私は、何を残すのか

真久部 脩

第1話:記録される者たち


「生きやすい社会」──彼らはいつもそう言った。


街行く人々は、まるで余計なものが削ぎ落とされた彫刻のように、無駄なく、そして無表情だった。

記憶整理センターの広告が、今日も太陽光を反射して眩しい。

笑顔のモデルたちが「もっと身軽に、もっと自由に」と謳い上げていたけれど、僕の目には、その笑顔がどこか空虚に見えた。


時折、街の片隅で「失気力しつきりょく症候群」の患者とすれ違う。

焦点の定まらない目、力の抜けた手足。

彼らは何を見ているんだろう?

いや、何も見ていない、のかもしれない。


かつて、友人が冗談めかして言った。


「まるで、魂を抜かれたみたいだな」


その言葉が、今になって胸に重くのしかかる。

彼らは皆、自分から「生きやすさ」を選んだはずなのに、なぜ、こんなにも生きる力を失ってしまうのか。


僕は脳内情報管理研究所で非メモリ型媒体開発チーム主任を務める、佐久間さくまとおる

研究室の壁には、一枚の写真が貼られている。

逆光の中に立つ彼女の横顔。

あの頃の彼女は、いつも何かを探すように、未来を見つめていた。


鳴木なるき歌恋かれん

僕が、この研究を始めた理由。


「佐久間さん、お時間よろしいでしょうか」


研究室のドアがノックされ、声と共に開いた。

富士見ふじみ未散みちる

彼女はいつも、まるでAIのように正確な時間感覚と、一切の無駄のない言葉遣いをする。


彼女の父親、富士見優秀まさひで博士が開発した記憶整理技術は、今やこの社会のインフラだ。

彼女自身も、その合理性を信じて疑わない。


「ええ、構いません」


僕の声は、自分で思うよりずっと低かった。

彼女は僕の視線が写真に向いていることに気づくと、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、眉をひそめたように見えた。

けれどすぐに、いつもの表情に戻る。


「新しい研究プロトコルについてご相談したいことが。佐久間さんが提唱されている『意志の構造記録』、これは非常に画期的なアプローチです。記憶という不確かなものを土台とするのではなく、その人の根源的な動機、感情のパターンを抽出し、再構築する。父の理論にも通じる部分があります」


彼女の言葉は、まるで精密に計算された数式のように澱みない。

僕はその言葉を聞きながら、心の中で反芻する。


『画期的なアプローチ』


そうだろうか。

僕が求めているのは、そんなドライな言葉じゃない。


「僕が知りたいのは、記憶を失っても、その人が何を求めていたのか。何に心を動かされていたのか。その『火種』が、本当に消えてしまうのか、ということです」


未散は首を傾げた。


「火種、ですか。抽象的な表現ですね。私たちは、それを『意志の構造』として定義し、その再活性化を目指しています。過去の記憶に囚われることなく、新しい自我を最適化された状態で再構築する。それが、生きやすい社会への貢献だと信じています」


彼女は、僕の研究を、父の技術の延長線上にある「最適化」の一つとして捉えている。

僕が求めるのは、最適化じゃない。

ただ、歌恋を、もう一度、歌恋にすることなんだ。


「ええ。そうですね……僕がこの研究を進めているのは、僕の、ある患者のためです。彼女は、今、すべての記憶を失い、深い眠りについています」


僕は、彼女の反応を待たずに続けた。


「鳴木歌恋。彼女は、かつて、本当に感情豊かな人間でした。ピアノを弾くことが大好きで、柿の木登りをしては、無邪気に笑っていた……それが、今では、ただ、呼吸をしているだけの抜け殻のようだ。僕は、彼女に、もう一度、あの時の感情を取り戻してやりたい」


未散の目が、僕の言葉で初めて揺れた。

しかし、すぐに冷静さを取り戻す。


「鳴木歌恋さん……データは拝見しています。彼女の脳活動は極めて特異な状態ですね。しかし、佐久間さんの個人的な感情は、研究の精度を鈍らせる可能性があります。私たちは、客観的なデータに基づき、この技術が多くの『失気力症候群』の患者を救う可能性を追求すべきです」


彼女は正しい。

科学者としては、正しい。

けれど、僕の心は、ただ「正しい」だけでは満たされない。


窓の外では、また一人、「失気力症候群」の患者が、虚ろな目で僕の研究室の前を通り過ぎていった。

彼らの未来を、歌恋の未来を、僕は本当に変えられるのか。


この手で、彼女に、一体何を残せるのだろうか。

僕は、僕自身の胸に、その問いを強く刻み込んだ。


(第1話 終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月12日 19:00
2026年1月13日 19:00
2026年1月14日 19:00

私は、何を残すのか 真久部 脩 @macbs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