メタモルフォーゼ私
夜賀千速
再生
「ショートに、してください」
長い前髪で遮られた視界のなか、わたしは息を吸って言葉を吐いた。お店中に広がる花の香りが鼻をついて、その甘さに少しくらっとする。
「思いっきり短くしてください。段つけてもらって大丈夫です」
大きな鏡に映った、腰近くまであるロングヘアを見つめる。どこまでも真っ黒なその髪は、生気のない色をしていた。光も艶もない、濁った色だ。
初めて来た美容室、初めて会う美容師。
明るい照明とお洒落な雰囲気に、感情の影が濃くなっていくのを感じた。一週間ほど前から心臓を覆う灰色の靄と閉塞感は、依然消えそうにない。目の前の美容師を見るたび、彼女のその金髪と主張の激しいメイクが目に入る。この辺りでは滅多に見かけないような、奇抜で派手な風貌だった。
「……」
わたしの言葉を受けて、美容師は何度か瞬きを繰り返していた。
「何か、参考にできそうな写真とかある?」
わたしの言葉が予想外だったのだろうか、美容師は歯切れ悪くそう切り出した。
ポケットからスマホを取り出し、Googleの検索バーにショートカットと打ち込む。
スクロールするたび、綺麗な女の人が無限に画面に現れていく。一分ほど悩んでやっと、ずっと脳内で思い描いていたような画像が見つかった。
「こんな風に、してもらいたくて」
わたしが頼んだのは、さっぱりしたショートカットだ。丸い頭のフォルムに、薄いぱっつん前髪。
果たして自分に、この髪型が似合うのかは分からない。
このショートが魅力的に見えるのは、モデルさんの顔が整っているからだ。綺麗な人は大抵、どんな髪型をしても様になる。美しい人は何をしていても、寝起きのままでも美しい。それだけだ。そんなことは疾うに分かっていた。
「ほんとに、いいの? こんなに綺麗な髪なのに」
美容師はすかさず、わたしの顔を覗きこんでそう言った。やわらかく遠回しな口調だったが、彼女の伝えたいことは分かる。やっぱりわたしに、ショートカットは似合わないのだろうか。でも、それでも。
「……」
毎日欠かさずくしでとかして、ヘアオイルを塗って、必死に保っていたストレートロング。お母さんに冷たい目で見られながらも、貯めていたお年玉で背伸びして買った高いドライヤー。アイロンでふわりと巻いて、毎朝綺麗に作っていたシースルー前髪。一年以上続いた日々が、一瞬脳裏を過る。
「大丈夫です」
唇を大きく動かして、わたしはきっぱりと言った。そんなことはもう、どうでもよかったのだ。黒くて長い髪なんか、重いだけで鬱陶しいとしか思えなかった。この肥大化した黒い感情も、髪と一緒に捨てるべきだと思った。
「えー、もったいない」
もう、いいんです。強く言いかけた言葉が、喉まで出かかって詰まる。
全くこの人は、わたしの気持ちも知らないで。そんなことを思いかけて、いつまでも大人になれない自分にまた苦しくなる。感情の起伏が、波のように引いては打ち寄せていた。平静を装うように息を吸うと、フローラルの香りの空気が肺に入ってくる。石鹸と花の良い匂いに、ささくれの増えた心がひりひりと痛んだ。
美容師は微かに、呆れたような笑みを浮かべる。次の言葉まで、長い静寂があった。
「じゃあ、まずはシャンプーしようか」
座っていた椅子が地面と平行になるほどに倒されていき、見上げた先には綺麗な天井があった。ベットに仰向けになったような状態にされ、熱いタオルが目の上に置かれる。酷使していた瞳と瞼が、じんじんと温められていく。
頭皮に冷たい水が浸され、重苦しい髪が洗われていった。
この心地良いシャンプーの時間が、いつもは大好きなのに。終わってしまうのが惜しいほど気持ち良く感じるはずなのに。なのに今は、早く終わってくれとしか思えなかった。しばらく、苦しくて苦しくて仕方のない時間が続く。醜くてどろどろの感情が、絶え間なく流れ出してくるようだった。水分が染みた首が持ち上げられ、シャンプーが終わったのだと気付く。髪を大きなタオルで拭かれ、されるがままに軽く乾かされる。
鏡に映った顔を、見つめる。椅子からは動けないから、目を逸らそうにも逸らすことができない。直視するか、目を瞑るかの二択なのだ。絶望的な感情を持て余したまま、前を向いていた。
もし、生まれ変わることができたら。今よりも少しばかり可愛く生まれていたのなら、わたし、もっと素直になれていただろうか。そんなことを思いながら、重たい一重瞼をじっと見る。
