やすらぎの場所
昼下がりの森に、薪がぱちりと弾ける音が響いていた。
木漏れ日が葉の間から差し込み、リクトとシシリアは簡素な木の器を前に、熊肉を囲んでいた。
シシリアは小さく切り分けられた肉を慎重に口に運んでいる。
彼女は時折、リクトの方を窺うように視線を向けては、すぐに器に目を落とした。
「美味しい?」
リクトが静かに尋ねると、シシリアはこくりと頷いた。
「久しぶりに……こんなに美味しいものを食べた」
リクトはシシリアを見つめた。
火の光に照らされた彼女の顔には、安堵と同時に、まだ拭い切れない不安の影が残っている。
リクトはシシリアが器を持つ手の甲に、古い傷跡があることに気づく。
薄く白く残った線状の跡は、明らかに人為的につけられたもののように見える。
「ここに来るまで大変だったね。よく頑張ったよ、シシリアは」
その言葉が耳に届いた瞬間、シシリアの瞳に涙が浮かんだ。
最初は一滴、二滴と頬を伝い始めた涙が、やがて堰を切ったように溢れ出した。
リクトは地属性魔法で作った麻のハンカチをシシリアに差し出した。
彼女はそれで涙を拭うと、少し落ち着きを取り戻した。
これまで誰にも優しい言葉をかけてもらえなかった分、リクトの温かい言葉が心の奥底まで浸透していった。
二人は再び食事を続けた。
今度はシシリアも少し表情が和らいでいる。
涙を流したことで、心の重荷が少し軽くなったのかもしれない。
「リクト……」
シシリアが口を開いた。
声はまだ少し震えていたが、決意のようなものが感じられた。
「私の話……聞いてもらえる?」
リクトは頷いた。
「もちろん。でも、無理はしなくていいよ」
「ううん……お話したい。お話しないと、ずっと怖いまま」
シシリアは一度深く息を吸った。
火の前に座ったまま、彼女は膝の上で手を組んだ。
その手は、まだ小刻みに震えていた。
「……私の村は、グランフォード平原のはじっこにある小さな村だった……」
シシリアの声は午後の静寂に溶け込むように小さかった。
「村には百人ぐらい住んでて、みんな家族みたいに仲良く暮らしてたの」
シシリアの瞳に、遠い日への憧憬の光が宿った。
きっと幸せな記憶なのだろう。
しかし、その光はすぐに影を帯びた。
「お父さんは村の守備隊長っていう凄い人で、お母さんは薬草師をしてて……弟のトムはまだ四歳で、いつも私の後をついて回ってた」
トムという名前を口にしたとき、シシリアの声がひときわ細くなった。
きっと大切な弟だったのだろう。
「お父さんはね、とても優しい人で……村のみんなから慕われてた。戦うときはとても強くて、頼もしかった」
彼女は一度言葉を切り、袖で目元を拭った。
時々言葉が途切れ、息を整えてから続きを話した。
思い出すだけでも辛い記憶なのだということが、その様子から伝わってくる。
「お母さんは薬草のことなら何でも知ってて、村の人たちが怪我したり病気になったりすると、いつも看病してた。私も、いつかお母さんみたいになりたいって思ってた」
リクトは黙って話を聞いていた。
「トムは……本当に可愛い弟で……いつも私の真似をして」
シシリアの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
しかしその笑みは、すぐに悲しみに変わる。
「私が薬草を摘んでると、一緒について来て……上手に摘めないから、ぐちゃぐちゃにしちゃうんだけど……でも一生懸命で……」
涙がぽろぽろと頬を伝い始めた。
それでも、シシリアは話を続けようとした。
「でも、ある日……」
シシリアの声が詰まる。
火がぱちりと音を立て、その音が森の静寂をより深いものにした。
「ある日、人間の奴隷商人が、傭兵を雇って村を襲ったの」
リクトの表情が険しくなる。
先ほど出会った男たちのことが脳裏に浮かんだ。
「最初は税金の取り立てだって言ってたけど、本当は獣人狩りだった。私たち獣人は、人間の国では奴隷として取引されてるから……」
シシリアの手が震えている。
食事のときに使っていた木の器を、ぎゅっと握りしめていた。
その手に込められた力は、当時の恐怖と怒りを物語っていた。
「お父さんたちは必死に戦ったけど……相手は魔法使いもいて、傭兵もいっぱいいて……村の守備隊なんて、ただの農民さんが武器を持っただけだったから……」
リクトは拳を握りしめた。
理不尽な暴力に晒された小さな村の人々のことを思うと、やるせない気持ちでいっぱいになった。
「みんな……みんな必死だった。子供たちを逃がそうとして……でも相手は慣れてて、逃げ道も全部塞がれてた」
シシリアの嗚咽交じりの声が漏れ始める。
「お父さんは私たちを逃がそうとして……でも、逃げる途中で魔法で焼かれて……お母さんも……弟も……みんな……お母さんは最後まで私を庇おうとして……でも火の魔法で……トムは私の手を握ったまま……」
リクトは立ち上がり、シシリアの隣に座った。
そして、そっと彼女の背中に手を置いた。
「無理しなくていい」
リクトの声は優しかった。
しかし、シシリアは首を振った。
「話したいの……話さないと、きっといつまでも怖いまま」
