散歩奇譚

浦々紗羅

プロローグ

 散歩。ただ気の向くままに歩く、そんな裕福な時間。そんな贅沢な時間を過ごせる人間ってこの世の中に存在するのだろうか。羨ましさ半分、一分一秒でも残業時間を減らしたい気持ち半分を抱え込んだ佐藤は、デスク上の書類の山と格闘していた。

 佐藤【おれ】の日常は、というよりも1年は、この10年は自宅と電車を数駅分乗った先にあるビルの6階のオフィスとの往復、毎日がスローテンポのシャトルランであった。退屈で、窮屈で、屁理屈ばかりが思いつく毎日に、おれはうんざりしていた。毎日残りの人生の日数についてを、何回往復したらシャトルランを終了できるかを、ひたすら考えていた。

 その日の駅のホームは退勤ラッシュの客と隣町のドームであったアイドルのライブの観客たちでごった返していた。おれは10連勤で十分に濃縮還元された疲労を足に括り付けながら、のっそり最寄駅の改札口を最短で行ける5号車の扉が開くところまで歩いていた。

 不意に背中を金槌で殴られた感じがした。気がつくと目の前には電車。うえを見るとホームから不気味そうに見下ろす人間たち。あぁ、線路に落ちたんだ、おれ。ようやく状況が飲み込めそうな時には既に遅し。口づけを交わせそうな距離に電車がいた。

 次に目を覚ますと、おれの目の前に寝ているおれがいた。しかもおれには沢山の管が繋がれ、おれの周りには医療ドラマでみるような先生や看護師がテキパキ動いていた。彼らに気づいてもらおうと手を伸ばしたが、先生も看護師も、そしておれの体もすり抜けてしまうようであった。無理じゃん、体に戻れないじゃん、とひとりごちたおれはひとまず悩みの源泉のようなものである病院から離れることにした。

 ふわりふわり移動しながら、普段足を踏み入れることさえ憚られる高級マンションの中層階のベランダに来てみた。見下ろす街には人・ひと・さらに人と人間で溢れていた。これまでみていた景色とあまり変わりないな、と思いつつ、繁華街から少し離れた通りの遊歩道に目をむけた。犬を連れて散歩しているらしき女の子がひとり、楽しそうに歩いていた。

 犬と散歩。なんとも心地よい響き、佐藤はそう感じて、ついでにこう思った。

「よし、犬のなかに入ってみよう」

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