「首のタオル大丈夫?」
「あ、はい」
おっけ、と美容師は小さく言った。わたしの長い髪が、白く細い指で触れられていく。指が頭皮を撫でる、他人に髪を触られた時特有の不思議な感覚。上のあたりの髪がダッカールでまとめられ、鏡に映し出されたのはあまりに滑稽な人間の姿だった。
「じゃあ、早速切っちゃうよ?」
「ほんとに、いいのね?」
そう言った美容師の言葉には、強い疑念が含まれていた。大丈夫です、と何度目かも分からない台詞を口にして、ごくりと唾を飲み込んだ。
じゃり、と鈍い音が耳元に届く。鋭い刃で切断された髪の束が、ばさりと床に落ちた。
「高校生だっけ。何年生?」
無言のまま散髪が続いて、五分ほど経った頃。すばやい手捌きで髪に鋏を通しながら、美容師は少し控えめにそう言った。
「二年生です」
美容室というのは、絶対に会話をしなければならない場所なのだろうか。そんな不満を持て余しながら、低い声で答える。
「そっかー、青春真っただ中だねぇ」
久しぶりに会った、親戚のような語り口調だった。いいなぁ、と吐息の含んだ声が聞こえて、きっとあなたの方が青春を謳歌していただろうに、なんて思う。そんなの、派手な格好から想像しただけに過ぎないけれど。
「何か、部活とか入ってるの?」
その言葉に、途端に胸がキュッとなる。なんとか保っていた呼吸が、次第に浅くなっていくのが分かった。
「剣道部です」
その単語は、意外にもさらっと口をついた。胸の奥が、灼けたような痛みを発していた。
「剣道部? すごい」
全然そんなことないです、と小さな笑みをこぼす。美容師は高い声で、前を向くわたしに話しかけ続けた。
「大会とかあるの?」「あ、はい」「へぇ、練習厳しい?」「まぁまぁですかね。あ、でも結構厳しいのかもしれないです」「そうなんだー、頑張ってるんだね」「あはは、ありがとうございます」
空元気のまま、適当な相槌を打つ。
部活、なんて。今更そんなこと、思い出したくもなかったのだ。もうわたしの髪は軽くなったのだから、もう痛みもなくなったのだから、残したものなんてもうないはずなのだから。なのに、なのに、と、気づけば感情の渦に呑み込まれていた。
わたしが髪を伸ばそうと思ったのは、好きな先輩に髪を褒められたからだ。自分でも、馬鹿馬鹿しい理由だと思う。でもそれほど、わたしは先輩が好きだったのだ。先輩の綺麗な言葉を、どうしても忘れることができなかった。
わたしが好きになった先輩は、本当に本当に素敵な人だった。背の高い彼は、快晴の夏空のような人だった。その笑顔で眩しさを放ち、世界を優しく照らし出すような。誰もが憧れ、その青さに目を奪われるような。そんな美しさと優しさと光を、彼はいっぺんに持っていた。
確か、去年の今頃。部活が終わった後、たまたま先輩と一緒に帰ったことがあった。
「あ、高崎先輩」
「小城さん。お疲れさま」
「お疲れさまです!」
わたしは靴箱を開ける先輩の、その横顔を盗み見た。
夕暮れの昇降口には橙色の光が溢れ、透明な窓に反射していた。絵画のような、そんな夏に先輩と二人。
「わぁ、向日葵」
昇降口を出たところにある花壇には、空へと真っ直ぐのびる向日葵が咲いていた。
「もうすっかり夏ですね」
そうだね、と先輩は首を傾けて穏やかに笑った。先輩のその仕草を見る度、わたしの胸はどうしようもないほどに焦がされていった。
「綺麗だね。本当に太陽を見てるみたい」
先輩の視線は、西日に照らされた向日葵に向いていた。わたしはそんな先輩を、ずっと近くで見つめていた。
「あなただけを見つめる、だっけ。花言葉」
え、と声が漏れる。自分のことを言い当てられたような気がして、心臓を掴まれたような心地がした。
「ずっと、太陽を見てるんだね」
「そうですね、素敵」
わたしにとって、先輩は太陽なのだ。そう、強く思った。
「夕暮れ、一瞬だったね」
空を見上げると、さっきまで嘘のように美しかった夕焼けは消えかけていた。これからは、夜の時間がやってくる。燃えるような橙色を、静かな藍色が染め上げていた。
「そうですね」
ふわりと、先輩は笑った。
「小城さん」
名前を呼ばれて、心が少しくすぐったくなる。空を見ていたわたしは、ゆっくりと先輩を振り返った。
「髪、伸びたんだね」
「あ、はい」
「入学したころは、結構短かったよね」
