エピローグ ありがとうを紡ぐ鳥

 ありがとう祭の夜、数年ぶりに顔をそろえた面々が、閉店後のハチマンコーヒーに静かに集まっていた。


「今月、インドネシアの支援学校に行ったんですよ。カードを見せたら、子どもたち、ほんとに嬉しそうで」


 アキラが柔らかく笑った。今では通訳として、現地のNGOや教育現場を巡っている。

 通訳として言葉をつなぎながら、ありがとうカードの文化も、そっと各地に届けているという。


 今は別府の病院で研修医として働いているユウカも、久しぶりの休日を使って、ありがとう祭に参加していた。

 展示スペースの前に立ち止まり、壁を見上げる。

 緑色のカードは、掲示エリアに収まりきらず、あの赤い巣箱も変わらずそこにあった。


「この間、患者さんのご家族にカードをもらって……ああ、届くんだなって思った」


 その声には、素直なよろこびと、少しの照れがにじんでいた。


 アキラが、展示用のカードボックスを整えながらぽつりとつぶやく。


「そういえば、今年のボランティア、すごかったらしいですね。ありがとう祭以外のイベントでも、“手伝いたい”って言う人、けっこう増えてるとか」


 ナナが頷く。


「前は声かけてもなかなかだったのに……今は、“やってみたい”って言ってくれる人のほうが多いくらい」


「でも、“ボランティア”ってだけで“いい人認定”されるの、ちょっとしんどくないですか?

そのせいで、気軽に入れない人もいるかもって、ちょっと心配で。

むしろ、“悪い人でもないっぽいな”くらいがちょうどいい気がして……。

そういう場所なら、私も続けられるかなって」


ナナは少し目線を落として、つぶやくように言った。


「うん……関わるペースも、形も、人それぞれでいいはずなんだけどね。

関わらないからって、悪者扱いされるのも変だし。

大事なのはさ――楽しんでやれてるかどうか、そこだと思う」


そう言ってナナは笑い、肩をすくめた。

少しおどけたように、両手をひらひらと振って見せる。


「要するに――踊らにゃ、損ってことよ」


「また出たよ、ナナさんの“踊らにゃ、損”」


「うん。モットーだから。ふふ」


ナナは、ちょっとだけ照れたように笑って、胸を張った。


 ユウカが笑いながら、少し考えるように言った。


「……なんか、不思議ですよね。一見、人のためにやってるように見えるけど、

やってる本人がいちばん満たされてるんじゃないかなって。

私も、あのとき、そんなふうに感じてました」


 ナナが、ふっと微笑む。



「うん、そうかもね。……こういうのって、どうやったら広がるんだろって、

マコトさん、ずっと考えてたんだよ。なんか、やたら小難しいこと言いながら」


タブレットを操作しながら、肩をすくめるように笑った。


「この間もさ、雑誌の取材で、

“ありがとうを可視化するインフラ”とか、“感情価値のブロックチェーン”とか……

はい、出たーって感じで、また語ってた」


 ユウカが吹き出しそうになって、アキラが肩をすくめる。


「……あれって、渡し鳥のNFTデザインの話でしたっけ?」


「そうそう。いちおう元・エリートITサラリーマンだからね。……本人、もうそのへんの設定忘れてそうだけど」


「そういえば、そうでしたね。今じゃまったく想像つかないですけど」


「でね、ある日いきなり言うの。“このありがとうは、資本主義に次ぐ発明かもしれない”って。しかも、めっちゃ真顔」


 アキラが吹き出す。


「それもう、完全に革命家じゃないですか。“ありがとう革命”」


「なにそれ、可愛いじゃん。ちょっと少年っぽい。……おじさんですけど」


 ナナが肩をすくめながら笑う。


「……まあ、うん、おじさんだよね。

理屈っぽいところあるけど、でも、なんか――まっすぐで。

やさしいんだよね。不器用なくらい」


 アキラが笑いながら、展示用のカードボックスを整えた。


「でも……仕組みがあるからこそ、たくさんの鳥たちも、遠くからちゃんと帰ってこられるんですよね。NFTとか、そういうのって」


 ナナは「だね」と微笑んだ。


 アキラは展示スペースのスクリーンを見上げながら、ぽつりとつぶやいた。


「……“ありがとう”とかって、渡して、それっきりかもしれない。

でも、世界を変えるって、そういうもんな気がする」


 壁のスクリーンには、色とりどりの渡し鳥がハチマンコーヒーの上をぐるぐると飛び回る様子が映っていた。

 何千羽もの鳥たちが、夜空にひと筆ずつ、光の軌跡を描いていく。

 カードに込められた思いによって姿を変え、アプリを通じて世界を飛び回る鳥たち。

 ありがとう祭の日になると、彼らは一斉に戻ってきて、また新たな旅へと飛び立っていく。


 その映像の演出を手がけたのも、ハルだった。

 グラフィックデザイナーとして活動しながら、今もこの祭に関わり続けている。

 気持ちを色やかたちにして、そっと誰かに渡すために。

 それは、手紙を書くようでもあり、祈るようでもある。そんな、静かな活動だった。


光の粒が舞い、渡し鳥たちが夜空に溶けていく。


今日も、見えない羽音が、どこかへ向かって舞っている。


 あってほしいものが、そこに在る。

 その気づきは喜びとなり、あふれて、

 ありがとうは、そっと巡っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありがとうの旅路 第五稿 @redjacket_rabbit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る