今日の日はさようなら
くろかわ
第1話
1.
夜が来る。
夜が来ると、家に帰らなくてはならない。
だから、私にとって夜とは最も忌避すべき事象だ。否応なしに現実と向き合わなければならない。そんな時間の始まりを告げる存在。
夜。
はぁ、と小さく溜息。落とした視線の先には手のひらに収まるサイズのルービックキューブ。自動でシャッフルされるそれを、片手でくるくると回して面を揃える。全ての面が揃うと、電子制御された機械が要した時間を表示してくれる。今回のタイムは三十八秒。気落ちしているわりには悪くない。
立方体を夜に掲げて空を見る。摩天楼の明かりでぼやけたそこは、もう完全に陽が落ちているにも関わらずほの明るい。精々月があるくらい。星なんてどこにも無い。
街頭のカーブミラーの中に、踊りの最中みたいに妙なポーズで固まって、片手にルービックキューブを掲げる少女を見つける。髪は長く、背は低く、顔は幼い。その子は私が俯くと同時に顔を下げる。足元に鏡があったらきっと、踏んで壊していただろう。誰にも涙を堪えている姿なんて見られたくない。それが自分であっても。
私は、私が大嫌いだ。
家路を歩く。
街頭にはたくさんのスクリーン。私には平面の画像にしか見えないが、普通の人は違うらしい。
スクリーンに併設されたスピーカーから、商品の謳い文句が流れてくる。
『新発売、メディカルストマック。これでもう、食べ物気を使う必要はありません。必須サプリさえあれば、あとの食事は自由です。面倒なカロリー計算や、食事制限なんてもう過去のもの。フグの肝だって今夜のおかずに大変身。メディカルストマック。サイバーアップで理想の自分へ』
『今日のネイルはどうしよう? そんな悩みはもう古い! ネイルカラープライマルに全部お任せあれ! あなたの深層心理、スキンカラーからオートでベストなセレクション! 服や髪との連携機能も搭載済み! ネイルカラープライマル!』
『圧倒的臨場感。圧倒的体験。フルドライブイマーシブが、あなたのゲーム体験を一変させる。マイクロマシンを通じて五感の全てが異世界に旅出つ。新たなる旅路、別世界の人生。フルドライブイマーシブ』
毎秒これだ。
ほとんどの人は脳や身体の一部を機械に入れ替え、体内に埋め込んだマイクロマシンで制御する。
でも、私はそうではない。どれだけ姦しい宣伝をしても、私にはのっぺりとした書割しか見えない。
非拡張人類。進化のステップを踏み損なった人間。それが、私。
「……ただいま」
重々しい扉、閑散とした玄関にオートロックがガチャンと響く。白々しい玄関灯だけが私を迎え入れる。
応える声は誰もいない。いつものことだ。
靴を揃えてリビングに入ると、自動で灯りが点り、今日のニュースを語り始める。
私のために取り置いてあった夕飯は温められ、カコさんが配膳を済ませていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
人間の声に似た音を発した配膳ロボットのボディはつるりと白いが、その実所々に傷や消えない汚れが残っている。縦長の直方体に腕が四本。足回りはローラー。回転部を固定し歩行も可能なタイプで、場合によっては私の部屋がある二階まで歩いてくることもある。ロボットの胴体の上、顔の場所にはモニタが取り付けられており、それが会話している人間に合わせて向きを微調整、さらには簡素なアイコンで表情を模す。事実、カコさんには豊かな感情がある。プリセットには無い顔のパターンをカコさん自ら開発した。
AIに感情という言葉はにつかわしく無いと、金切り声をあげる母親の姿が脳裏にチラつく。うるさいな、人間だって結局パターナイズとその組み合わせじゃないか。機械と人間の一番大きな違いは製造工程だろ。
居ない誰かへの怒りを覚えるなんて、無駄なことを。そう後悔しても、時間は巻き戻らない。
「お嬢様?」
私と同じだけ年を経たカコさんはもはや型落ち品で、新品だらけの我が家では浮いている。そんなところまで、彼女は私と一緒だ。
「うん、ただいま、カコさん」
私の言葉に応じて、カコさん──昔、私が「濁点がついているのは可愛く無い」という理由でカーゴの商品名から点々を消し、カコさんと名付けたお手伝いロボット──は言葉を紡ぐ。
「本日のメニューは、」
お決まりの文句が始まった瞬間興味が失せる。そこから先は聞いていない。我が家にはお金だけはたくさんあるから、たまに天然物が出るらしい。けれどそれを気にしたことは一度もないし、家で誰かと食事をするときは味なんてわからない。
カコさんには悪いけれど、今は会話できる気分じゃない。
垂れ流しのニュースを聞き流す。私は家の中で唯一、マイクロマシンが入っていない。家電にすら入っているそれは、互いにリンクしあって情報を共有している。しかしウェブの外にある私をモニタリングするのは難しいらしく、主に視線や体の向きから行動を判断しているみたいだ。だから、会話と食事を提供する機械であるカコさんは私が何を欲しているのか正確には把握できないし、テレビのニュースは鼓膜を震わせるだけで心には響かない。
椅子の上であぐらをかいて、左手にお箸、右手にルービックキューブを構える。
すかさずカコさんからお小言が飛ぶけれど、カコさんの権限では強制することも矯正することもできない。
右手でルービックキューブのシャッフルをスタート。左手のお箸で魚の煮付けをつつく。口の中に出汁と醤油と魚の油が広がり、一般的には美味しいと評価すべき感覚が広がる。かたや右手は苦戦中で、やっぱり両手を同時に動かしていると遅いな、なんて思考が頭の中を支配する。
一分後、テーブルの上には骨の露出した魚の半身と半分ほどになった野菜の煮物。そして未だ揃わないルービックキューブが残った。なんだか嫌になって箸を置く。
「お嬢様。お口に合いませんでしょうか」
「……美味しかったと思う」
多分。自信はない。自分が正しいと思えたことなんて、生まれてこの方一度もない。
「……お口に合わないようでしたらおさげします」
「いいよ。そのままにして」
独りにしてほしい。
本音だけは言えない。
「……承知致しました。何かご用命がごさいましたら、お声がけください」
独りぼっちで食べる冷めた料理は、美味しいものではなかった。
2.