「覚えてて、くれたんですね」
思いもよらない言葉だった。深い感動に襲われ、少しだけ泣きそうになってしまう。夏夜の生ぬるい風が、優しく頬を撫でていた。
「今のその髪型、すごく似合ってると思う」
先輩の真っ直ぐな言葉が、ひどく優しくて胸が痛かった。
思えば、先輩はただの人たらしだったのだ。無条件に優しさを振りまいて、美しい言葉をかけて、誰彼構わず笑顔で接する。だから先輩は副部長で、沢山の後輩に慕われていて。わたしは、その中の一人にすぎなかった。先輩の優しい言葉が、わたしにだけ向けられているものではないということ、そんなことは理解しているつもりだった。
だけどわたしは、そんな先輩が好きだったのだ。ちゃんと名前を呼んでくれるところ、どんなに些細なことでも覚えていてくれるところ、いつも優しく見守っていてくれるところ。全部全部、苦しいほど大好きだった。
わたしが高二になって、先輩が高三になって。季節は巡って、また次の夏がやってきた。夏休みに先輩が引退してしまうから、その時までに。絶対に告白すると、そう、心に決めていた。
わたしは先輩のように、綺麗な心を持っているわけではない。だけど、先輩に出会って、美しいものを知ったから、少しだけ世界が綺麗に見えるようになった。どこからか聞こえてきた鳥のさえずりに、耳を澄ませることができるようになった。それを、感謝と一緒に伝えたかったのだ。
終業式の午後、夏休み前最後の部活。
わたしは道具を片付けて、部室の入り口で荷物をまとめていた。湿った髪を丁寧にとかして、ポニーテールを強く結び直す。部屋中に広がる湿気が気持ち悪くて、暑さでどうにかなってしまいそうな空気が充満していた。小さく宙を仰いでから、外の水道へと向かう。そこに、先輩が立っていた。
「高崎先輩」
先輩の首筋に透明な汗が流れるのを見て、咄嗟に目を逸らしてしまう。
「あ、小城さん」
先輩は相変わらず格好よかった。緊張して、整った顔を直視できない。言うなら今だと思った。だけど、と鼓動が速くなる。灰色のコンクリートに映った、揺れる自分の影を見ていた。
「今日、今年で一番暑かったんじゃないかな。最高気温何度だろう」
「本当ですよね、湿気もすごくて」
「小城さん、熱中症とかなってない? 今日休憩少なかった気がするんだよね、みんな大丈夫だったかな」
先輩の声には、心からの心配が滲んでいた。わたしには持ち合わせていない、正真正銘の澄み切った心だ。
真っ青な、雲一つない空の下。小さな沈黙が、ゆっくりと流れた。
「あの、高崎先輩」
蛇口を締める音がキュッと響いて、先輩がわたしを振り返った。夏の光を集めたような、彼の澄んだ瞳と目が合う。そんな瞳に、今はわたしの姿が映っていた。
「好きです、先輩のこと」
「え」
聞こえたのは、優しい先輩の放つ、強い戸惑いの声だった。
あ、駄目なんだ。わたしなんて最初から、相手になんてされていなかった。そんな言葉たちが、暑さで茹だりそうな脳を支配して止まなかった。だけど構わず、わたしは続ける。
「先輩に教えてもらったことが、ほんとうに、たくさん、あって」
乾いた喉から溢れたのは、綺麗じゃない、途切れ途切れの言葉だった。わたしが必死に繋いだ言葉を、先輩は悲しそうな嬉しそうな表情で聞いていた。
「わたし、先輩に出会えて、良かったです」
何を伝えて、何を伝えていないか分からなくなるほどに言葉を吐いて、それから。涙が、出そうになる。心の隅で、その全部を暑さのせいに、真っ青な夏のせいにした。
「ありがとう」
その声に、堰き止めていた雫がほろりとこぼれた。
「ありがとう、すごく嬉しい」
先輩は最後まで優しかった。そういう人だと、わたしが誰より分かっていた。目の前にあるはずの景色が、スローモーションで静かに流れていた。
「だけど俺、いるんだ。好きな人」
「……はい」
吐息が漏れて、全身が張り裂けてしまいそうだった。
当たり前だったのだ。あんなにも素敵な人に、大切な人がいない方がおかしい。美しい世界を知っている先輩に相応しいのは、同じ美しさを共有できる美しい人だ。あんな素敵な先輩が好きになる人は、どれほど魅力的な人なんだろうか。こんなわたしには、到底敵うはずないのだろう。
「そう、ですか」
「うん、ごめんね」
じゃあ、と部室に戻りかけた先輩。わたしはその背中に向かって、大きな声で叫んだ。
