【罪悪感】本当に世界を救いたいなら「罪悪感」は不要

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

「かわいそう」だけでは救えない命

テレビの画面に映るアフリカの子どもたち。痩せ細り、満足に水も飲めないまま、静かに命を落としていく。その姿を見て、何も感じない人は少ないだろう。胸が痛む。何かしたいと思う。自分がこんなにも安全で豊かな生活を送っていることに、申し訳なさを感じてしまう。


しかし、私はあえてこう言いたい。「その罪悪感、もう抱かなくてもいい」と。


誤解しないでほしい。私は決して命を軽く見ているわけではないし、支援の手を差し伸べることを否定しているのでもない。むしろ、その逆だ。命を本当に大切に思うからこそ、私たちはもっと現実を見なければならない。きれいごとではない、冷たいようでいて、最もあたたかい選択をするために。


アフリカのいくつかの国々では、昔から「たくさん子どもを生む」文化がある。理由は単純だ。乳幼児の死亡率が高く、何人かは育たない前提だからだ。医療も整っていない、食料も足りない。だからこそ、数で未来を担保するしかなかった。これは誰かが悪いわけではない。ただ、生き延びるための知恵だった。


だが問題は、今もその仕組みが続いているということだ。支援によって命が助かるようになった。衛生も改善しつつある。しかし、出生数は変わらない。救われる命が増えると、そのぶん必要な食べ物も水も教育も増える。だが、インフラは追いつかない。結果、みんなが少しずつ生きづらくなり、時に集団としての生存すら危うくなる。


命を救うことが、別の命を苦しめる。


そんな矛盾に、私たちはどう向き合えばいいのだろう?


私が思うに、アフリカに今必要なのは、「もっとたくさんの食料」ではなく、「もっと深い教育」だ。特に性教育と家族計画の支援だ。子どもを生む・生まないの選択肢を、本人たちが持てるようにすること。これこそが、最も人間的で、尊厳を守る支援ではないだろうか。


「かわいそうだから、助けよう」という発想では、人は変わらない。


「自分たちで未来を選べるようにしよう」という支援だけが、彼らを本当に自由にする。


そして、それが実現したとき、私たちはようやく「罪悪感」から解放される。なぜなら、そのときこそが「支配する側」と「支配される側」という構図から、世界が一歩抜け出す瞬間だからだ。


支援とは、上から与えることではない。共に考え、共に悩み、共に生きることだ。


そしてその第一歩は、過剰な罪悪感ではなく、冷静な共感と理解から始まる。


「命を救いたいなら、まず教育を」

「かわいそうだと思うより、選択肢を与えよう」

「未来を押しつけるのではなく、自分で選ばせる自由を」


この言葉を胸に、私たちはこれからの“世界との向き合い方”を考えていくべきだと思う。



以上

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