第四話 ハチマンコーヒー

 夕空は、ほんのりオレンジに染まっていた。

 学校からの帰り道、私は、いつもとは少し違う方向へと歩き出していた。


――ハチマンコーヒー。


高田中学校のすぐ近くにあることは知っていた。でも、行ったことはなかった。


いつもの石段を下り、八百屋のある交差点を、今日は左に曲がる。

昔ながらの時計屋を過ぎると、少し奥に文房具屋が見えてくる。


さらに進むと、小さな郵便局。その前には、昔から変わらず佇む赤いポストが、どっしりと道ばたに構えていた。


……小さい頃、この通りを通るのが好きだったな。


時計屋の前を通るたびに、ガラス越しに並ぶ腕時計を眺めるのが楽しかった。

お母さんと買い物に来たとき、文房具屋でかわいいシールをねだって買ってもらった。

郵便局では、風景の描かれた記念切手を見つけるたび、なぜだか欲しくなったっけ。


どの店も、まだそこにある。

でも、昔より、ほんの少しだけ静かになった気がする。


時間が経って、人も変わって、街も少しずつ変わっていく。

それでも、変わらずにそこにあるものもある。

どこか、安心するような気持ちになる。

けれど、ほんの少しだけ寂しくもある。

不思議な気持ちだった。


 商店街を抜けた先。突き当たりの三叉路に、木の看板が見えてくる。


「HACHIMAN COFFEE」


 他の店の看板より控えめで、

一番新しいのに、不思議と、一番落ち着いた空気をまとっていた。


 微かにゆがみのある、手作り感の漂うガラスが嵌めこまれた扉。

その向こうでは、やわらかな灯りがこぼれていた。


扉を押すと、ふわりとコーヒーの香りに包まれる。


店内は、ただの喫茶店にしては広かった。

木のテーブルと椅子がきちんと並び、奥の大きな本棚には、雑誌や小説、そして絵本がぎっしりと詰まっている。


窓際では、年配の女性が静かに紅茶を飲んでいた。

その向かいのテーブルでは、高齢の男性が新聞を広げたまま、ゆっくりとページをめくっている。


 30代くらいの男性店員の姿がちらりと見えたが、ナナさんの姿は見当たらなかった。

コーヒーを注文してから、あらためて店内を見渡し、窓際の席に腰を下ろす。


ふと、店の奥まった一角に、小さな木の看板が掛けてあるのが目に入った。


――暮らしの保健室――


他の席とは違い、木のパーティションで区切られたスペース。

 向こうからやわらかな笑い声が聞こえてきた。


 姿は見えないけれど、ナナさんの声が聞こえる。

会話の内容まではわからないが、そこに漂う声のトーンや間には、どこか安心感さえあった。


注文したコーヒーを飲みながら、ひと息つく。


進路のこと、

一人で少し落ち着いて、気持ちを整理したかった。


 とりあえず進学?

でも、「とりあえず」で、あんなに頑張れるものかな。ユウカみたいに。


ユウカは部活に入らず、毎日、図書室で勉強している。

医学部を目指して、黙々と努力を続けてる。


アキラは「おもしろそうだから」って、ボランティア部に入った。

学校の外の活動にも前向きに参加してる。そういうところが、アキラらしい。


私はというと――

中学のころみたいに夢中になれそうになくて、バスケ部には入らなかった。

なんとなく美術部にしたけど、特別うまいわけでもない。

絵を描くのは嫌いじゃないし、チームで動くのがちょっと苦手だったから、かもしれない。


 アキラは、「人と関わる仕事がいい」って言っていた。

 きっとそれがいちばん似合ってる。そう思う。


――私は、何がしたいんだろう。

カップの縁をなぞりながら、ぼんやりと考えていた。


そのとき、不意に視界の端で揺れたものがあった。

鮮やかな青のローファー――

ナナさんだった。パーティションの奥から、ふわりと現れた。

ナナさんがパーティションの奥から現れた。

隣には、お母さんより少し上くらいの女性がいて、ふたりは楽しそうに話している。


「由美さん、それじゃ、またおしゃべりしましょうね」


女性は手を振って帰っていき、ナナさんが私に気づくと、小走りで近づいてきた。


「あれ、もしかして……高田高校の子じゃない? この間の、窓際にいた子!ね?」


ドキッとした。なんでわかるの……?

