第九話 駄菓子屋の夢(前編)

 広瀬家の正月恒例行事。

 今年も家族そろって宇佐八幡へ初詣に出かけた。


 参道は、息を白くしながら歩く人たちでにぎわっていた。

 私も、ちゃんと進路を決めて頑張れるようにと、いつもよりちょっと多めにお賽銭を入れた。


 どうか、今年は――

 ピンとくる進路に、出会えますように。


 そんなことを祈りながら、学業成就のお守りに手を伸ばしかけたけれど、どうも違う気がした。

 かといって、何を選べばいいかもわからない。うろうろ迷った末に、なぜか「縁結び」のお守りを手に取ってしまった。


「……なにそれ」


 ふいに声がして振り向くと、妹のサクラが呆れた顔で立っていた。

 思わず、お守りを手の中でぎゅっと握りしめる。


「べ、別に意味ないから……」


 軽く言い訳しながら、顔が熱くなるのを誤魔化す。


 ⸻


 家に帰ると、こたつを囲んで、おせちを食べながらのんびりした時間が流れた。


「そういえば、三学期が始まったらすぐ三者面談だったわね」


 母が、蒲鉾を箸でつまみながら何気なく言った。


「進路希望は、もう何て書いたの?」


「うーん……まだよくわからなくて」


 私はみかんをむきながら、ちょっと言いにくそうに答えた。


「デザインとか、写真とか……なんか、人の役に立ちそうな仕事がしたい、って書いたよ」


 すると、母は小さく吹き出すように笑った。


「何それ。世の中の仕事って、だいたい誰かの役に立つものよ」


 妹のサクラも、横でくすくす笑っている。


「まぁ、焦らなくていいわ。

 今年中に、ちゃんと決めればいいから」


 母の言葉は優しかったけれど、そのやわらかい声が、かえって胸にじんわり沁みた。


(ちゃんと、見つけられるかな……)


 コタツのぬくもりに包まれながら、私はみかんをひと粒、そっと口に運んだ。



 三学期が始まったと思ったら、あっという間に三者面談の日がきた。


 進路指導室の机を囲んで、私は母と並んで座っている。

 担任の岡本先生は、手元の進路希望調査票を眺めながら、小さく「うーん」と唸った。


「第一希望……写真・デザイン・映像に関わる仕事」


 顔を上げると、にこやかに言葉を継ぐ。


「第二希望は……まだ考え中だけど、“人の役に立つ仕事”か」


 隣から、母がまた小さく吹き出す気配が伝わってきた。

 岡本先生も、つられるように少し笑ってから、話を続ける。


「まあ、とりあえず、第一希望について詳しく聞こうかな」


 私は、小さく背筋を伸ばす。

 なんだか、恥ずかしいような、悔しいような気持ち。


「写真とか、デザインとか、映像の仕事。……もう少しイメージが説明できるようになったらいいかもしれないね」


 岡本先生は、肩ごしに軽く振り返りながら、背後の資料棚に目を向ける。


「ここらへんの資料、あとでいろいろ見てみるといいよ。

 それと、美術部だろ? 近藤先生にも相談してみたらいいよ」


「はい。相談してみます」


 私は小さくうなずいた。


「最近は、パソコンを使ったクリエイティブな仕事も多いからね。……とはいえ、数学は苦手か」


先生は冗談めかして笑い、少しだけ真面目なトーンで言った。


「数学なら、先生の専門だからな。困ったら、いつでも聞きにおいで」


そういう先生の目元には、やわらかな笑みが浮かんでいた。


「特に理系コースに進みたいってわけじゃなければ……うん、広瀬には文系コースが合ってると思うよ」


「……はい」


 答えながら、机の上の進路希望調査票にふと目を落とす。


「まぁ、広瀬も、いろいろ悩んでるみたいだな。数学教師だからってわけじゃないけどさ――ルートやπみたいに、世の中にははっきり割り切れないものがある。

 でも、割り切れないなりに、前に進むことはできるんだ。

 今の広瀬みたいに、ちゃんと“解こう”としてるのが、一番大事だよ」


「……はい、ありがとうございます」


 ――確かに、美術系もいろいろあるし。今は、決めきれなくてもいいのかもしれない。

 わからないままでも、わからないことに向き合っていこう。


 三者面談の帰り道。

 校門に向かって、母と並んで歩く。


「岡本先生、いい先生だね」


「うん……。進路、もう少し、考えてみる」


「納得できる答えが見つかるといいね」


 少し間を置いて、私は言った。


「ねえ、やっぱり……ちょっと美術部、寄ってから帰るね」


「そっか。気をつけて帰ってきなさい」


 母はそう言って、ひとつうなずき、手を振って先に帰っていった。


 私は鞄を抱え直し、少し冷たい夕方の空気の中、校舎へと戻る。


 美術室の前を通りかかると、中から近藤先生の気配がした。


 ドアをそっと開けて、声をかける。


「先生、ちょっといいですか?」


 準備室から顔を出した近藤先生は、変わらない穏やかな笑みを浮かべた。


「おう、広瀬か。どうした?」


 私はドアの前で立ち止まったまま、言葉を探す。


「……進路のことで、少し相談があって」


「うん」


「わたし、写真とか……デザインとか、映像とか……いろいろ興味はあるんですけど、何が自分に向いてるのか、わからなくて」


 近藤先生は、ふむ、と腕を組んでうなずいた。


「……まあな。才能ってのは、最初からピカピカ光ってるもんじゃない」


 先生の声は、静かで、どこか遠くを見るような響きだった。


「“才能がある”って言われるやつだってな。悩みながら、手ぇ動かして、失敗して、また悩んで……そんな繰り返しだ」


 先生自身も、きっと――

 そんな時間を過ごしてきたのかもしれない。


 私は小さくうなずいた。


 近藤先生は、窓の外をちらりと眺め、それから言葉を続けた。


「作りたいもんがわからないなら、まずは手を動かしてみろ。

 描いて、作って、そこからまた考えりゃいい」


「……はい」


 私は心に、小さな火がともるのを感じた。


 近藤先生は机の引き出しを探り、ぴらりと一枚の要項を取り出して、手渡してくれた。


「ちょうどいい。

 “高校生国際美術展”っていう、高校生向けの全国展、要するに、全国規模の美術展がある。締め切りは……五月中旬だな。

 結果は、たしか七月ごろに出る」


 私はそれを、両手でしっかり受け取った。


(――今の私に、作りたいもの、あるかな)


でも――何も描かなければ、何も見えてこない気がした。


「ま、とはいえ、食っていけるかどうかは、別だがな。

それでも――才能ってもんは、向き合わんと、どこにも転がっちゃくれん。

……頑張れよ、広瀬」


 手の中の紙の重みが、少しだけ温かく感じられた。

 


「ありがとうございます。……やってみます」


 近藤先生は、うん、とだけ、柔らかくうなずいた。



 次の日から、私は美術室に通い、少しずつ作品制作に取りかかった。


 写真やデザインも考えたけれど、

 自分が「好きだな」と思う世界を、ぎゅっと形にするなら――

 やっぱり、絵だと思った。


 筆を取るたび、まだぼんやりとしか見えない何かに、

 そっと手を伸ばしているような気がした。


 形になるかどうかなんて、まだわからないけれど。


 ただ――


 見てみたかった。


 私が、本当に、見たい絵を。

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