5.修羅の家
柄にもなく緊張していた。貰った金貨は全部食べ物に変えてしまった。半分以上は保存食になったが、その日の夜にはちょっとしたご馳走になった。預かっている子どもたちは今日は何の日!? とはしゃいでいたので、あんな忌々しい金でも子どもを笑顔にできたのならいいだろう。
診療バッグにあれやこれやを詰めて出かける準備をする。それをレンが見守った。なんだかそれが母親みたいで(母さんはもっとお淑やかだったけど)ちょっと恥ずかしかった。
道中さまざまなことが巡る。少し早めに出たので、ゆっくりと街道を進み帝都に入った。すぐに貴族街に入る気も起きず、そのままこの前訪れたばかりの育ての父の墓へとやって来ていた。この前手向けた花は寒さに凍えて萎れてしまっていた。このままでは墓石を汚してしまいそうなので片付けた。
まさかあの実父が俺を探していたなんて思いもしなかった。医学学校に在学中から幾度かリベルタを訪れては隊長とサイさんに追い返されていたらしい。そういえばその頃に口酸っぱく知らない人についていっちゃいけないよ、なんて言われて、いつまで子ども扱いするんだと笑った覚えがある。ある時サイさんが珍しく貴族の往診に行くと言っていて、いつもは同行を許してくれるのにその往診だけは絶対に許してくれなかったこともあった。今になって分かる。俺自身が拒否しただろうが、サイさんも隊長も連れ拐われるんじゃないかと気が気じゃなかっただろう。それくらい、実の父は追い込まれていた。
死の淵に立つ俺の実父ラニアは、どうしようもない気弱な男だった。アストロ家は代々天文博士の家系で、聡明なことで有名だ。しかしそれを継げるのは男児のみ。しかし実父とその正室の間には長らく女児しか産まれず、親からは側室をとせっつかれ、正室には側室を取ることを許されず、板挟みになった実父は手の届く範囲にいる女に手を出すようになっていった。その中に母もいたのだろう。そして妊娠すると正室にバレてその女が追い出される――この繰り返しだった。一体何人腹違いの兄弟がいるのか検討もつかないが、これは正室が男児を産むまで続いたらしい。
しかし、その男児が成人する前に亡くなり、再び世継ぎの問題が浮上した。これが10年前で、ちょうどユリウスが医学学校に入学して少し経った頃だった。もう一人子どもを……と思っても正室はもう女として枯れていてどうあっても子が望めるような状態ではない。ならば今度こそ若い側室をと思ったが、またもや正室が拒否し、仕舞いには娘に婿を取らせればいいと言ったのだ。側室を取ることはできない、でも正室は子を望めない。跡取りは男でないといけない、またしても板挟みになった実父はようやく金貨を投げつけて追い返した妾の子のことを思い出したらしい。まだ生きているのか死んでいるのか、血眼になって捜し、これまた近くにその子どもがいたのだ。同じ貴族の庇護下で働き、国立の医学学校で首席だと言う。きっと実父にとって跡取りに申し分なかっただろう。
結局は隊長とサイさんに申し出を拒絶され、後がなくなった実父は渋々娘に婿を取らせたらしい。しかし今度はその娘夫婦が子に恵まれず、夫婦仲も険悪になり離縁となったそうだ。
「因果応報だな」
その娘に恨みはないが、心の中で実父を嘲笑った。死の淵にいる実父はこうして見ると可哀想な男だった。少し勇気を出して側室を取っていれば、正室を黙らせて孕ませた女達を守れば、今この状況は回避できたのかもしれない。
「お待ちしておりました」
小さな身体で駆け抜けて辿り着いたこの屋敷に、二度と足を踏み入れるものかと誓ったこの屋敷に、足を踏み入れた。扉を叩くとすぐにあの時の使用人が出迎えた。安心したような笑みを浮かべたそれに、怒りが沸き上がる。よく訪れるシエル家の屋敷と変わらないが、天文博士の家系柄か天井が天球になっていて昼間だと言うのに薄剥がれた空の星がそこにあった。
