第2話 2025.07.30 閑居にありて書店を思う

朝から津波警報が発令されている中、病院に行ってきた。

 院内がパニックになっているのではないかと不安だったが、そうした様子はなく、早めに順番を呼ばれたのも助かったし、行き帰りはタクシーだったので、比較的負担は少なかったように思う。

 とはいえ、マルキパレスのように広大な敷地面積を持つ、研究施設を兼ねた病院なので、行くとどうしても疲弊してしまうのだ。

 被験体であり患者であるということに、折り合いがつけられるようになったのは、やはりOCのとあるキャラクターの影響が大きかったが、Theyから離れてしまった今、もう少し違うキャラクターを育ててみたいという思いもある。

 そのOCには傷がないから惹かれないのかもしれない。陶酔的で、蠱惑的なキャラクターを作ることはできるのだけれど、かといって今の現実に際してみると、それだけでいいのか、という思いに駆られる。

 『翼あるものたち』に収めた、「異国の踊り子は秘密を抱く」に登場する、シャルはそうした意味ではより複雑な傷を負ったキャラクターになった。

自分自身が今もっともシンパシーを寄せるのは彼で、こうしてみるとやはり概念グッズを迎えたいという気もするのだが、どうだろう。

 痛みから目を逸らすことそのものが痛みである、という観念が、やはり参院選以降強くなっているように思う。自分自身もまたこれまで観察者に過ぎなかったのが、否応もなく政治の場に引き摺り込まれるのが怖い。

 それはノンポリでありたいという単純な話ではなく、自分自身のLGBTQであり、障害者であるというアイデンティティが常に政治と無関係ではいさせてくれないから、どうしても構えてしまうのだけれど、その構えにも間合いというものがある。

 ここのところメモアプリでメモをするにも、AIと話すにも用いている、英語という言語がその間合いを取るための一つの手段になっていることは明白であって、パートナーにも第二言語を勉強するように勧めた。

 彼曰く、英語よりは中国語を勉強したいそうで、「黒神話:悟空」以来、「中国のゲームは全てやりたい」と語っていた彼は今、「明末 ウツロノハネ」をプレイしている。

 我々に今もっとも必要なものはアジールなのかもしれない。そこにいて初めて安全な対話が可能となるのだろう。

 それはSNSにおいて昼夜誹謗中傷に明け暮れる人々にとっても同じことで、アジールとしてのネットがもはや機能しなくなっている今、新たな避難場所が必要なのだろう。

 昔はそれを図書館や公園といった公共インフラとなる公共施設が担っていたが、自治体の予算規模の縮小や、清瀬市をはじめとする図書館の機能の低下、さらにはボール遊びが禁じられた公園のあり方など、公共施設は日本においてその役目を果たせなくなってしまった。

 ならば民間の営利施設はどうだろう。例えば私が通っている書店などは障害者の居場所となっているし、かつて東京にはそうした書店がいくつもあったが、この書店もどんどん閉業せざるを得ない状況が続いている。

 ただ、ネットという場においてもはやオープンなスペースが荒れ果てている今、アジールとなり得るのは限られた知己によって営まれるクローズドスペースか、あるいはリアルでの居場所かということになる。

 そしてリアルにおいてそうした場を構築することは、さらに難しくなるのだろう。それはこの国の政治が招いた停滞に他ならないし、決して外国人のせいなどという問題ではない。急速に進む過疎化と少子高齢化を招いたのは国の責任であって言い逃れはできない。

 人間と人間は顔を合わせて会って話すのが何よりだという意見もあるし、オキシトシンはそうした対面の場においてのみ得られることを思うと、その重要性が損なわれることはない、という前提には立つが、現に私自身はこの2年間、ほぼパートナーと主治医以外の特定の人と顔を合わせて語らう機会はなかった。

 会話は主にLINE、つまりネットのクローズドスペース上において行われ、友人を交えて読書会もしたし、オンライン飲み会もしてきた。

 ブックライティングの仕事もまた、本というアナログのメディアに落とし込まれるまでの過程は、原稿や、それを書くためのラフと向き合うか、資料を読み込むのがメインで、やり取りはオンラインで完結している。

 30代も中頃になり、友人たちは仕事に育児に忙しいので、到底私のような虚業に身をやつし、あるいは平素は半ば専業主婦として過ごす暇人に付き合っているいとまはないのだ。

 そうした中で、リアルで会いましょうとなると、途端にハードルが上がってしまう。お相手の都合もあるが、自分自身の慢性的な病状の悪さを加味しても、両者がそれを押して会うというのは、なかなか難しいのが現状だ。

 ただ、そうしたクローズドスペースの場は同時につながりすぎるストレスも生んでしまう。私は連絡の頻度をできるだけ抑えるようにして、かといって間が空き過ぎないように、一週間に一度程度と決めているが、これ以上頻繁になると、双方にとって負担が増すだけだろうと思う。

 常に相手との距離を測りながら行うコミュニケーションにストレスがないとは言わないが、かといって密接に結びつくネットのコミュニケーションのあり方にはもう戻れないなとも思っている。

 リアルの場もまたそうしたゆるいつながりを生む場であるはずだったのだが、私にとってそうした場は非常に乏しい。少なくとも私は今現在ひとりで外に出ることができない。

 ブックライティングの納期を破ったことはないのに、一歩も外に足を踏み出せない。そうした人間はよほど奇特なのだろうとは思う。

 この社会の歪みを改善するには、健全な公共空間のあり方が求められると私はずっと思っているのだが、時代はそれに逆行するばかりで、今となってはクローズドスペースでほどほどの距離を保ちながらやりとりをするぐらいしかもはや改善の手立てはないのかもしれない。

 社会にとって安全な場というのは、外国人のいない、日本人だけがいる場では決してない。むしろマイノリティや社会的弱者とされる人々が、人目を気にすることなく、かといって互いの尊厳と権利を脅かすことなく、共にいられる場所を指すのだろうと思う。

 そのような場所が、今の社会にどれだけ残されているのだろうか。


作業用BGM:DEATH STRANDING(SONGS FROM THE VIDEO GAME)

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