第9話

 自分が今まで大切に守ってきた規則を、自分の意志で破ることに。

 卵の殻を破るのは、雛にとっては怖いことだ。

 でも、それでいい。

 数術もそうやって、進歩してきた。間違った道に何度も迷い混み、戻っては進み、戻って戻って戻っては進み。そうして進歩してきた。

 キセの進歩の瞬間を、私は口を弧にして見ていた。

 キセの目が(><)の形に変わる。

 小さなちいさな声で「ぉぃιぃ」と言ったのが聞こえた。


「パルフェは、最高って意味だ。その名前の通りだろ」

「はいっ!」それから「ありがとうございます!」

「良いよ。これが息抜きだ。私にはこれが一番だ。キセも、自分に一番の息抜きを見つけろ」

「はいっ」


 キセの笑顔が、微笑ましかった。





「ごちそうさまでした」それから「ありがとうございます」

「いいよ。大したことじゃない」


 そう言って店を出た。そのまま、図書館テレリアに戻ろうとしたときだった。


「あのっ」その声に振り向く、キセがこちらを真っ直ぐに見ていた。

「どうした?」

「――お返しがしたいです。ちょっと時間がかかるんですけど、ジオさんに見せたいものがあるんです」


 珍しい。というか初めてだ。

 キセが、自分から発言してきた。

 それに。初めて私の名前を言った。


「それは興味深いな。どこだ?」

「30 分くらいかかる場所なんですけど。……一緒に行きませんか?」

「ああ」それくらいなら、食後の良い散歩になる。

「行こうか」


 キセは嬉しそうに、元気良く「こっちです」と言って歩きだした。

 その姿は得意気で、私はついつい口許が緩む。

 さて、この街で子供が自由に歩くのは、絶対に安全、というわけではない。

 不慮の事故もあれば、人拐いに捕まることだって、ないわけじゃない。

 大人として、子供の安全には配慮すべきだろう。

 決して、優しくしてあげる訳ではない。


「待て、迷子になられたら敵わないからな」


 そう言って、キセの横に立った。

 それからキセの右手を握る。


「それじゃあ、行くか」


 キセは顔を赤くして、しばらく機械仕掛けのおもちゃのように、カチコチに動いていたのが、少し面白かった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「で、あと何分だ?」

「もうすぐです」


 キセの言葉に、口をへの時に曲げる。

 かれこれ 50 分は歩いている。目的地は施設オルフィリアの近くだと言っていたが、そもそも図書館テレリアから郊外に行くのにだって、徒歩で 1 時間近くかかる。それを 30 分で着く、とは一体何だったのだろうか。

 そう思い、また口をへの字に曲げる。

 原因はわかっている。

 キセは歩くのが早い。

 私の 3 倍くらい、早い。

 走ったら、並みの大人では、全然追い付けないのではないだろうか。

 超人だろうか。

 まぁでも、たまにそういう人は、いる。

 アリスさんも、小さい頃からなかなかの超人振りを発揮していたらしい。

 そういう、普通じゃない人たちが、新しい道を切り開いていくのだろう。

 そう納得して、キセの後ろを渋々ついていく。


「もうすぐです!」


 キセが嬉しそうに声をあげる。

 私は、手を萎びた海草のように振ってこたえた。

 キセは立ち止まって、私を待っている。すごく笑顔だ。こっちは足に痛みがあるのをなんとか歩いている状態なのに。

 なんか、悔しいっ。

 への字をさらに曲げてんにしながら追い付くと、キセは「着きました」。

 

 やっと、

     っ、――。


 息が、止まった。

 キセの指差した先に広がる景色に、目も心も奪われた。

 眼下に広がる、広い大地。

 そこには、同心円状に広がり、層を作りながら広がる円形都市コンパス

 雄大さと緻密さ。

 規則的で対象的。

 自然にあるもの。

 つくられたもの。

 すべてが、馴染んで。

 すべてが、調和して。


「キレイだ」


 そう言葉が出た。


「ボクはこの景色が大好きなんです。だから、ジオさんに見て欲しいと思いました」

「わかるよ。こんなに。こんなにキレイなんだもの」


 キセを見た。嬉しそうに笑っている。

 私も、きっと笑ったのだと思う。

 もう 1 度、その景色を見た。


「整数は神が作った。その他の数は、人間が作った」


 誰かが言った言葉だ。

 その言葉は意味も分からず、でも確かに心の中に残っていた。

 その意味が少しだけ、分かった気がした。


「キレイだな。この景色も、数学も」

「はいっ」


 キセの元気な返事が、なんでだろうか、とても嬉しかった。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 キセはそのまま養護施設オルファンスに帰っていった。

 私は疲れた足をなんとか動かして街に帰ってきた。

 帰り道の途中で、広場に寄った。

 国からの出題、その結果が掲示されているか。それが気になったからだ。

 中央広間、掲示板の前。

 そこには以前のように人だかりができていた。


" 盛り上がってるじゃん。 なんだ、なんだ? "


 野次馬程度の気持ちで、掲示板を見た。

 そこでは。


" ――嘘、だろ "


 想像もしていないことが起こっていた。

 掲示版には国からの問題と、その解答が掲載されていた。

 そして、その横に。

 国からの解答を愚鈍と否定するように、別の解答が掲示されていた。

 その別解を掲示したものの名前は。


” ──ピタゴラス、かよ ”

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