第五話 草地に咲く花(前編)

《アキラについて》


梅雨入り前の、ぼんやりとした曇り空。

草地地区の自治会へ向かう坂道を、私は金岡くんと歩いていた。

昼間なのに薄暗い林を抜けると、小さな草原が広がり、風がふわりと通り抜けた。空気がすこし、やわらかくなる。


 シロツメクサの群れが、風に合わせて波のように揺れていた。

四つ葉がひとつ、あるような気がして足を止めたが、ぼんやり眺めても、見つかるはずもない。

草の匂い。もうすぐ夏だ。

高校二年生の夏が、始まろうとしている。


「江口部長、行きますよ!」


 前を行く一年生、金岡くんが立ち止まり、こちらを振り返った。


 ――あ、私、部長なんだった。


 止まっていた足を動かし、小走りで追いかける。

 今日は、自治会に相談へ行く日。金岡くんと二人で、話を聞きに行くことになっていた。


 はー。まじか。


なんで私が……。

湿っぽい空気、重たい足。

いらない傘と、ついでにいらない部長の肩書きをぶらさげながら、あの日のことを思い出していた。


 正月、老人ホームでの活動。

 あの日から、すべてが始まった――。


ーー


 老人ホーム「紫苑の郷」には、やわらかな冬の陽が差し込み、室内はほっとするようなぬくもりに包まれていた。

 私たちは、お年寄りと一緒に、百人一首を楽しんでいた。


活動の最後に「ふるさと」を合唱し、部員たちは静かに玄関近くへと集まった。


「今日で私たち三年は引退します。みんな、ありがとう」


拍手が広がり、あたたかな空気が流れる。


 先輩たち、もう引退かー。

 なんか、さびしいな。

 来年、楽しくなるかな。


 拍手が収まったタイミングで、顧問の先生が一歩前に出た。


「小川、ここまでご苦労さん。さて――来年の部長を発表します」


 一呼吸おいて、名前を呼ぶ。


「江口晶」



「……えっ、私? なんで……」


 思わず小さな声が漏れた。

 嘘でしょ……なんで、私が?


 ざわっと反応が広がり、すぐに「アキラなら安心!」「頼りにしてるよー!」と拍手の輪が生まれる。

 私はなんとか笑顔を保ちながら、小さく頭を下げるしかなかった。


(え……どうして、私なんだろう。

 一番、リーダーっぽくないのに……)


 その問いは、胸のあたりでぐるぐると渦を巻いた。けれど、結局、口には出せなかった。


 学校までは、二、三キロほどの道のり。肩を落としながら、足取りも重くなる。


「心配だー……佐々木くん、ほんとお願いね。助けてよ」


 新副部長に任命された、クラスメイトの佐々木湊真(ササキ・ソウマ)に、小声でぼやく。


「江口さんなら大丈夫ですよ。二年生もいるし、一人ってわけじゃないですから」


「それはそうだけどさ……クラスの班長と違って、責任重いじゃん」


「まぁ……一緒に頑張りましょう」


「はあー……」


 私はため息と一緒に、制服のポケットに手を突っ込んだ。


 ボランティア部には、毎年ほとんど決まった行事がある。

 正月と七夕の老人ホーム訪問。盆踊りの手伝いに、秋の読み聞かせ。あとは、定期的なゴミ拾い。


 どれも例年通りで、施設とのやりとりは先生がしてくれる。

 だから、たぶん――仕事としては、それほど難しくない。


 ……はず、なんだけど。


(呼びかけとか、まとめ役とか。誰かが困ったとき、フォローするのは、きっと私で。

 トラブルが起きたら、私がなんとかしなきゃ、なんでしょ?)


