひょっとして、いついかなる時も貫徹できるものではないのではないか…という疑問がたまに浮かび上がってくるのを、ぼくは制止し得なかったんだ。

 なにせ耐熱で丈夫だってことになっている何角形かわからない某在欧メーカーのコップでさえも、一個割ってしまったのでね。

 ただ、そう危惧しながらも、ぼくはまだ希望を捨てていない。

 だって、身体はこれほど自由に動かなくても、それを観察するぼくは全く自由にそれを観察しているのだから。

 それに、意志の通りにならないのと、意志がないのとは違うはずだからね。たぶん。

 ほら、普段だって、ぼくの部屋に誰がいるかとぼくの意志とは、たまに関係ないことがあるじゃない。

 でも、入院してからあの朝に至るまで。

 あのときぼくの意志は、どこにあったのだろう。

 そもそも、あったのだろうか。

 意志が持てない、持ち得ないとき。

 それはぼくのものではなくなってしまうのではないか。

 おそるべきことだ。

 でも。今はある。あるはずだ。


 だから、茉莉さんがどれだけ僕をしてくれようとも、それのことを『軟禁』などと思ったことはない。それは、断じてなかったんだ。本当に。





「…なるほど」


 由理くんの口角はさっきより一段と上がった。

 ぼくの口角はきっと、幾分か下がったんじゃないかと思う。

 由理くんは実に楽しそうだ。


「自由というのは、先輩、そうするとですよ、置かれた環境によって保障されるべき自由が異なると。国家によってさえ奪われることがない自由が、環境によっては必ずしも無条件に保障されるとは限らない…と、そう仰るのですか?」


「あのね、ぼくは今、自由の話はしてない。それは君とぼくの話合いの中では、さすがにもう自明の前提にしてもいいだろう?意図的だとしたら本当にどうかと思うがね」


「すみません、。多分、意志の話なんでしょうね?」


 由理くんは珍しく酔っているな、と思った。

 いや、いつも酔ってはいるのだが、なんというのかな、そう、混ぜっ返しがいつもよりもっと高校生的なんだ。


「そうだよ。…このぼくの、ぼくだけの意志の話だ。それが、状況によってはぼくだけのものでないのかどうか……それは、怖いことじゃないのかい……」


 それを聞いた由理くんは立ち上がって、ニヤニヤしながらわざわざ椅子をぼくの向かいから右隣まで寄せてきた。全く何なんだ。


「あのですね。身体が活動を制限されました。そのため介助をする人がいました。その人の指示に一字一句従いました。…それは果たして、先輩の意志と呼び得るのでしょうかね?」


「呼び得るだろう。ぼくは療養上、そうせざるを得ない…ああ、そうするのが一番よさそうだと言い換えてもいいな…ともかくそれを受け入れたのだから。ほら、お酒だって昨日まではちゃんと飲まないで過ごしてたよ」


「なるほど!しかし、その状況は先輩の身体が勝手に引き起こした、とても意志によるとは言えない状況によって準備されましたよね。それに物理的に気づいてから今に至るまで、その中に先輩の意志なるものは有り得たか、有り得たとしてですよ、そもそも今先輩が同じ立場をとったらしいフランクファートにしたってですよ………………」


 何十秒かの沈黙に気づかざるを得なかったため、じぶんの靴先に向けていた視線を重力に逆らって持ち上げるや、ぼくは由理くんの大変安らかな、向かって左向きよだれ付きの寝顔を目に入れる羽目になった。


 他人のことを言えた義理はこれっぽっちもないのだが、実はそもそもぼくたちは、その存在の根っこの部分において意志の話をするには本質的に向いていないのではないだろうか。

 まして、年号の上二桁に19とあるようなワインでほぼラッパ飲みに近い飲み方をするような奴がいるイタリアンレストランにおいては特に。


 好意的に、しかも極めて大学生流に解釈するなら、こいつも一応ぼくのことを真面目に心配してくれたとでも言えるのかもしれないな…などと思いながら、ぼくはスマホで駅近くまで来てくれそうなタクシーを探しはじめた。


 よさそうなタクシー会社に電話をかけて、切った後数分して、ぼくは以下のようなメッセージを次々と携帯電話に受け取ったんだ。



「社長、ながらくご無沙汰してしまって申し訳ありません。お元気になられたようでしたら本当に嬉しいです。差支えなければ来週からでも家事代行を再開致しますので、ご都合をお報せくださいませ」


 文末に例の顔文字が添えてある。また流行り始めたのかな。


「ご病気が軽快しつつあるとのこと、お慶び申し上げます。新しいモデルのことでご相談したいことがあります。ぜひこちらにお越しください」


 またしても地図のリンク。タップするのがその、ちょっと怖いかな。


「せんぱい、お疲れ様です!楽しく過ごせていたら何よりです!最近、松濤の近くに素敵なお店を見つけたんですが、一人だと少し入りにくいので、こんど一緒に行っていただけると嬉しいです」


 松濤の近く。なるほど。


 それにしてもいいタイミングだ。

 どこかで見られてるんじゃないかと錯覚するくらいに。


「…兄さん?その人、大丈夫ですか?」


 先月まで毎日聞いた声に振り返ると、茉莉さんがいた。

 心配そうな顔だが、うっすらと冷たさが滲んでいる。

 これもまた、いいタイミングだ。

 完璧と言ってもいい。


「大丈夫。いまタクシーを呼んだから、送っていってぼくも帰るよ。茉莉は今日はどうしてここに?」


「お友達と約束をしてたんです」


 友達。いいね、友達。友達は大事だ。

 大人になってからは特に。


「あしたも平日なんですし、まだ通院が終わって間もないんですから、気をつけて帰ってくださいね」


 心なしか目の冷たさがその、増したようにも見えなくはない。


「ああ。ああ…あと、ちゃんと言ってなかったけど、いろいろありがとう。その、助かったよ。とても」


「…お元気になってくれて、よかったです」


 今度は少し、なにかを堪えるように茉莉さんは言った。

 よく見るとうっすら頬の赤みが増したかもしれない。このレストランは少し暑いからかもしれないな。





 ぼくはタクシーを待って、由理くんに肩を貸して、自分も少しよろけながらタクシーに乗り込んで、由理くんを家まで送り届けた後にタワマンの三十一階に帰ってきた。  

 一応、自分の意志でそうした。

 そのつもりだ。たぶん。


 今、ここには意志がある。

 ぼくの意志が確かにある。

 久しぶりにシャワーも浴びないでベッドに寝っ転がって、急速に眠気で満たされていく中、ぼくはそのことに満足していた。


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