第8話

 軽く寝て起きると俺は珍しくスマホもいじらずにベットから抜け出した。

 俺には予定があった。念願の予定だった。人捜しを予定に入れるべきかは悩んだが、なんにせよやることがあるってのはいいことだ。

 靴修理店の営業時間は朝の十時から。隣の市の駅前にあるらしいので自転車で二十分ほどだ。

 いつ灰野が交換券をなくしたと言って取りに来るか分からないので、店が開く前には着いておく必要あった。

 俺は軽く朝食を済ますと腕時計を見て椅子から立ちあがり、リュックにあれこれと詰めた。それを見てラジオ体操から帰って来てアニメを観ている妹は「どこ行くの?」と不思議がった。

「予定があるから行ってくる。留守にするからお前は一人でどっか行くな。火も使うな。あと知らない人が来ても出るなよ」

「よていってなに?」

「予定は予定だ。忙しいやつ。いいか? 今言ったこと守れよ」

「それがあたしのよてい?」

「そうだ。予定は守れよ」

 妹がテレビを観たまま「はーい」と言って手を挙げるの確認すると俺は外に出て自転車に跨がった。

 ペダルを漕ぎ出すとまだ朝なのにじんわりと汗が出る。日差しが頭を熱くした。

 うちからだと隣の市に行ってから駅の方へと下っていくルートが一番早い。県道を途中で曲がり、住宅街へと入っていく。

 どこでもそうかもしれないけど住宅街にも格がある。うちみたいな庶民が住む住宅街は駐車場も一つだし、庭も狭い。でも今いるところは駐車場も庭も広く、なにより静かだった。

 共働きの両親を責めるつもりは毛頭ないが、金ってのはあるところにはあって、ないところにはないものだ。それがよく分かる。

 普通に暮らしていたらこんなところに家は建てられないだろう。一体ここの人はなにを犠牲にしてここに住んでいるんだろうか。

 そんな偏見を抱きつつ自転車に乗っているとこの中でも一等大きな屋敷が現れた。山を背後にしたそこは周りよりも長く高い塀で囲まれており、門は少し奥まったところにあり、観音開きの大きな金属製の扉からは広大な土地の一部が見えた。庭だけでも家が三軒は建ちそうだ。

 見たところ立派な建物が大小二つあり、それぞれは屋根も壁もある渡り廊下で繋がっていた。市がこれを作ったと言っても納得できる豪華さだ。

 一体どんな悪事を働けばこんな所に住めるのかは到底分からないが、いけ好かないことには違いない。

 しかし今は金持ちを嫉んでいる場合じゃなかった。あと十五分で開店時間だ。個人店だと早く来た客の為に店を開ける可能性もある。ここを抜ければ下り坂なので俺はペダルを少し強く踏んだ。

 住宅街を抜けると並木道が現れ、そこをところどころブレーキを掛けながらくだって行くと交通量の多い県道が見えてきた。赤信号を少し待ってからその先にある駅へと向かうと駐輪場に自転車を駐め、駅前に並ぶ店に急いだ。

 時刻は九時五十一分。修理店はまだ開いてない。

 俺はホッとして辺りを見渡した。どこかに待てるところはないかと探し、道を挟んで斜め右にコンビニのイートインが見えたのでそこへ向かう。

 店内に入ると窓から外を注意しつつ、急いで喉を潤すためにスコールを買った。それを持ってイートインの椅子に座るとちょうど修理屋のおじさんがOPENの札を店先にかけたところだった。

 俺はようやく一息ついてスコールをちびりと飲んで思いを巡らす。

 灰野は靴の引換券を持っていた。自分で持っていたんだから自分で取りに来るつもりだろう。落とした時間は既に閉店時間なので当日中に直せた可能性はない。

 昨日調べたが、靴の修理は一日から二日かかるらしい。部品を取り寄せる場合は一週間以上時間を要するみたいだが、可能性としては低いだろう。

 なら今日か明日に灰野はここへ来る。引換券はなくても名簿かなんかに名前は書いてあるだろうし、若い女の子が一人で来れば顔を覚えているはずだ。

 だからここで待っていれば灰野に会えるはず、というのが俺の予想というか願望だった。

 店の人に引換券を渡して落ちていた旨を説明すれば電話で呼び出す可能性もあるが、普通わざわざ券だけ取りに来させたりはしないだろう。修理を終えれば連絡し、その時に若い男が落とした券を届け手に来てくれたと言うくらいで終わりのはずだ。

 券を持って行ってあれこれと聞けば俺の存在に警戒した灰野が親に来させる場合もある。

 色々反論したいところはあるが、客観的に見れば俺のやってることはストーカー紛いであり、避けられてもおかしくなかった。

 俺はただ灰野と話がしたいだけだ。

 なんであんなところから飛び降りたのか。その問いに答えてほしいだけだった。

 どんなくだらない内容でもいい。それを知ることが大事なんだ。そう思った。

 最初は修理屋を凝視していた俺だが一時間もすれば集中力が切れてくる。次第に店ではなくその辺りの空間をぼんやりと眺めるだけとなった。

 三時間が腹が減ってきたので菓子パンを二つ買ってそれを食べ、遂にはスマホを取り出し、SNSをチェックしながら人が通れば確認するということを繰り返した。

 退屈だ。俺はこれだけ退屈なのにSNSには友達と遊びに行ったとか恋人とデートしたなんて投稿で溢れている。

 プールへ行った。海へ行った。川でバーベキュー。ショッピングモールで買い物。スポーツ観戦。ライブイベント……。

 出るわ出るわ。いくらでも話題は尽きない。夏休みだから仕方ないが、こういうのを見ているとむかつきを覚え、同時に羨ましくもあった。

 俺だって彼女がいれば夏休みに予定がないなんてことはなかったはずだ。身も蓋もないが、花火大会で上から降ってきた女の子を追いかけ回したりもしてないだろう。

 ただ彼女を作るために努力するかと言われれば面倒だと言うのが俺で、なのにこんなところでこんなことをしているのかと問われれば答えられず、自分の中にある矛盾にもやもやしながらも、結局はやりたいからやっているという拙い感情論しか出ない自分に辟易としながらも、同時に爽やかさもあり、困っていた。

 こんなくだらない自問自答で時間を潰していると昼の三時になったが、まだ灰野は現れない。

 もしかしたら今日は来ないんじゃないかという危惧は的中し、午後五時になると朝いたおじさんがゆっくりと出てきて、OPENの札を回収した。

 こうして俺の貴重でもなんでもない一日はあえなく費えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る