一瞬、あの教室のざわめきがよみがえった。


「いらっしゃいませ! よくぞお越しくださいました」


満面の笑顔。さすがに教室でのミュージカルよりは落ち着いた声だったが、そのテンポに、ちょっと面食らう。


「……お名前、聞いてもいい?」


「あ、えっと……広瀬晴、です」


「ハルちゃん、ね。いい名前」


ナナさんは、胸元の名札をつまんで見せる。


「この前も言ったけど、私、ナナっていいます」


あの日の衝撃的な印象がないわけじゃない。

でも、こうして話してみると――案外、普通の人だ。


……なんだか、ほっとした。


「相談って、よくあるんですか?」


少し声を落として尋ねると、ナナさんは口元でやわらかく笑った。


「うん。まぁ、いろいろね。

 定期的に来てくれる人もいるし、ふらっと立ち寄る人もいるんだよ」


誰かに話したいことがある人や、

誰かに聞いてほしいと思っている人――


そういう人って、案外多いのかもしれない。


「“暮らしの保健室”って、相談できる場所って……言ってましたよね」


私は、恐るおそる口にした。


「うん。ここに来る人、それぞれが気になることを、ぽつぽつ話していく場所だね」


「でも……今の方って、そんなに“相談”って感じじゃなかったような……」


「ふふ、そうだね。たまには深刻な話もあるけど、大半はあんな感じかな」


「……じゃあ、雑談でもいいんですか?」


「うん。話すって、不思議でね。

 誰かと話してると、思ってもみなかったことが、ふっと出てきたりする。

 考えごととは、ちょっと違うんだよね」


 ナナさんはそう言うと、カウンターに並ぶコーヒー豆の瓶から、一掴みを取り出した。

手回しのミルに豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回し始める。

カリカリ……と、小さな音が、静かな店内に心地よく響いた。


「“相談はないです”って言ってた人が、気づけばずっとしゃべってたりすることも、けっこうあるの」


「……ふーん」


飲み終えたカップを見つめながら、私はつぶやいた。


「ハルちゃんは?」


「え?」


「最近、なにか気になることとか、ある?」


ナナさんは手を止めずに問いかける。

穏やかな声と、コーヒーの香ばしい香りが、ふわっと広がる。


「……」


進路調査の紙が、カバンの底でくしゃっとなっている。

書かなきゃ、とは思う。

でも、「これだ」と思えるものが、見つからない。


「あ、ちょうど今からドリップするんだけど、もう一杯、飲んでかない?

 さっきと挽き方、ちょっと変えてみたんだ。違い、聞きたくてさ。

 ……ナナさんのおごりです!」


「……ありがとうございます。じゃあ……お言葉に甘えて」


 ナナさんは笑顔で、私の空になったカップに、ドリップしたてのコーヒーを注いでくれた。

 淹れてくれたばかりのコーヒーを、そっと口に含む。


「さっきより、苦味が減ったよね?」


「……うん。なんだろう、やさしくなった感じ」


 たしかに、さっきより苦味がやわらいで、ふっくらした香りが口に広がる。

 ゆっくり味わうと、その奥に、ほのかな甘みも感じられた。


「コーヒーも、いろんな風味があるんだよね」


 ナナさんはぽつりと、そんなことを言った。


「……なんだか、人生? みたいな?」


「ふふ、そうかもね」


 カップの中で、湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「女子高生はさ、いろいろ悩むと思うけど……。こんな先輩でよければ、いつでも話、聞くから。恋バナだって、進路の迷いだって、大歓迎です」


 そう言って笑い、さっきまでお客さんが座っていたテーブルに、空いたカップを取りに向かっていった。


私は店内をそっと見渡した。

新聞を広げるおじいさんが、ゆったりとページをめくっている。

レジの端には、小さな駄菓子コーナーやおもちゃ箱、地域向けの掲示板もある。

やっぱり、ここはカフェというより、コミュニティスペースなんだな――そう思った。


「暮らしの保健室」のパーティションの隣にもある掲示板へ、ふと視線が止まる。


見慣れない、紫色のカードが一枚だけ貼られている。

その下には、いくつかの緑のカードが並んでいた。


「ナナさん、あのカード……なんですか?」


「ああ、あれね。ありがとうカードだよ」


「ありがとうカード?」


ナナさんはカードに目をやって、小さく笑った。


「あの緑のは、気づいた“ありがとう”をそのまま貼るカード。

 紫のは、誰かにバトンみたいに“ありがとう”を渡していくカード。“ありがとう”のつながりを感じてもらえたらいいなって思って」


「へぇ……なんか、いいですね」


「まだ試し始めたばかりだけどね。でも、“ありがとう”って、言うのも言われるのも、やっぱりちょっと嬉しいでしょ?