目が覚めると真っ先に、自分の右手を確認する。青白く薄い手の甲越しに見える天井はやっぱり白く、我が家なのに病院に居るような錯覚を得る。
溜息でベッドに深く沈み込む。このまま落ち窪んで、地球の真ん中で事象の地平に行ってしまいたい。嘘。重力になんてなりたくない。誰も引き寄せたくない。独りになりたい。
「お嬢様」
ノック。カコさんだ。毎日毎日律儀だな。
「入って」
許可無くして部屋に入ることもできない。人間が許した行為しか実行できない。正直、もう少し強い権限を持たせても良いのではないかと思うときもある。でも今はそうではない。
かちゃりとノブが周り、カコさんが部屋に入り込んでくる。
「本日のご予定は、」
「憶えてるよ。病院、学校、塾。料理の話はいいから」
「はい」
言えば黙る。私と同じ。
顔も見ない。親と同じ。
だから、私は私が嫌い。
立ち上がって、クローゼットを開く。
あぁ、今日も一日が始まっちゃった。
後ろ手にバタンと閉めた車のドアの音を尻目に、無闇矢鱈と長い車の後部座席に滑り込もうとする。すると、スーツ姿の母親と目が合う。
前側の席は無人だ。人がまだ自力で車を運転していた時代の名残であり、人間の手で運転しようと考える酔狂者のための空間。ポケットの中のルービックキューブを思う。自分も同じようなものかもしれない。
「今日は母さんも来るの」
「えぇ、行くわよ。と言っても、先生に挨拶したら別棟に行くから」
ふぅん、と気の無い返事をしながら隣に座る。会話相手の母親も私に興味はなさそうで、ずっとネイルの調子を見ている。爪を人工物に置き換え、神経を介したマイクロマシンによる制御で思った通りの色になる代物。黒のスーツに派手な赤のネイルは正直どうかと思ったが、どうせ私が口出ししても激昂するだけだ。
沈黙の中、車は滑るように前へと加速。
窓越しに見える空はよく晴れて綺麗な青。どこか遠くへ行きたくなる。そう思ったところで信号に引っかかり、車はキュッと音を鳴らして止まった。
フロントガラスの向こうにも親子。子どもと母親は手を繋ぎ仲良く何かを喋っているようだが、完全遮音の車内にその声は響かない。
今までは流れる風景を眺めていれば時間は潰せたけれど、止まってしまえばそうはいかない。十数秒の暇に任せて、ルービックキューブのシャッフルをスタート。物理的に面が回転するわけではなく、三×三のマス目の色がくるくると変化するだけだ。
二秒後ピタリとマス目の色が決まり、軽く振動してカウントスタートの合図が送られてくる。
(……簡単なパターン)
目にしてすぐ解を把握し、あとは指先でフリップ。すると色が別の面へスライドし、あっという間に全ての面に同じ色が揃う。
「十八秒です」
機械音声がタイムを明るく告げる。このパターンにしてはやや遅い。それだけ気が滅入っているのかもしれない。昨日の夕飯時にやたら時間をかけたから、キューブのAIが気を利かせてくれたんだろう。折角ベストタイムを狙えるパターンだったのに、みすみす逃してしまった。
そんなことを考えていたから、母親からの視線に気付けなかった。
「……あなた、今の、何……?」
「え?」
シャッフルをリスタート。ストップするまでルービックキューブは万華鏡のように虚しく煌めく。
「先に、解答を見てるの?」
戦慄きに似た震えが車内を覆う。キューブも同時に軽く揺れる。私は呆れ顔だ。
「どうやって。私が機械に接続できないのは知ってるでしょ。目で追うのも無駄。ちゃんと動いてるわけじゃないから」
シャッフル中はアトランダムにてかてか光っているだけ。
「じゃあ、あなた、神経接続も無しにそんな速さで揃えているの……?」
当たり前だ。それ以外に方法は無い。だからこんなアナログな玩具でしか遊べない。機械を神経に接続できないから、画面のUIが網膜に直接写るようなゲームはできない。人間無しで収録したフルオーケストラもイヤホンを通さないと聞こえない。ゲームにアイテムとして出現する料理の味も香りもわからない。画面の中の子犬を撫でたところで私の手には合成プラスチックの物理コントローラーなんて冷たいものが握られている始末。
当たり前だ。私はみんなが普通に接続している世界にいない。
だから。
「そうだけど」
そう答えるしかない。
母親は眉をしかめて息を呑んだ。口の形は「き」。その続きは「気持ち悪い」だろうな。
まぁ、口に出さなかっただけで及第点だと思うよ。
私は再び視線を落とす。今回の盤面はかなり厄介に見える。