貴族の屋敷の間取りは大体一緒で、玄関を入って正面に大きな階段がある。少し登って踊り場で左右に分かれていた。二階の階段の手摺に手を置いて、くすんだ緑のドレスを纏った老婆が立っていた。その瞳は恐ろしいほど恨めしく、まるで汚物を見るかのように俺を睨み付けてきた。
「その者はどなたですか、診察なら国立診療所の方にお願いしているのでしょう」
「市井で有名な先生です、奥様。旦那様たっての希望で――「愚かなこと。平民を診ているような場末の医者に何ができます」
なるほど、これがこの家の正室か。そしてこの奥方は気付いているわけだ。やって来た医者があの時追い出した婢の子だと。腹立たしさはより巡る。目を合わせると臆することなく睨み付けてきた老婆に歩み出た。
「別にこの家を乗っ取ろうなんて思っちゃいねぇよ。医者として来たまでだ」
「どうだか、取り入って口約束を交わされちゃたまったもんじゃない」
一瞬の間を置いて老婆が醜く刻まれた皺を這い回るミミズのように動かして悪態を吐いた。
「星のことなんかこれっぽっちも興味ないね。やっと顔を見せるって言ってるんだ。恨みのひとつやふたつ吐かせろ」
それだけ言うと顔を背けた。なるほど、気の強い女だ。気弱な男なら首を縦に振る以外ないだろう。まだ後ろで何か喚いているが、それくらいの囀り、耳にも入らない。言葉を奪われていた使用人が小さくこちらへ、と左奥にある扉を示した。
「あまり奥様を刺激しないでいただきたい」
使用人がそう言う。示された扉の先は中庭、まだ雪が残る地には少しずつ春の緑が見え隠れしている。先ほど入った本邸から少し離れた別邸で実父は過ごしているようで、今はまだ花咲かぬ草木が並んだ通路を案内されるまま進んでいた。もうあの老婆の姿も見えないので言ったのだろうが、唾を吐き捨てたくなった。
「ふん、こっちが優しくするからでしゃばるんだよああいう女は」
「あれでも丸くなられた方ですよ」
「はっ、どこが――「だからあなたもあなたの母君も生きてここを出られたでしょう?」
思わず足が止まる。何を言っているんだと喉まで出かかっているのをこちらを向いた使用人がまるで今日の天気の話をするかのように笑った。
「奥様は孕んだ娘を始末してましたから。あなたの母君くらいですよ。生きてここを出たのは」
「あんた、知ってて――」
「みぃんな知ってることですよ、まぁ、奥様のやり方は正しいと言えば正しいでしょう? 血の通った我が子に跡を継がせたい、当たり前な感情です。奥様も奥様で苦労なされてますし、あぁいう生き方しかできない方なので」
もう黙り込むしかできなかった。今までに感じたことのない恐怖を感じる。母さん以外にも手を出していたとは聞いていた。それは家に仕える下女に始まり、果てはただ納品に来た機織り娘までに及んだ。おかしいと思っていた。いくら男児に恵まれないと言ってもそれだけ手当たり次第手を出していたのなら俺の他に男児が生まれてもおかしくないはず、そしてその生んだ母親が貴族の父親に頼らないのはおかしい話だった。
その真相はおぞましく、血生臭い。
「――よろしいですか?」
立ち止まった使用人の目の前に天球の形をした小さな建物があった。どうやら目的地の離れに着いたらしい。
「あぁ」
返事をすると迷わず扉を叩いた使用人を尻目に、今通ってきた中庭を見渡した。寒空の下、雪に覆い隠された緑と土が微かに覗く。きっと春になれば凍えた命が息を吹き返すように伸びて花が咲くのだろう。仕事柄植物に詳しいおかげで春になりどんな光景が広がるかよく分かった。それが一層この不気味な家だと際立たせる。私利私欲のために捻り潰された女達の怨み辛みが噴き出しているようだった。娘が子に恵まれぬ理由も、分かってしまった気がした。
――ここは修羅の家だ。
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