なんかこう、“お役に立てて、こちらこそ!”って返したくなるっていうか……。

そういうのが、少しずつ増えていったら、いいなって思ってるんだ」


「たしかに……言われたいかも」


「……どうしたの?」


「え? あ、いえ。私も、人のお役に立てたらいいなって、思って……」


「進路のこと?」


 私はナナさんを見て、小さく頷いた。


「……ナナさんって、高校のときはどんな感じだったんですか?」


「高校? うーん……あんまり勉強好きじゃなかったなぁ」


「そうなんですか?」


「でもね、看護師になりたくて、卒業後は専門学校に行ったよ」


「看護師だったんですか」


「うん。今は辞めちゃったけどね」


「大学には行かなかったんですか?」


「うーん……なんとなく、ね。大学って、看護以外にも“なんだこれ?”って科目あるじゃん? それより私は、早く現場に出て、目の前の人に関わる方が合ってるなーって思って。だから専門学校」


 ナナさんは、自分のコーヒーを持って、私の向かいに腰を下ろした。


「……“なんとなく”で、いいんですか?」


そう聞きながら、自分でも“何が正解かわからないな”と思った。

 でも、ナナさんはやわらかく笑って、うなずいた。


「今になって思うとね、よくわかってなかったと思う、ほんとに。

でも、わかってなくても、とりあえず進んでみるのも、悪くなかったかなって。……あ、ごめんね。真剣に悩んでるハルちゃんに、こんな気楽な話しちゃって。ちょっとズレてたかな」


「あ、いえ」


少し驚いた。

この人はずっと“やりたいことがあって、それを貫いてきた”んだと思ってた。

……でも、そうじゃないのか。

なんだろう――ちょっと、ほっとした。


「……進路調査の紙、まだ空欄なんです」


 気づいたら、口にしていた。


「そっか」


「そろそろ出さなきゃいけないのに、何を書けばいいかわからなくて……」


 ナナさんは、一瞬こちらを見て、それからゆっくりと言った。


「"暮らしの保健室"行く?」


「……あ、いえ」


「……そっか。じゃあ、ここで。一緒に聞こう、きみの話」


「……はい」


「私もさ、最初から“ここ”に来るなんて、まったく思ってなかったよ」


「……そうなんですか?」


 ナナさんは、少し肩をすくめて笑った。


「うん、まぁ……いろいろあったよ。寄り道とか、戻ったり進んだりとか。で、なんだかんだ“今ここ”って感じ」


「進路……変わっていったんですね」


「うん。前は病院で働いてたんだ。看護の仕事も好きだったけど、悩むこともいろいろあってさ。

“このままでいいのかな?”とか、“なんかちょっと違うかも”って思ったりして。

それにね、看護だけじゃなくて、他のことも……結局、いろいろ要るの。

“あ、これも必要だったじゃん”って、後から気づくんだよね。不思議と」


ナナさんはそう言って、軽く笑った。

けれどその言葉の奥には、迷いながらも歩いてきた、確かな時間があって――

私は、自然と耳を傾けていた。


「私のやり方をおすすめするつもりはないけど……進んでるうちに、自然と変わっていくことって、けっこうあると思うの。

私、“看護師になりたいんだ”って言ってたくせに、実習で全然うまくいかなくてさ。こっそり泣いたこともあるんだよね」


 ナナさんは思い出すように視線を落としながら、どこかその頃の自分に語りかけるように話す。


「でもね……それでも、“好きかも”って思った気持ちは、ちゃんと残ってたんだよね。

あとになって思ったの。――好きって気持ちに気づけたことが、私の宝物だったんだなって」


 ナナさんの声は、押しつけがましくなくて、ただそんな人がいたよ、という感じで話してくれた。

 