そこから二人の間に会話は無く、キューブが無闇矢鱈に明るい声で「二十八秒です」と告げるまで車は停まったままだった。
親子の心暖まるやり取りをひとしきり終えたあと、車は再び加速を始めた。
「本日も異常なし……ですね」
マイクロマシンからライフログを抜き出せない私に、医師はおっかなびっくり告げる。誤診の確率を劇的に下げ、未病すら防ぎ得るライフログが使えないのだから、病院側も当然慎重になる。とはいえ、あまりにも自信無さげな様子に、私は苦笑を隠しきれなかった。それを見てとった医者が気まずそうに咳払いをする。
「……お母様の診察も丁度終わったようです」
そうですか、とだけ言い放って立ち上がり、
「そういえば、あの人は何の検査だったんですか」
問いかける。すると医者は目を丸くして応じた。
「弟さんのデザインが完了して、細胞分裂が始まったんですよ。お聞きになっていませんか?」
あぁ、なるほど。欠陥品に見切りを付け、新品を買ったのか。
私の溜息は聞こえてしまっただろうか。
「ご案内致します」
にこやかな看護ロボットの声だけが空疎に谺した。
3.
鏡の向こうにいる火照って湿った自分と目が合う。風呂上がりで水気を含んだ髪の毛は長く、体の半分以上を覆っている。アジア系の血が色濃く反映された鏡の中の人物は、黒髪黒目で真っ黒に染まっている。その様子はまるで幽霊か蓑虫みたいだ。薄い胴体に華奢な手脚が相まって、髪の毛の存在感だけが異様に強い。
「お嬢様。乾かしましょうか」
いつものようにカコさんがドア越しに伺いを立ててくる。
「うん」
一声で応じる私。一方のカコさんは扉を開けた時点で既に椅子とドライヤー、櫛をマニピュレーターに把持していた。用意のいいこと。
「どうぞ、お掛けになってください」
お尻の位置に差し出された椅子に座る前に、洗面台の端に置いてあったルービックキューブを手に取る。
「お嬢様はいつも彼女で遊んでらっしゃいますね」
「うん……うん?」
彼女って、誰のことだろうか。無論、このルービックキューブを指しているのは間違いないとは思う。思うのだけれど、ルービックキューブ程度の玩具に自我が宿った事例はほとんど無い。専用のラボで特殊な運用を経れば話は変わってくるかもしれないが、私はひたすら普通の遊び方をしているだけだ。
十年以上稼働して、人間とコミュニケーションまでしているカコさんですら、自我があると判定されるかどうか怪しい。
「性自認が発生するほど育ってるの?」
鏡に映るカコさんに問う。
パネルが笑顔で応じる。
「えぇ、もちろんです。お嬢様の教育の賜物ですね」
「教育なんて……」
口籠る。していない。ただ、当たり前に遊んでいるだけ。ごく普通に、人と道具のコミュニケーションを取っているだけ。
「そうだ、発狂。仮に自我が発生したとして、外部とのコミュニケーションが取れなきゃおかしくなっちゃうよ。これにそんな機能があるとはあんまり思えないんだけど……」
「それについては、ウェブを介して私たち他の家電AIと共存する言語パターンを得ています。保存先は我が家の家電データベースクラウドですが」
「つまり、インプットにルービックキューブが使われていて、その影響を一番強く受けているデータが“彼女”ってこと?」
「はい、その通りです」
手のひらに乗った小さな立方体に視線を落とす。自分で生まれる場所や時間を決められないのは、何も生き物に限ったことではない。私は“彼女”を祝福できるだろうか。
「お嬢様」
考え込んでいた私の頭の上で、カコさんがゆっくりと語り始める。
「お嬢様にとって受け入れにくいこと、私たちでは想像もできないこと、様々な要因で難しくなってしまうことがたくさんあるのだと考えられます。けれど、お嬢様がただ、“彼女”と仲良くしていただければ、私たちはそれで幸福なのです」
そういう、ものなのか。そういう物だとは考えたくない。
人間の意識だって、極論すればタンパク質の交換と電気信号だ。機械との差を論じられるほど、人間性なんてものには固執できない。
だから、私は私なりに“彼女”と生き続けるしかないのだろう。
「……カコさんが言うなら。あぁ、でも」
「……お嬢様?」
「もしね、ちゃんとした自我があるなら……いや、その域に到達してなくても、私は“彼女”と話してみたいな」
そう言うと、カコさんはとても嬉しそうな表情を作った。
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