第2話:灼熱の地に降り立った氷華の試練
契約から数日後。
俺、黒崎悠人は、氷華の代理人から渡された
分厚いマニュアルを読み込んでいた。
「極度の暑さに注意」
「直射日光厳禁」。
まるでサバイバルガイドだ。
ハワイでの新婚旅行というより、
過酷な修行に挑む気分だった。
マニュアルには、雪女の体温維持に関する
詳細なデータや、冷却グッズの推奨リスト、
さらには「感情の起伏は冷気能力の安定を乱すため、
常に冷静を保つこと」
といった、まるでSF小説のような
注意書きまであった。
俺は半信半疑ながらも、念入りに準備を進めた。
冷却スプレーは大量に。
特大の日傘は、UVカット率を
何度も確認して選んだ。
高性能な携帯扇風機も数台。
そして、大量の保冷剤も忘れずに。
さらに、旅行用の小さな冷蔵庫まで用意した。
冷蔵庫用のモバイルバッテリーは、
電力消費の計算までして予備を三つ購入した。
これはもはや新婚旅行ではなく、気候戦争だ。
食材も買い込んだ。
冷たいゼリーや水羊羹、蕎麦。
氷華が少しでも快適に過ごせるように。
これが自分の家を守るための
「仕事」なのだと、自分に言い聞かせた。
羽田空港のロビーで待っていると、
出発時間ぴったりに氷華が姿を現した。
彼女は涼しげな薄手の白いワンピースを
身にまとっていたが、顔は相変わらず無表情。
完璧な美しさは、まるで雑誌の表紙から
抜け出してきたかのようだった。
しかし、その白い肌は、ほんのわずかだが
青白く見えた。
俺が「おはようございます」と声をかけると、
彼女は「……おはようございます」と、
感情のこもらない声で返した。
まるで、会話のテンプレートをなぞるかのようだ。
俺は思わず、偽物の笑顔を貼り付けた。
搭乗ゲートをくぐり、
ハワイ行きの飛行機に乗り込む。
俺は隣に座った氷華の体から、
微かなひんやりとした空気が漂っているのを
感じた。
機内の温度は快適に保たれているはずなのに、
妙に肌寒く感じる。
氷華は窓の外を眺めていたが、
その瞳はどこか遠くを見ているようだった。
離陸の瞬間、機体が大きく揺れる。
すると、氷華の体がわずかに強張り、
その瞬間に機内の室温が数度下がったような
気がした。
座席の周辺の空気が、
急に肌を刺すほどに冷たくなった。
客室乗務員が慌てて
「空調の不具合でしょうか!?」と
確認にくる。
俺は「いえ、大丈夫です!
ちょっと寒がりなもので!」
とごまかし、内心で冷や汗をかいた。
「まさか、こんな場所でまで能力を使うのか……
いや、無意識なのか?
この契約、本当に大丈夫か?」
俺は氷華の異質さを、まざまざと実感した。
彼女の銀髪の先が、わずかに水色に
染まっているように見えたのは、気のせいか。
数時間のフライトを経て、
ついにホノルル国際空港に到着した。
飛行機のドアが開いた瞬間、
ムッとするような熱波と、
肌を突き刺すような強烈な日差しが
機内になだれ込んできた。
俺は反射的に「うわっ、暑い!」と声を上げたが、
隣の氷華はそれどころではなかった。
彼女の白い肌はみるみる青ざめ、
唇は薄い紫色に変化し、呼吸が浅く、
体が小刻みに震えだした。
まるで、急速に生命力を
奪われているかのようだった。
その周囲の空気は、
機内よりもさらに冷気を増し、
周囲の乗客が薄手の服を
羽織り始めるほどだった。
「ひ、氷華さん!?」
俺は慌てて、用意していた特大の日傘を広げ、
氷華の頭上に掲げた。
そして、冷却スプレーを彼女の首筋や腕に
惜しげもなく吹きかける。
冷たいスプレーが肌に触れると、
氷華はわずかに息を吐いたが、
まだ苦しそうだった。
周囲の観光客が「あの人、大丈夫かしら?」
「体調悪そうね」「何かあったんじゃない?」
とざわめき始める。
中には、氷華のただならぬ冷気に気づいたのか、
訝しげな視線を向ける者もいる。
俺は、こんな場所で氷華の正体が
バレるわけにはいかないと焦り、
急いで入国審査へと向かった。
入国審査官も、氷華の尋常ではない顔色に
一瞬眉をひそめたが、
俺が必死に「飛行機酔いでして!
慣れない海外旅行でして!」
と取り繕うと、訝しげな視線を向けつつも
通してくれた。
空港を出て、予約していた送迎車に乗り込む。
車内の冷房が効いていることに、
俺は心底ホッとした。
氷華は窓の外のヤシの木や青い空を眺めていたが、
その瞳には依然として苦痛の色が浮かんでいた。
彼女の横顔には、疲労と、
どこか諦めのような感情が垣間見えた。
ホテルに到着し、チェックインを済ませると、
俺はすぐに部屋のエアコンを最強設定にした。
涼やかな空気が部屋中に満ちていくのを感じ、
氷華はようやく安堵の息を漏らした。
その表情は、少しだけ、本当に少しだけ、
和らいだように見えた。
俺は、持参した食材で早速冷製料理を用意した。
きゅうりの浅漬け、冷奴、そして氷をたっぷり入れた蕎麦だ。
氷華は無表情ながらも、冷たい蕎麦を
音もなく、しかし美味しそうにすすった。
その姿を見て、俺は「ああ、この人は
本当に冷たいものが好きなんだな」
と、少しだけ安心感を覚えた。
契約書を思い出す。
「互いに恋愛感情を抱いてはならない」
「能力暴走による契約無効」。
そんな危険な契約を交わした相手が、
目の前で蕎麦を食べる姿は、
あまりにも現実離れしていた。
氷華が静かに食事を続ける中、
俺はマニュアルをもう一度開いた。
「高温環境下では、体内の冷気を維持しようとする
本能的な働きにより、冷気の放出が加速するか、
逆に体温上昇に伴い冷気能力自体が不安定になる。
熱中症のような症状は、冷気保持能力の低下と
体温上昇が複合した結果」。
なるほど、これが彼女の言う「特異体質」なのか。
俺は、この奇妙な契約生活が、
自分の想像をはるかに超えるものになることを、
まざまざと実感していた。
そして、この美しいが、あまりにも危うい存在を、
自分が本当に守りきれるのか、
漠然とした不安に襲われた。
氷華の銀色の髪の先が、
エアコンの風でわずかに揺れ、
微かに水色に染まっているように見えた。
それは、彼女の無意識の冷気の表れなのか、
それとも、この灼熱の地での
過酷な試練を物語っているのか。
俺にはまだ、その意味が理解できなかった。
ハワイでの新婚旅行は、
始まったばかりだというのに、
すでに予測不能な事態の連続だった。
しかし、俺には借金を返済し、
家を守るという使命がある。
そのためにも、この氷の美女との
奇妙なハネムーンを、
なんとか乗り切らなければならない。
悠人は、固く拳を握りしめた。
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