第十話 駄菓子屋の夢(中編)
雪が世界の音を消してしまった、冬の夜。
机の上に開いたスケッチブックの白いページ。
そこに、鉛筆の先端をそっと置く。
――何を描こう。
――私が、本当に惹かれるものって?
目を閉じる。
暗闇の中で、鼻先をかすめる、あの匂いがよみがえった。
少し埃っぽくて、甘ったるいにおい。
床はところどころ剥げた木の板張りで、歩くたびに乾いた音が鳴る。
あの、駄菓子屋。
裸電球が、淡く店内を照らしている。
小さなガラスケースの中には、ウルトラマンや鉄腕アトム、ゴジラ――小さなキャラクターのおもちゃたちが並び、ところどころ色褪せていた。
宝物箱の中の宝石は、埃をかぶっていても、ちゃんと煌めいていた。
手の中には、少し湿った十円玉。
どれを買おうかと迷っていた私の隣で、
ミサキちゃんは、細長いラムネの容器を指先ではじきながら、くすくす笑う。
「ハルちゃん、悩みすぎだよ。……ほら、これ、コロコロ音がしてかわいいよ?」
透き通る声。
振られた容れ物から、小さなマラカスみたいな音が、ころころと転がる。
そのとき、駄菓子屋のスピーカーから、やわらかなイントロが流れてきた。
松田聖子の「赤いスイートピー」。
ミサキちゃんは、そっとまぶたを閉じると、ラムネの容器をリズムに合わせて振りながら、そっと鼻歌を口ずさみ始めた。
あたたかな白熱灯に照らされて、
天井から吊るされた色とりどりの駄菓子が、微かに揺れていた。
光の粒が、空気の中にふわふわと漂う。
気がつけば、私は、ミサキちゃんに見とれていた。
細い肩、ラムネを振る指先、楽しそうな笑み。
すべてが、眩しくて、少しだけ胸がきゅっとなった。
(……そうだ。ミサキちゃん、よく鼻歌をうたってた)
駄菓子屋の木枠の隙間から射す夕陽が、
埃を金色に染めながら、神秘的に世界を満たしていた。
私は、ミサキちゃんと同じラムネを買った。
そのとき、ほんの一瞬だけ、
ミサキちゃんが私のほうを見て、微笑んだ。
――あの笑顔を、私は、ずっと、描きたかったんだ。
私は、ゆっくりと目を開いた。
スケッチブックの白いページに、
まだ、あのときの夕暮れの光を宿しているように見えた。
鉛筆を握る手に、力がこもる。
(描こう。私が、一番好きだった光景を)
静かに、一筆目を走らせた。
最初に浮かんだのは、駄菓子屋の天井にぶら下がる、白熱灯のにじむ光。
その下に、小さなひな壇みたいな台が置かれていて、
まるで幼稚園生たちが大きな声で歌っているみたいに、色とりどりの駄菓子たちが、にぎやかに並ぶ。
指先ではじいた、あの小さなラムネの容器――ころんと転がる音が、耳の奥に、小さく甦る。
思い出せるものを、ひとつずつ、スケッチしていった。
にじんだ夕陽の色。
床の木の感触。
埃の舞い上がる匂い。
どの断片も、あのときの駄菓子屋の空気を、たしかに呼び覚ましてくれた。
ミサキちゃんが着ていた服。
エメラルドグリーンの、やわらかなワンピース。
白いパフスリーブのブラウスを重ねていた。
木洩れ日がにじむ午後、その姿だけが、光の中で静かに浮かび上がっていた。
ふわりと揺れるスカートの裾。ゆっくりとした足取りで、私の少し前を歩いていく。
肩にかかる長めのボブが、風にそっと揺れて、また静かに戻る。
ミサキちゃんの輪郭は、瑞々しく思い浮かぶ。
――でも、
肝心のミサキちゃんの顔だけは、どうしても、描けなかった。
鉛筆を握る手が止まる。
線を引き直すたびに、何かが違う。
目尻の角度。笑ったときの頬のふくらみ。
指先が、迷ってしまう。
(違う……)
(こんなんじゃ、ない)
覚えているはずの笑顔は、もっと――
あたたかくて、透明で、優しくて。
キラキラしてて、何かを信じて夢見るような、
どこか遠くを見つめる、そんな表情だった。
何度描いても、あのときの引きこまれるような柔らかさが出てこない。
目を閉じれば、こんなにも思い出せるのに……。
……本当に、思い出せているんだろうか?
プリクラの顔に、引っ張られてるんじゃないか。
あのときの表情を、すり替えてしまってるんじゃ……。
(プリクラは、見ちゃだめ)
私が憧れていた、あのときのミサキちゃんを。
ちゃんと、思い出して。
白いスケッチブックに、何度も線を走らせる。
鼻筋。眉。口元。――でも、見つからない。
思い浮かぶのは、服。髪。輪郭。
そこまでは確かにあった。
なのに、肝心の顔だけが、どうしても霞む。
(あれ……)
私、本当に、見えてたっけ?