シシリアは再び顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔だったが、そこには強い意志が宿っていた。
「生き残ったのは村の子供たちだけ。でも、それも狙いだったんだって。子供の方が奴隷として高く売れるから……」
シシリアは袖で涙を拭いながら続けた。
「全部で十人ぐらいの子供が捕まった。みんな私と同じぐらいか、もっと小さな子たちで……」
リクトの胸が締め付けられた。
無力で小さな子供たちが、奴隷として売られるために捕らえられるなんて。
「それから半年間……奴隷商人の馬車でいろんな場所を回った。途中で病気になって死んじゃった子もいて……私たちはどんどん減っていって……」
シシリアの声はどんどん小さくなっていく。
その声には、仲間を失った悲しみと孤独感が込められていた。
「毎日、少ししか食事をもらえなくて……鞭で叩かれて……夜も鎖に繋がれて……」
リクトはシシリアの手首にあった擦り傷の跡を思い出した。
鎖で縛られていた痕なのだろう。
「逃げようとした子は……」
そこまで言って、シシリアは言葉を詰まらせた。
想像するだけでも恐ろしい体験だったのだろう。
「でも、今日……馬車の鍵がたまたま壊れてて、隙を見て逃げることができたの。必死に走って、走って……もう捕まっちゃうかと思ったけど……そしたら、リクトに会えた」
シシリアはリクトを見た。
涙でぐしゃぐしゃになった顔だったが、少し希望の光が見えるような気がした。
「家族はみんな殺されて……村の仲間たちもみんな死んじゃって……もう帰る場所なんて、どこにもない」
リクトは胸が痛くなった。
自分は異世界に来てから、割とお気楽に過ごしてきたが、この世界には本当に過酷な現実があるのだということを改めて実感した。
しばらく沈黙が続いた。
火の音だけが静かに響いている。
「シシリア」
やがて、リクトが口を開いた。
「ここに居たいなら好きなだけ居ていいよ。そして、出たくなったら好きに出ていけばいい」
リクトは優しく言った。
束縛や義務を課すつもりはなかった。
シシリアが自分の意思で決めればいいことだ。
でも、もし共に暮らすなら、この子が安心して暮らせる場所を提供してあげたかった。
「本当に……本当にいいの?」
シシリアは信じられないような顔をしている。
「私、何の役にも立たないよ。お料理もあまり上手じゃないし、力仕事もできないし……足手まといになるだけ」
「そんなこと気にしなくていいよ」
リクトは首を振った。
「俺だって最初は何もできなかったんだから。それに、一人より二人の方が楽しいじゃん」
リクトの言葉には、計算も下心もなかった。
ただ純粋に、目の前の少女を助けたいという気持ちがあるだけだった。
「リクトは……どうして獣人の私なんかを……」
「なんかじゃないよ」
リクトはきっぱりと言った。
「シシリアはシシリアだ。それ以上でも以下でもない。俺はただ君に笑っていてほしいだけ」
シシリアの瞳に、また涙が浮かんだ。
しかし今度は、悲しみの涙ではなかった。
「私……もうどこにも行くところがないって思ってた。家族も、村も、お友達も……みんないなくなって、私一人だけ取り残されて……」
シシリアの声は震えていたが、絶望的だった先ほどとは違って、希望を含んだ震えに思えた。
「生きてる意味も分からなくて……どうして私だけ生き残ったのかも分からなくて……」
「ありがとう、生きていてくれて」
リクトは静かに言った。
「シシリアが生きていてくれたから、俺たちは出会えた。それって、すごいことだと思う」
「でも、私一人だけが生き残って、みんなは、もう……」
「悪いのは奴隷商人で、シシリアや村の人たちは何も悪くない。生き残ったことを負い目に感じる必要なんてどこにもない」
リクトの声は、強くハッキリしていた。
シシリアは目を見開く。
これまで誰も言ってくれなかった言葉だった。
「シシリアには幸せになる権利がある。天国に居る家族だって、シシリアが幸せになることを望んでいるよ」
シシリアの顔に、柔らかな表情が戻ってきた。
長い間失っていた安心感が、ようやく心に戻ってきたのだった。
「ありがとう……リクト」
笑顔の中にまだ涙が残っていた。
でも、もうこれ以上シシリアは泣くことはなかった。
「うん、これからよろしくね」
やがて午後の時間が過ぎてきた。
火も小さくなり、辺りの雑木林がざわざわと風に揺られる音が聞こえてくる。
「シシリア、すごく疲れてるだろう。少し眠る?」
リクトが提案すると、シシリアは頷いた。
思いのすべてを吐き出したら、急速に眠気が襲ってきた。
「うん。今日は……安心して……休めそう」
もう一人ぼっちじゃない。
信頼できる人が隣にいてくれる。
シシリアは安らかな気持ちで目を閉じた。
久しぶりに、心から安心して休むことができそうだった。
リクトがそばにいてくれる。
それだけで、やすらぎが心を満たしてくれたから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。