 私は、カップの中のコーヒーを見つめて、もう一度、自分に問いかける。


――私の「好き」って、なんだったっけ。


 絵を描くのは、たぶん好き。だから美術部に入った。でも、得意かと聞かれると自信はない。


 髪型も服も、自分で選んでるつもり。でも、どこかで――ミサキちゃんに似せてしまってる。

 全然似てないのに、ずっと憧れてた。


 ……私の「好き」って、本当に私のものだったのかな。


 ミサキちゃんは、今、どこで何をしているんだろう。


なんとなくスマホを開いて、

写真に撮ったミサキちゃんとのプリクラを見返した。

小さくて、あたたかくて――どこか、痛かった。


「ねえ、ハルちゃん」


 ナナさんが、水のおかわりを入れてくれながら、声をかけてきた。


「写真、好き?」


 びくっとして、スマホを持ち直す。


「あ……えっと。たぶん、好きです」


ミサキちゃんとのプリクラ。

家族と出かけた風景。

友達と笑い合った瞬間。


 写真に残るのは、ただの風景じゃなくて、

 そのときの空気とか、気持ちとか――

 そういうのも、一緒に閉じ込めてる気がする。


 ……だから、写真を撮るのって、やっぱり好きなんだと思う。


 ――なにかを、かたちに残す仕事。


  写真。映像。デザイン……。


 美術部に入ったのも、なんとなくじゃなくて、

 やっぱり「好き」だったからなんじゃないか――

 そんなふうに思えた。


 少しだけ、自分の気持ちに、輪郭が見えてきた気がした。


 カバンの中から取り出した、くしゃっとなった進路調査の紙。手のひらで撫でながら、私はそっと折り目をのばした。


 とりあえず、書けるところだけでも――書いてみよう。折り目は気にせず、堂々と。


 ・絵を描くのは、昔から好きだった

 ・写真を撮ったり、イメージを形にすることに興味がある

 ・「ありがとう」って言ってもらえる仕事は、きっとやりがいを感じられる


 第一希望:写真・デザイン・映像に関わる仕事

 第二希望:人の役に立てる仕事


 ……たぶん、これ、怒られるやつだ。


  でも、進学先や職業名を書こうとすると、もっと迷い込んでしまいそうで、今はここまでしか書けない――そう開き直ることにした。


 それでも、「何を書けばいいかわからない」と立ち止まっていたときよりは、ほんの少しだけ、自分の言葉を聞けた気がする。


「何か、みつかった?」


紙に何かを書き込んでいる私を見て、ナナさんが静かに声をかけた。


「まだですけど……ちょっとだけ、書いてみました」


そう言って、紙の端をそっと指でなぞった。


「そっか」


そのときのナナさんの笑顔が、なんだか私よりも嬉しそうに見えた。


悩みがなくなったわけじゃない。

 でも――ただ話すだけで、ほんの少しだけ、肩の荷が軽くなった気がする。


 その時、カフェの扉が開く音がした。

 振り返ると、アキラとユウカが並んで立っていた。


 思わず立ち上がりかけたけれど、アキラの視線が一瞬だけ揺れるのが見えて、私は言葉を飲み込んだ。


「……あれ? ハルじゃん」


 アキラが気まずそうに笑った。

 ユウカは、少し後ろから静かに入ってきた。

 視線が、私とアキラのあいだを何度か行き来している。


「え、二人で来たの?」


「ううん、たまたま。お店の前でばったり会って、声かけられてさ。私もびっくりした」


 ナナさんがカウンターの奥から顔を出し、ぱっと表情を明るくする。


「おお〜! また髙田高校生が来てくれた! いらっしゃい!」


 満面の笑顔に、アキラは少し緊張しながらも、明るい声をつとめて出した。


「あの、私、江口晶っていいます。一昨日のお話、ボランティアのこと、もっと知りたくて来ました!」


「アキラちゃん、ね。ハルちゃんの友達?」


「はい。ほんとに、変な偶然で……。さっき『またね』って別れたのに、ユウカにも店先でばったりで……」


「へえ〜、なんか縁を感じるねぇ。……てことは、今日はラッキーかも。さっきちょうど、試作品のコーヒーを淹れたところなんだよね〜」


「えっ、ほんと? ラッキー!」


 嬉しそうに目を見開くアキラの横で、

 ユウカは、少しだけ口角を上げた。


 まさか、ハチマンコーヒーで三人そろうなんて。

 そして――ここ。すごく、居心地がいい。

 ナナさんも、思ったよりずっと話しやすくて、不思議と緊張しなかった。


 学校じゃない場所で話すって、こんなにも気が楽なんだ。

 ……これは、通ってしまいそう。


 でも。

 今日、ユウカもアキラも、一人でここに来ていた。

 アキラは、ボランティアの話を聞きに来たって言ってたけど――

 そして、ユウカも。


 ……もしかしたら、ふたりとも。

 誰にも言えない気持ちを、抱えてるのかもしれない。

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