あのときのミサキちゃんの顔。
あのときの曲。
「赤いスイートピー」を、何度も何度も聴く。
あのときのミサキちゃんみたいに、
顔の見えないシルエットが、楽しそうに体を揺らす。
ただ、印象だけが美しい、
ミサキちゃんの人形が、ポーズをとる。
他のミサキちゃんも、思い出してみる。
駄菓子屋じゃない場所のミサキちゃん。
ミサキちゃんの部屋。
カーテンの裏で、一緒に窓の外を覗いたとき。
イタズラっぽく笑ったとき。
思い出そうとすればするほど、
心の奥で、うっすらと刺さった棘のような感覚が、疼いた。
(あのとき――)
(私、ミサキちゃんに、嫌いって……言っちゃったんだ)
胸の奥が、ずくりと痛む。
手元のスケッチブックには、
どこか他人のようなミサキちゃんの顔が、いくつも重なっていた。
その中で、ミサキちゃんの声だけが、かすかに聞こえる気がした。
「ハルちゃん……みつかった?」
新学期が始まった。
40号のキャンバスには、深いブルーを背景に、
赤や桃色、黄色の駄菓子たちが、珊瑚みたいに散りばめられ、
銀色の海藻のような吊り下げ菓子の隙間から、
薄いオレンジの光が、そっと差し込んでいる。
その中央で、女の子が、ラムネを大事そうに摘んでいる。
その女の子は、ミサキちゃんをモデルにしている。
だけど――
ミサキちゃんの顔はうまく描けていない。
あと一か月。
筆を握っても、何も描けない。
手が、止まったまま、動かなくなってしまった。
そんな焦りだけが、カラカラと胸の中で鳴る。
休日。
家で、デッサン帳を広げた。
雑誌に載っていたモデルや女優たち。
綺麗だと思った人の顔を、ひとり、またひとり――。
鉛筆を走らせながら、心のどこかで分かっていた。
(……違う)
どの顔も素敵だった。
でも、どれだけ線を重ねても、
私が本当に描きたかったものには、届かない。
「これだ」という輪郭は、ぼんやりとかすんで、
手探りのまま、掴めずにいた。
(私、自分のなかの“好き”を、まだちゃんと掘り起こせてないんだ)
部屋に溜まってしまった煮詰まった空気に耐えきれなくなって、
私はふらりと外に出た。
とりあえず、何も考えずに、歩く。
風が頬を撫で、靴の音だけがコツコツと響く。
小さな十字路を渡り、坂道をくだり、
ゆっくりと日が傾いていくのを見上げた。
(……そろそろ帰ろうかな)
そんなふうに思った帰り道。
ふと、視界の端に、見覚えのある家が映った。
ミサキちゃんの家だ。
近所なのに、引っ越していなくなったと聞いたときから、無意識に、この道を避けていた。
私は歩くスピードを落とした。
ゆっくりと近づいていく。
時間に置き去りにされたように、静まり返った家。
日に焼けて変色したカーテン。
あの窓の向こうに、ミサキちゃんがいた。
手を振ってくれた笑顔も、
少し拗ねた顔も――
思い出そうとすれば、全部、心に浮かんでくるのに。
玄関のタイルが見えた。
ぼろぼろで、少し傾いていて。
私は子どものころ、そのタイルの上で――
(……嫌い)
って、言ったんだ。
そうじゃないよ。
幼い私に言ってあげたいけど、届かない。
胸の中が、じわりと苦くなる。
冷たい夕方の風が、頬をかすめた。
私は小さく深呼吸をして、顔を上げる。
そして――
「……ワン」
小さくつぶやいた。
私は、ポケットに手を突っ込んで、また歩き出した。
(もう一度、ちゃんと向き合おう)
やわらかな夕暮れ。空ばかりに、ぼんやりと淡い色が浮かんでいた。
駄菓子屋の外――
眩しいほどの夕陽が、道いっぱいに降りそそいでいた。
オレンジ色の光が、舞い上がる埃までも、金色に染めていく。
「ねえ、ハルちゃん」
くるりと振り返ったミサキちゃんの手には、
さっき買ったばかりのラムネ。
「本当は、お家に帰ってから食べるんだけどね――」
イタズラっぽく笑いながら、
人差し指を唇にあてる。
「……一粒だけ。ナイショね」
ミサキちゃんは、ぽんっとラムネの蓋を開けると、
いたずらっぽく、こちらを見た。
指先で優しく、ひと粒をつまむ。
夕陽の逆光の中で、
ラムネを摘む細い指も、
髪も肩も、ふわりと光に溶けていく。
輪郭だけが残る光の中――
私は、ただ、ミサキちゃんを見つめていた。
(……きれい)
胸の奥が、じんわりと熱をもつ。
その一瞬は、
ラムネの粒よりも小さく、儚く、甘かった。
私は、あの日の光を――
今も、胸の中にずっと抱き続けている。
あのミサキちゃんを、
私は、描きたい。
目を覚ますと、
