令和7年7月18日の日記

夢美瑠瑠

第1話

 

 いろいろなことが、なんというかパラドクシカルな構造をなしているということは、特に人間的なアイテムであればあるほどによく起こりうる現象、とそういうことはある気がします。


 三島由紀夫は、「他人は、私が演技していると本当の自分だと思い、素のままでいると演技をしているように思うみたいだ」という述懐を、「仮面の告白」でなした。


 ミシマは一般的でない人物としても、一般論として「自我は他人のコピーであって、つまり自分ではない」と、岸田秀氏は述べている…基本においてパラドックスなのが人間存在、と、精神分析ではそうなるのか?


 こういう迷路のような桎梏のような「人間を否定し、自らをも否定せよ」そういう強迫観念に苦しめられ続けてきたのが、私の生涯でした。


 「絶対矛盾的自己同一」と、これは西田幾多郎の思想の中核かもしれないが、つまり色即是空、空即是色。 それに近い謂いだろうか。


 で、「人生不可解。 生きて甲斐なし」と、自殺した人もいた…「華厳の滝」は「華厳経」から来ているのかしれませんが、このお経を50音にアナグラムしたのが「いろは」です。

 

 色は匂えど散りぬるを…はつまり盛者必滅、諸行無常、生々流転、有為転変、そういう仏教的な無常観で、すなわちそれこそが、お釈迦様のサトリ、のエッセンスで、こういう不可思議なイロハというものも、日本語なればこそ有り得た、一種の奇跡のごとき詩文藝術かもしれない。


 だいたいがまあ外界とのせめぎあい…生きている私たちはホメオシタシスとかエントロピーとか、そういういろんな自然界の原理に則って、「なにか大いなるもの」の意志に従っているウジ虫に過ぎぬ。 ウジ虫ではあっても、「私」とは、被造物であり神の子。 ちっぽけな「ミクロコスモス」は、天地自然や日月星辰マクロコスモスの運行とか、そうしたオカルティックで精妙な無数の生命原理が内在する神秘的ななにか… 奇跡のような自分という宇宙に唯一無二で、一回性の存在、その崇高さ、貴重さ、「無数の偶然の僥倖のめぐりあわせの末に今、ここにある」…兎に角そういうところに謙虚敬虔であろうと思います。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

令和7年7月18日の日記 夢美瑠瑠 @joeyasushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る