 学校に戻るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。

 校門の前で流れ解散。ほどけていく人の波のなかで、私はふと、足を止めた。


 いまなら……。

 ほんの少し迷ってから、私は先生に声をかけた。


「先生……部長のことなんですけど、少しだけ、相談してもいいですか」


 先生は、おやっという顔でこちらを見た。

 きっと、ある程度は予想していたんだと思う。

 私の言葉が出てくるのを、静かに待ってくれていた。


「私、自信がなくて……みんなの前に立つの、得意じゃなくて。できれば……」


言いかけた名前が、喉の奥に引っかかる。


(……なにやってるんだろ、私)


誰かに押しつけようとしてた。――そのことに気づいた瞬間、私は言葉を飲み込んでいた。


 先生は私の様子をじっと見つめ、少しだけ間を置いてから、静かに口を開いた。


「……誰かに任せた方がいいって、言おうとしてたんだな」


 そう言って、先生は静かに目を細めた。


「気がつくところは、お前のいいところだ。

でも、怖いんだろ? 自分が前に出て、何か言ったときに……誰かに否定されるのが」


 私は、うなずけずに黙った。


 先生は、少し視線を外してから、やわらかく続ける。


「人の顔色が気になるのは、優しさでもある。けどな……

誰かが一歩、踏み出さなきゃ、何も動かないこともあるんだよ」


 それから、ほんの少し笑って、落ち着いた声で言った。


「やってみなさい。最初から完璧じゃなくていい。

無理だと思ったら、そのときはまた相談すればいい。

俺も、ちゃんと助けるから」


 先生の声は、思っていたよりもずっと優しかった。

 だから余計に、自分が薄っぺらで、無防備で、痛かった。


ほんとは――

誰かに任せたいんじゃなかった。


傷つくのが、怖かっただけ。


自分はちゃんとしてるふりをして、

面倒は誰かに背負わせたかったんだ。


佐々木くんを“売ろうとした”のも、

自分は安全な場所にいながら、ちゃんとしてるように見せたくて。


……勝手だな、私。


三学期までは、見知ったメンバーばかりだったから、笑っていればなんとかなってた。

でも、春って、容赦ない。

ついに私にも、本格的に「次」が回ってきた。


 四月、放課後の部室では、新入部員の自己紹介が行われていた。


「中学ではできなかったことをやりたくて」とか、「福祉に興味があって」とか。

 一人ひとりが、自分なりの言葉で、きっかけを語っていく。


 そして、最後に手を挙げたのは、少し異色な空気をまとった男子だった。


「金岡智翔(カナオカ・トモカ)です。将来は、地域の福祉を構造から変えるような、ソーシャルベンチャーの起業が夢です」


 私は笑顔で拍手していたけれど、内心では戸惑いが渦巻いていた。


(そ、ソーシャル……なんだっけ?)

(それって、ボラ部と関係あること……なのかな?)


 周囲からも戸惑いの空気を感じる。

 他の部員たちも「おー」「へー」と声を出しながら、その先の言葉が見つからないようだった。


 佐々木くんが手を挙げて聞いてくれる。


「……あの、ソーシャルベンチャーって、何ですか?」


(ありがと……佐々木くん)


 金岡くんは、まっすぐな口調で説明を始めた。


「社会の課題をビジネスで解決する会社――そういう取組みがあるんです」


 きっかけは、バングラデシュの起業家がノーベル平和賞を取ったことだったとか。

 その記事を読んで、夢を感じたんだって。


(福祉って……たしかに、大変な人のためのものってイメージあるかも)


「でも、福祉の手前で困ってる人たちにも届く仕組みを、形にしたいんです」


 言葉は静かだけど、まっすぐだった。


 ……すごいことを言ってるのは、わかる。

 でも正直、まわりの空気は微妙だった。


 「……?」


 みんなの顔に、そんなマークが浮かんでるような沈黙。


 金岡くんは、それにも気づいていたのか、最後にやわらかく言った。


「……僕もまだ、分からないことばかりで。いろいろ意見を聞かせてください。よろしくお願いします」


最後にそう付け加えて、軽く頭を下げる。

ちょっとだけ、照れたような笑顔だった。


(……なんだ、いいヤツじゃん)


 ようやく少しだけ、胸を撫で下ろした。



 ゴールデンウィークが終わるころ、町の色が少しずつ夏に染まりはじめる。

 部室の南側の窓の外には大きな木が並んでいて、蝉が鳴き始める頃には、暑くても窓を閉めないと声が聞こえないくらいになる。

 そうなる前に、イベントの段取りは決めてしまいたい。


(ちゃんと……前に立たなきゃ)


