熊肉

 熊型モンスターが倒れた後、辺りは不思議な静寂に包まれていた。


 リクト自身も、まさか自分の魔法でこれほど巨大な魔物を倒せるとは思っていなかった。

 呆然と立ち尽くしながら、倒れた熊を見つめている。

 胸に空いた大きな穴から、まだ血が流れ出していた。


「たまたま急所に当たったのかな」


 きっと運が良かっただけなのだろう。

 ストーンショットがたまたま心臓を直撃したから、一撃で倒すことができたのだ。


 獣人の少女は、まだ信じられないといった表情でリクトを見つめていた。

 体が小刻みに震えているのが見える。


「クマって食べれるんだっけ?」


 リクトは熊の死体を見ながら、ふと疑問に思った。

 これだけ大きな魔物なら、かなりの量の肉が取れるだろう。

 せっかく倒したのだから、有効活用しない手はない。


「せっかくだから君も熊肉食べる?」


 リクトは少女に向かって気軽に声をかけた。

 まるで友人を夕食に誘うような、自然な口調。


 少女は驚いたような顔をした後、小さく頷いた。

 その様子を見ると、相当お腹が空いているようだった。


「この辺で取れた薬草だ。結構効くよ」


 リクトは少女の傷だらけの体を見て、放っておけない気持ちになった。

 腰の袋から、緑色の葉っぱを数枚取り出す。

 植生感知の魔法で見つけた薬草で、傷の治りを早める効果がある。

 森での生活を始めてから、怪我をした時のために常に持ち歩いていた。


「あとこれもあげる。薬草をすりつぶして作った傷薬」


 もう一つ取り出したのは、小さな器に入った緑色のペースト状のものだった。

 複数の薬草を組み合わせて作った、リクト手作りの塗り薬だった。

 実際に自分でも使ったことがあり、効果は実証済みだ。


 少女はリクトの優しさに戸惑っているように見えたが、恐る恐るそれらを受け取った。

 薬草を渡し終えると、リクトは少女の目を真っ直ぐ見つめて言った。


「君は自由だ。これからは好きに生きればいい」


 少女の表情が変わった。

 目を見開いて、まるで信じられないものを見るような顔をしている。

 しかし、すぐに不安そうな表情に変わった。


「行くところなんて、どこにもないよ……」


 少女の声は小さく、震えていた。


「じゃあ、うち来る?」


 リクトは何の躊躇もなく提案した。

 一人で森に住んでいるのも寂しかったし、誰かと一緒に暮らすのも悪くないかもしれない。


「……いいの?」


 少女の瞳に光が宿ったのが見えた。

 希望のような、安堵のような表情を浮かべている。


「もちろん。一人じゃ寂しかったし。こいつも一人じゃ食べきれないし」


 リクトは言いながら、地属性魔法を行使して、何百キロもある熊の死体を持ち上げた。


「土壌操作・運搬台車形成」


 リクトが魔法を発動すると、熊の死体の周囲の土が盛り上がり始めた。

 まず地面が円形に隆起し、熊を中心として直径三メートルほどの平らな台を形成する。


「地盤移動・車輪生成」


 続いて発動した魔法により、運搬台の底部に複数の土製の車輪が現れた。

 それぞれの車輪は直径一メートルほどの大きさで、表面は滑らかに研磨されている。

 車輪は運搬台と一体化しており、まるで台車のような構造になっていた。


 つまり、土でできた運搬台の下に、同じく土でできた大きな車輪が何個も取り付けられており、それらが地面を転がることで台全体を移動させるのだ。


 車輪は魔法によって自在に回転し、リクトの意思に従って方向転換も可能だった。

 リクトが念じると、車輪たちが一斉に回転を始め、台に乗った熊がゆっくりと前進していく。


「きみ、名前は? 歳はいくつ?」


 歩きながら、リクトは少女に尋ねた。

 お互いの名前や年齢くらいは知っておくべきだろう。


「シシリア……7歳」


 少女は小さな声で答えた。


「シシリアか、俺はリクトだ。16歳。日本人だ」


 リクトは親しみやすい笑顔を浮かべた。


「……え? にほんじん?」


「ああ、言っても分かんないよね」


 木造ハウスに到着するまでの間に、シシリアはリクトからもらった薬草を飲み、クリームを傷に塗った。


 すると、驚くべきことが起こった。

 傷が見る見るうちに治っていくのだ。

 深い切り傷や擦り傷が、目に見えるスピードで塞がっていく。


「すごい……」


 シシリアは感激したような声を上げた。

 こんなに効果的な薬草は初めてなのだろう。


 家に到着すると、シシリアは木造ハウスの立派さに目を見張った。

 森の中にこれほど本格的な家があるなんて思ってもみなかったのだろう。

 リクトは魔法で作った浮遊台から熊を降ろすと、早速調理の準備を始めることにした。


「石材成形・調理台」


 地属性魔法で平らな石の調理台を作り上げる。

 表面を滑らかに研磨して、まるで大理石のような美しい仕上がりにした。


 しかし、いきなり肉を切り分けるわけにはいかない。

 熊肉は適切な処理をしないと、寄生虫や細菌の危険がある。

 リクトは体内で毒素を分解できる魔法を持つが、シシリアはそうもいかない。


「まずは下処理からだな……」


 リクトは調理の前に、魔法による安全処理を行うことにした。


「毒素分解・病原体無害化」


