第12話:パートナー
昨日の夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、あの男――相沢の、目が笑っていない笑顔が浮かんでくる。足元が崩れていくような、あの恐怖。
でも、その悪夢を塗り替えるように、別の記憶がすぐに上書きしてくる。
私の前に立ってくれた、大きな背中。
私を庇ってくれた、腕の力強さ。
そして、繋いでくれた手のひらの、不器用で、どうしようもなく優しい温度。
――佐久間くん。
朝、自分の部屋のベッドから起き上がると、まだ心臓が少しだけ、きゅうっと痛んだ。
昨日、私は、彼の心に触れた。
『記憶の共鳴』。彼がそう名付けた現象の中で、私は彼の痛みと孤独の、ほんの欠片を見てしまった。
暗いホール。鳴り止まない拍手。そして、胸が張り裂けそうになる、深い悲しみ。
彼は、いつも一人で、あんなものと戦っていたんだ。
私にとって、佐久間くんは、もうただのクラスメイトじゃない。
私の秘密を知って、それでも隣にいてくれる、共犯者。
フリーズしそうな私の心を、いつも再起動させてくれる、たった一人の『セーフモード』。
そして、いつからだろう。
私の心を占めるのは、感謝や信頼だけじゃなくなっていた。
ぶっきらぼうな言葉の裏にある、本当の優しさ。
クールなフリをしているけど、本当は誰よりも熱いところ。
時折見せる、失われた過去を思う、寂しげな横顔。
そのすべてを知るたびに、胸の奥が温かくなって、苦しくなる。
この気持ちに、まだ名前はつけられない。つけたら、壊れてしまいそうで、怖いから。
でも、決めたんだ。
昨日、彼が私の手を握って、「守る」と言ってくれた時に。
今度は、私が彼の隣にいる番だ、って。
私が、彼のセーフモードに、少しでもいいから、なりたい、って。
鏡に映った自分の顔は、少しだけ寝不足で、目の下にはうっすらとクマがある。
でも、瞳の奥の光は、昨日までよりも、ほんの少しだけ、強くなっている気がした。
「……よし!」
私は、両手で頬をぱちんと叩き、気合を入れた。
怖くて、でも、嬉しい。
早く、彼に会いたい。
◇
教室のドアを開けると、一番に、彼女の姿が目に入った。
俺の視線に気づいた舘山寺は、一瞬、びくりと体を震わせた後、昨日までのようにはにかむのではなく、どこか意を決したような、真っ直ぐな瞳で、俺を見て、小さく頷いた。
その小さな変化だけで、十分だった。
俺たちの間にあるものが、昨日とは決定的に違うということを、俺たちは言葉もなく理解していた。
放課後。いつもの化学準備室の長テーブルの上には、俺が昨夜、徹夜で調べ上げた資料の山が広がっていた。
非合法な記憶取引のフォーラムの過去ログ、海外の脳科学に関する論文の翻訳、そして、裏社会で都市伝説のように囁かれる「原因不明の記憶混線」に関する、信憑性の低い噂話の数々。
その資料の山を前に、詩は息を呑んでいた。
俺は、そんな彼女の横顔を見ながら、内心で葛藤していた。
(こいつを、俺の世界に引きずり込んで、本当にいいのか?)
光の当たる場所で、フルートを吹いているべきこいつを、こんな薄暗い、危険な場所に。今からでも遅くない。「お前は関わるな」と、線を引くべきだ。
(……だが)
俺は、もう一人でこの謎を追う自信がなかった。昨日のように、相沢に見せられた悪夢に、一人で耐えられる気がしない。こいつの光がなければ、また闇に飲み込まれてしまう。その確信が、俺を臆病にさせていた。
「すごい……。これを、一晩で……」
詩は、資料の山を見ても怯まなかった。それどころか、真剣な眼差しで、俺に向き直る。
「私にも、手伝わせて。私も、知りたいんだ。私たちに、何が起きているのか」
そして、彼女は空気を和ませようとしたのか、少しだけおどけて、にっと笑った。
「それに、私、”記憶屋”さんの、助手一番、だもんね!」
その言葉に、俺は思わず、眉をひそめた。
「……おい。誰が”記憶屋”だ。うちは、忘れさせるのが専門の『忘却屋』だ。勝手に看板を書き換えるな」
「えー。でも、佐久間くんは、思い出させてくれる人だもん。だから、”記憶屋”さんだよ」
「うるさい。それと、助手もいらねえ」
俺は、一度、わざと冷たく言い放った。
「依頼人は、俺の仕事に深入りするべきじゃない。これは、俺の矜持だ」
詩の顔が、少しだけ、悲しそうに曇る。
俺は、そんな彼女の顔をまっすぐに見つめ、そして、意を決した。
机に広げた資料の山を、手で示す。
「……だから、依頼人としてじゃない」
俺は、椅子の前に立ち、彼女に向き直る。人生で初めて、誰かに、こんなことをしたのかもしれない。
深く、深く、頭を下げた。
「舘山寺詩。……俺の、ただ一人の『共犯者』として……いや、『パートナー』として、お前の力を貸してほしい。俺一人じゃ、この謎は解けない。……お願いします」
同級生に、敬語で、頭を下げる。
それは、俺に残された、最後のプライドを捨てた、最大の誠意だった。
シン、と静まり返った化学準備室に、詩が息を呑む音だけが響いた。
顔を上げると、彼女は、大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めて、信じられない、という顔で俺を見ていた。
そして、次の瞬間。彼女は、泣きながら、最高の笑顔で、こう言った。
「……うん! こちらこそ、よろしくね。パートナーさん」
彼女は、自分の座っていたパイプ椅子を、俺の隣に、こつん、と音を立ててくっつけた。
俺たちは、顔を寄せ合い、一枚の、英語で書かれた論文を、一緒に覗き込む。
奇妙で、危険で、そしてどこか甘酸っぱい、俺たちの「共同調査」が、本当の意味で始まった瞬間だった。
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