「先輩。優しすぎますよ」
「……」
思わせぶりですか。いつもいつも、ただの後輩に優しさを振りまいて。勘違い、しちゃうじゃないですか。
「小城さん、ごめん」
わたしはその場を離れて、校舎の方へと走っていった。後ろから先輩が追いかけてくる足音がして、大丈夫ですと何度も繰り返した。こんな時でも綺麗な声で名前を呼んでくれたのが、嬉しくて苦しくて憎らしかった。そうやって、わたしの初恋は終わった。
「あ、もうちょっと前向いてもらっていい?」
「……っ、すみません」
向いた先の鏡には、無表情で座っている自分の姿があった。ぐらりと歪んだ視界を直すように、姿勢を正して前を見る。だけど不思議と、自己嫌悪の感情は湧いてこない。さっきまであんなに見たくもなかった自分の姿を、じっと見つめることができた。どうしてだろう、と少し考えて、まるで重さを忘れたように軽くなっていた髪に気がついた。ばさ、と音を立てて髪が落ちる。また、髪が落ちる。いつの間にか、床はわたしの髪で真っ黒になっていた。
「もう、夏休み始まったの?」
「はい。先週の土曜日から」
「そうなんだぁ、楽しんでね」
美容師はやわらかな口調でそう言った。やわらかな口調、という言葉を自分で紡いでから、この人は最初から優しかったじゃないか、なんて思う。わたしがその優しさに、目を向けていなかっただけだ。自分の苦しみに精一杯で、人の優しさをないものにしていたのは私だった。
わたしは高崎先輩を好きになったのだから、それに恥じない自分でいたい。今ならなぜだか、そう思うことができた。
「ん?」
美容師はわたしの顔を覗き込んで、不思議そうに首を傾げた。
わたしの中で、確かに何かが、変わっていた。鏡の中に、長い髪のわたしはいなかった。苦しさばかりに縛られた、さっきまでのわたしはいなかった。
「わたし、決別のために髪を切ろうと思ったんです」
「そっか」
美容師は包み込むような微笑みで、ただ深く頷いてくれた。
知らぬ間に心に降り注いでいた雨が、止みかけているのに気がついた。霧雨のような余韻、悲しみはもう薄くなっていた。床に落とされた黒髪に目を落とす。
長い髪を切って残ったのは、素敵な人を好きになれてよかったな、なんて短い言葉だけだった。髪を切って、わたしは変わったのだ。
夏休みが明けて、わたしを見た友達は何と言うだろうか。理由を知って、彼女達は笑うだろうか。先輩はどう思うのだろう。クラスメイトはどんな反応をするだろう。誰もわたしの髪型になんて興味を示さないだろうか。それとも似合うとかなんとか、当たり障りのないお世辞を浴びせてくれるのだろうか。
「後ろは、こんな感じね」
美容師は大きな四角い鏡を使って、後ろ姿を見せてくれた。綺麗な丸いシルエットは、わたしが頼んだあの写真とそっくりだった。
このショートカットが、わたしに似合っているのかは分からない。けれど短くなった髪が、軽くなった心を映し出しているようだった。一つの恋を乗り越えたわたしを、そっと物語っているようだった。
わたしはこれから、どんな人を好きになるのだろうか。先輩より素敵な人に出会えるだろうか、出会えないだろうか。それでも、人並みの恋を経験して大人になっていくのだろうか。それともそれ以上に何か、大切なものを見つけるのだろうか。今の気持ちを忘れないままに生きて、幸せだと笑える未来はあるだろうか。髪は伸ばすのだろうか。またばっさり切ってしまうのだろうか。大学生になったら髪を染めて、ピアスを開けたりするのだろうか。分からない、分からない。どれもまだ、誰も知らないわたしの話だ。わたしの選択で、わたしの行動で、これからも変わっていくわたしの未来。わたしの、人生だ。全部全部、わたしのもの。
「ありがとう、ございます。すごく気に入りました、この髪型」
「ほんと? それはよかった!」
美容師は、弾けるように高い声をあげた。まるで夏の日の花火みたいな、ぱっと明るい笑顔だった。
広く明るい視界に、嘘のように軽くなった髪。わたしはわたしを生きるために、長い髪を切ったのだ。この美容室を出れば、青い空が眩しく輝いている。鏡の中のわたしは、白い歯を見せて笑っていた。
メタモルフォーゼ私 夜賀千速 @ChihayaYoruga39
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