 熊の死体全体に向けて魔法を発動する。

 この魔法により、肉の中に潜んでいる可能性のある旋毛虫などの寄生虫や、有害な細菌が完全に無害化される。

 目に見えない脅威が、魔法の力によって一掃されていく。


「血液吸引・体液除去」


 次に、肉に残っている血液を除去する魔法を使った。

 血抜きが不十分だと、臭みが強くなって食べられなくなってしまう。

 地属性魔法の応用で、土の吸収力を利用して血液や体液を根こそぎ吸い取っていく。


 熊の体から、見る見るうちに血が抜けていく。

 肉の色が暗い赤色から、美しい鮮紅色に変化していくのがわかった。

 同時に、野生動物特有の強い臭いも和らいでいく。


 次に、黒曜石の刃で熊の肉を切り分けていく。

 刃は信じられないほど切れ味鋭く、厚い熊の皮も筋肉も、まるでバターを切るように滑らかに切断できた。


「摩擦発火」


 火起こしも地属性魔法で行う。

 石同士が自動的に擦れ合って火花を散らし、乾いた枝に火が移る。

 あっという間に調理用の焚き火が完成した。


 肉を切り分けながら、リクトは数日前にとったある調味料について思い出す。


 この森の地下には、長い年月をかけて堆積した様々なミネラル層があった。

 新たに得た【地層感知】の魔法で探ってみると、地下深くに塩分を含んだ地層が存在していた。


 リクトは地下の成分を詳しく調べた。

 深度約十メートルの地点に、古代の海底だった名残の岩塩層を発見する。

 そこには純度の高い塩化ナトリウムが、岩石と混じり合って眠っていた。


 リクトは地下深くの岩塩層から塩分だけを選別して抽出する。

 土の中に含まれる不純物を取り除き、純粋な塩化ナトリウムだけを地表まで引き上げていく。

 魔法により分離された塩分が、まるで白い砂のように手のひらに集まってくる。


 最後の工程【結晶化促進・形状制御】で、抽出した塩分を美しい結晶に変化させる。

 分子同士を規則正しく配列させ、透明度の高い立方体の結晶を形成していく。

 手のひらの上で、まるで小さなダイヤモンドのような塩の結晶がキラキラと輝いて現れた。


 こうしてリクトはいつでも料理に塩を振ることが出来るようになったのだ。


 リクトは懐から塩を取り出し、一粒舐めてみた。

 市販の塩とは全く違う、深く複雑な味わいが口の中に広がる。

 古代の海のミネラルが凝縮された、天然の岩塩特有のまろやかさと旨味があった。

 これなら肉の味を最高に引き立ててくれるだろう。


「よし、焼いてくぞー」


 リクトは厚切りにした熊肉を手に取った。

 筋肉の繊維がしっかりと詰まった、見るからに美味しそうな赤身肉。

 野生の熊らしく、脂身と赤身のバランスが絶妙で、霜降りのような美しいマーブル模様を描いている。


 肉を木の串に刺し、焚き火の上にかざした。

 リクトは岩塩を指でつまみ、パラパラと肉の表面に振りかける。

 塩の結晶が熱い肉の表面で一瞬で溶け、肉に染み込んでいく。


 火との距離を慎重に調整しながら、表面をじっくりと焼いていく。


 最初は「ジュー」という小さな音から始まり、やがて「ジュウジュウ」という力強い音に変わっていく。

 肉の表面から脂が滲み出し、火に落ちて小さな炎を上げる。

 その炎が肉の下面を炙り、香ばしい香りを生み出していた。


 肉の表面が徐々に茶色く色づいていく。

 最初は生の赤い色だったが、熱によってタンパク質が変性し、美しいキツネ色に変化していく。

 表面がカリッと固まり、肉汁を内部に閉じ込める。


「いい匂いだ……」


 立ち上る香りは、まさに野生の肉特有の濃厚で力強いものだった。

 牛肉や豚肉とは明らかに違う、ワイルドで食欲をそそる香りが辺りに漂っている。


「それじゃあ、熊肉を食べよう!」


 リクトは焼きたての肉をシシリアの前に置いた。

 湯気が立ち上る熱々の熊肉からは、肉本来の香りと岩塩の効いた絶妙な香りが漂っている。

 表面はカリッと焼けて香ばしく、中からは肉汁がじんわりと滲み出ている。


 シシリアは目を輝かせながら肉を見つめていた。

 肉の焼けた香りだけで、もう唾液が止まらない。

 恐る恐る一口かじってみると、シシリアの表情が一変した。


「美味しいっ……!」


 熊肉特有の濃厚で力強い味わいが舌を包み込み、野生の生命力を感じさせる。

 そこに岩塩の塩味が加わって、肉の旨味を最大限に引き出している。


 噛むたびに肉汁が溢れ出し、口の中で肉の繊維がほぐれていく。

 牛肉よりも野性味があり、豚肉よりも脂が軽やか。

 まさに森の王者の肉にふさわしい、力強くも上品な味わいだった。


「こんなに美味しいお肉、初めて……」


 シシリアは感動したような表情で、丁寧に味わいながら食べていた。

 長い間まともな食事をしていなかっただけでなく、これほど美味しい肉は生まれて初めてだった。

 一口一口を大切にするように、ゆっくりと噛みしめている。


「うめぇー!」


 リクトも熊肉の美味しさに舌鼓を打っていた。

 岩塩の効果は抜群で、肉の旨味を何倍にも増幅している。

 肉汁と塩味が絶妙に絡み合い、これまで食べてきた魚やキノコとは次元の違う、最高級の食事だった。

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