キャンバスには、ミサキちゃんによく似た少女が立っていた。
深い青のなかに浮かぶ、ラムネを摘む細い指先。
珊瑚礁みたいにきらめく駄菓子たち。
かすかな歌声が、色になって、光になって、
静かに、静かに、広がっていく。
まだ――
本当に描きたかった笑顔ではないかもしれない。
でも、
心のいちばん奥で「好き」だと思ったすべてが、
この絵には、確かに宿っている気がした。
タイトルは、
「泡になった人魚姫は、まだ唄っている」
消えてしまったもの。
手に入らなかったもの。
それでも、胸のどこかで、小さな歌をやめない存在。
ゴールデンウィークのあいだ、
私は、何度も筆を止めて、また動かして、
ひたすらに描き続けた。
迷ったり、悩んだりしながら、
それでも――
私の手は、最後まであきらめなかった。
描き終えた夜。
私はしんとした、深い水の底へと沈みこんだ。
そこには、ただ、やわらかな青と、
かすかに響く、小さな唄だけが、あった。
それから七月までは――
何をしていたのか、ほとんど覚えていない。
美術部にも、たぶん行かなかったと思う。
呼び止める人も、いなかった。
絵の評価なんて、もう、どうでもよかった。
次に作りたいものも浮かばなくて、
筆を持つ気にもなれなかった。
制服が夏服に変わって、
空が、きらきらと眩しくなっていっても、
私の心には、冷たい海水みたいな重さだけが、ずっと残っていた。
ミサキちゃんに、近づきたかった。
ほんの少しでも――手が届けばいいと、思っていた。
けれど、あの光も、あの笑顔も、
手を伸ばすほど、遠くににじんでいった。
泡になった歌声だけが、
遠くで、かすかに響いている。
私は、ひとりきりで、
深い海の底を、漂っていた。
夏休みが近づいたある放課後、
近藤先生に、美術準備室に来るよう呼ばれた。
ドアを開けると、先生は、いつものような声で言った。
「おう、元気か」
「はい、まあ……」
曖昧に笑うと、先生は小さくうなずいた。
「そうか。……あれだけ気持ちを込めて描けば、まぁ、燃え尽き症候群みたいになるだろうと思っとったがな」
「……私の力のなさが、よくわかりました」
ぽつりと答える。
先生は、特に驚く様子もなく、穏やかに続けた。
「思ったように描けないってのは、普通のことだ」
「でも……全部、自分の中にあるものを出そうとしたんです。
掴めなかったのが、本当に悔しくて……」
私の声は少し震えていた。
先生はしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……まぁな。
今回は入選は逃したが、また何か、作ってみろや」
「……はい。ありがとうございました」
頭を下げかけたとき、先生が「ああ、ちょっと待て」と呼び止めた。
「一応、講評が来とる。持っていけ」
そう言って、A4のプリントを一枚、差し出した。
⸻
【講評】
講評者:松井 恵理(准教授)
講評コメント
作品番号一〇二
『泡になった人魚姫は、まだ唄っている』
広瀬晴(高二)
空間と色彩の扱いに、静かな力を感じる作品。
構図の中にある空白が、見る者に余白を与え、想像の余地を残す表現として魅力的に働いている。
一方で、人物の表情には描ききれていない部分があり、意図が見えにくい点が惜しまれる。
ただ、表現による「留め方」を自分なりに模索している跡が見え、描きながら考えていることが伝わってきた。
完成には至っていないが、観察と感性のバランスに、今後の成長を期待したい。
⸻
「……また描け。俺は、そう思う」
先生はわずかに微笑み、それだけを言った。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。
また……何か、作りたい気持ちはあります。
でも、もう少し、自分を探してみます」
「おう。
またいつでも、ここに顔出せ」
「……はい。ありがとうございます」
私は深く一礼して、美術準備室を後にしようと、ドアに手をかけた。
――そのとき。
視界の隅、右下あたり。
壁に立てかけられた一枚の絵が、ふと目に留まった。
(……あれ)
足が止まる。
ゆっくりと近づき、そっと覗き込む。
――ミサキちゃんのアルバムにあった、あの絵だ。
テーブル、椅子、ごはん、お風呂。
木の枝やコンクリートが、やさしく重なり合っている。
不格好だけれど、どこか、あたたかい。
……鳥の巣の絵。
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