 部室のホワイトボードに「七夕イベント案」と書いた紙を貼り、私は皆の前に立った。


「今年も、老人ホームで七夕イベントをやらせてもらえそうなので……去年と同じように、短冊を書いたり、草地踊りをしたりっていう流れで考えてます」


 すると、金岡くんが手を挙げた。


「去年と同じ内容ですか?」


「う、うん。去年、好評だったから……」


「“好評”って、どういう評価ですか? 僕たちが“やった気”になってだけだと、残念ですし、いいイベントにしたいので知りたいです」


 少し空気が冷えた。


「え……利用者の人たち、みんな笑ってくれてたから……」


「きっと何をしても笑ってくれるとは思います。だからこそ、気づけていないことがあるとしたら、もったいないというか……。続けていくためにも、小さな変化って、大事だと思うんです」


 空気がすこし沈んだ。

 そのとき、隣の佐々木くんが小声でささやいた。


「江口さん、“わかんない”って言っても、大丈夫ですよ」


 私はそっとうなずいた。


「……うん、正直、よく分からない。

 ただ、去年草地踊りを一緒に踊ったときに、すごく嬉しそうに笑ってくれたおばあちゃんがいて。その笑顔は、いまも忘れられないんだ」


 少しの間があり、二年生のひとりが声を上げた。


「金岡くんは、具体的に何したいの? アイデアがあるなら、出してみてよ」


「たとえば、ボランティア部以外の生徒も巻き込んでみるとか。老人ホームに限らず、地域の高齢者も対象にして、たとえば、自治会と一緒にやれる企画を探すとか」


「大きな話だけど、面白そうではあるね」と佐々木くん。「……前向きに検討してみるのはどう?」


 一年生からも意見が出た。


「私はまだ去年の活動を知らないけど、人数を考えたら、今までのやり方を軸にするのが現実的だと思います。

 金岡くんが言ってるのは、部の人数そのものを増やすって話に近い気もするし……」


 ぽつりぽつりと、周囲の声が漏れる。


「これって……ボラ部の活動?」

「部活じゃなくても、よくない?」


 金岡くんは、なにか言おうとしたが、結局、腕を組んだまま黙り込んでしまった。


 提案自体はそんなに悪くない。思いつきでもなさそうだし。

 ……だけど、少しずつ、金岡くんのまわりだけに静かな距離ができはじめているように感じた。


 (このままだと、空気が悪くなる……とりあえず、まとめなきゃ)


「うーん……じゃあ、とりあえずさ。他の生徒に声をかけて、興味を持ってくれたらラッキーってくらいなら、やってもいいかもね」


 誰も否定はしなかったが、積極的に乗る雰囲気でもない。


「自治会との件は……今の人数じゃちょっと厳しそうだから、今年は見送るのはどう?」


「来年に向けて、自治会の人に話を聞くだけなら……どうでしょうか」


「それなら……」


 少しの間があって、誰かが言った。


「そのくらいなら……アキラと金岡くんが行ってくれればいいんじゃない?」


 心の中で叫びが響く。


(これも私なの……!? ていうか金岡くんと二人で自治会に行くって、なにその空気……!)


 会議は、誰もはっきり反対しないまま、静かに終わった。


 イベント自体は昨年通りで、部員以外の生徒にも声をかける形に。

 新たな取り組みは、自治会との“意見交換”だけだった。


(なんか……小さなしこり残ってない?)


 金岡くんのまわりだけ、なぜか陽が届いていないような、ひっそりとした湿度があった。

 みんなとのあいだに生まれた、わずかな温度差。

 金岡くん自身は、気にも留めていないようだけど――


(ていうか……自治会、やっぱり私か。しかも金岡くんと、二人きり?)


……やるって決めたんだから、ちゃんとやろう。

空気は重い。でも、逃げる方がもっと重い。


(なにこの汗……暑さじゃなくて、プレッシャーのせい?)


 本当にもう、今年の部長って、去年よりだいぶ難易度上がってない……?

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